片思い
短編企画「殺し愛、空」に参加させていただいて書いたものです。よろしければ。
「こんな事になるなんて、思わなかった。知ってたら、もっと優しくしていた。なのに、なのに……」
言葉は続かず、男は顔を手で押さえた。彼の上げる嗚咽の声だけが、部屋の中の沈黙を埋める。対面に座る医師は何も言わず、黙って男を見ていた。
「……僕が、あいつを殺したんだ」
男は顔を押さえたまま、そう呟いた。医師が言う。
「考え過ぎです。今日まで生きてこられたのが、あなたのおかげなんです」
「でも、僕があんな事を言わなければ妻は……。全部、言ってくれれば……」
何を言っても、どうにもならない。それが分かっているからこそ、男はそれから何も言えなかった。それでも、言い足りない感情の塊が胸の奥でうずまく。
彼が悔いるのは、妻に対しての事だった。
男はその時ほど寒気を覚えた事はなかった。シートベルトを外し、助手席へ身を捻る。
「お、おい!起きろ!」
彼はエアバックに顔をうずめたまま動かない妻に声をかけた。今彼女の据わる助手席は扉が大きく内側にひしゃげてしまっており、砕けたガラスが細切れになって彼女の膝や肩に降りかかっていた。サイドレバーに伸びた細い手はだらりとしており、ぴくりとも動いていない。
「おい……おい!」
男は妻の肩を掴もうとして、その手を止めた。下手に揺さぶれば、かえって状態を悪くさせかねない。彼を責めるように、彼の脳裏でいくつも心当たりが蘇る。逆走する対向車に気付くのが遅れた事、それを避けようとして、ハンドルを右に捻った事……。
「あーあ、やっちゃったよ、大丈夫?」
事の重大さを理解していない呑気な声が、外で上がった。男は対向車を運転していた老人を睨み、怒鳴りつけた。
「何言ってんだ!救急車だ!」
その後妻は病院に運ばれたが、男は病院には行けなかった。警察が事故の処理のため、彼を強引に病院から引き離したからだ。
「もういいでしょう?早く帰してください」
「ですが、向こうはそちらがぶつかってきたと言っていますし……」
「現場で話を聞いたでしょう!?私が正しいのは、分かっているじゃないですか!」
警官の言う向こうとは、衝突してきた車を運転していた老人の事だ。完全に老人の過失だったのは明らかなので、警官も静かに首を縦に振る。
「ええ。ですが、このままではあなたに賠償金が入りません」
「そんなものはいりません!これでいいでしょう!?失礼します!」
男は席を立ち、その場を後にした。
男が病院に着いた頃にはすでに九時を回っていた。彼はナースステーションに駆け寄り、目についた看護士に尋ねる。
「つ、妻はどうなんですか!?」
看護師は男の顔から患者をすぐに思い出し、彼の問いに答える。
「お、奥様なら三階の302号室にいらっしゃいますが、その……」
彼女が何かを言いよどむ。男はそれを時間の無駄とし、急いで階段を駆けあがった。病室の扉が見えると、彼は矢も楯もたまらずその戸を大きく引き開けた。ベッドの前に並ぶ白衣を着た背中が、彼に気付いて振り返る。男は、その場で一番年配の医師へと詰め寄った。
「せ、先生!妻は!?」
「落ち着いてください。その、ですね……」
医師の言葉に続く声は、ベッドから上がった。
「……平気。慌てすぎよ」
男はその声に耳を疑った。夢を疑うように、ゆっくりとベッドの上に目を落とす。
そこに寝ていた女の目は、開いていた。包帯だらけの体でありながら、全身の痛みを感じさせない柔和な笑みを浮かべている。男は膝をつき、妻の顔を間近で覗き込んだ。
「だ、大丈夫か?その、怪我は」
「大丈夫よ。落ち着いて」
たしなめるような口ぶりは、男にとって馴染みのあるものだった。それだけに、男の安心感はひとしおだった。俯き、彼女の手を握る。か細い手は軽いが、わずかに握り返してくる指の感触が何より男を落ち着かせた。
「……良かった、本当に良かった」
男のすすり泣く声だけが個室で静かに響く。
その様子を、医師達は物言いたげにじっと見ていた。
妻の退院後、夫婦の仲は以前よりも良くなった。妻には後遺症も見られず、生活に支障はない。半年も経つ頃には、もはや事故は過去の事となった。
事故から一年経ち、二年が経った。
どんな夫婦でも、年が経つにつれ互いを意識しなくなるものだ。この男も例に漏れず、事故直後の頃と比べればさほど妻に関心を持たなくなっていた。
だというのに、妻は変わらぬ愛情を示し続けた。隣に座ってもたれかかってこない日はなく、男が仕事で帰りが遅くなる日は常に携帯電話に連絡を入れてきた。声を荒げる事はなく、男を心底心配しての行為だと分かるので男も無碍にできなかった。
男は妻のその様子に、次第に疑問を持ち始めた。悪い気はしなかったが、裏があるのではないかとも考えられたからだ。
男はある時、テレビを見ながら妻に尋ねた。
「なあ」
「何?」
「もう思い出したくもないけどさ、事故にあったよね?」
「うん」
「どうもあれ以来、君は僕にくっつく癖ができたんじゃない?」
「そう?」
そう言う彼女は、ソファに座る男の腕に無理やり頬を乗せる恰好だった。なついた動物のようにすり寄る彼女が、男には時にうっとうしくも思えた。
「そうだよ。それに、早く帰ってこいって毎日電話するだろ?」
「してるよ。愛されないと死んじゃうもの」
いたずらっぽく言うと、女は男の腕に乗せた頬をずらし、首の付け根をすりつけてきた。男は細い首の感触を心地よく思うが、はぐらかされているのが分かり素直に喜べない。
「何言ってんだか、いい歳して」
「大人になっても、寂しい時は寂しいの」
「子供じゃないんだから」
男は立ち上がって妻から離れる。距離を置かれた女は、目を丸くして男を見上げた。
「……嫌なの?」
「そんな事ないよ」
男の言葉には、内容とは裏腹に突き放すようなニュアンスが強く表れていた。
「もう寝るよ。明日早いんだ」
「あ、うん……」
テレビが男の手で消され、途端に部屋が静かになる。さっさと寝室に戻る男を、妻は怯えたような足取りで追いかけた。
その翌日から、妻は疲れた顔をするようになった。顔色も、日向から日陰に植えかれられた草花が葉から闊達な色を失うように、日に日に活力を感じさせなくなっていった。
こうなると、流石に男も妻が心配になる。ある夜、寝床でうつぶせになる妻に、男は尋ねた。
「どうしたのさ?最近元気ないよ」
「何よ、もう……」
口を利くのも疲れるといった様子で、妻は顔を伏せたまま胡乱げに答えた。
「具合でも悪いの?」
「別に。ちょっと、うまく動けないだけ」
気のない反応に、男は落ち着かない気分になる。
「体調が悪いのなら、明日病院に行こう」
「やだ。変な顔される」
「え、何で?」
「言えない」
それだけ答えると、彼女はすう、と小さく軽く息を吐いた。無意識に出たであろうその吐息が寝息だと分かり、彼も枕に頬をうずめる。しかし彼は眠らず、言いようのない不安にわずかに体をこわばらせた。
妻が何かを隠している。その予感が、日に日に男に妻への不信感を募らせた。毎日妻がすり寄ってくるのも、男には後ろめたさの表れではないかとさえ思える。妻が何も言わないために、その推測は男の脳裏で信憑性の強いものに変わっていった。自然、男は妻から距離を置くようになった。
「今日遅いから先に食べて」
「あ、……うん」
電話でのやり取りもそっけないものになり、一緒に食事をする機会も減った。男は家に帰っても、自然と妻の顔から目を逸らすようになった。その分だけ、妻の顔色も悪くなった。
「お帰り……」
妻は青白い顔で男を出迎えた。彼女の足元はおぼついておらず、無理をしているのが男にも一目で分かる。
「どうしたの本当に?疲れてない?」
「ううん、大丈夫。心配しないで」
以前の彼なら、こう言われれば妻の気丈さにいじらしさを感じたかもしれない。しかし、妻に不信を持つ今では、隠し事のせいで疲弊しているようにしか見えなかった。
「何か、僕に隠してない?」
「そ、そんな事ないよ」
妻が慌てて首を横に振る。煮え切らないその様子に、男は苛立ちを覚えた。
「何かしてるならはっきり言ってよ。気持ち悪いからさ」
彼が言うのは気分の問題で、実際に妻をそう思った訳ではない。しかしその一言が、妻の顔色を大きく変えた。
「き、気持ち悪い……?」
妻が青白い顔で男を見上げる。その目がなぜか、男にはよどんだものに見えた。
「ああ、そうだよ。嘘ついてまで隠すような事があるんでしょ?」
「そ、それは……」
言いよどむ妻に、男は確信した。
「やっぱりそうだ。僕に言えない事だろ?」
後ろめたさを感じているらしい妻の表情がますます男の怒りを買う。
「もういい、君には愛想が尽きた」
それだけ言うと、男は妻の前を通りその場を後にした。妻は最後まで、顔を伏せてうな垂れていた。
その翌日、男が目を覚ますと妻は冷たくなっていた。
男の通報から事件性が疑われ、彼は警察に拘束された。警察医が変死体として女の体を調べた結果、男は警察病院に呼び出される事となった。
「妻はどんな病気だったんですか?」
診察室で、夫は椅子に座ったまま身を乗り出した。事故を経験していた事と彼女への疑いから、以前ほどの驚きや戸惑いは彼にはなかった。
年配のその医師はしばしカルテに目を落とした後、静かに語り始めた。
「覚えてらっしゃいますか?その、奥さんが事故にあった時の」
「ええ。それと、何の関係が?」
荒れる声を押さえながら男は尋ねる。医師はこれから話す事をしっかり聞いてもらうよう、ゆっくりとこう言った。
「実はですね……、奥さんの心臓は、あの頃すでに止まっていたそうです」
「……え?」
男が呆けたような声を上げる。
「えと、どういう……?」
「言ったままです。事故にあったあの日から、奥様の体は死んでいるんです」
男は最初、医師が性質の悪い冗談を言っているのだと思った。だが医師の神妙な顔と、医師としての真摯な発言である事から、その言葉が真実であると認めざるを得なかった。
「じゃあ、なぜ今日いきなり?」
「……分かりません。こんな症例は初めてです。いや、症例というのもおかしい。心臓が止まっても動けるなんて、普通ありえません」
医師にそう言われ、男は妻の言葉を思い出した。
『別に……。ちょっと、うまく動けないだけ』
彼女がこう言ったのは、ちょうど男が妻と距離を置くようになってからだ。男はこれを医師に伝えた。
「そうだったんですか……。とすると、おそらく、彼女は動く理由を失ったのかもしれません」
「動く理由?」
首を捻る男に、医師は続ける。
「これは推論です。ひょっとしたら……。奥様は、あなたのために生きようとしたのではないでしょうか」
その言葉が、男に全てを理解させた。
妻が隠していたのは、自分が死んでいる事だったのだ。
「そ、そんな、馬鹿な」
「もちろん私も本気でそうは思っていません。ですが、だとしたら……あなたは幸せだ」
医師の言葉が、男の胸を深く刺した。胸の奥で広がるものが、彼に吐き気に似た感覚を湧かせる。どんな奇跡が起きたにしろ、当人が望まなければ意味がない。愛されないなら生きられない。彼女はそう思ったのだと、男には分かった。
「……僕の、せい、か」
ぽつりと、彼は呟いた。
男にとっては酷な話である。彼の為に生きようとした妻は、彼のせいで死を選んだのだ。
泣き疲れ、なおも喋れないでいる男に、医師はなだめるように言った。
「気に病まないでください。これからでもやり直せます」
「気休めはいりません。妻は死んだんです。しかもその最期に、僕はあいつを突き放した。僕にはもう、何もできない」
「悼む事はできるでしょう?それこそ、あなたにしかできない事です」
「……」
「あなたはご自分の過失を悔い、私に打ち明けました。ご自分を責める必要は、もうありません」
「……出した言葉は戻りません」
「ええ。だからこそ、できる事をするんです。それが、一緒にいようとした奥さんに報いる方法ですよ」
男が診療室を去った後、医師はこの不思議な出来事に思いをはせた。
「愛というのは偉大だね。だが滑稽な気もするよ」
患者の前では決して言わない、皮肉めいた本音を口にする。
「奥さんは生きようとして、おかげで奇跡が起こせた。でもそれが、逆にすれ違いを招くとはね」
男の妻がどんな気持ちで死を迎えたか。これに男はどう向き合うのか。
医師にはまるで分からなかった。
「死人を殺して自首するなんて、言ってみればおかしな話だ。文屋が来ない事を祈るよ」
またも企画に参加させていただいて書いたものです。いかがだったでしょうか?
5000字までという事でとても難しかったですが、同時に良い経験になりました。