第九話 護りたかったもの
僕は第二研究室を後にした。すると、なにやら廊下が騒がしくなっている。
……あっ。レンティーノが大変な目に遭っているんだった!
洗脳装置と頭痛のインパクトで僕は研究室の外のことを一旦考えられなくなっていた。大切な友人の危機を思い出した僕は、今更廊下を走った。
すると角を曲がったところで、レンティーノを見つける。思考が停まる。明らかに普通でない様子のレンティーノが、両手に握った銀色の何かを振り回しているのが見えたからだった。
ちょっと待って。あれ、手術用のメスじゃないか。
茶系のスーツには赤黒いものがたくさん付着していて、レンティーノの肌やハニーブラウンの髪にも禍々しい斑模様を作っている。足元には研究員が数人倒れて呻いている。震えながら、既に息絶えようとしている人もいる。それを認識した一瞬、全ての行動を忘れてしまった。
エラーだ。
なんだこれは。とにかく止めなければ。でもどうやって?
レンティーノが逃げようとした研究員を鋭い目で捕らえ、彼に背中からメスを突き立てた時、僕はやっと声を出すことを思い出した。
「レンティーノッ!」
レンティーノは理性の人だ。感情を押し殺して『人間として正しい』とされるほうだけを選び取る癖のある人だ。そんな彼のもっとも重要な構成要素がいま吹っ飛んでいる。僕は一瞬、レンティーノのことを怖いと思った。
だけど意を決して、レンティーノの傍に駆け寄った。それでも止めなければ、と僕の感情が叫ぶ。状況は把握できないけれど、普通でないレンティーノが普通に戻ったときに精神的に大きなダメージを受けるのは目に見えている。
レンティーノは一度、僕に刃物を向けようとした。ぎゅっと目をつぶっていても痛みが降りてこないから、そっと目を開ける。
「ミンイェン……」
消える寸前まで小さくなった、震えた声。レンティーノは僕の姿を捉え、いつも通りの穏やかな表情に戻り、それからすぐにふらりと後ろに傾いた。両手からメスが落ちて金属音を立てたのと、レンティーノが研究員の死体の上に倒れたのとが同時だった。
僕はレンティーノに駆け寄って声をかけたけれど、反応がない。息はしているけれど、多分精神的なショックから倒れてしまったんだろう。
すまないと思いつつ、僕はレンティーノの胸ポケットからカードキーを取り出した。レンティーノが必死の形相で守っていたのは、一〇六八号室のドアだった。そう、ミンとレンティーノの部屋。この中に、レンティーノが壊れてしまった理由がある。
僕は意を決し、カードキーを使ってドアを開けた。
前方を見ると、見慣れたハニーブラウンの頭が見えた。ミンは立てひざで、ベッドの上に突っ伏している。壁際の床に座っているようで、こちらからだと頭しか見えない。
近寄ってみてもミンは起きなかった。声をかけてみる。名前を呼んでみる。結果は同じだった。
隣に歩み寄ってみると、ミンが何かの瓶を握っていることに気づいた。そっとミンの手からそれを抜き取ってみる。瓶の中には何も入っていない。
ラベルには、睡眠薬と書いてあった。
「ミン?」
慌てて揺り起こそうとしてミンの背中に触れれば、感じるのは白衣越しでも解るほどの冷たく硬い感触。
しごこうちょく、って誰かが言ってた。死んだら冷たく硬くなるんだって、誰かが言ってた。誰だったかな、ミンだった気がする。
脳が理解を拒む。思考も手も止まりそうになる。黙ったら二度と動けなくなりそうで、無理矢理声を絞り出す。
「ミン? ねえどうしたの、ミン?」
父さんが、死んだ。レンティーノの言葉が脳内に響いた。
嘘だ。ミンが死ぬなんて、それも空っぽの睡眠薬の瓶を握って死んでいるなんて。考えられることなんて、一つしかない。理由に思い当たらなくても、状況がそう示している。
ふと見れば、部屋の隅にぐしゃぐしゃに丸められた紙が落ちていた。
もしかしたら、ミンに無理矢理薬を飲ませた犯人が残していったものかもしれない。そうであってくれたら、犯人を憎むことができるのに。ミンが自殺したなんて、絶対考えたくない。
そんなことを考えながら、僕は紙を拾いにいった。丁寧にしわを伸ばして、内容を読んでみる。
レジュストゥルフェルナディアンティーノへ
ごめんね、僕は君を置いて死ぬ。睡眠薬は僕自身が用意した。誰かに強制されたわけじゃない。
君を置いていくのは本当に心苦しい。もっと未来の君と一緒にいたかった。
けれど僕はもう、生きていく気力も、資格も失ったんだ。
パソコンを見れば全てがわかるようにしておいた。
ごめんね、君を殺したくない。これは最後の抵抗だ。
僕は心の底から君を愛していた。
僕の死体は焼却処分して。蘇らされて、洗脳されて、あいつのマリオネットにされては困る。
大好きだよ、レンティーノ。愛する家族をみつけて、幸せに暮らしてね。
どうか、みつけて。みつけて。
きみのしあわせを、いつまでもねがっている。
いつまでも。ずっと。
多分、薬を飲んでからすぐに書き始めたんだ。最後のほうの文字は、読み取るのに苦労するほど震えていた。 見つけて、と何度か繰り返していることでも脳の機能低下を疑う。
ぐしゃぐしゃに丸められた遺書だけど、最初はちゃんと四つ折にされていたみたいだ。線がついていた。
だとすると、この紙を丸めて放り投げたのはきっとレンティーノだ。こんなものを読んだのなら、狂ってしまうのだってうなずける。
僕はミンの頬に触れた。血の気の失せた頬に、いつもの笑みが浮かぶことはもう二度とない。そう、二度と。
僕はまた大切なものを失った。
気が狂いそうなほど白いこの空間で僕が自我を保って友人を作れたのは、ミンのおかげだった。実験台としての僕に人間の尊厳を認め、息子のように接してくれたこの人は僕の人生において唯一父親と呼んでもいい人だった。ミンがいなかったら僕は早い段階で精神を壊し、研究所の言いなりになっていた。こんな風に強く立ち回れては、いなかっただろう。
ミンは恩人だった。父でも、兄でも、友達でもあった。なのに。
僕はパソコンを見た。電源は入れっぱなしにしてあて、スクリーンセーバーが起動している。マウスを動かすとスクリーンセーバーが消え、デスクトップが表示された。
メモ帳が開いてある。重要な告知、という題がついていた。
内容を読んで僕は愕然とした。
要約するとこうだ。――蘇生した子供の発育段階に関しては十分なデータをとったからもう観察をやめにして、解剖してしまおうという最高権力者からのお達し。
実験の責任者はミン。執刀もミン。そんな風に、決められていた。僕はいてもたってもいられなくなって、ドアを開けて廊下に飛び出した。すると、血塗れの廊下にたたずむ血塗れのレンティーノと目が合った。
「ミンイェン……」
レンティーノの顔が、たちまち泣きそうにゆがむ。
僕は回りを確認して誰も生存者がいないことを確かめた。騒ぎが大きくなったら困る。誰もいないことを確認してから、僕はレンティーノを部屋に連れ込んだ。そして、カードキーをレンティーノに返した。
「私、私はっ、どうすれば! 父さんを殺してしまった、殺して、わたしが」
自分の髪をかきむしるようにして、レンティーノは叫ぶ。
僕はレンティーノの手を握って、髪を離させた。これ以上、彼が壊れていくのを見ていられない。
「落ち着いてレンティーノ、ミンを殺したのは君じゃない」
肩を掴んで揺さぶると、レンティーノは一旦黙った。けれどすぐにまた悲痛な表情を浮かべて、繰り返す。
「ですがっ、何の関係もない人を、私が殺した! 殺したんです、何人も何人も何人も何人も何人もなんに」
「やめてレンティーノっ!」
このままずっと喋らせていたらそれこそ彼は本当に精神崩壊しそうだから、僕は大声で怒鳴ってレンティーノを黙らせた。
一瞬驚いたように目を見開き、それからレンティーノは血塗れの眼鏡を外して俯いた。目を伏せて震える彼は、自分の身体を抱きしめるようにして荒い息を鎮めている。
傍目にも、その両手の爪が肩に強く食い込んでいるのが見て取れた。僕はレンティーノをベッドの端に座らせて、背中をさすった。落ち着くまで、ずっと。レンティーノの指から力が抜けて、荒い息が鎮まるまで。
「大丈夫、大丈夫だからね」
僕は精一杯の優しさを込めてそう言う。僕の優しさ。それは、現状の解決。皆洗脳してしまえばいいんだ、僕にはそれができる。
彼が落ち着いたから肩に回していた腕を外して、僕はパソコンを指差した。そして、読んだかどうか聞いてみる。
答えは否だった。僕は無言でパソコンに視線を向け、読むように促した。了承してくれたのか、レンティーノは立ち上がって例のメモを読んでいる。
僕も立ち上がり、レンティーノの隣に立った。レンティーノは左手で口許を抑えて嗚咽を堪えていた。見開かれた両の目から、涙が零れ落ちている。僕はその姿を見て、パソコンを見せないほうがよかったのかもしれないと考える。だけどこれはミンが遺言に残したことだから、ちゃんとレンティーノが読まなきゃ駄目なんだ。ミンの全てを知らなきゃいけないのは、僕じゃなくてレンティーノだから。
やがてレンティーノは文書を読み終わったようで、無言でそれを削除した。
八つ当たりなのだろうか。それとも、用済みだからだろうか。これ以上見ていたくないという気持ちの表れかもしれない。どんな理由で削除したのであろうと、僕はそれを止めようと思わなかった。僕だって、大事な人が苦しんだ理由なんていつまでも保存しておきたくない。それくらいの機微は、一応まだ備えているつもりだ。
「ミンイェン、私はもう生きる資格を失いました」
死んだ魚のような目、というのがこれなのだろう。そう思ってしまうくらい、レンティーノは光の宿らない目でこっちを向いていた。
「何を言ってるの? 君が生きられるように、ミンは死んだんだ」
「貴方に何がわかると言うのですか!」
……初めて出会ったとき、僕の方がこうやってレンティーノに突っかかったんだっけ。懐かしいな。
僕が激昂してるのに、レンティーノは僕を優しく宥めてくれたね。あのときどうしてくれたんだっけ。手を握ってくれたんだったっけ。こうかな。違うな。手を握られて、その無神経な優しさに僕が耐えられなくなったんだ。
レンティーノにもらったあの日の優しさは、レンティーノが今求めているものだと僕は推察する。人間としてかなりアウトな倫理観を内包しだした僕だけど、レンティーノに救われてレンティーノを大事に思っている気持ちは本物だと信じている。
だから、傷つき果てたレンティーノをそっと抱きしめる。僕がこんな行動をしたのは初めてだから、レンティーノは驚いて黙る。
「わかるよ、レンティーノ。ミンは僕のお父さんでもあったんだ」
声に出してみたらどうしてか泣けてきて、僕は泣かないように一生懸命唇をかみ締めながら顔に手を押し当てた。嘘でしょ。僕に人を悼む心なんてまだあったんだ。
レンティーノには決して顔を見られないようにと、僕はちょっと身体をそむけるようにして泣いた。僕の隣にいるレンティーノも、静かに泣き続けていた。
そっと、声もあげずに。
時間だけが、ただゆっくりとすぎていった。




