第八話 洗脳装置
実験当日は、五月の第二土曜日。僕は一日中、マーティンの部屋にいた。今日のことは、ハビにもミンにもレンティーノにも秘密だ。
金髪や黒髪の女の人が流し目でこっちを見ているポスターとにらめっこしながら、僕は研究員を待った。
十五歳の僕はとっくに性成熟を迎えている状態ではあったけれど、セクシーな美女を見てかけらも興味がそそられないので恐らく何かしらの『人間』っぽさが欠陥しているのだろうと思っている。機微、あるいは感情と呼べるものの問題なのか、欲求自体の欠如あるいは歪んだ形式での発露がこの先起こるのかはわからない。大抵なんにでも興味を示す僕の、唯一興味がわかない項目が自身の発達についてだった。僕自身のことはべつに、リィの蘇生とは関係ない。
やがて昼過ぎになると、ドアの向こうからナンバーで呼ばれた。
「一〇二〇」
「はい」
この瞬間から僕は、被験体一〇二〇号になった。被験体一〇二〇、個体名はマーティン=パストン。無茶で無意味な実験の繰り返しから察するに、被検体一〇二〇は同個体を疎む研究員たちの独断によって研究対象としての価値を大いに損なわれている。この実験結果がどうあろうと、データは無意味だ。ならば、どんな結果に『してしまったって』いい。
僕はドアを開けて、実体のない白い壁を抜けて廊下に出た。すると待ち受けていた研究員が一瞬意外そうな顔をして、それから意地悪い目で僕を見た。否、見下した。見たとか見下ろしたとか、そういうことじゃなくて。
口角が上がる。被験体一〇二〇への人体実験は今日で終わりだよ。その態度でいいのかな?
「貴様は一〇九六じゃないのか?」
「僕は一〇二〇です」
「フン、一〇二〇は逃げたのか。無様な野郎だぜ、全く」
「撤回して」
友人を侮辱するワードに瞬発的に沸き上がった怒りを飲み込んで冷静にそう言うと、男は鼻で笑った。まあいいよ、そうやって自分の立場を理解せずに最後まであぐらをかいていればいいんだ。
暫く廊下を歩いていると、前方に広がっている廊下の向こうから誰かがふらりと現れた。そして、僕を目指して一直線に走ってくる。
「あれ」
どう見てもそれはレンティーノだった。いつもの涼やかな笑みはなく、顔面は蒼白で泣きそうに見える。
「ミンイェン、父さんが、父さんがっ」
髪も服も乱れてるし眼鏡もずれているのに、それも直そうとせずにレンティーノは僕の肩を掴んで揺さぶる。一目で何かがあったことは分かった。
僕らは、出会った頃は同じくらいの身長だったけれど、十五歳の今となってはレンティーノとの身長差がかなり開いている。かなりの上方にあるレンティーノを見上げながら揺さぶられると首が痛い。
「レンティーノ? まずは落ち着いて。何があったの」
つとめて冷静に声をかける。するとレンティーノは息を荒げて僕を見下ろし、それから首を横に振る。
「私は、…… 私は一体、どうすれば良いのです!」
レンティーノは泣きそうな顔でそう言い、僕の肩から力なく腕を外す。僕はレンティーノを見上げて、言葉の続きを待った。
彼は暫く何かを否定するように首を振ったり自分の髪を鷲掴みにしたりしていたけれど、やがてぽつりと呟いた。
「父さんが…… 死んだ」
髪を両手で鷲掴みにしながら、レンティーノはそういったのだ。僕は一瞬、それが幻聴なのかと思った。
だけど、それが現実であるという証にレンティーノがおかしくなっている。
レンティーノは震えながら僕を見下ろして、その場にへたり込みそうになっている。僕はそんなレンティーノに手を貸そうとしたけれど、不意に強い力で腕を引っ張られた。痛みに顔をしかめながら腕を掴んでいる人物を見やる。あの、自分の立場を理解していない研究員だ。
「待ってよ!」
腕を振り解こうとするけれど無駄だった。研究員は強く僕の腕を握り締め、絶対に離そうとはしない。非力な僕では力に対抗できず、引きずられるようにレンティーノから引き離される。
「スケジュールを厳守しろ、一〇二〇! 下らないことに付き合っている暇はない」
下らない?
この男が仮にも研究員なら、ミンは同僚だ。一旦実験は中断されてしかるべきだ。そう何度も抗議しても聞き入れられず、強制的に歩かされながら僕は後ろを振り返る。
レンティーノは廊下にへたり込んで放心していた。小刻みに震える手を、自分の胸に抱きしめるようにしながら。あんな状態のレンティーノを置いて行きたくはなかったけれど、ここで力のない僕が暴れたところで結果が見えている。僕は手を離してくれない研究員に殺意のこもった一瞥を投げかけてから、レンティーノに向かって叫んだ。
「すぐに戻ってくるから!」
この言葉がちゃんとレンティーノに届いたかどうかは、解らない。
無言で歩き続けると、行く手に第二研究室が見えた。研究員が乱暴な口調で、この部屋に入れと言った。
僕は研究員を睨みつけたあと、用意されていた椅子に腰掛けた。椅子の傍には怪しげな器具や機械がたくさんおいてある。電源装置やら小型のパソコン、それから何十本ものコードが取り付けられた箱状の物体。その機械にはスイッチやボタンがたくさんついていて、コードのうちの数本は電源に伸びていた。コードの殆どは身体に貼り付けるためにあるらしく、先端にテープが貼られている。
パソコンにはスクリーンセーバーが起動しているから、画面にどんなデータが表示されているのか読み取ることはできなかった。でも研究員の一人がマウスに触れてスクリーンセーバーが解除された時に、画面に写真つきの個人データが表示されているのが見えた。
白衣の男。髪の毛が黒い。
ほんの数秒の短い間だったから、それくらいしか解らなかった。だって、早速コードを取り付けられそうになったから。
目を隠す長さの前髪を無理矢理白いカチューシャであげられ、額にコード付のテープを貼りつけられた瞬間、僕はあらかじめ斜めに切っておいた爪でマーティンのミサンガを切った。何が起こるかはわからないけれど、何かを起こせる確証はあった。
とたんに、嫌な音が世界を覆う。
機械が唸る音が酷くなり、ブザーのような電子音が鳴り止まない。僕は耳を塞ぎ、額からテープを引き剥がしながら念じた。
この空間の時が止まるように。
そんなことしか念じられなかった。だけど、確実に効果があった。世界から音が消えた。静寂の中で辺りを見回せば、研究員たちは微動だにしなくなっている。僕は椅子から腰を上げて一直線にパソコンへと向かった。
「……この男って」
それは研究所の最高権力者、フェイロンだった。リィを生き返らせてくれるって言った、あのおじさん。
ふうん。なんだ、最高権力者主導のそれなりにちゃんとしたプロジェクトだったんだ。それを研究員の独断で適当にやらせているあたり、このおじさんも脇が甘いなと思うけれど。
これはきっと、このデータに該当する人物に服従させる装置なんだろう。そうであるなら使い勝手がよさそうだ。
パソコンの横にプリントされた紙の束があったからざっと目を通すと、それはこの装置のマニュアルだった。平易なリャンツァイ語で記載されていて、僕にも十分理解ができた。おそらくはエフリッシュ語しかできない研究員を遠ざけておきたくてわざわざ普段研究所内で使われていない言語をセキュリティの代わりに使ったんだろうと思うけれど、フェイロンのおじさんは人選を誤った。だめだよ、大事なプロジェクトは末端までちゃんと見ておかなきゃ。
僕はキーボードに触れて、最高権力者のデータを書き換えて自分のものにする。そして、微動だにしない研究員たちを見る。
――実験、してみようと思うんだ。
きっとレンティーノあたりが知ったら『倫理的な面から見て最低の行いなのではありませんか』と僕を咎めるかもしれない。
だけど今まさに、それを僕やマーティンがされようとしていた。
事前データもろくにとらずに、実験の影響を可視化する当たり前の工程を無視して、きっとただ気に食わないだけでお遊びの実験台にされようとしていたんだ。
なら、この実験を受けるのは別に誰だっていいよね? 遺伝子操作や人工魔力による影響を無視するぐらいなんだから、一般的な健康体の人間の個体差なんてないに等しいもん。
洗脳が上手くいったら、リィの蘇生を最優先にするように命令を下してみようか。
僕はさっきのいけ好かない研究員を、椅子に座らせた。そして、額にコードを取り付ける。マニュアルを見ると、額だけではなくて全身のいくつかの箇所に電極をつけるようにかいてあった。僕は、書いてある通りにコードをとりつけた。
そして、自分の頭につけていた白いカチューシャを研究員につけてあげた。わあ。かわいいね。
これで準備はおしまい。僕は装置の電源を入れて、パソコンの“転送”ボタンを押した。
一瞬何も起こらないかと思った。
でも次の瞬間には部屋中の電気がバチバチと音を立てて、不規則に弱まったり強まったりしだした。椅子に座った研究員は、喚き、もがいて、身体をかきむしるように皮膚に爪を立てた。
研究員の叫び声がだんだん枯れてきた頃、電気が点滅をやめた。彼はがくりと項垂れ、動かなくなった。僕はその光景を、ただ呆然と見ていた。
呆気にとられる僕の視線の先、ややあって、ぴくりと『被験体』が動いた。
そして、ゆっくりとした動作で顔を上げて僕を捉える。研究員は僕を真っ直ぐに見つめ、嬉しそうにこう言った。
「明焔様……」
完璧なリャンツァイ読みの僕の名前を、恍惚と呟く男。一瞬どう反応して良いのか解らなかった。本当に入力したデータ通り、僕を認識しているらしい。
もしもこの被検体が僕やマーティンだったら、最高権力者を様付けで呼んでいたんだろう。それこそ、彼の飼い犬になったかのように。ぞっとした。
研究員は何も言わない僕を見上げて、満面の笑みを浮かべる。
「明焔様、何を望んでらっしゃるのですか?」
慕うように、縋るように。さっきまでのこの男からは想像も出来ないような態度で、彼は言う。
そう、僕らはもう対等な関係じゃない。彼の中で、僕は神なんだ。少し怖くなった。僕は崇拝され、依存されている。この男の行動に責任をもたなければならなくなった。
けれど次第に、恐怖感は麻痺した。僕の中にあった倫理観は、簡単に壊れはじめた。レンティーノだったら目を伏せて咎めそうなこの状況を、更に次の段階に進めることをすぐに思いつく。
……この男が僕たちのように番号で呼ばれている被験体に対してモノ以下の態度をとっていたのと同じように、僕も研究員たちを壊してしまえば良い。案外あの番号呼びが嫌だったんだなあと他人事のように思いながら、僕は機嫌よく研究員を見下ろす。見下す。あざ笑う。
「ねえ、きいて?」
話しかけてみれば、主人にすがる犬のような目で僕を見上げる研究員。
さあ、思ったより面白いことになった。僕は実験を第二段階に引き上げる。僕の独断だ。ここでは今、僕が責任者なんだから。
「この部屋にいる人、みーんなこの機械で洗脳して?」
言った瞬間、魔法が切れたようで人々が普通に動き出した。そして、僕と洗脳された研究員…… もとい下僕を見て驚愕の表情を顔に浮かべている。僕はとたんに強い頭痛を感じて、その場にうずくまった。マーティンが言った人工魔力の副作用が僕にも現れたらしい。
頭を抱えながら、それでも僕は下僕を観察した。下僕は、小柄で見るからにインテリの研究員を捕まえた。彼は早業でコードを取り付け、手際よく洗脳を進めていく。
恐ろしいと思うと同時に、感動した。割れそうな頭を抱えながら、僕は思わず笑い声を漏らす。
今日から彼は僕の手駒。そして、手駒はどんどん増えてゆく。これならリィを生き返らせるプロジェクトだって、楽に進む。
下僕はどんどん増えたから、抵抗する研究員を二人掛かりで押さえつけて洗脳するなんていう荒業もやってのけてくれた。ほどなくして、部屋にいた全ての研究員が僕の下僕と化した。しめて二十人程度。その中に、いわゆる幹部の姿はなかったのが少し残念だった。
下僕たちは、全員そろって僕を見つめて命令を待っている。
「皆、僕が呼んだらすぐにきてね」
「勿論です」
二十人あまりの大人の男女が、口を揃えて薄気味悪いほど同調した声でそう言った。
無性に笑いたくなった。
僕は支配者だ。何だってできる。二十人の戦力をどんどん増やしていこう。そうして動いている気配のないリィの蘇生プロジェクトを、僕の力で動かそう。
「それじゃあ解散!」
そう叫べば、研究員たちは軍人みたいに全員ぴったり揃った駆け足で研究室を出て行った。
僕はましになった頭痛にまだ少し呻きつつ、研究室の奥へと向かう。この部屋は、リィの水槽のある部屋だ。折角久々に来られたのだから、リィに会わなきゃ。
「永久保存が可能…… か」
前に研究員から聞いた言葉。
この水槽を満たす保存液は、蘇生の実験をするための死体を保存できるようにと独自に開発されたこの研究所の外にはない薬品なのだという。
これを使うと、水槽に入れたものを半永久的に保存できるとの言葉を信じて僕はここまで生きてきた。水槽の中のリィはたしかにふやけてもいないし、変色してもいない。死んだときのまま、縫われた痛々しい傷もふさがりきらないまま、彼は目を閉じて眠り続けている。
僕は今日から、この研究室を僕の部屋にすることに決めた。
最初こそ気持ち悪いと思っていたけれど、今ではこの水槽の群れがとても美しいと思っている。ここにあるのは皆、永久に時を止められた最高の芸術だ。僕は時をも凌駕して、従えて、意のままに操ることができるんだ。……今はまだ、その前段階だけれど。
――ごめんね、リィ。もう僕のことを弟って呼べだなんて言えないかもしれない。
目を覚ました君になんて言われるか、僕は少しだけ怖い。
だけどリィ、僕はいつまでもリィのことを大切に思ってるんだよ。
だからもう少しだけ待っていて。
最高の芸術品やしもべたちを用意して、リィを必ず生き返らせるから。




