第七話 転機
次の日、僕は初めて研究所の外に出た。
ここは僕が今まで暮らしてきた町とは大きく違って、高層ビルばかりが立ち並んだ都会だ。エナークと聞いて教科書の写真から想像していた様子は、軽々と塗り替えられた。
思わず街中で立ち止まってしまう。こんな都会的な町並みにもちゃんと緑を取り入れる工夫がされていて、歩道の脇には常緑樹の並木があった。ふと気がつくと、僕の隣でレンティーノもぼうっと辺りを見回していた。僕より長くあの研究所で暮らしてるのに、今日初めて研究所から出る彼は、目に映る全てに反応しては感動している様子だった。いつも賢すぎて十歳に見えない彼は、今は世界に出会ったばかりのもっと小さな子供に見える。
僕らの保護者としてハビとミンが同行してくれていたから、僕らは迷子にならずに済んだ。ハビと僕なんて人種も違うし顔も似ていないからだいぶ無理があると思ったけれど、本当の親子なのにレンティーノとミンも年齢差に違和感しかない。こんなの、上手くいくんだろうか。一抹の不安を抱えつつ、僕らは学校へと歩いて行った。
今日から僕らが通う学校は、高層ビル群の中でひときわ目立つ五階建ての学校だった。何が目立つかって、低すぎるのが目立つんだ。それに、校舎が何となく時代を逆行してるような雰囲気を持っている。
偽(一人は本物だけど)保護者の二人に連れられた僕とレンティーノは校舎に入り、それから職員室に入る。誰も『実験』だなんて知らないはずの先生たちは、僕らを編入生としてあたたかく迎え入れてくれた。事前にある程度話は通してあったのか、ハビもミンも怪しまれることなく受付をしてもらえている。
やがて僕とレンティーノは、担任になった男の先生に連れられて四階の教室に向かった。
そこで僕らを待ち受けていたのは、たくさんの好奇の視線とたくさんの子供たち。今日からは、週に五日は彼らと半日くらい生活を共にすることになる。
僕は深く息を吸い込み、笑ってみた。
あっという間に五年の月日がたった。
もしこれが情操教育のためを兼ねていたのだとしたら、それに関しては二人とも大成功だったと思う。レンティーノは持ち前の適応力で、『普通』の人間たちの機微によく馴染んだ。異常性はすっかり感じられなくなり、感性がすっかり成熟したと幼い僕の目にも明らかだった。
僕はこの五年で、特進も飛び級も追い求めなくていい気楽な学生生活の思い出を手にした。下らないことで笑って、下らないことで怒って、下らないことで悲しんで。それでも、その年相応の下らなさが心地よかった。
最初の頃は僕がレンティーノに抱いたような異常性を、僕自身もよく指摘されていた。いっそ薄気味悪がられていたところすらあった。けれど歳が上がってハイティーンに差し掛かったことで、僕が多少他の子供たちよりも頭の回転が速くても浮かなくなってきた。
虐待する父親はいないし、特進のために成績を過度に気にする必要もない。研究所での暮らしは相変わらずだったけれど、小さなプロジェクトに関われるようになってきた。実験台扱いなのはきっと変わらないけれど、研究員としての優秀さも自分で言うものではないかもしれないけれど頭角を現している。僕を縛るものなんて、ほとんどないと言えた。だから僕も僕で、幼いと思われるぐらいに感情をあらわにして人と接するようになった。
僕はクラスでトップの成績を誇り、毎日を楽しく過ごしていた。レンティーノも相変わらずで、僕に続いて良い成績をもっていた。
この五年でレンティーノの変わったところといえば、髪を伸ばすようになったこと。全体的に、ぐんぐん縦に伸びたこと。丸っこかった輪郭が、きりっと引き締まったこと。
性格や性質はあまり変わっていないように思うけれど、彼の一人称が僕から私に変わったのは暫く前のことだった。
え、僕の外見的成長?
背が少し伸びたこと、前髪が伸びたこと、それだけ。
あとは…… 未だに蘇生が完了しないリィの年齢に、追いついちゃった。
本当ならもうリィは成人して仕事を持って、もしかしたら家庭を持っていたかもしれないのに、彼は未だ冷たい水の中で目を閉じている。五年前と全く変わらない姿で、少しも生き返る気配がない。
僕はリィと同じように、十五歳にしては小柄だとよく言われた。
ある日のことだった。
僕はいつものように学校から研究所に戻ってきて、ある会話を耳にした。
「洗脳装置?」
「そうだ。今度実験するらしいぜ。あのイカレた色の頭をした若造を使ってな」
「ああ、あのマーティン=パストンっていうクソガキ? いい気味だな」
……止めなきゃ。絶対に止めなきゃ!
僕は自分の部屋に戻らず、真っ直ぐに一〇二〇号室を目指した。
一〇二〇号室にたどり着いてドアを開けてもらうと、僕は信じられない光景を目の当たりにすることになった。
「マ、マーティン? その髪」
一瞬、違う人かと思った。だけどマーティンを見間違うはずがないし、ここはマーティンの部屋だ。マーティンは、染料のように真っ青な髪をいじくりながら僕を見ていた。
昨日までは茶色かったその髪が、どうしてそんなに急に青くなってしまうのだろう?かつらかとも思ったが、そうではないようだ。
「いいだろう? 弟の瞳と同じ色だ」
何事も無かったかのように、マーティンは普通にそういった。
この髪は、実験の一環で染めたらしい。研究所で新しい染毛液を開発したから、マーティンが実験台になったのだ。永久染毛液、そんな名の染毛液だった。その名の通り、この染毛液で髪を染めると伸びてくる髪まで染めた髪と同じ色になるという。
今は試験的に、マーティンが使っている。人体に影響がないか、遺伝子に影響がないか確かめるために。
「ねえ、マーティン。君は洗脳装置の実験のこと聞いてる?」
どうしてこうも、マーティンは会う度にどこかを少しずつ蝕まれているのだろう。 弟の敵を討ちたい。彼が望んでいるのは、ただそれだけなのに。
どうしてマーティンが研究員に疎まれ、他の知能レベルの低い実験台にやらせておけばいいような悲惨な実験の対象にされているのか僕には理解できない。
遺伝子を直接操作して髪の色を変えるなんて、下手したらマーティンを殺すことになりかねないのに。いいや、考えたくないけど死ぬより酷い場合だってありそうだ。
なおかつ、そこまでリスクを背負わせた上で更に洗脳の実験をするなんて。染毛の影響も、洗脳の影響も、両方モニタリングする気がないとしか思えない。
マーティンは、陰鬱に笑う。
「洗脳かあ。じゃあ俺、もう俺じゃなくなるなあ? 全く、笑えるね」
何を言っているんだろう、マーティンは。
マーティンが洗脳されて僕のことを認識しなくなってしまったとして、そんな状況で笑うことが出来るほど僕は冷酷な芸達者ではない。
「全然笑えないよ!」
思わず感情の制御が外れてマーティンに掴みかかると、マーティンは怒ったりせず穏やかな顔で笑った。
そして、そっと胸倉を掴む僕の手首を握り締めた。 いとも簡単に、僕はマーティンの胸倉を解放させられる。
力の差は歴然としている。当然、僕の方が弱いに決まっている。
「今まで楽しかった、ミンイェン。これやるよ」
言いながら、マーティンは僕の手首に一本の細い紐のようなものを巻きつけて結びつけた。一体何のつもりなのか、よく飲み込めない。
「人工魔力って知ってるか」
ぽつりと呟くマーティンに、僕は胸の奥を締め付けられるような感覚を覚えた。どうしてそんなに、苦しそうな顔で笑うのだろう。
まるで、そうまるで、リィが命を落とした時みたいじゃないか。生きたいよって顔しながら、それでも死んでいったリィと同じ道をマーティンは受け入れるというのだろうか?
きっとこの紐がその人工魔力に関わっていて、そうであるならこの研究所が世界で初めて魔力を化学で解明できたのだとか、そういうことすらどうでも良くなった。
僕は何としてでも、マーティンを救う。もう、大事な人をリィみたいに失いたくない。
「このミサンガには魔力を込めてある。俺は実験でこの力を手に入れた。副作用で時々ひでえ頭痛を感じる時があるかもしれないけど、使いたいときに切りな。これを切れば、お前も魔力が使えるようになる。ただし、一定時間だけだ。五分か十分か、三十秒かは切ってみなけりゃわかんねえ」
「マーティン、実験はいつやるの?」
「明日」
見事に単語だけで答えてくれたマーティンに、僕はしばらく何も言い返さなかった。
だけど、きっぱりとこういった。
「部屋、代わって」
真面目にそういったのに、マーティンは即答で嫌だと答えた。僕はため息をつきつつ、天井を仰ぐ。天井に貼られたセクシーな金髪美女と目が合うけれど、こんな状況なので何の感慨もわかなかった。
「ねえお願いだよマーティン、その実験は僕が受ける」
天井から目を落とし、目を合わせてそう言えばマーティンは激昂して僕の肩に掴みかかる。
「てめえ! これからずっと結社のウサギのまま生きるのか?」
マーティンは真剣に怒っているようだった。どちらかっていうといつも何かに対して不満だったり怒りだったり、そういうものを抱いて過ごしているマーティンだから、怒りの表情なんか珍しくもなんともないんだけど。
でも、こんなに怒ってるマーティンは初めて見たっていっていいぐらいかもしれない。兎に角、今すぐ殴られるんじゃないかっていうほど凄い剣幕だった。
「大丈夫、何とかしてみせるから!」
「……嫌だ、二度も弟を失うなんて」
唐突に怒りを消して、力なく僕の肩にかけた腕を下ろすマーティン。頑として嫌だと言い張るマーティンをじっと見て、僕は食い下がらずに再び『実験を受けたい』と言った。
だって僕、マーティンが分けてくれたこの人工魔力で洗脳装置を壊してしまおうと思ったんだ。
もしも実験でその装置を使えば人間を洗脳できると証明されてしまったら、僕らはきっと一人残らず洗脳される。まず間違いなく、そのために開発しているのだろう。実験動物にある自我なんてノイズでしかないのだから。
僕は深呼吸して、マーティンの目をじっと見つめた。
絶望と微かな怯えと気楽さと愛しさと諦めと…… いろんなものが、その瞳の中に垣間見えた気がした。
「いい、マーティン? もしも僕が洗脳されたとしたら、マーティンが人工魔力で何とかして。でも考えてみてよ。マーティンが洗脳されても、僕には為す術なんてない」
しっかりと、確実に。僕はその言葉を、マーティンの目を見つめて言った。
暫く無言の時が流れた。
だけど、やがてマーティンが渋々引き下がってくれた。本当は自分の意見を貫きたかっただろうけど、僕の我侭をきいてくれた。
たとえ後から研究員に嫌われたって、僕は構わない。研究所で積み上げた五年の信頼が崩れるとしたって別にいい。友達を、これ以上危険に晒したくないんだ。




