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幻影  作者: 水島 佳頼
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第六話 集団生活への耐性、および社会性の観察

 ハビの部屋の前を通り過ぎようとすると、白い壁からぬっと腕が突き出てきて捕らえられた。そのまま引きずられるようにして壁にとりこまれる。

 何だかホラー映画のワンシーンみたいだと思うけど、このごつごつした大きな手はハビの手だ。壁を抜けて部屋の中へと入ると、いつもの優しそうなハビがいた。

「ミンイェン、約束忘れたの?」

「ちゃんと来たよ。でもハビ、凄く集中してたから」

 ハビは、僕に会ったことを覚えていないみたいだった。

 でもハビが穏やかに笑うから僕は安心して、彼の『一時的な不調』についてはどうでも良くなった。暫く二人でたわいもないことを談笑していたけど、ハビは何を思ったか唐突に机の上にあったノートパソコンをたたんで僕に差し出してきた。

「あげる、これを使って勉強してみて? ほら、僕はもう一台持ってるから」

 そう言われてハビの指差す先を見てみれば、新品のパソコンが一台ある。でも、たとえ使わなくなったものなのだとしても悪い気がした。

 僕が暮らしていた国ではパソコンはとても高価な物で、ある家の方が珍しかった。そして僕は貧乏だったし、学校に入学するまでパソコンなんて物は見たことすらなかったから。

「君が受け取ってくれなかったら、このパソコンはスクラップにされるよ」

 データを消して再利用、というわけにはいかない事情がきっとあるのだろうとは思う。けれどさすがに、高価なものであるという認識がある以上はすんなり受け取るわけにはいかなかった。僕は実験台で、ちょっと賢すぎて生意気な子供で、立場が弱い。

「まだ使えるのに? 勿体無いよ」

「この研究所では、パソコンとかは外に持ち出しちゃいけないことになってるんだよ。データが漏洩したら困るから」

 そう言うと流れるように肩越しに後ろを振り返り、ただの白い壁にしか見えないドアを見た。

「盗み聞きとは悪趣味だね、ライナス?」

「……いや、失礼」

 何が起こったんだろう、ライナスの謝る声がして足音が遠ざかる音が聞こえた。どうしてハビは誰かが来たことがすぐにわかったんだろう。魔法でも使えるんじゃないかってほど、今のは見事だったしちょっと怖かった。

 訊ねてみると、意外な返答が返ってきた。

「コンタクトレンズだよ。今してるこのレンズは、ドアの前に当てられた特殊ライト光の屈折率を変えてみることができるんだ。身長があるとどうしても頭がおろそかになるからね…… 今月に入ってからもう五回くらいこのドアに激突していて、研究員の人に頼んで作ってもらった」

 そういって、ハビは笑う。何だか笑い事じゃない気もするけど。

 確かに便利そうなこのコンタクトレンズだけど、僕は使いたくないと思う。光の屈折率が変わったらきっと、壁を見る以外の視界はおかしなことになるんだから。

「あ、パソコン」

「ううん、駄目だよ受け取れない。使い方解らないし」

 ハビが思い出したように差し出してくるパソコンを受け取らないために、僕は咄嗟にそんな言い訳をした。それでもハビは退かずに、どうしても僕にパソコンを使わせる気でいるようだ。

「そういうと思った。僕が教えるよ、使い方」

 にっこりと笑って、ハビは僕の腕にパソコンを抱えさせた。見た目と違って随分と軽い感触に、僕は驚きを禁じ得なかった。

 考えてみれば、僕は人から物を貰ったことがあまりなかった。

 リィからお菓子を貰ったりしたことはあったし、さっきもレンティーノから薔薇を貰ったりしたけれど、それ以外には殆どない。ましてや、パソコンなんて。

「いいの?」

 訊ねてみれば、ハビは深く頷いてくれた。そして僕の肩にずっしりと重たい手を載せてくる。

「僕があげたいんだよ。ミンイェンはまだ十歳だから、僕よりももっともっと頭良くなれるはずだから。こういうのは、早いうちにやるのがいいんだって」

 僕を十歳の年相応の子供として扱う人間に、単純だからほだされてしまう。少しくらい、理論より感情を優先してみてもいいだろうか。プレゼントだ。嬉しい。

 僕が嬉しそうなのを見てハビも嬉しそうにした。そして一緒に部屋を出ることになった。向かう先は僕の部屋。

「ミンイェン、明日から学校でしょ? どう、久々の学校は」

 ハビがあまりに嬉しそうに聞いてくるから、何だか僕も嬉しくなる。リィ亡き今、落ち着ける年上はどうしても兄のように思えてしまう。

「楽しみだよ、ハビ。レンティーノと一緒に行けるから」

 いつのまにか僕は、リィに接するのと同じような気分でハビにそう答えていた。自分の立ち位置や損得を考えるのではなく、感情を優先して言葉が溢れ出る。そんなの全部記録にとられているに違いないというのに、僕もある程度参っていたらしい。

 ハビは相槌を打って僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。懐かしい感触。

 真っ白いだけの廊下を歩きながら、僕はこの研究所でハビやレンティーノに出会ったことは悪いことじゃないと思い始めていた。十歳の単純な思考回路だった。

 部屋の前について、ハビは足を止めた。僕はカードキーを取り出してドアを開け、中に入る。ハビも一緒に入ってきた。

「初等科の勉強に飽きたら、僕のところへおいで。もっと高度な勉強を教えるから」

 僕のベッドに腰掛けながら、ハビは言った。それを聞いて僕は、もっともっと嬉しくなった。やっぱりさっき冷たい態度を取った人は、ハビじゃなかったんだ。だって、こんなに優しいハビがあんなに寡黙で無愛想で怖い人になるはずがない。そう思って、マーティンから聞いた『多重人格』の可能性はそっと頭から消し去った。

「ハビ、ありがとうね」

 僕がそういうと、ハビはベッドから立ち上がってパソコンになにやらコードを取り付けた。これが電源らしい。コードを取り付けた後、ハビはすぐに部屋に戻っていった。

 夕食までの間にパソコンの電源を一度つけてみたけれど、操作がさっぱり解らなくて放置してしまった。初等科ではまだ習わせてもらえなかったパソコンは、どこを触れば何が出てくるのか未知でしかないのだ。ハビがいないと始まらないことを痛感する。

 今日はレンティーノとミン、そしてハビと一緒に夕食をとった。話題に上るのは学校のことばかりで、僕は嬉しい反面少し胸の痛みを感じていた。

 僕らはどうせ実験台。研究所で飼育されているただの小動物にすぎないんだ。

 仮に実験が失敗して死んでしまっても、ウサギは所詮そのために飼われていた動物なのだから誰も気に留めない。僕らは死でさえも酷く事務的に処理され記録される、そんな実験用の動物なんだ。結局ここでも、僕に尊厳はない。

「凄く楽しみです! 明日は一緒に学校に行くんですよね、ミンイェン?」

 僕が何を考えているのか全く知らない様子のレンティーノは、満面の笑みで本当に嬉しそうに言う。ハビやミンも微笑んでいる。暗いのは、僕だけ。

 うきうきした様子で笑うレンティーノを見ていると、とうに実験台であることを受け入れている彼がそう振舞っていることについて考えてしまう。

 彼にとって僕が沈んでいる地点はとうに通り過ぎたところで、受け入れて楽しめる余裕を持っているというのは『乗り越えた』証なのかもしれない。そう思うと、実験動物になろうが尊厳がなかろうが、今は与えられた僅かな好機を楽しんだ方がいいような気がしてきた。

 リィを蘇生させても、この研究所に残ってレンティーノの傍にいたい。マーティンが言うように僕に声をかけた製薬会社の目的が将来の研究員を育てることだったとするなら、それがこちらにとっても相手にとっても都合のいいことなんじゃないか。

「そういえばミン、制服は?」

 訊ねてみると、ミンはあっと一瞬呆けた声を上げた。そして苦笑しながら、持っていたナイフとフォークを皿の上に置いた。

「ああ、すっかり忘れていたよ。後で置きに行くから、サイズが合わなかったら今日のうちに交換しにおいで」

 微笑みながらミンはそういい、食べ終わった後の食器の片づけをした。レンティーノもそれを手伝っている。

 僕も段々、わくわくしてきた。リィの死後から無理矢理保っていた理論武装がはがれ、十歳らしい子供の感性がうっかり出てきてしまう。実験とか研究とか、そういうことを全く考えなければ僕は明日から素晴らしい世界に足を踏み入れることができるんだ。他国の学校に編入。制服なんて初めて着る。

 リィに追いつくように頑張って一所懸命に勉強すれば、実験台としてよりも研究員として一目置かれるかもしれない。とにかくそれを目指そう。待っていてね、リィ。

 部屋に戻ってベッドに寝そべっていると、誰かが僕の部屋のドアをノックしたのですぐにドアを開けにいく。

 ドアを開けるとそこには、制服を着たレンティーノがいた。普段からレンティーノはきっちりしたシャツとかスーツに近いデザインの服ばかり着ていたから、全然違和感がない。

 ちなみに、明日から行く学校の制服は黒系のブレザーだった。

「ミンイェン、明日から僕はレンティーノです。長い名前は学校を卒業するまで使いません」

 そうか、レンティーノの名前は長すぎるからね。全く、どうしてレンティーノの一家では覚えきれないくらい長い名前をつけるんだろう。

 そういえば僕は、苗字の事なんかすっかり忘れていた。父親の苗字はリウ。母さんの苗字はヘイ。当然僕は、母方の苗字を名乗ることに決めた。

「僕の苗字はヘイだよ。でも、レンティーノは今までどおりミンイェンって呼んでね」

 レンティーノはその言葉を快く了承してくれたみたいで、満面の笑みを浮かべたまま頷いてくれた。今日のレンティーノは本当ににこやかだ。いつもにこやかだけど、今日はそのにこやかさが三割増し、いや五割増しになっている。そんな風に感情が見て取れると、時々空回っているうっすらとした異常性は鳴りを潜めて、年相応の賢い子にしか見えない。

「解りました、ミンイェン。“ヘイ”って、変わった苗字ですね」

 通常の五割増しの笑顔で、レンティーノは本当に面白そうにそういった。

 だけど、ちょっと待って欲しい。一番へんてこりんな名前なのは、他でもないレンティーノじゃないか。

「でも、レンティーノの名前ほど変わってるものはないと思う!」

 僕がそういうとレンティーノはふと黙り込み、それから声を上げて笑いながら頷いた。何だか可笑しくなってきて、僕も笑ってしまう。

 二人で笑い合っていると、ミンが僕の部屋に来た。レンティーノはミンと入れ替わりになる形で僕の部屋から去っていく。

 僕はミンから制服を受け取った。そして、それをすぐに着てみる。

 ミンは僕のベッドサイドにおいてあった花瓶に気づき、花瓶に挿された一本のしおれかけた薔薇にもすぐに目を留めた。あ、水が足りなかったのかもしれない。

 ミンは、僕が何も言わないのに薔薇の水替えをしてくれた。

 思ったとおり、ミンが傾けた花瓶からは数滴の水しかでてこなかった。そしてミンが薔薇の水を換え終わるまでの間に、僕は着替えを終えていた。

「おや、ミンイェン。黒い服もなかなか似合うね」

 僕が着替え終わったことに気づいたミンが、ベッドサイドに薔薇の挿された花瓶を置きながら言った。僕は少し照れて、制服の袖や腰周りを自分で眺めてみる。

 洗面台の前に立つ時に少し緊張した。一体僕は、どんな格好をしているんだろう。

 意を決して鏡を覗くと、その瞬間に鏡の向こう側に立ったのは、野暮ったいもさもさした髪の少年だった。野暮ったい髪とは釣り合わないシャープでシックな黒の制服をきて、心持ち不安げな表情をしている。思ったより着られている感が強い。

 この髪も、梳かせば何とかマシになるだろうか。服のサイズは丁度いいみたい。

「よし、じゃあそれで明日から学校だ。鞄や教科書はあとで手配するよ。 お古でなおかつ違う学校の物で悪いけど、とりあえず明日はハビとマーティンの鞄を使って」

 そう言いながら、ミンはにっこりと笑う。

 その後の話によると、筆記用具や学用品なんかは全部この研究所が買ってくれるらしい。なんだか大掛かりなプロジェクトだな、と僕は心の中で笑う。もしかしてレンティーノの息抜きや情操教育のために、ミンが主導してこのプロジェクトを進めているのかもしれないとちらりと思った。

 ミンはおやすみを告げたあと僕の部屋を出て行った。

 さあ、今日は早く寝なくちゃ。明日は早起きして、レンティーノより早く中庭で待っていたいから。

 僕は制服を脱いでソファの上に畳んで置くと、ベッドにもぐりこんで電気を消した。


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