第五話 モルモット
レンティーノとお昼にしていると、ミンが来た。
「お帰りなさい、父さん」
「ただいま。ミンイェンも一緒だね」
ミンは嬉しそうに笑いながら、レンティーノに言った。父親と話す様子はどこも不自然ではなくて、ミンは息子を『実験台』のようには扱っていないのだろうと確信する。僕はレンティーノが淹れてくれた紅茶を飲みながら、ミンに軽く会釈した。
ミンは僕に向かってにこりと笑みを投げかけると、自分も昼食にするようで着ていた白衣を脱いだ。脱いだ白衣をベッドの方に放り投げて、彼は僕とレンティーノを振り返る。
「レジュストゥルフェルナディアンティーノ、明日から学校へ行くことになっているよ。聞いていた?」
その言葉に、レンティーノが固まった。上品な仕草で握られていた彼のフォークが、からんと音を立てて皿の上に落ちる。
学校? レンティーノが学校に行くの? ずっと研究所にいたというのに、十歳の今から?
僕も勿論、少なからず驚いていた。
「……いえ、何も」
信じられないといった様子で答えるレンティーノ。
僕だって信じられないよ。折角いい感じに仲良くできるかもしれないと思ったレンティーノと一緒にいられなくなったら、僕は退屈だ。
「明日は七時半にここを出られるよう支度しなさい。いいね?」
ミンは最初からレンティーノがこうして驚くのを見越していたのか、説得するようにそういった。
僕はレンティーノをじっと見た。どう答えるのか気になったんだ。レンティーノはそんな僕の顔を見て何か思ったのか、さっとミンの方を見た。
「ミンイェンを連れていってはいけませんか」
一瞬、全世界の時が止まってしまったかのように感じられた。
思いがけない申し出だった。学校は僕の人生の中で唯一マシな思い出のある場所だから、行けるなら僕だって行きたいと思う。
蘇生実験の手伝いをするという名目でここにいるけれど結局ここ二日でしているのは僕の知能検査と何らかの心理テストのようなものばかりで、どこかの研究チームに混ぜてもらうなんてことは当面できそうにないのだ。だったら、余暇にあたる時間は少しでも心を穏やかに保つために使いたい。
それに、レンティーノが僕に居場所をくれようとするなんて。僕は思ったより嬉しかったらしい。
きっとミンの返事が来たのはそれから一分もしなかった後なんだろうけど、僕にとってこの時間は数時間に感じられるほど長かった。
「もう打ち解けたんだね? 良い事だ、僕の権限で許可しよう」
駄目だといわれるかもしれないと思ったのに、ミンは笑いながらそう答えてくれた。レンティーノが満面の笑みを浮かべて、ミンと僕を交互にみた。
僕が一緒にいるってだけでそんなに嬉しそうにしないで。君にそんな顔をしてもらえるほど価値のある人間じゃない。そう思うのに、僕の口角も上がる。
「良いですよね、ミンイェン! 一緒に学校に行きましょう」
僕は最初から断るつもりなんて無かったから、ちゃんとレンティーノを見て頷いた。
「いこうか、学校」
かくして、僕らは学校に行くことになった。
僕らがいくのはこの研究所の近くにある学校で、そこはきちんと制服を着ていく学校らしい。僕が行っていた学校は何ともいい加減な学校で、校則なんて殆ど誰も守っていないし知っている人のほうが少なかった。だから制服なんて皆着てこないし、アクセサリーがじゃらじゃらしてても先生は誰も文句を言わなかった。成績さえよければ、素行は割とどうでもよかったんだ。
「明日の朝、中庭でいいかな」
レンティーノにそう訊ねてみると、彼はにっこりと笑って頷いた。けれど、彼のその笑顔が少し曇る。少し間をおいて、心配そうにこう訊かれた。
「もしも僕がその時来ないようでしたら、すみませんが起こしにきていただけませんか?」
話によると、レンティーノは朝が弱いらしい。僕は勿論快く引き受けて、レンティーノに一旦別れを告げた。
そして、そういえば呼ばれていたのを思い出して隣のハビの部屋に行ってみる。
ハビは机に向かって凄く真剣な表情を向けて、一心に何か書いていた。部屋には紙にペンを走らせる音だけが響いている。怖いくらいに、ハビはその作業に没頭していた。
「……ハビ?」
声をかけても、反応は無い。
後ろにそっと回ってみても、反応が無い。これはちょっとおかしいと思う。
そっと彼の後ろからその手元を覗き込んでみると、ハビが一心に書き綴っているのは研究資料の一部だということが解った。
でも、文字が雑で読めないところがかなりある。反応は相変わらずないから、なんとか内容を頑張って解読してみることにした。
『蘇生した人間から生まれた子の精神状況、ケース1』
ぱっとレンティーノの顔が浮かぶ。……レンティーノのような境遇の子供が複数いるのであれば、それらの実験についてかもしれないけれど。
続きを読む。
『集団生活への耐性、およびに社会性の観察』
集団生活なんて、いままさにしてるんじゃないの? というか、耐えられない場合なんてあるんだろうか。
そして僕はさらに続きを読み、信じられないものを見た。
『被験体一〇六八』
……すっと心が平面になるような感覚。
数字で呼ばれる『実験台』。レンティーノから垣間見えるわずかな異常性を育てるに足る、残酷な現実を僕はようやく認識したように思う。
さらに、僕はハビが続ける文章を読み続けた。
『なお、実験の同行者を作ることによって発狂した場合に備える』
そして続けて、同行者の名前のところに小さく『一〇九六』と記されているのを見つけた。
一〇九六。僕の、部屋番号だ。
実験の一環で学校に行かされ、それを観察され研究される。僕ら二人とも、だ。認識していた状況と、ちょっと相違がある。僕は実験の手伝いをする研究者サイドのポジションなんだと勝手に信じていた。……そんなわけ、ないじゃないか。
僕はリィの弟で、半分とはいえ血縁だ。蘇生実験において、何らかの比較対象になりえる可能性は最初からずっとあったのに。
「……いつからいたの」
声をかけられて飛び上がる。さっき会ったハビの穏やかで深い声じゃない。
何となくかすれた、抑揚の無い声。それに驚いたし、ちょっと怖かった。
いつのまにか、ハビは資料を書き終えていたみたいだった。僕は考え事をしていたから、気づけなかった。
「いつだろう、五分前くらいかな。ハビ、声かけても返事しないから」
どうにか平静をよそおってそういえたけど、内心穏やかじゃない。
ハビは僕を見ようともせず、そっけなく
「そう」
と呟いた。
どうしてこんなに別人のような声で喋るんだろう、ハビ。
僕が戸惑っていると、ハビは椅子に座ったままの姿勢で首を捻ってこっちを向いた。鋭く細められた目。寄せられた眉。穏やかな笑顔の片鱗すらみあたらない表情で、ハビはこっちを見ていた。
「何の用?」
突き放されるような言い方で訊ねられて、僕はびくっとする。
何だかこの人は、ハビじゃなくてハビの双子のお兄さんとかクローンとかそういう人のように見える。だって、呼んだのはハビなのにそれすら覚えてないなんて。
僕は何となく居心地の悪さを感じて、そのままハビの部屋をあとにした。
どうしたんだろう、ハビ。僕は、何か気に障ることをしてしまったんだろうか。悶々と考えながら廊下を歩いていると、不意に誰かにぶつかって転んだ。起き上がると、不機嫌そうな少年が僕を睨みつけていた。
「チッ 気をつけな」
「……」
やけに高圧的な態度。僕は少しむっとして、目つきの悪い茶髪の少年を睨み上げた。
目の色が鮮やかすぎるくらいの空色で、変な奴だった。リィと同い年くらいだろうけど、リィみたいな優しそうな人じゃない。エフリッシュじゃない人間で、発音はディアダ語の訛りが強いように思う。
「てめえ、年上に対する口の利き方をしらねえのか? 返事くらいしやがれ」
相当機嫌が悪いのか、その人は僕の胸倉を掴み上げた。
僕はそれでも、黙ってその人をにらみつけていた。急に高圧的に出てきたのは、彼も研究員だからだろうか。僕が実験台だから、下に見ているんだろうか。少年がなおも何か言いかけたところで、鋭い声が割り込んでくる。
「やめなさいマーティン。それから、襟元を正しなさい!」
僕は物理的にも割り込んできたその男によって、少年から解放された。
マーティンとか言う変な奴は、依然として僕を睨み降ろしている。だから僕も、マーティンを睨み返していた。
マーティンを止めた男は、この研究所内ではあまり見られない上質な黒のスーツに身を包んでいた。でも研究員なんだろう、きっと。襟元に、研究員の証であるピンバッジがつけられていた。
「君、部屋に戻ったらどうだ。それと、その鬱陶しい前髪はすぐに切れ」
拍子抜けする。……何なの、この人。この人もマーティンに負けず劣らず変な奴だ。
「ライナス、だってこいつ」
「黙れマーティン、髪が乱れてるぞ」
「そんな事、どうだって良いだろ!」
喧嘩を始める二人を尻目に歩き出すと、マーティンに腕をつかまれた。振り返ると、マーティンはにやりと笑みを浮かべた。嫌な笑みだ。
「おい、一〇二〇号室に来な」
一体何の用があるんだろう? もしかして、今の仕返しでもされるのかな。僕は嫌だったから、即座に拒否した。
「やだ」
「絶対来な」
何なの、この強引な人。特進の使えない一般クラスの馬鹿な不良みたいだ。
絶対に関わりたくないタイプの人間だったけれど、そのうち調べてここに来られても嫌だったので嫌々一〇二〇号室に向かう。
部屋のドアをくぐると、相変わらず不機嫌そうなマーティンがソファに座ってこっちを見ていた。
「よぉウサギ、来たか」
「ウサギじゃない」
賢さの感じられない少年と会話する気をなくして、僕は帰ろうとする。すると僕の背中に向かって、煽るように声が浴びせられる。
「ウサギじゃなきゃモルモットか? 実験台がエラソーな口きくな」
ああ。ウサギって、そういう意味で言ってたんだ。
この人は僕のことをどの程度把握しているんだろう。これまで直接会ったことはないから大したことは知らないと思うけれど、僕への『実験』がどう予定されているのか探ってみるのは有効かもしれない。向き直って、開戦とばかりに煽り返す。
「君だって実験台だろ?」
僕の発言を聞いたマーティンは、にやりと笑った。
「よくわかったな? まぁ、ここにいりゃあ実験台だって解るだろうがなあ。思ったより賢いらしい、突っかかって悪かったな」
何なんだろう、この人。
さっき廊下でぶつかった時と、まるで態度が違う。
「……それで。何の用? 僕を呼びつけたよね」
そう尋ねると、マーティンは喉の奥でくつくつ笑った。言葉を交わす度に思うけれど、マーティンには悪役しか向いていない。
「あたらしいオモチャにしようと思ったんだがな、どうしてやろうかな。てめぇ、ちょっと関わってみると微妙に弟に似てんだよな。生意気な所とか」
生意気と言われてむっとして、僕はマーティンを冷ややかに見た。そして、視線と同じく冷ややかな声で言った。
「君はリィになんて似ても似つかないけど」
「あんなヒョロヒョロで童顔のホルマリン漬けと同じにされたくないね」
この男、リィを馬鹿にした!
僕はかっとしてマーティンに掴みかかったけれど、いとも簡単に押さえ込まれてしまう。
暫くマーティンに押さえつけられて息を荒げていたけれど、僕はマーティンの腕を振り払って壁際まで後退した。
「今のは失言だな。俺も弟を馬鹿にされたらキレる」
「だろうね」
「兄貴、お前を庇って死んだって聞いたぞ」
「……何をどこまで知ってるの」
「研究員が下衆いウワサをしてた範囲しか知らねえけどな。リャンツァイの特進システムで、この研究所の息がかかった企業が研究員のタマゴを得て…… そんでそいつが虐待で今にも死にそうってんで、早めに保護する方向にしようかとしていた矢先に血の繋がらねえ父親が暴れたんだとか」
僕は黙って、マーティンの横をすり抜けてソファに座った。これは僕なりの『もっと続けて』という意思表示のつもり。
マーティンにはこれが伝わってくれたようで、隣に座って話を続けてくれた。
その過程で彼は僕のことを何度も生意気だと言ったし、何度も弟に似ているといった。
要約するとリィと僕に声をかけた会社はそれぞれこの研究所とつながりのある企業で、いずれ優秀な成果をあげればそれぞれリャンツァイの企業から引き抜いてこの研究所に所属させるつもりがあったのだという。この研究所にいるリャンツァイ系の研究者は皆そうやって特進システムで集められていて、若いうちから囲い込めるので重宝しているのだと研究所の上層部では言われているらしい。噂だから、どこまで本当かわからないけれど。
「……ありがと。教えてくれて」
「兄貴のことは不幸だったが、まだ蘇生の見込みがある。上層部に任せきりなのは不満だと思うが、何とか折り合いつけて待ってな」
「いずれ研究者サイドに立つよ、僕」
「その意気だ」
「それで結局、研究所は僕をどうする気なの?」
「そりゃ俺にもよく分からないね。だが、少なくともお前にはかなりの利用価値がある…… 特進の更に例外なんだろ。脳機能に関する実験が主になるんじゃねえのか」
マーティンが言うのを聞いて、尤もだと思った。僕はある意味で異常者だ。初等科で企業に目をつけられる成績を出した人間は、少なくともこれまでいたことがなかったんだから。
「壊されない程度に受けてあげればいい感じかなあ」
「ま、そうだな。ここにいる以上は。ところでハビにはもう会ったか?」
軽い口調でそう訊ねられて、僕は頷いた。
だけど、さっきのハビはやっぱり変だった。だから、そう言ってみた。
「でもさっきは何だか変だった」
もしかしたらマーティンは『ああ、だってあれハビじゃないからな』とか言ってくれるのかもしれない。僕はそんな淡い期待をした。できればそうであって欲しい。
「ああ、あいつ仕事に熱中すると人が変わるからな。多重人格だろうなと思ってる。気にするな、我慢しな」
マーティンは気楽そうに笑ってそう言うと、ふと黙り込む。辺りを覆う静寂に、僕は何をして良いかわからなくなる。マーティンの声がないだけで、こんなにもこの空間が怖く感じる。
白で統一されたこの空間。
レンティーノと中庭にいたりしたから、束の間だけどこの白を嫌悪する気持ちを忘れていた。初めてここに来たときの、言いようもない恐怖がよみがえってくる。漠然と怖くなって、マーティンの横顔を見上げる。
するとマーティンは僕を見下ろして頬を緩め、静寂を破って話をし始めた。
ごく普通の家に生まれたマーティンは、ごく普通に生活していたらしい。それは僕のような虐待やレンティーノのような異常な生い立ちとは無縁で、聞き及ぶ範囲では絵に描いたような中流一般家庭の様相だった。いいな。『普通』って、羨ましいな。
そう思って聞いていたけれど、ある日マーティンは鍛冶屋の息子に弟を殺された。
鍛冶屋の息子はイノセントという奇抜な名前の少年で、事件当時の年齢は僕と同じ位の十歳前後だったらしい。事件のことをきいて現場に駆けつけると、イノセントは血塗れの服で手を拭いていた。マーティンは激昂してイノセントを殴ろうとしたけれど、警察に取り押さえられたからそれもできなかった。イノセントはマーティンと目が合うと、謝りもせずにその町では珍しい警察の車に乗せられていった。
イノセントは最後まで涼やかな無表情だった。まるで、自分が悪いことをしたなんて微塵も思っていない風に。
「俺、あいつを殺す。止めるな」
静かな声でマーティンは言った。それきり、また静寂が訪れる。僕は静寂が怖かったのもあって、早急に答えた。
「止めないよ、僕も父さん殺しちゃったから」
そう答えるとマーティンは意外そうな顔をして、それから安心したような笑みを漏らした。昔話でも語るように、マーティンは僕に弟の話を聞かせてくれた。
僕はマーティンの話をじっと聞いていた。
マーティンが喋っていれば静寂に怯えることもないし、何よりマーティンが弟のことを話すのは幸せそうで、自分がちゃんと人間であることを思い出せるから。僕は常に自分自身に追い立てられて知識を詰め込んで機械みたいに勉強が出来たけれど、ちゃんと兄と仲の良い普通の子供だった。そのはずなんだ。
けれどマーティンの話を聞きながら、僕の思う普通と一般人の考える普通が明らかにかけ離れていることにだんだん心が痛くなってくる。
僕さえ生まれていなければ、母さんはあの男と結婚しなかったかもしれない。離婚しやすかったかもしれない。そうであるなら、リィはきっと母さんと本当のお父さん、あるいは新しい別のマシなお父さんと一緒に何不自由なく暮らせていただろう。
リィ、ごめんなさい。リィの幸せを壊しちゃったのは、他でもない僕だ。
そう考えてると、涙で目の前が滲んでくる。
すると、マーティンの大きな手が僕の髪の毛をわしゃわしゃと撫でた。同じことを、リィもよくしてくれた。
リィの方が優しく撫でてくれたし手も華奢だったけど、僕は一瞬リィが戻ってきてくれたのかと錯覚してしまう。
誰かの前で泣くなんて癪だったし、その『誰か』がマーティンだなんてもっと嫌だけど。だけど僕は、静かに俯いて泣いた。マーティンはただ黙って、僕の頭をわしゃわしゃと撫で続けていた。




