第四話 孤独の反対側
母さんが病院に搬送されて意識不明になっていると、僕はこの研究所でリィ蘇生を手伝うことに決まってから二日目に聞いた。原因は過労によるもので、母さんは運が悪ければ一生目を覚まさないらしい。
母さんは父さんの酒代を稼ぐために頑張りすぎていた。あの男にそんなに尽くす価値があるなんて、僕には思えない。離婚して逃げるのが一番よかったはずなのに彼女はそうしなかった。あの男を守りたかったのだろうか。あの男に脅されて従うしかなかったのだろうか。
僕は母さんとあまり話さなかったら、母さんがあの男を本当に好きだったかなんてよく解らない。脅されているほうが確率が高いと思うけれど、何も確証はない。とにかく何か、合理性を上回る理由があったことに間違いないとは思う。
一瞬だけ、父親を殺してよかったって思ってしまった。思ってからすぐ、その恐ろしい思考を懸命に振り払う。
だんだん自分が壊れていくのを感じる。僕をこの世に辛うじてつなぎとめているのは、強く手の甲を引っかいて無理に出した血の赤い色と、その温もりだけだった。傷の痛みは、異常になりつつある僕の思考を正そうとしてくれる。
流れる血と鈍い痛みだけが前の僕と変わらずにある部分で、この血の色が赤であるかぎり僕は僕なんだと無理な理論をたてて、僕は白い部屋から一歩も出ようとしなかった。
「ミンイェン、また血を出したの?」
この傷がミンに見つかると、決まって彼は僕を気遣うように手を消毒してくれる。何の文句も言わずに、呆れもせずに。まるで自分と血のつながりのある息子に接するように、ミンは僕に接してくれた。
こんな手、要らないのに。
手だけじゃない、全部要らない。こんな僕に生きている資格なんて無い。僕がいなくなっても、研究員たちがリィを蘇生させてくれるだろう。そんな風に思えて何もかもを壊したくなる。
どうしてここの人間は優しいのだろう。この研究所にいる大人は、ミンだけじゃなくて皆が僕に優しく接してくれる。まるで家族みたいに、優しく気遣ってくれる。学校で特進候補として大事にされていたときとも違う。見返りを求めずに優しさを与えてくれるのはリィだけだと思っていたから、どう対応していいかわからない。
僕は殺人者だ。それも、とびきり愚かで無能なクズの血をひいている。皆の優しさが、僕にとっては痛かった。
「……こんにちは」
僕が思考に沈んでいると、ふいに声をかけられた。僕はベッドの上で上半身をひねり、入り口のほうを見る。
「誰?」
あどけない声の正体を探せば、そこにいたのはハニーブラウンの髪をした肌の白い……
「ミン?」
いや、そんなわけがない。
カラーリングは完璧にミンと同じだし雰囲気もそっくりだけれど、あのミンを十歳程度の子供にしたらこんな感じになるのだろうと思えるような少年がそこにいる。
「初めまして。僕はレジュストゥルフェルナディアンティーノ=バルコリュッテンヴェルツハイヤド」
「……へ?」
「レンティーノと呼んでください、長いので」
にこり。ふんわりと笑みを浮かべる彼の姿は、やっぱりミンにそっくりだった。多分、彼がミンの息子なんだ。初めて会う。
僕は暫く無言でいたけれど、ふいに名乗っていないことを思い出した。少し考えてから、適当に名前だけ呟いておく。
「ミンイェン」
「よろししくお願いします。エキゾチックな発音ですね。リャンツァイの表記では表意文字を使うのでしょう? いいですね、僕もこの長い名前を当てはめてみたいです」
名前に言及されたので黙る。
この子は落ち着いていて言葉の選び方も冷静で、同年代の子供のような感じがしない。リャンツァイ式に言うなら、特進狙いで成績上位の更に上澄みに入れるような子だろう。
「あれ、手…… 傷だらけですね。まさかどなたかに傷つけられたのですか?」
突然、レンティーノが僕の手をとる。僕は驚いたけど、その当然のような優しさに何だか無性に苛ついてぶっきらぼうに答えた。
「いや、自分でやった」
「それは勿体無い、こんなにお綺麗な手なのに」
「黙ってよ! 綺麗だったらなんなの? 僕にとっては何の意味もないよ」
レンティーノの穏やかな言葉に、僕は激昂した。
どうして何も知らないくせにそんな善人面ができるのだろう。無神経だとすら思える。
「申し訳ありません。とにかく、研究員の方々に意地悪をされていなくてよかった」
「あのさあ、なんの用なの? 良く知りもしないくせに。見世物じゃないんだけど!」
……今にして思えば、僕は完璧にレンティーノに当り散らしていた。この当時は理論が通っていると思っていたけれど。
何もできない自分のもどかしさを、全てレンティーノにぶつけていたんだ。
レンティーノは文句も言わずに、僕の幼い怒りを笑顔で受け止めた。彼は、そういうところまでミンにそっくりだった。
「存じておりますよミンイェン。貴方はこの大陸から遠く離れた東の大陸で生まれ育ち、酒場で暴れたお父さんを刺して逃げてきたのですよね。貴方がお父さんの手を刃物に添えたことも幸いして、貴方のお父さんは店主を殺して自殺したと思われています。貴方は罪に問われませんよ、よかったですね。そして、貴方のお兄さんは防腐剤につけられて研究材料にされているのですよね」
ミンにそっくりなレンティーノは、僕よりも僕のことを良く知っていた。ぺらぺらと平板な声で並べ立てられた僕の知らない現実を、僕は面食らいながらなんとか受け止める。
「研究、材料」
レンティーノの言ったことを繰り返して、僕は呟いた。
リィの蘇生は確かに実験的だけど、絶対成功させてくれるってあの偉い人は言った。無論、僕はそれを信じ続けている。だけど、材料って響きが嫌だ。
「人体蘇生実験のレベルスリーの対象なんですって。上手くいけば生き返りますよ、リィシュイさん」
僕よりも僕のことを知っているレンティーノだから、リィの名を知っていても別に驚かなかった。そこは別に気にするところじゃない。
だけど、レンティーノは今『上手くいけば』って言った。問題はこの発言だ。それって、もしかすると上手くいかない可能性もあるってこと……? そんな不確かな状態で、リィを実験の道具に使うということなの?
「失敗したら?」
「大丈夫ですよ、ご遺体が残っている限り何度でも可能らしいので」
レンティーノはそういいながら、深い眼差しで僕を見る。感情の読めない目。にこやかなのに、どこか無機質な感じがする。
「何で詳しいの?」
問えば、レンティーノはにっこりと笑った。それから少し言葉をまとめる時間を得たかったのか、僕の枕元にある花瓶を手にして洗面台に持っていく。
どうしてこんな細かいどうでもいいような仕草でさえ、ミンに似ているんだろう。親子ってこんなに似るもの? だとしたら僕は、客観的にはあの酒びたりのどうしようもない男と似ていなきゃならない。そんなの、嫌だ。
「僕の父も蘇生した人間なのです。ただ、蘇生した時に不具合が少し生じるようで、それを改善するために貴方のお兄さんで新しい蘇生方法を実験するのだそうです」
レンティーノは花瓶の水を洗面台に捨てながら、そう言った。
白い指先、綺麗な手の甲。きっと優しい家族に大事にされて育ってきたんだろう。レンティーノには傷なんて全くなかった。少なくとも、今僕から見えている範囲内ではゼロだ。
僕はそう思って、この時まではお高く留まったレンティーノに苛立っていた。彼の言う『僕の父』が誰を現しているのかという、とんでもなく大切な発言を気にする余裕もなかった。けれど。
「僕は蘇生した人間の生殖能力についての実験で生まれた、ただの道具なのですよ。僕の成長は常に監視されていて、常に記録されているのです。そうであれば、少しでも優秀に見えるよう振舞わなければなりませんよね」
自嘲気味に笑いながら、花瓶に水を入れるレンティーノ。蛇口をしめる時にキュッと小さな音がしたけれど、それきりこの部屋から音は消えた。
僕はしばし言葉を失う。生まれた時から実験台で観察の対象だったレンティーノは、今までどういう気持ちで生きてきたのだろう。
僕みたいに一般家庭で生まれて、家庭環境に問題はあったけれどそれなりに兄弟と幸せに暮らして、それで普通の幸せを感じている人のことをどう思っていたんだろう。
笑っているのにどこか陰鬱そうなレンティーノは、身体に傷こそないけれど心にはたくさんの傷を持っているに違いない。
なのに僕は、知らずにレンティーノを傷つけた。身勝手に怒って、不躾に質問して。レンティーノの心に刻まれた傷の上を、もう一度なぞるような真似をした。
「ごめん」
「気にしなくて良いのですよ、ミンイェン。……中庭にでも行きませんか?」
レンティーノの誘いに頷いて、僕はカードを使って部屋から出た。
中庭は本当に綺麗なところで、色とりどりの花が咲き誇る花壇やミンの背丈ほども高さがある薔薇のアーチなどで周りを囲まれていた。
勿論研究所の白い壁が四方にあるけれど、上を見れば嘘のように澄んだ青空が四角く切り取られたように広がっている。 見たこともない鳥が、四角い空に浮かぶ白い雲に向かって飛んでいるのを見た。
リィも連れてきたかったな、と心の隅で思う。蘇生したら、ここに一緒にこよう。そして、色々な話をしよう。
「素敵なところでしょう? 僕のお気に入りの場所です。僕は最近、ここで本を読むのが日課になっているのですよ。もし僕が自室にいないようでしたら、ここにいらして下さい」
レンティーノはにっこりと微笑んで、中庭の真ん中に置かれた小さなテーブルと椅子のところへ寄っていく。
そのテーブルと椅子は組にして使うものらしくて、両方につる草のようなデザインを施されていた。この模様、レンティーノに良く似合う。椅子は向かい合えるように二つあった。僕はレンティーノが座っていない方の椅子に腰掛ける。するとレンティーノは席を立って、壁際に歩いていった。
そして彼は、傍にあった薔薇のアーチから一本、真紅の薔薇を摘んで持ってくる。
「どうぞ」
そういって、薔薇の花を差し出すレンティーノ。
「あ、ありがとう」
おずおずと受け取る僕。突然そうした行動原理はよく分からないけれど、レンティーノはにこやかに受け取るのを待っている。
正直、僕には薔薇なんて似合わない。同じ赤なら、僕には薔薇よりも血の方が似合ってしまっているかもしれないけれど。
アクションを返さなければと受け取ったその瞬間、指先にチクリと棘がささった。
「痛っ」
「あっ、大丈夫ですか」
レンティーノは慌ててスーツのようにぴしっとした服のポケットに手を突っ込んで、そこから純白のハンカチを取り出した。
それを僕の指に当てて、レンティーノはもう一度しっかり謝った。これは受け取った側の僕の不注意だから、レンティーノが悪いなんてことはないと思うけれど。
「あ、ダメだよ汚れる」
僕の血を吸い取る白いハンカチを見て、僕は唐突にレンティーノを振り払った。けれどレンティーノは笑って、僕を見ている。
「いいえ、見てください」
ハンカチを広げて、レンティーノはそれをよく見せてくれた。真っ白なハンカチの隅のほうに、真っ赤な模様が出来てしまっていた。僕が汚してしまった、もとは汚れの無かった白。
「貴方の血、薔薇の花びらみたいじゃないですか。それに、ハンカチの代わりなんていくらでもあるんですよ。消耗品ですからね」
……初めて聞いた。血が薔薇の花びらみたいだなんて。
僕が唖然としていると、レンティーノはにこりと笑う。うっすらと、彼の異常性に気づきはじめる。
完璧に擬態しているけれど、彼はおそらく同年代とのコミュニケーションを知らないのではないか。他人と心で接しているのではなく、知識として持っている『正しいとされる行動』を選んで実行しているだけのようにみえてくる。そしてそれを、時々致命的に間違えるのだ。
僕だっておよそ十歳とは思えないとよく言われるけれど、レンティーノは僕以上にそうかもしれない。
完璧な人間の子供に見える彼は、けれど立派な実験台なのだ。そばに実父がいるとしても、常に監視され記録されている生活ではどこかに綻びが生まれてしまっているのだろう。
「父さんの生家のお屋敷には、薔薇の温室があるそうです。いつか一緒に行ってみたいですね」
にっこりと微笑むレンティーノ。僕もおずおずと微笑み返した。どこまでが彼の本心か、どこからが彼の生存戦略における義務的な『正解』ワードなのかをはかりきれずに黙る。
すると、急に視界が暗くなった。誰かに後ろから両手で目隠しされたんだ。 思わず暴れようとしたけど、後ろから穏やかな声が聞こえたので自粛する。
「だーれだ?」
穏やかだけど、低い声。大人だろうか。
「すみませんわかりません」
誰だよ。今時こんなことする人っているんだ。背後に立つ人は僕よりも随分と大きくて、僕の目を隠している彼の手は大きくてごつごつしていた。
そっと手を外されて後ろを振り返ると、ここに連れ込まれた日に出くわしたリィと同い年くらいの人が立っていた。近くで見ると、余計背が高く見える。
彼はにっこりと笑った。相変わらず、笑顔の裏に何かほの暗いものをもってるように感じる人だ。
「ミンイェン君、だね」
「ミンイェンでいいです」
僕がそう言うと、何だか人の良さそうな笑みを浮かべて彼は笑った。
レンティーノが言ってたハビって人は、この人なんだろうか。
「じゃあハビって呼んで。僕のこと知ってる?」
「ミンから少しだけ聞きました。さしつかえなければ、自己紹介を」
やっぱり、このあり得ないぐらい大きな人がハビって人だった。 顔つきはリィと同い歳くらいに見えるのに、なんでこんなにも大きいんだろう。
……いいなぁ。僕もこれくらい長身になってみたい。
「硬いな。いいのに、くだけて」
「十歳のクソガキって思わない?」
「思わない思わない」
「じゃあ、適当に同級生みたいに扱うね」
「そうだね、それでいいよ」
くす、とレンティーノが笑う。打ち解けた様子を見せる彼に、さっき見出した異常性が揺らぐ。やっぱり普通の男の子かもしれない。そう思いたい僕が、必死にバイアスをかけているのかもしれないけれど。
「ミンイェンは、僕のことは最初から同級生のように扱ってくださいましたよ」
「実際同級生だしね。えっと、自己紹介か。十六歳で血液型はAB、ここでバイト中だよ。あとは何だろう? よく聞かれるのは身長かな。百九十八センチある」
ハビはそういって、僕を見下ろす。
百九十八って、僕より何センチ高いのさ? あり得ない、十六歳でそんなに背が高いなんて。だってもしかしたら、これよりまだ伸びる可能性があるってことだよね。百九十センチも身長があれば、たとえ年齢が二十をすぎていようが僕の国では『あり得ない』って言われた。なのにハビは、そんな僕の国の平均を楽々と抜かしてる。
僕はそれから、ハビについて多くのことを知った。
ハビが学校とカフェ・ロジェッタに行く傍ら、ここでバイトをしてること。来年で学校を卒業して、ここに住み込みで働くってこと。実は今も、半分住み込み状態なんだとか。
ここの研究員と一緒に、バスケをやって遊ぶともいっていた。この研究所内にバスケなんて出来る場所があるなんて。僕はハビが研究員と遊んでいることよりもそっちの方に驚いた。
「ミンイェンは学校に行っていた?」
僕は頷いて、ハビを見上げる。
楽しかった学校生活。友達は多くなかったけど、いつも隣にリィがいた。思い出すと感傷的になって涙が出そうになる。だけど僕は笑って、無理に笑って、リィのことは考えないようにした。
「うん。僕の成績はクラスでも上のほうだったよ」
「知ってるよ、『特進』の子なんでしょう。それじゃあ、もう少し話したいから後で一〇六七号室においで。レンティーノの隣の部屋だから」
ハビはそう言い置いて、中庭から研究棟に戻っていった。
研究員に呼ばれているのだと言っていた。
「ハビは多忙な方なのです。ですが、いつも僕に良くしてくれるんですよ」
レンティーノはとても優しく笑って、僕を見た。僕と身長が同じくらいのレンティーノだから、いつでも目線が正面で合う。
「薔薇は、お嫌いですか? もしかしたらそうかもしれないと、思っているのですが」
僕の手に視線を向けて、彼は言った。僕は首を横に振って薔薇を見つめた。どきりとする。
僕がしたレンティーノに対する推察はおおよそ合っていると思うけれど、さすがにそれを正直に言ったら失礼だし傷つけるだろうということは十歳の僕にもわかっていた。というか、この頃だからまだ倫理的に理解していた。
「嫌いじゃないよ、でも僕には似合わないと思う」
「お部屋に彩りがあると安心しませんか。……僕は生まれた時から真っ白な空間に慣れているので何とも思っていませんでしたが、一般的には快くはない状態だといいますから」
……やっぱり、普通の子のように見えて内側に『欠陥』がある。そんな風に思えてしまう。けれど彼はちゃんと一般的な人になろうとしているのだと思うと、彼の申し出には頷いておきたくなった。殺人者の僕と実験台として『造られた』レンティーノ。良いコンビかもしれない、と思う。
「そろそろお昼ですよ。ご一緒にいかがですか」
レンティーノは笑顔で僕にそういった。
僕は彼とすっかり打ち解ける気になったので、喜んで彼についていった。
――リィ、必ず助けるよ。だからお願い。少しだけ、こうして『日常』を送る許可を下さい。




