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幻影  作者: 水島 佳頼
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第二話 孤独

 目が覚めると、不気味な程に真っ白な部屋にいた。即座に飛び起きるけれど、リィは愚かあの白衣男すら見当たらない。怖いくらいの清潔感と消毒用のエタノールの匂いに満たされた白いだけの空間で、僕は独りだった。誰の声もしないし、音なんて僕の衣擦れや鼓動の音くらいしか聞こえない。リィは何処だろう。

 ベッドの白いシーツは僕が動いたら動いただけシワになるから、今のところそのシーツだけがやけに現実味を持って僕にこの現世の存在を知らしめてくれている。僕とこの世をつなぎとめているのは、今のところそのシーツだけのような気がした。

 真っ白な壁、床、天井。そのすべてに継目が見当たらない。窓もドアも無い、完全に閉鎖された部屋だ。何から何までうんざりするほど清潔で、ほんのりエタノールの匂いがする。

 病院なんだろうか。だとしたらリィはきっと間に合った。真っ白なベッドに置かれた枕に数滴零れた雫を見て、僕は今更だけど自分が泣いていることに気づいた。けれど淡い安堵はそれほど長く持たなかった。すぐに絶望が押し寄せてくる。

 もうどうしようもないんだ。リィは奪われ、僕は一人きりで真っ白な部屋に閉じ込められている。

 リィを返してよ。ねえ、お願い。

 僕はひたすらわめいた。壁を蹴りつけ、殴りつけてわめいた。僕はドアのないこの部屋から、壁をぶち壊してでもいいから出ようともがいていた。

 何度も硬い壁を殴り続けたせいで、両手の拳には血が滲んだ。血が滲んだ両の拳はじんじんと鈍く痛み、赤く腫れあがる。それでも僕は殴るのをやめようとしなかった。

 けれどひょろひょろの子供の体力なんてそれほどある訳でもないから、しばらくしたら僕は暴れ疲れて、壁にべったり凭れて息を整えていた。動けなくなると無力感が溢れ出して、状況をひとつも変えられない不甲斐なさとリィに会えない焦りで涙が止まらなくなった。

 子供みたいに大声を上げて泣いたら、焼けた喉が痛んで血の味がした。泣いても喚いても状況は変わらず、知識と知能だけが自分を助けるのだと分かっていてもなお、受け止めきれない現実を前に僕はリィほど醒めていられなかった。僕にも泣きわめいて癇癪を起こせる感情があったんだと、どこか俯瞰して考えていた。……いいや、そんなこと知るか。どうでもいい。どうして僕は無力なんだ。どうしてこんなにも、ずっと奪われる側なんだ。

 やがて僕は泣きつかれて、壁の前で蹲って寝入っていた。


 目が覚めた時、僕は再びベッドに戻されていた。誰かが僕の部屋に入ってきたんだ。飛び起きると、自分の両手に包帯が何重にも巻かれていることに気づいた。包帯はかなり分厚く巻かれていたから、僕は両手を握ったり開いたりすることすらできなかった。

 ベッドの周りを見渡してみると、枕元にあった小さな台の上に一輪の花が飾ってあるのに気づいた。この部屋の統一感に合うような白い花瓶じゃなくて、透明な硝子の花瓶に飾られた青くて綺麗な花。

 不気味だった。どんな意図で持ち込まれたのだろう。

 僕がそれに触れようと手を伸ばしてみると、不意に声が届いた。

「目が覚めたね」

 静かな声だった。エフリッシュ語だ。

 思わず手を引っ込めて、反射的に声のしたほうを振り返る。視線の先にいたのは一人の青年だった。頭の形に合うよう上品にカットされたハニーブラウンの髪をしており、全体的に色彩が淡くて白い感じがする。二十歳前後だろうか。その人はそれでなくても白いイメージなのに、ぴんと糊のきいた白衣を着ていた。白衣の襟元には、小さな金色のピンバッジがつけられている。偉いポジションの人なのだろう、見た目はとても若いけれど。

 彼は部屋の白い椅子に腰掛けて、長い足を優雅に組んでその膝の上に組んだ両手を乗せている。僕は驚きで声も出せなかった。

「君と一緒にここに来たのは、お兄さんかな?」

 その声で、リィの身を案じる心がまた強くなった。この人やこの人の仲間に、何かされたかもしれない。

 目的はなんだろう。『特進』先の会社が保護してくれた…… と思うには事態はあまりにも乱暴に進んでいる。

「僕はレジュステラフィルミナディオンシーダ。女性みたいな名前だけど、男だよ」

 唐突に呪文のような名前を名乗られて、僕には理解できなかった。どこの言語圏の名前? 今話しているエフリッシュの一般的な名前は、ハビエルとかホセとかカルロみたいな語感でそんなに長くない。女みたいって、どのあたりを指してそう言ったんだろう。

 名前なんて覚える気はなかった。とにかく僕は、このレジュステラなんとかって男なんかよりもリィの方が気になった。

「よろしくね、君は」

 にっこりと、ただ笑顔でそういう彼。リィを捕えて監禁しているに違いないと思うと、友好的な態度を取る気は起きなかった。

 けれどこの男は、黙っていても会話を進めてくれない。そしてごく薄い確率で、リィか僕の将来を約束してくれた企業の人かもしれない。ここで意地を張って黙りこくっていたら大事な情報源がどこかに行ってしまう。その前に情報を吐かせよう。

 ぼそっと名前を呟くようにして教える。

 大好きなリィから、好きだって言って貰えた名前。だけど、この名と同じ明るい焔によって僕らは平穏を奪われた。大好きだけど、大嫌いになった自分の名。

「よろしくね、ミンイェン」

 青年はにっこりと笑ってそういった。そして、椅子を立ってこちらに歩いてくる。

 彼は、優雅な細い体つきの割に長身だった。推定だけど、二メートル近くある。僕と身長差は何十センチあるんだろう? 彼は顔立ちや髪の色からして異邦人だし、話している言葉にはリャンツァイ訛りが一切ない。国を移された可能性があることを、考えなければならないだろう。

「僕の息子も君と同い年くらいなんだ」

 枕元まで来てそういうのを、僕は即座に嘘だと思った。どうみても、十歳の子供がいるような容姿に見えない。ああ、でも奥さんの連れ子ならありえるのか…… リィみたいな。

 黙ったまま時間が過ぎる。時が止まったように、にこやかな男は声を発しない。根比べだ、僕が話しかけるのを待っている。

 少し迷ってから、僕は折れることにした。

「いくつ?」

 彼は穏やかな笑顔をいっそう深めた。警戒心を解こうとする演技、ではなさそうに見える。

「僕は三十二歳だよ。息子は今年で十歳になる。僕、童顔ってよく言われるんだ」

 もう既に童顔で済まされる領域を越えていることを、さすがに彼も理解していると思う。やっぱりどう頑張っても二十歳ぐらいにしか見えない。

 それに言及しようとすれば、見透かしたように彼はこちらを振り向いて笑う。

「お兄さんに会わせてあげよう。ついておいで、ミンイェン」

 頭から信じるのは危険だけれど、どうしようか。渋るように動きを止めると、男は悲しげに眉を下げる。人懐こそうな、穏やかな彼からは善性しか感じないけれど、ここの一味が全員そんな友好的な態度だと楽観するほどの判断材料はない。リィは強制的に奪われたし、僕は意識を失う前に何らかの薬を打たれているのだから。

 けれども、そうであるのなら大人しくしたがった方が賢いとも思う。悩んだ末にベッドを降り、レジュステラ何とかと名乗った男のあとについて僕は壁の前に立った。ベッドの足元の延長線上にある壁だ。

 彼は慣れた手つきで白衣のポケットに手を突っ込むと、そこから真っ白いカードを取り出した。よく見れば、表面に小さく銀色の矢印が書いてある。彼はそのカードを、壁の溝に滑らせた。こんなところに溝なんてあったんだ。そこにあると知らなければ見落としてしまうほど、目立たない溝だった。

「昨日君が暴れまくったせいで、一時はこのフロアの全部の部屋のカードリーダーがいかれちゃったんだよ。確かに僕も、ここに連れてこられて初めて目を覚ました時はとても怖かった。君ほど暴れたりしなかったけれどね」

 男は肩をすくめ、苦笑する。この言葉で、僕が暴れ疲れて寝たあとに日付が変わったことが解った。そして僕は彼の言葉に、やっと彼と僕との共通点を見出すことが出来た。

「あなたもですか」

 貴方もここに連れ込まれた犠牲者なんですか。僕はそういった意図を含めて彼にそう言ってみた。尤も、彼は彼自身のことを犠牲者だなんて思ってないって一目見て解ったけど。

「ミン、でいいよ」

 僕の問いに肯定の笑みを返しながら、彼は言った。確かに、あんな長い名前で呼べって言われたらちょっと無理があると思う。でも。

「それじゃ僕と同じになるよ」

「あはは、それもそうだね。ミンイェン…… リャンツァイでは表意文字を使うんだっけ。ミンとイェンで字を分けるのかな?」

「そのことは、きかないで」

 不満げに言ってみた言葉は飄々とした笑いでかわされ、僕らはそれきり呼び名に関する話をしなくなった。

 僕と呼び方がかぶっても、彼はミンだ。だって、そう呼べと言われたから。

 暫くするとカードを認証したのか、どこかで空気入れを上下させるような変な音が聞こえた。それと同時に、どっとなだれ込んでくる清潔感溢れる空気。どこかの入り口があいたようだけど、僕の前には依然として白い壁が聳えたままだ。

 僕が思うに、多分通常はこんなに認証に時間がかからないと思う。それでも会話している余裕があったということは、やっぱり昨日僕が暴れたせいでカードリーダーが壊れたままなのかもしれない。あとで弁償させられたらどうしよう。

 もしそんなことになったら、修理代を請求された母さんは僕を見捨てるかもしれない。安否のわからないリィを除けば、この世で唯一僕のことを好きだって言ってくれた人なのに。

「緊張しているの? リラックスしてね、ミンイェン」

 ミンは相変わらず穏やかに笑いながら、前方の白い壁に手を伸ばした。すると、なんと音も無くミンの腕が壁に飲み込まれた。僕は唖然として、声も出せないぐらいに驚く。幽霊、というワードが頭をよぎる。いや、そんな非科学的なものは存在しない。

「僕も最初は慣れなかった。おいでよ、こっちだ」

 にこりと笑い、ミンは壁の中に消えていく。長い白衣の裾が真っ白な壁と同化して、僕は再びこの白い部屋の囚人になった。ひと呼吸置いてみても、視界に映る白い景色には何の変化もない。ただ、すぐ目の前の壁の向こうにミンがいる気配はなんとなく分かる。

 意を決し、僕は包帯の巻かれた手をそっと前方にやった。壁にふれようとすると、触れようとした指先は何の抵抗も無く壁に飲まれる。驚いて手を引っ込めてしまった。壁はない。ないんだ。だって、触れた感覚がまったく無かったから。

「あとで僕の息子に会わせてあげるよ。きっと気が合うと思う」

 声の様子からすると、この奇妙な壁の向こうでミンは笑っていると思う。そんなことを考えていたら、急に壁の向こう側から手が伸びてきた。ミンの手だってわかっているけれど、驚いて叫びそうになった。どう見てもホラー映画だ。

 ミンの手は何かを探るように数回何も無いところを掴んだけれど、やがて僕の服を探り当てる。僕が恐る恐るミンの手をとると、そのまま僕はミンに腕を引っ張られて奇妙な壁を抜けることができた。

 この壁、一体どういう仕組みになっているんだろう?

 呆ける僕を尻目に、ミンは白いカードを丁度あの部屋のカードリーダーの裏側に位置する場所にすべらせた。また怪しげな空気の音がして、それきり何の音もなくなる。ミンはただにこやかに笑いながら、そっと歩き出す。窓の無い真っ白な廊下に、汚れなんて一点も見当たらない白衣をひらめかせながら僕をちらりと振り返るミン。

「特殊な素材でね。薄くて軽いのにかなりの衝撃に耐えるんだよ、このドア。ドアが開いているのに白い壁が見えるのは、幻覚作用があるからなんだ」

 ミンは歩きながらそういって、僕に優しい目を向ける。僕は首筋に思わず手をやった。まだ作用が続いているということなのだろうか。だとしたらこれから、自分の身体はどうなってしまうのだろう。

 固まった僕を見て、ミンは悪戯っぽく笑う。そして、僕の頭にぽんと手を置いた。重たい手。すごく華奢で青年みたいなミンだけど、やっぱり本当は三十路を越した男なんだと再認識する。

「ははは、ごめん。今のは嘘だよ。本当は何やら特殊なライトで光を屈折させて云々、いろいろ凝ってるんだよ」

 ……僕は、この三十過ぎの男にちょっと遊ばれてるのかもしれない。幻覚と特殊ライトだったら、幻覚の方がまだ信憑性が高いように思うのは僕だけじゃないはずだから。

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