第十七話 襲い来るのは
この話は特にグロテスクで暗いです。ご注意下さい。
いつまでたっても痛みは襲ってこなかった。恐る恐る目を開けると、奥さんを背中から抱きすくめるようにしてレンティーノが押さえつけていた。
目を疑う。
奥さんは暴れていた。けれどもうその喉からは声にならないほど高すぎる、息に近い声しか出せていない。
「やめてください。抵抗したら殴ります」
腕の中で暴れる奥さんをあくまで穏やかな声で脅しながら、レンティーノは彼女の手から手術用のメスを叩き落した。
固い床とメスがぶつかりあう金属音が響き、僕はゆっくりと身を起こした。ずきずきと痛む腕を自分の胸に抱きしめながら、レンティーノをぼんやりと見上げる。
「落ち着いて下さい」
こんな状況で落ち着いてくださいなんて、レンティーノもなかなか無茶なことを言う。
絶対に落ち着けるはずがないよ、目の前で息子が吹き飛んでばらばらの肉片になったりなんてしてしまったら。奥さんは案の定暴れ続けたから、レンティーノがさっと表情を曇らせる。
「忠告したはずです」
どすっ、と篭った重たい音が聞こえたと同時に、奥さんは細い身体をくの字に折ってレンティーノの腕に体重を預けた。
いつも非暴力的で、争いごとは(暴走した時を除いては)言葉で解決してきた彼が、彼よりも小さくて力も弱そうな女性を殴って強制的に黙らせた。僕はそれに、衝撃を覚えていた。
「あ…… ああ、あ、ブライアン、わたしのブライアンっ」
今頃になって旦那さんの方がショック状態から解放されたのか、がっくりとその場に崩れ落ちる。そして、もはや彼の面影のかけらすらなくなってしまった肉の塊を手に取り、泣き崩れる。
レンティーノはポケットから白いハンカチを出して、僕の傍に屈みこんで傷口を縛ってくれた。折角処置してくれようとしたんだけど、残念なことに効果は無かった。
僕は旦那さんを見た。
目が合った。数秒のあいだ固まって、僕は旦那さんから目を逸らせなくなった。
「ゆるさない」
涙を頬に伝わせたまま、唸るように呟いて旦那さんがゆらりと立ち上がる。
僕はひっと小さく声を上げて、レンティーノに縋りついた。旦那さんは何も持たず、素手で僕を殺しにくるようだ。
「私も許しません、貴方がミンイェンを傷つけようとするのでしたら」
そういいつつ、レンティーノは優雅な動作で立ち上がった。優雅で切れがあるその動きを、彼がいつどこで身につけたのか解らない。
「わたしの息子を返せっ」
叫びながら僕に向かってくる旦那さんを、レンティーノはすばやい動きで止めた。僕は壁に張り付くようにして、その様子を見ていることしかできなかった。
血が止まらない。圧迫止血もできないし、縛っても効果がなかった。このままここで息絶えるのだろうか。そんな。まだリィに会っていないのに。
「それを望むのでしたら、実験に協力して下さい」
レンティーノは旦那さんの腕を掴んで捻り上げながら、そう言った。旦那さんは奥さんと違って男性で、力もある。だから細身のレンティーノは振り払われて、肉片だらけの床に肩から着地する。
旦那さんがレンティーノではなく僕に向かってくる。きっと今の彼の頭の中には、僕を殺すことしかないんだ。僕は自分自身をきつくかき抱いて、強く目を閉じた。
と、その時。僕の耳に、はっきりと銃声が届いた。
目を開けてみれば僕の目の前に旦那さんが倒れこむところで、倒れた旦那さんの後ろには銃を構えたマーティンがいた。
「全く、無茶しやがって」
未だ硝煙が立ち昇っている銃を下ろして、マーティンはレンティーノを助け起こす。レンティーノはさっきの衝撃で肩を痛めてしまったようで、マーティンに腕を引っ張られて痛そうに顔をしかめていた。
「ミンイェン、大丈夫か」
銃を腰にとりつけたガンベルトに通しながら、マーティンはにっと片方の口の端を上げて笑った。僕はその瞬間、忘れていた涙を一気に溢れ出させてしまう。
なんでだろう。どうしようもなく安堵したんだ。泣きながら頷くと、軽く頭を叩かれた。びっくりして顔を上げると、マーティンにもう一回叩かれた。
「どこが大丈夫なんだ? 嘘を言うな」
そういいながらマーティンは僕を助け起こしてくれた。彼は僕の腕の傷を気遣ってくれたから、僕は激痛で叫んだりはしなかった。
僕は壁に寄りかかって、室内の地獄絵図をしかと目に焼き付けた。破損した硝子、飛び散った血と保存液、そして人体の原型を殆ど留めていない肉片。人間とエルフの血を混ぜた魔力で、こうなることがわかった。
多分、血同士を混ぜたからいけなかったんだ。実際に、血を使わずに魔力を流しいれた場合はちゃんと蘇生できたんだし。
壁に沿って歩いていくと、足でなにか踏んだ。慌てて足をどけてみると、潰れた指がみつかる。これは、手の指だろう。僕は唐突に吐き気を催して、その場でしゃがみこんで嘔吐した。むせ返るような血の臭い、そしてその気持ち悪さに更に追い討ちをかけるような凄惨たる風景。所々に人間の形をしていた名残のあるパーツが転がっているのが、吐き気に拍車をかける。血の臭いに吐瀉物の臭いが混じり、最悪だ。もう胃の中に吐くものはないというのに、吐き気がこみあげてくる。
暫くのあいだ僕は動けなかった。だけど、やがて壁を伝って再び歩き出した。早くここから出たい。彼の死体が砕け散るその瞬間を見なくて本当によかった。想像だけでけっこうキツイ。
「医務室、つれてってやる」
「いい、自分の部屋にいきたい」
マーティンの申し出を断って、僕はふらつきながら実験室を出る。
実験室の外の空気を吸い込んで、やっと血の臭いから解放される。怖かった。苦しかった。気持ち悪かった。そして、痛い。痛みだけが現在進行形だ。
なんでこんなことになったんだろうと思いつつ、僕は歩いた。
僕がいままでやり続けていたことは一体なんだったんだろう。海辺の町には行かない方が良かったのかもしれない。そうすればこの家族を犠牲にすることも無かったし、こんな痛いだけの苦しい思いをすることもなかっただろう。あんな、思い出すのすら嫌になる光景だって見なくてすんだわけだし、何度も殺されかけずにすんだ。
「どうしたの、ミンイェン」
その声に顔を上げると、ハビがいた。
僕はハビを見上げて理由を説明しようとしたけれど、ハビが急に表情を変えて殺気立ち、僕の後ろに突っ込んでいったから何も言えなかった。壁に何か叩きつけられて、何か硬いものが折れるような音がした。
振り返ると、奥さんが廊下に倒れていた。廊下の隅のほうには、彼女の手から吹っ飛んだと思われる銀色のメスが落ちている。
「ハビ、いい動きだった」
駆け寄ってきたマーティンがそういって、銃の引き金を何度か引いて見せてくれた。どうやら弾切れらしい。
レンティーノはまた何処か痛めたのか、緩慢な動作で足を引きずるようにしながら実験室から出てきた。ふたりとも、随分と酷くやられたみたいだ。マーティンだっていつもどおり感じの悪い笑みを浮かべてるけれど、その足取りは普段よりも数倍重たくなっている。
ハビはそんな彼らを一瞥すると、廊下に倒れている奥さんの前に立ってにやりと笑う。……ああ、これは第二人格のハビだ。
こういうハビは嗜虐的になるから、うっすら父親を思い出してしまって見ていて苦しくなる。でも時々こうやって別人格で日ごろの鬱憤を発散しておかないと、穏やかなハビが消えてしまうのも事実なんだ。
「まだ死んでないよ。とどめ刺さなきゃね」
楽しそうに笑いながら、ハビは長い足で奥さんの身体を何度も蹴った。
凶暴なハビも否定しない。でも、動けなくなった無抵抗の人間をいたぶる姿はやっぱり嫌なものを思い出すから苦手だ。
僕はそっとハビから目を背けて、第二研究室を目指した。今見たハビのことはなるべく考えずに、砕け散って死んだあの人のことも考えずに、僕を殺そうとした二人のことも考えずに。全ての物から逃げるために、自室である第二研究室を目指した。
そして部屋に戻ると、ベッドに突っ伏して叫んだ。何もかもうまくいかない。実験のリソースが消えたし、傷は痛いし、友達は怪我をした。痛む腕を抱きしめて、流れてくる血を必死におさえながら、僕は喉が痛くなっても叫び続けた。
悔しかった。
僕は、リィをまたこの手から遠ざけてしまったんだ。何度失敗すればリィが生き返るんだろう。これじゃあ、もう永遠に生き返らないかもしれないなんてことを思わずにいられない。困ったからって、苦しいからって、泣いているだけの自分が酷く醜い。
解決に向かうための行動ではない、ただの感情の発露だ。分かっているくせにあふれ出る涙は止まってくれなくて、僕はどんどん負の感情に飲まれていく。
僕は賢い。
僕はいつも正解を導き出せる。
僕はだから、もうヒトじゃない。ヒトなんかじゃない、冒涜的な知識と引き換えに倫理は捨てた。目的のために邪魔だから、捨てた。捨てたんだ。いらないんだ。持っていないんだ。
……そう言い聞かせているだけで、中途半端に残った感情が悪さをしているのを止められない。感情を消してしまえば僕は、ちゃんと目的の為だけに動けるだろうか。そういう研究を先にした方がいいんだろうか。
僕はひとり、感情を呪いながらベッドの上で身を縮めて丸まっていた。じくじくと疼く腕の痛みに耐え、きつく目を閉じる。目を閉じると、両目から涙がこぼれる。
僕はそのまま、こんなに痛くて辛い状況なのに寝入ってしまっていた。泣き疲れたんだと思う、多分。体力ないからなあ。
夢の中で僕は、なじみの酒屋にいた。そして幼い僕は、またあの悪夢のあとを辿る。
父親を刺したときの嫌な感触。頬を濡らす生暖かで忌まわしい赤。
倒れたリィが血の海に沈む。鮮やかすぎる赤と、青白すぎるその肌。
僕は錯乱し叫んだ。リィが血の海の中で微笑む。ただ穏やかに、それでも『生きたいよ』って顔で。
悪夢のスイッチが入ってしまったのは、このときから。僕はこの日から、毎夜同じ夢をみることになった。
夜毎襲い来る、血塗られた悪夢。眠るのが怖い。夢をみずに眠ることが出来たらどんなに楽だろう。
僕はその日、部屋から一歩も出なかった。
だけどどうやったのか、しばらく経ってからレンティーノが部屋に入ってきた。僕の部屋だけは、僕のキーでしか開かないはずなのに。
「傷の具合を見せてください」
彼はそう言って、悪夢に怯える僕に近寄ってくる。
僕はレンティーノをぼんやりと見て、それからまた視界がぼやけてくるのを感じた。懸命に涙をこらえる僕の腕を取り、レンティーノは丁寧な動作で切り裂かれた袖をまくった。そして、研究室の内部にあった救急セットを持ってきて僕の腕を消毒しはじめる。
「縫合は必要なさそうですが…… 医師を呼ぶべきでしょうか」
心配そうに彼は言う。 僕は無言で彼の指を眺めていた。白くて細い、綺麗な形の指。指先にだけほんのりと赤みが差していた。
この手は文字を織り成し、絵を描き、本をめくるためにある。暴力から他人を守るには綺麗すぎるその手には、いくらか細かい引っかき傷や切り傷のようなものが見える。
ごめんね、レンティーノ。きっと荒事への適性がないと分かっていながら、僕のために飛び出してくれたんだ。フィジカルでは勝ち目がないのだと理解して立ちすくんでいる僕を見て、無茶をして盾となってくれた。
「きみは。治療したの」
「ええ、少しすれば全快するでしょう」
「そっか」
「ミンイェン。……怖かったですね。生きていてよかった」
レンティーノの手は僕の頭を優しく撫でる。向けられる優しさに激高して撥ねつけるようなことはもうしなかったけれど、縋りついて泣きじゃくるほど僕は純粋ではない。研究材料を失い、レンティーノの傷の似合わない身体に傷をつけ、マーティンの銃弾を使い、ハビの第二人格に処理を任せた。これほどにリソースを失いながら、どう立て直せばいいのだろう。
夢の中のリィの表情が僕を責めている。僕を守って、でも生きたいよって顔をして死んでいった大好きなリィ。リィを生き返らせるために、僕は第二、第三、第四のリィを生もうとしている。
「……レンティーノ、僕、……色々間違ってる、自覚してるよ。ごめん」
訥々とそう声に出す。実験を終わらせる気はないから、例えば、すべての実験を洗脳しきった研究員だけで行うようにするのはどうだろう。支えを失った僕はきっと心を壊すけれど、レンティーノがリィみたいに死ぬのは絶対に嫌だ。マーティンが、ハビが、お兄ちゃんみたいな二人が僕を護るために犠牲になるのは嫌だ。
僕はそうやって、独りになったほうがいいのかもしれない。それが最後にして最大の、友情の表し方なのかもしれない。
レンティーノは、しばらく黙って淡々と僕の傷を処置していた。けれど、包帯を巻きながら静かに口を開く。
「リィシュイさんは絶対に生き返りますよ、貴方がこの先に何度でも実験してゆくのでしたら。材料はまた集めましょう。方法を一から見直すことも視野に入れましょう」
口調は優しいけど強い意志を持った声で、レンティーノは言った。
「私は、あなたに人間にしてもらったのです。あなたは人間らしい倫理観を簡単に捨てていきますが、それでも私のことは捨てなかったでしょう」
「……え」
「苦しいでしょうね。私を大切に思ってくださっている、あなたの根底の優しくて真っすぐな部分は…… きっとこの状況に耐えられないでいる」
彼が巻いた包帯の端を処理し、小さな傷も消毒し、救急セットを片付けるまで僕は固まっていた。
レンティーノが僕の内側に踏み込んでくる。彼の冷静な観察眼と僕にない機微が導き出した推察が、僕のノーガードの心に突き刺さる。その通りだ。弁明の余地もない。
「……そう、だね。うん。僕にそんな部分もう残ってないはずだったのに。柔らかいところは全部、削ぎ落して代わりに知識を詰めたのに」
「いいのですよ、それで。無理して全部捨てないでください。私がいます。捨てるのではなく、私に預けてください」
「でも。そんなことしたらレンティーノが僕のこと嫌になる。それに、……レンティーノがリィみたいになるのは嫌だ」
零れだす本音。レンティーノにはたぶん、これまでだって誰よりも僕の幼い本音を晒しているけれど。これだけは言ったら困らせると思ったのに、どうしても止められずに溢れ出してしまった。
「私はあなたが独りで、すべての光に背を向けてしまうのが怖い。そうなったらきっと、近いうちに目的すら見失ってしまいます」
「……」
「きっと、リィシュイさんを生き返らせるのは自分の責任だからと…… 今後私たちの手を借りることについて、真剣に検討しているのでしょう」
「なんでわかるの」
「何年一緒にいると思っているのですか」
くすっと笑って、レンティーノは僕のいるベッドに腰かける。学校でも研究所でも、レンティーノはいつも僕のそばにいた。僕が目的のためにどんなに良心を捨てても、僕のしたことは咎めずに。僕以外がやれば、きっと咎めるだろうに。
「ミンイェン、あなたは賢いです。何もかもご自分ひとりでやれるでしょう。けれど、荒事には向きませんね」
「……うん」
「資金調達のための会社運営も、片手間でするより専属がいたほうがいいでしょう。あなたには手が必要で、それはあなたの擁する研究員たちに回せば事足りるのかもしれません。でも……」
言葉を切ったレンティーノは、僕をまっすぐに見つめる。僕も黙って、長い前髪の間からレンティーノの琥珀色の澄んだ瞳を見つめ返す。
「頑張ったときに褒めてくれる人、辛い時に傍にいる人、寂しいとき声を聴かせてくれる人…… そういうものが必要だと思います。かつて、リィシュイさんがそうだったように」
すとんと、心の中に落ちてくる言葉。悪夢でひりついた感情がなだらかになり、喉がひくりと震える。
ここで泣くなんて、いよいよちゃんと人間みたいじゃないか。僕は賢い。僕はいつも正解に向かって進んでいる。僕は無駄なものをすべて捨てた。はずだった。
リィが愛してくれた弟としての僕だけが、うっすらずっと残っていたのに今やっと気づく。……僕はそれを、無駄と思いきれなかった。愛されていた時代のことを、捨てきれなかった。
「洗脳して作り上げたしもべでは、そういう役目は出来ないと思います。あなたの友人、あるいは兄にできるのは、洗脳装置なんて使わなくてもあなたから離れない私たちだけです。違いますか」
僕は静かに頷いた。何度も、何度も。
どんなに背伸びしてみせたって、僕の時間はリィを失った日から止まっていた。いくら知識を吸収しても、いくら体つきがかわったとしても。僕の時間はリィが微笑まなくなったあの時から止まってしまっているんだ。
待っていたんだ、時計が動き出すのを。
時を止めてしまったのはリィだけじゃなくて、僕だってそうだった。そんなこと、僕の狭まった視界ではずっと気づくことが出来ずにいた。
さあ、止まってしまったところからまたやりなおそう。差し伸べられた優しい手を、怖がらずに握り返して。光を、目的を、見失わないで進んでいこう。
――リィ、きみが生き返ったら僕の大事な人たちを紹介するよ。
だからもう少し待っていて。
絶対にきみを生き返らせてみせるから。