第十二話 孤高の最高権力者
楽しみだ楽しみだと思いながらやっていたら、意外と早く仕事が片付いてしまった。僕は、初めてミンやレンティーノと出逢ったあの部屋へと向かう。
あんな大事な場所によりにもよってあの人を幽閉するなんて、僕も判断力が鈍っていたと今更思う。
でも彼は、あの白いだけの空間に閉じ込められた僕の気持ちを、ちょっとは解ってくれるかもしれない。まあ、解ってもらえなくたって別にいいんだけどね。どうせ洗脳しちゃうから。
僕はカードキーを使って一〇九六号室の扉を開けた。
久しぶりにくぐる、初めて貰った部屋のドア。昔から僕はリィと同じ部屋で過ごしていたから、この部屋が僕にとって本当に初めての一人部屋だった。部屋の奥を見渡してみると、ベッドの上に座り込んだフェイロンと目が合った。
「お目覚め?」
「私をとらえてどうするつもりだ」
何だ、つまらない。普通すぎるよね、こんな第一声。もっと暴れて、叫んで、壊れてくれれば面白いのに。
僕は彼を見下ろして、にやりと笑ってあげる。初めて出会ったとき彼がやったみたいにね。
「率直にいうよ、権限を譲って。リィの蘇生を早くしたいんだ。データが欲しい」
単刀直入に本題から言ってみれば、フェイロンはいきなり笑い始めた。けたたましいという表現が似合うくらい、大声を張り上げて笑う。
そしてやっと笑いがおさまってきた頃に、彼は僕を見上げながら嘲笑を浮かべた。
「ふん、蘇生か。あんな話を信じて六年間も生きてきたのか」
その発言に、僕は体じゅうの血を凍らされたような 錯覚に陥った。
「できるわけがないだろう、六年もたった今。常識で考えろ。ココを使え」
自分の頭を指差しながら、フェイロンはなおも嘲笑を浮かべ続ける。
僕は足元がふらつくのを感じて近くの水槽にもたれかかった。フェイロンはそんな僕を見て再び狂ったように笑いだし、僕にあざけりの目を向ける。
「死後六年も放置したんだ。とっくに何もかも無理だよ! 無理!」
「嘘だ!」
煽りだ。それを裏付ける理論はない。なんて思うより先に、笑い続けるフェイロンを黙らせるために僕はありったけの力を込めて叫んだ。だめだ、感情が暴走している。
暴走のまま、僕は彼の胸倉を掴み上げる。そのまま殴ってしまおうかと思ったけれど、ふと思いとどまる。
最高権力者は泣いていた。
顔をゆがませて、喉を震わせて、両の目からとめどなく涙を流して。僕は拍子抜けして、その胸元を解放してしまう。
「データが欲しけりゃ自分で研究してみろ。私が長い間必死に築き上げてきたものを、ことごとく破壊しおって! 私が二十年もかけて集めた世界中の研究員をお前は盗んだ! 私の大切なものを、私の全てを、お前はっ!」
泣き喚き、自分の膝を自分の拳で強く殴りつけるフェイロン。彼が泣き叫んで喚いて自傷に走っているところを見ても、僕は嬉しいとか良い気味だとか、そういう感情を抱けなかった。こんなにも倫理観の欠如した実験を繰り返し主導していたこの男に、そんな人間味がちゃんと残っていることに驚いてしまった。
僕とおんなじだと思ったのに。目的のために人間であることを捨てた仲間だと思ったから、屈服させたかったのに。
フェイロンはしばらく騒いでいたけれど、急にぴたっと糸を切られたように黙った。その異常な様子に恐怖を覚えていると、やけにゆっくりとした声で彼は笑う。
「ははっ、もう良い。全てお前にくれてやるわ」
涙でぐちゃぐちゃになった顔に再び狂気的な笑みを浮かべて、フェイロンはポケットから四角い箱状の物を出した。
これは、リモコン?
「あばよ。私が苦しんだ以上に、貴様が足掻くがいい」
言葉と同時に、彼はそのリモコンにたった一つだけついていたボタンを押した。とたんに、上の方の階で物凄い爆音が轟いた。同時に、激しい振動で立っていられなくなる。
「はははははは! 全てくれてやる、全身で受けろ!」
轟音の中で、フェイロンがまた笑う。耳障りな轟音の中に、また耳障りな音が増える。僕は必死に踏ん張って、ぐらつく床の上で倒れないように自分を支えた。
「何無茶言ってるの、逃げなきゃここ潰れるよ!」
ここで人が死ぬのは嫌だった。ここは僕とレンティーノとミンの思い出の場所だから。その素晴らしい思い出に、最高権力者の最期の場所なんて嫌なものをプラスしたくないんだ。
「私はこの研究所と運命を共にする! 逃げたければ勝手に逃げるがいい」
僕はもう少し粘っていたかったけど、はがれた天井が肩を直撃してよろめいた。床にはいつくばった姿勢で、彼を見上げる。
そして僕が何かいいかけたそのとき、真っ白な天井がはがれてフェイロンの頭を直撃した。
彼は最後の最後まで、その場から一歩も動かなかった。最高権力者と名のつく者に相応しい、達観した笑みを浮かべて彼は倒れた。真っ白なベッドシーツに、大輪の薔薇を思わす真紅の染みができる。初めて出会ったレンティーノと、白いハンカチを染める自分の血がフラッシュバックする。ミンの笑い声。レンティーノの下手だった『普通』への擬態。ハビやマーティンと過ごした日々。
僕の十歳らしい感情を伴う思い出に、真っ赤な血がぶちまけられた。全ての音が遠のいた気がした。
僕は、しばらくのあいだ呆然と彼を見ていた。だけど、不意に鳴り響く轟音を思い出してはっと気を取り直す。こうしてはいられないと思い、僕は肩を押さえながらくるりと踵を返した。
特殊ライトが壊れてしまったのか、白い壁にはちゃんと扉が見えた。
僕は体当たりでその扉を破る。振動の影響で扉が大きくひしゃげていたから、僕のような力のない人にも簡単に扉を破ることが出来たんだと思う。
僕はふらつきながら、歩き続けた。第二研究室に向かう。だって、そこにはリィがいるんだ。もしもリィの水槽が割れてしまったりしたら、僕は立ち直れない。
「ミンイェン!」
僕の名を叫ぶ声が聞こえた。振り返ると、マーティンとレンティーノが廊下の向こうから走ってくるところだった。
二人は崩れかけた天井を見て、上手く落下物から身を守りながら僕の両隣に来てくれる。
「何があった、言いな」
マーティンの声で、僕はかなり安堵した。彼が来てくれたらもう大丈夫だ。
「フェイロンが、上の方の部屋を遠隔操作で」
理由を簡略化して話してみると、僕を落ちてくる瓦礫から守ってくれながらレンティーノがマーティンを見た。
「爆破でしょう。研究員の行動は監視していますから、爆発物があるとしたらおそらく彼の部屋だけです」
「解ってる。ミンイェン、俺が倒れたらお前のベッド貸しな」
レンティーノの一瞥が合図だったのだろうか。マーティンはそっと目を閉じて何か呟いた。
今、何が起こったのか僕には理解できなかった。轟音も振動も瓦礫が崩れる音も、一瞬にして全てが止まったのだ。
一瞬、自分が死んだから全て止まって見えたのかと思った。だけど隣のレンティーノがふらついたマーティンを支えたから、これが現実に起きていることなのだと悟る。マーティンは人工魔力でこの状況をどうにかしてくれたらしい。
「ミンイェン。急ぎましょう、リィシュイさんのところへ」
そう言いながらマーティンの腕を自分の肩に回して、レンティーノは走り出す。僕も彼の隣を走った。
僕は第二研究室に駆け込み、息を切らしながら部屋の奥まで進む。ベッドの周りを見て、僕は心臓を鷲掴みにされた気がした。飛散した硝子の欠片や、潰れてしまった芸術品。床に流れ出た保存液。僕が作った芸術品の殆どが壊れてしまっていた。
でも、奇跡的にリィは無事だった。
僕は芸術品の成れの果てを、そっと手で拾い上げる。冷たく濡れたその胎児の身体には、もとはなかった裂傷や切傷が沢山刻まれていた。遅れて僕の部屋にたどり着いたレンティーノは、まず眉根を寄せた。そして、僕の隣に歩み寄ってきた。じゃりっ、と硝子の欠片を踏みつける音がする。
彼の肩を借りてぐったりとしているマーティンは、見たところ意識を失っている。
「このままでは彼が持ちません。一旦手術台に寝かせておきますから、その間にベッドを何とかしておいてくれませんか?」
レンティーノの指示に僕が頷くと、彼は部屋の隅にある手術台にマーティンを寝かせに行った。あれは長いこと使っていないけれど、役に立つタイミングが来てよかった。
ベッドに細かいガラスがびっしり落ちていたので、シーツを剥がしてはたいて飛ばす。保存液の匂いはもう仕方ないと判断して、とりあえずなんとか換えのシーツをかけ終わった時にレンティーノがこっちに来てくれた。
そして、床に散乱した硝子の欠片や潰れた芸術品を拾い上げる。
「詳しく聞かせてくれますか? 貴方と最高権力者の間に、何があったのか」
半分に割れてしまった水槽の中に硝子の欠片と芸術品を入れながら、レンティーノは言った。僕はそれには答えず、廊下に出てしもべを呼んだ。そして、レンティーノが片付けてくれている割れたホルマリン漬けを代わりに片付けさせた。
床もベッドも綺麗になったところで、マーティンを僕のベッドにうつす。
そこでやっと、僕はレンティーノに話を聞かせた。彼は長い話に付き合ってくれた。真剣に話を聞いてくれた。
そして、聞き終わってすぐにこう言った。
「本人が『くれてやる』とおっしゃったのですよね。正式にここを譲渡されたじゃないですか。よかったですね」
この言葉を聞いたとき、僕はきっととても間抜けな顔をしていたと思う。
そう、多分泣きそうな顔をしていた。だって、凄く嬉しかったし安心したから。レンティーノの人間らしい倫理観では絶対によしとされない行為をしたはずなのに、レンティーノは僕を咎めなかった。
「問題はマーティンですよ。早く意識が回復すると良いのですが」
ベッドに仰向けに寝ているマーティンを覗き込んで、レンティーノは心配そうな顔をした。
僕はレンティーノを見て、それからマーティンを見た。辛うじて息をしているマーティンだけど、目を閉ざしたまま殆ど動かない。
寝返りも打たないし、腕や足を動かしたりもしない。なんだか、睡眠薬を大量に飲んだミンを見つけてしまったときのことを思い出してしまう。
「マーティン、大丈夫かなあ」
このままマーティンが死んでしまったらどうしよう。
いつも僕のことを弟のように可愛がってくれて、信頼してくれて、守ってくれたマーティンがいなくなるなんて。もうこれ以上誰も失いたくないんだ。
どうして皆、僕の元を去っていくのだろう。悪いところがあるなら何処だって直す。何だってする。だからもう、二度と僕の大切な人を奪わないで。
僕はやるせない思いに、両の拳を握り締める。力を入れすぎた拳がふるふると震えているのが自分で解る。
と、その手をレンティーノが優しく包んだ。驚いて顔を上げると、レンティーノはそっと微笑んでいる。
「マーティンは、研究所の崩壊を止められるのは自分しかいないと確信していらっしゃいました。そして、強力な魔法を使ったのですよ。ですからきっと、今のマーティンは心も身体もつかれきった状態なのでしょう。命に別状は無いと思います」
だから大丈夫です、マーティンは死にませんよ。そう何度も繰り返すレンティーノ。僕はマーティンを覗き込み、それからレンティーノを見上げた。
レンティーノを信じよう。マーティンは無事だと信じよう。やがてレンティーノは僕から手を離し、マーティンの布団を胸の辺りまでずりあげてから自分の部屋に戻っていった。
僕はマーティンをじっと見つめ、それから彼に笑顔を向けた。
早く元気になってくれると良いな、そう思いつつ部屋の入り口の方を振り返って僕は叫びそうになった。
いるはずのない人間がいた。