第一話 明るい焔
この物語は『魔幻の鐘』のサイドストーリーです。『魔幻の鐘』を読まれていない方には、ネタバレとなってしまう内容となっております。内容的には魔幻の二章に入る直前までとなっていますので、裏設定を知りつつ二章を読みたいという方はご覧下さい。
ネタバレは困るという方は、本編を読了されてからこの小説を読むことをお薦めします。
なお、この話も魔幻同様、いくつかのシーンにグロテスクな描写を含みます。苦手な方はご注意下さい。
何度目だろう、もう数えるのも嫌になった。この手を血に染めた遠い記憶は、夜毎僕を襲い来る。
血の海、火の海、人の焦げる匂い。
ひどい夢を見るたびに息を荒げてベッドに上半身を起こす。寝汗で湿った前髪をかき上げて、ベッドサイドに置いた睡眠薬を無理やり口に放り込んで、ため息をつく。もう効かなくなっちゃった、新しいのを調合しなくちゃ。
『きっと幾ら離れていても、僕らは同じ月を見ているはずだから』
柔らかな笑顔でそう言った彼のことが、いつまでも記憶から薄れない。僕は長い夢から抜け出せないだけで、本当は目を覚ませば彼にまた会えるんじゃないかと、そんな叶いもしない妄想をしてしまうくらいには生きていることが絶望的な毎日だ。
僕にとっての月は、まだ暗雲の向こうだ。
あの清らかな笑みを思い出すたびに胃の底がざわつくような感覚が這いまわる。彼が死に逝くその瞬間を思い出すときよりも、生きていた笑顔を想うほうが息が苦しい。胸が痛い。
胸を蝕む妖魔のような鈍い痛みは、いずれ僕の息を止めるだろう。そうなる前に、僕がやらなきゃいけない。
リィ、僕が君を――生き返らせる。
―――――
皮肉なことだけど、僕は自分の名が大嫌いだ。この文化圏では表意文字に音を載せて名前を綴るのが一般的だ。それにしたって、明るい焔、だなんて。
こんなの、呼ばれるたびに嫌悪感が体中を這い回る。それでもこの名は大切な人に好きだって言ってもらえた名だから、捨てるわけにもいかない。
嫌いになったきっかけは八年前にさかのぼる。これが僕のすべてだ。僕の生きている意味も、死んでいく意味も、八年前のこの日を基準に設定されている。
僕はリャンツァイのとある海辺の町に生まれ育った。八年前の僕は十歳程度の子供だった。なぜ『程度』かというと、自分の正確な誕生日を知らないから。察してくれたかな? そう、家庭環境は劣悪だった。
自治体が子供の育成に力を入れていなかったら、僕はたぶん物乞いか何かだったと思う。通える学校があることが、そこで一日の大半を過ごせることが救いだった。その日も安息の地である学校から、地獄の待つ家にとぼとぼと帰るところだった。
「ミンイェン、おいで」
校門で僕を呼んでいる、その人の名前はリィシュイ。僕の、一番大事な人。僕の兄で、リィはちゃんと誕生日が分かるから十五歳だったと自信を持って言える。
リィは母の連れ子だ。本当の父親は水難事故で亡くなったのだと前に言っていた。彼も彼で、『麗しい水』という意味を持つ文字を名に持っている。皮肉だよね。自分の名前が本当の父親を失うきっかけになっているなんて。
僕とは半分しか血が繋がっていないけれど、僕が自信を持って家族と呼べるのはリィだけだった。
一人で学校から帰ると先に帰った方が酒乱の父親に暴行されるから、リィはいつも学校の傍で待っていてくれた。高等科の授業のほうが終わるのが遅いけれど、僕はいつも好き好んで居残りをして高等科の予習をしているのだ。
リャンツァイの学校システムでは七歳から十二歳までが初等、十三歳の年から十五歳までが中等、そして十六歳になる年から十八歳までの高等の三段階に学校が分かれている。その先は自力で学費を払って入る大学だけれど、僕もリィも学校から帰りたくないので積極的に補講を受け、先生とも仲良くなり、それぞれこの年齢のうちから企業から声がかかっていた。
リャンツァイの恵まれた特徴として、有望な子供を早いうちから企業が囲い込み、大学進学の奨学金を与えたり寮を用意して自社に取り込む流れが挙げられる。『特進システム』と呼ばれるこの制度を利用すれば、成人前からある程度自分の身の回りの法的手続きにも自由が効くようになる。
リィは少し前に中等科を卒業するとき、国を代表するIT企業から将来受験する大学を指定され、奨学金の金額を打診されていた。僕は異例なことではあるけれど、もうこの初等科の段階から首都の製薬会社に声をかけられている。初等科は単位制ではないのでどうしようもないけれど、中等科以降は試験をパスすれば飛び級ができる。リィが学生でいる四年の間に、できるだけリィに追いつかなくちゃ。二人でこんな町から、早く出ていくんだ。
兄弟ふたりで知識を詰め込む毎日を送る傍ら、僕らの母は酒乱の父親を避けるように必死に働いていて、顔を見ない日の方が多かった。学費がかからないし家賃もかからない家に住んでいたのに母があれだけ働かなければならなかったのが何故か、僕にもリィにもわかっていた。毎日浴びるように飲む酒だ。この国では教育に金をかけるかわりに、酒税とたばこ税がとても高い。
その日も僕は、リィと一緒にいつもどおりに酒屋に行った。
酒屋の店主は優しい。虐待を受けている僕らの手当てをしてくれたり、行政に掛け合ったりしてくれたこともある。その日も、店主は僕らの頬や腕に残った切り傷を処置してくれた。昨晩の父親は包丁を持って暴れたけれど、僕もリィもそんな状況には慣れっこだった。死なない程度に殴られ、蹴られ、怯えて見せれば彼は満足する。玩具が欲しい子供と一緒なんだ。抵抗しないことは、リィに教わった生きるすべだ。
「お前さんたち、児童養護センターの件なんだがな…… 特進システムの適用者は対象外らしい。国じゃあなく企業に何とかしてもらえって話なんだろうが、なんとも無責任じゃないか」
ちなみに彼は古い時代の人だから、リャンツァイ語を喋る。よくあることだ。二十年ほど前から学校教育でのリャンツァイ語は使用禁止になっている。
僕らのような子供たちは、ほとんどの国で公用語とされるディアダ語か話者数が世界二位のエフリッシュ語、さもなくばその両方を教育されているんだ。
この政策が適用される前の、四十代より上の人たちはリャンツァイ語しか話せないことが多い。例にもれず、僕らの両親もそうだ。
父親は僕らがリャンツァイ語以外の言葉で話すのを嫌い、少しでも自分に分からない言語が聞こえてきたら僕らのことを酷く殴った。どこまでもおつむが貧相だよね。あんな男みたいになりたくなくて、僕らは父親のいない所では格好つけてエフリッシュ語で話している。
「……企業に相談して家を出たとしても、父は追ってきそうですね」
肩をすくめてそう言うリィに、僕もうなずく。僕らは玩具と一緒だから、取り上げられたら追いかけてくるに違いない。
「親父さん、依存症治療プログラムを受けさせた方がいいんじゃないのか」
「僕らにはどうしようもないよ、おじさん。絶対その方が僕だってリィだって母さんだっていいけど、『あの人』はこの生活を不満に思っていないんだ。ストレスのはけ口がいつでもそばにいるっていう、そのことにすら依存してる……」
思わず店主にそう言うと、彼は唇をへの字に曲げて深くため息をついた。
「ミンイェン、お前は賢い子だね。毎日こんなに傷だらけになっても、冷静に親父さんを観察しているのか」
「僕、あの人のこと、お父さんだと思ったことはないから。何かよくわからない、別の生き物じゃないかな」
「魔物みたいなものです。黙ってやりすごせば、意外と何とかなりますよ」
ね、と顔を見合せて、リィと笑いあう。
「おじさん、いつもありがとう。いつものお願い!」
「はいよ。なあ、ここのところ傷がひどい。これからはもし親父さんが暴れるようなら、殴られる前に逃げておいで」
「そんなの、戻ってから半殺しにされるからダメだよ」
「黙って耐えている方が、結果的に傷は浅く済むんです。ご厚意は本当に嬉しいんですけどね」
僕らを痛ましい顔で見つめると、店主は『いつもの』を出してくれた。アルコール度数が高いブランデーと、大量生産の薄くて安い清酒。あのひとは頭がおかしいのでブランデーを薄い酒で割って飲んでいる。酒代はいつも、深夜に母が払いに行く。らしい。実際にその様子を見たことはないのでわからない。
「行くよ、ミンイェン」
リィの声に頷いて、酒屋から出ようとしてカウンターに背を向ける。
足取りは当然重たいけれど、帰らなければもっとひどい目に遭うのは分かっている。仕方なく顔を上げて歩き出そうとすれば、今出ていこうとする店に急に飛び込んできた男がいた。まあ、この流れだから予想はつくだろうけれど…… 父親だった。
「おい、いつまでまたせるんだ、てめえら? そんなに死にたいか」
「やめなさい、親父さん。このままじゃ子供たちは死んじまう……」
店主は僕らの前に出て、父親を宥めてくれようとした。けれど、次の瞬間くぐもったうめき声を上げてカウンターに突っ伏してしまった。
子供の視点からでは『それ』が見えなかったけれど、びくんびくんと痙攣する店主のシャツが血に染まり、床に血だまりが出来ていく様子を見れば異常事態に嫌でも気づいた。
今日のあいつはやばい。普通じゃない。
高さの関係で見えないけれど、凶器はおそらくもう抜き去られている。だから止まらない。溢れる赤が床を染め続けていく。生臭く湿った臭いに反射的に吐き気が込み上げた。
「父さん!?」
リィの叫び声が聞こえて父親のほうを見れば、彼は床にアルコール度数の高い酒を撒き散らして狂ったように笑っていた。もわりとアルコール臭も漂う。
あれ、待って、アルコール度数が九十を超えるようなやつじゃないか。意味わからないぐらい高いやつ、母さんは弁償できるんだろうか。
店主のカウンターに入り込んでみると、すでに彼は鼓動を止めていた。うつろな双眸には何も映っていない。リィの次に信頼していた店主が、目の前で死んだことを認めざるを得なかった。
思考を無理矢理動かす。
泣きわめくのも、死体の止血や蘇生を試みるのも、最早何の解決にもならない。機械的に顔を上げる。
店主のなきがら越しに、リィが父親と取っ組み合っているのが見えた。小柄なリィはすぐに弾き飛ばされて、僕は慌ててカウンターから抜け出そうとして店主の血で滑って転んだ。
早くリィに追いつかなければと、カウンターのふちに捕まって身体を起こすとリィが床に蹲っているのが見えた。父親はなおもアルコールをまき散らし、そして、リィを蹴とばしてポケットに入れていたライターを取り出した。
まずい、そう思って駆けだすのと、父親が着火したのが同時だった。
きっとリィに火をつけようとしたんだろうけれど、気化したアルコールはすでに辺りに充満していた。父親の腕が火に包まれ、その隙にリィは起き上がって壁際を伝ってこちらに向かっていた。
炎は店の棚や販促用のチラシに燃え移り、父親はもはや火だるま状態だった。暴れる彼が棚にぶつかり、テーブルにぶつかり、カーテンにぶつかるたびに火は燃え広がる。僕はリィと手を取り合って、店の入り口を目指した。
見えているのに。あと少しなのに。
暴れながら父親が憤怒の形相で僕らをにらみ、ドアの前に立ちふさがった。
「にがさねぇよ! あああ!」
およそ、理性をもった生き物とは思えない声だ。
別の出入り口を探すけれど、真後ろはもう火の海だった。あの中に飛び込んだうえで、窓を割らなければ出ていけない。リィは僕を護ろうと一歩前に出て、僕は咄嗟にそれを止めた。
何をされるかわからない。今日だけは、黙ってやられている戦法は通じない。
「あああ! あつい! あつい! 畜生!」
呂律の回らない男の叫び声が響く。安酒の一升瓶を手あたり次第割り、鎮火のために中の酒を浴び、沁みたのかまたのたうって暴れる彼を僕は完全に引きながら見ていた。ドアの前であれをやられたら近づけない。リィは無表情に男を眺めていた。凍り付くようなその視線にぞくっとする。
一拍も待たなかった。リィは突破できると判断した。リィが動き出すのを視界に捉えた僕は、その一瞬を逃さずにぴたりとついていく。が。
背中にてのひらの熱を感じた。夢中でドアの外に出た瞬間、僕の隣にリィはいなかった。振り返れば燃え盛る酒屋が黒煙を上げている。
嫌な動悸がする。息が苦しいのは絶対に火傷のせいだけではない。ゆっくりと視線を下ろせば、リィが倒れていた。仰向いたその腹に大きなガラスのかけらが刺さっていた。
急いで駆け戻る。あの男は意味不明の言葉らしきものを立てながら、腕を抑えて笑い転げていた。身体の大半にやけどの跡があり、目はすでにうつろだ。そんなのはどうでもいい。
床に倒れたリィはまだ辛うじて息をしている。腹部を抑えるその白い手には、幾筋もの血の筋が絡みついていた。ひゅ、とリィの喉が鳴る。
冷静に、考えなければ。そう、こういうときは、まず火災現場からリィを連れ出さなければ、死んでしまう。リィが死んでしまう。嘘でしょ。ああ、何してるんだ、固まっている場合じゃない。
彼を仰向けのまま引きずることにして、背中に手を差し入れるとリィは重々しい動作で頭を少しだけ上げた。だんだん虚ろになりかけてきた目を僕に向けて、安心させるように精一杯笑いながら、それでも死にたくないよって顔をしていた。
半分ほどリィの身体を酒場から脱出させたところで、あの男が奇声を上げながらリィに酒瓶を投げつけはじめたので僕は一旦脱出をあきらめざるを得なかった。
邪魔する気なら止めなくちゃ。あれに構っている暇はないんだ。
リィの細い脚や華奢な手に当たって砕けた酒瓶を拾って、僕は一切の躊躇なく男に全力で突っ込んだ。腹の高さで刺した瓶のかけらはあっけなく男の醜く太った腹部に突き刺さり、酔いも回っていたであろう彼は火の中にあおむけに倒れていった。処理しなきゃ。これじゃまだ起き上がる。リィが死んじゃう。早くしなきゃ。
ふと見れば床に血まみれのナイフが落ちていた。きっと店主に使ったものだ。
僕は無我夢中でそれを拾い、炎に熱されて熱くなったそれを彼の胸へと全体重をかけて突き刺した。吹き上がる血が生ぬるい。汚いもの撒き散らさないでよ。
僕の髪を掴もうとするその手をナイフに沿わせて適当に握らせて、僕は肩で血を拭いながらリィの身体をふたたび持ち上げた。
この時点ですでにぐったりしていたなんて思いたくない。力が抜けきって信じられないぐらい重いリィの腕をむりやり肩に回して、僕はできるだけ酒場から離れようと動き始めた。
はらはらと涙がこぼれ落ちたのは、たぶんやっと僕が『本性』を現してしまったからだ。僕にはあの男の血が流れている。間違いなくそれがわかる。今まで普通のふりをしていたけれど、ついに僕は人を殺したんだ。
終わってしまった。何もかもがもう遅い。『特進』ももうダメだろう。母親は未成年の僕の代わりに裁かれるだろうか。リィは。リィには重い障害が残るだろうか。死ぬ? そんなわけない。
気を抜けば誰かが追いかけてきそうで、僕は死に物狂いで逃げた。泣きながら、どこまでも走り続けた。走っていたのは気持ちだけで、実際はリィに押しつぶされそうになりながら、這うように移動していたのだけれど。そうだ、とにかく、病院の方向を目指さなければ。
気づいたら河原にいた。無我夢中で這ってきたからか、町のほうを見れば赤々といまだに明るく燃え続けている酒場が少し遠くの方に見えた。
事実を言えばリィはすでに息をしていない。見るからに血の気の失せた顔をしている。冷たいなんて気のせいだ。僕の肩が当たっていたところは暖かい。きっとそれは僕の体温だなんて、思ってしまうのは誤りだ。
「リィ、起きてよ」
声をかけても返事は無い。最後になんて言いかけたか、それだけでも構わないからもう一度僕の目を見て話して欲しい。そして、もう一度明るい声で名前を呼んで欲しい。
「おい、坊主」
いきなり声をかけられて振り返ると、科学者のような白衣を着た中年の男が僕を見下ろしていた。リャンツァイには珍しいエフリッシュ系の見た目の男だし、話す言葉も当然のようにエフリッシュ語だった。
パツンパツンのはち切れそうな白衣の下はきっと、プロレスラーかボディビルダーみたいに筋骨隆々だと思う。怪しい以外の感想はなかった。
僕はリィの腕を自分の肩に回して、リィの身体を懸命に支えながら逃げた。
「リィ、リィ。リィ、起きてってば」
走りながら声をかける。涙で前がぼやけた。そのせいで足元がよく見えなくて、何かに躓いて足元が泳ぐ。
「おい! 大丈夫か」
後ろであの男の声が聞こえる。僕はまた立ち上がって逃げようとした。足元がふらついた。それでも、歩みを止めるわけにはいかなかった。
早く病院に行かなくちゃ。リィが動いていない。僕は認めない。リィは疲れているだけなんだ。
おかしいな。立って走っているつもりなのに、景色が変わらない。冷静にひとつ息を吸えば、膨らむはずの肺が体の重みでちっとも動かないことを発見する。
立たなきゃ。這ってでも進まなきゃ。
「チビにゃ無理だろ、貸しな」
「ああっ」
不意に背中が軽くなった。体をよじればガタイのいいその男にリィが軽々と担がれているのが見える。すぐに男の白衣は、夜闇にも明らかな血の色に染まった。
「リィ!」
さっと振り返ってリィを取り返そうとしたけれど、男が僕の首に何かを刺す。
声も上げられないまま、僕の意識はぐにゃぐにゃと溶けるようにして暗転していった。