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正午、明石のプリンは星を待つ

作者: 明石竜
掲載日:2026/09/18

 新快速の窓から見える明石海峡大橋が、午前中の柔らかな光を浴びてきらきらと輝いていた。

 藤島美咲、三十歳。

 都内のデザイン事務所でチーフになって一年。締め切りと人間関係に追われる毎日が続いていた。

 金曜の夜、「どこか遠くへ行こう」と思い立った。選んだのは、日本の標準時を刻む街、明石だった。


             ☆


 JR明石駅に降り立つと、美咲はあてどなく歩き始めた。にぎやかな魚の棚商店街を通り抜けるうち、車窓から見えて気になっていた時計塔へ向かってみようと思った。


 その途中で、古い煉瓦造りの小さな喫茶店が目に留まった。

 入り口の横には、真鍮製の小さな看板に『カフェ・メリディアン』と刻まれている。

 子午線、という意味だ。

 引き寄せられるように扉を開けると、カランコロンと涼やかなカウベルの音が響いた。

 店内は、焦げ茶色の木を基調とした落ち着いた空間だった。

 壁には大小さまざまなアンティークの掛け時計が飾られており、それぞれが違ったリズムでカチ、カチ、と静かな秒針の音を刻んでいる。

「いらっしゃいませ」 

 カウンターの奥から、穏やかな声がした。

 白いシャツに深い緑色のエプロンを身につけた、三十代半ばほどの物静かな男性店員が丁寧に一礼する。

 先客はおらず、美咲は窓際の、天文科学館の建物が見える席に腰を下ろした。

 メニューを開くと、珈琲や紅茶のほかに、一番下の欄に不思議な文字を見つけた。

『正午のプリン(十二時限定・数量限定)』 

 時計を見ると、十一時四十五分だった。

「あの、このプリンは、もう注文できますか?」 

 美咲が尋ねると、店員は柔らかく微笑んだ。

「ええ、ご注文いただけます。ただ、お出しできるのは十二時ちょうどになりますが、よろしいですか?」

「はい、待ちます」 

 美咲はブレンド珈琲と一緒にそれを注文した。

 注文を終えると、店内に響く時計の音が、さっきよりもはっきり耳に届いた。

 いつもならスマホに手を伸ばすところなのに、不思議とそんな気にはなれなかった。

 ただ、窓の外に見える時計塔と、店内に響く音に耳を傾けているだけで、強張っていた肩の力が抜けていくようだった。

「お待たせいたしました。まずは珈琲をどうぞ」 

 店員が静かにカップを置いた。

 深いコクのある香りが立ち上る。

 一口含むと、心地よい苦味が染み渡った。

「お一人旅ですか?」 

 店員が、押し付けがましくない距離感で声をかけてくれた。

「はい。ちょっと仕事で行き詰まってしまって。リセットしたくて、時間を決める街に来れば、何かが変わるかなと思って」

 美咲は苦笑まじりに答えた。

 店員は、ふむ、と優しく目を細める。

「明石は時間を告げる街ですけど、不思議と、時間に追われている感じはしないんです。時計は先へ進むのに、星の光はずっと昔のものですから」

 店員は窓の外を見た。

「そう思うと、今って案外、贅沢でしょう」

 星の光。

 その言葉が、美咲の胸に静かに落ちた。

 その時、店内の空気の密度が変わった。

 十一時五十九分。

 店内の掛け時計たちが、一秒ずつ正午へと近づいていく。

 そして、十二時。

 ボーン、ボーンと、深みのある古時計の鐘の音が店内に響き渡った。

 同時に、別の時計からは軽やかなオルゴールの音が響いてくる。

 いくつもの音が重なり、街全体が正午を知らせているようだった。 

 音が鳴り止むと同時に、美咲の前に白い磁器の皿が置かれた。

「お待たせいたしました。『正午のプリン』です」

 皿の上には、小ぶりだがしっかりと自立したプリンが乗っていた。

 深い琥珀色のカラメルソースの中央に、星を模した小さな金箔がひとひら、静かにきらめいていた。

「正午なのに、星、なんですね」 

 美咲が見上げると、店員は悪戯っぽく微笑んだ。

「ええ。正午の青空の向こうにも、本当はたくさんの星が隠れて、夜を待っているんです。見えないだけで、そこにある。焦らなくても、時間は等しく流れて、いつか必ず星に会えますから」 

 スプーンですくい、口に運ぶ。

 なめらかな舌触りとともに、卵の濃厚なコクと、少しほろ苦いカラメルの風味が広がった。

 甘すぎず、どこか懐かしい味だった。ほろ苦いカラメルを飲み込むと、自然と口元が綻んだ。

 プリンを食べ進めると、お皿の底にも星の模様が現れた。

 まるで見えない星を見つけたような、小さな喜びが胸に灯る。


 店を出る頃には、空は一段と青さを増していた。

「ありがとうございました。良い旅を」 

 店員に見送られ、美咲はあの時計塔がある天文科学館へ向かった。


          ☆


 館内に入り、プラネタリウムの大きなドームの椅子に身を沈める。

 投影が始まると、場内はゆっくりと暗転し、満天の星々が目の前に広がった。

 解説員の穏やかな声が、明石の夜空から、何光年も離れた宇宙の歴史へと美咲を誘う。

 暗闇の中で、美咲はスマホの時計を見た。

 時刻は、いつもと同じように進んでいる。

 けれど、それはもう、自分を急かすものではなくなっていた。 

 正午の光の向こうにも、星は確かに存在している。

 少しくらい立ち止まっても、時間から取り残されるわけではない。


 プラネタリウムを出て、展示室もゆっくりと見て回り、館外へ出る頃には、西の空がほんのりと茜色に染まり始めていた。


          ☆


 JR明石駅のホームで、帰りの電車を待つ。

 夕暮れの風が頬を撫で、美咲は小さく息を吐き出した。

 鞄の中には、喫茶店でもらったショップカードが一枚。深い紺色の地に、金色の細い子午線と小さな星座図が描かれている。

 スマホの画面を見る。

 仕事の連絡は入っていない。

 明日からの日常が、朝よりほんの少しだけ軽く思えた。

 新快速のドアが開く。

 美咲はショップカードを鞄にしまい、電車に乗り込んだ。

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