正午、明石のプリンは星を待つ
新快速の窓から見える明石海峡大橋が、午前中の柔らかな光を浴びてきらきらと輝いていた。
藤島美咲、三十歳。
都内のデザイン事務所でチーフになって一年。締め切りと人間関係に追われる毎日が続いていた。
金曜の夜、「どこか遠くへ行こう」と思い立った。選んだのは、日本の標準時を刻む街、明石だった。
☆
JR明石駅に降り立つと、美咲はあてどなく歩き始めた。にぎやかな魚の棚商店街を通り抜けるうち、車窓から見えて気になっていた時計塔へ向かってみようと思った。
その途中で、古い煉瓦造りの小さな喫茶店が目に留まった。
入り口の横には、真鍮製の小さな看板に『カフェ・メリディアン』と刻まれている。
子午線、という意味だ。
引き寄せられるように扉を開けると、カランコロンと涼やかなカウベルの音が響いた。
店内は、焦げ茶色の木を基調とした落ち着いた空間だった。
壁には大小さまざまなアンティークの掛け時計が飾られており、それぞれが違ったリズムでカチ、カチ、と静かな秒針の音を刻んでいる。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、穏やかな声がした。
白いシャツに深い緑色のエプロンを身につけた、三十代半ばほどの物静かな男性店員が丁寧に一礼する。
先客はおらず、美咲は窓際の、天文科学館の建物が見える席に腰を下ろした。
メニューを開くと、珈琲や紅茶のほかに、一番下の欄に不思議な文字を見つけた。
『正午のプリン(十二時限定・数量限定)』
時計を見ると、十一時四十五分だった。
「あの、このプリンは、もう注文できますか?」
美咲が尋ねると、店員は柔らかく微笑んだ。
「ええ、ご注文いただけます。ただ、お出しできるのは十二時ちょうどになりますが、よろしいですか?」
「はい、待ちます」
美咲はブレンド珈琲と一緒にそれを注文した。
注文を終えると、店内に響く時計の音が、さっきよりもはっきり耳に届いた。
いつもならスマホに手を伸ばすところなのに、不思議とそんな気にはなれなかった。
ただ、窓の外に見える時計塔と、店内に響く音に耳を傾けているだけで、強張っていた肩の力が抜けていくようだった。
「お待たせいたしました。まずは珈琲をどうぞ」
店員が静かにカップを置いた。
深いコクのある香りが立ち上る。
一口含むと、心地よい苦味が染み渡った。
「お一人旅ですか?」
店員が、押し付けがましくない距離感で声をかけてくれた。
「はい。ちょっと仕事で行き詰まってしまって。リセットしたくて、時間を決める街に来れば、何かが変わるかなと思って」
美咲は苦笑まじりに答えた。
店員は、ふむ、と優しく目を細める。
「明石は時間を告げる街ですけど、不思議と、時間に追われている感じはしないんです。時計は先へ進むのに、星の光はずっと昔のものですから」
店員は窓の外を見た。
「そう思うと、今って案外、贅沢でしょう」
星の光。
その言葉が、美咲の胸に静かに落ちた。
その時、店内の空気の密度が変わった。
十一時五十九分。
店内の掛け時計たちが、一秒ずつ正午へと近づいていく。
そして、十二時。
ボーン、ボーンと、深みのある古時計の鐘の音が店内に響き渡った。
同時に、別の時計からは軽やかなオルゴールの音が響いてくる。
いくつもの音が重なり、街全体が正午を知らせているようだった。
音が鳴り止むと同時に、美咲の前に白い磁器の皿が置かれた。
「お待たせいたしました。『正午のプリン』です」
皿の上には、小ぶりだがしっかりと自立したプリンが乗っていた。
深い琥珀色のカラメルソースの中央に、星を模した小さな金箔がひとひら、静かにきらめいていた。
「正午なのに、星、なんですね」
美咲が見上げると、店員は悪戯っぽく微笑んだ。
「ええ。正午の青空の向こうにも、本当はたくさんの星が隠れて、夜を待っているんです。見えないだけで、そこにある。焦らなくても、時間は等しく流れて、いつか必ず星に会えますから」
スプーンですくい、口に運ぶ。
なめらかな舌触りとともに、卵の濃厚なコクと、少しほろ苦いカラメルの風味が広がった。
甘すぎず、どこか懐かしい味だった。ほろ苦いカラメルを飲み込むと、自然と口元が綻んだ。
プリンを食べ進めると、お皿の底にも星の模様が現れた。
まるで見えない星を見つけたような、小さな喜びが胸に灯る。
店を出る頃には、空は一段と青さを増していた。
「ありがとうございました。良い旅を」
店員に見送られ、美咲はあの時計塔がある天文科学館へ向かった。
☆
館内に入り、プラネタリウムの大きなドームの椅子に身を沈める。
投影が始まると、場内はゆっくりと暗転し、満天の星々が目の前に広がった。
解説員の穏やかな声が、明石の夜空から、何光年も離れた宇宙の歴史へと美咲を誘う。
暗闇の中で、美咲はスマホの時計を見た。
時刻は、いつもと同じように進んでいる。
けれど、それはもう、自分を急かすものではなくなっていた。
正午の光の向こうにも、星は確かに存在している。
少しくらい立ち止まっても、時間から取り残されるわけではない。
プラネタリウムを出て、展示室もゆっくりと見て回り、館外へ出る頃には、西の空がほんのりと茜色に染まり始めていた。
☆
JR明石駅のホームで、帰りの電車を待つ。
夕暮れの風が頬を撫で、美咲は小さく息を吐き出した。
鞄の中には、喫茶店でもらったショップカードが一枚。深い紺色の地に、金色の細い子午線と小さな星座図が描かれている。
スマホの画面を見る。
仕事の連絡は入っていない。
明日からの日常が、朝よりほんの少しだけ軽く思えた。
新快速のドアが開く。
美咲はショップカードを鞄にしまい、電車に乗り込んだ。




