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小川正人の宿題とほっこり飯  作者: 修羅観音


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小川正人の宿題とほっこり飯

数十年前、昭和から平成へと元号が移り変わる喧騒の中。

学校という閉鎖的な世界には、明確な弱肉強食の理が存在していた。

その理の頂点付近で、やりたい放題に振る舞っていた小川正人。


小中学生だった頃の正人は典型的な「どうしようもないワルガキ」だった。


ルールを守るなどという概念は彼の辞書にはなく、他人の嫌がる顔を見ることに快感すら覚えていた。

ズルをすることなど何とも思わず、当時流行っていたドッジボールでは、定められた線を平然と越えて相手のコートに入り込み、至近距離からボールを叩きつけるのが当たり前。

万が一負けようものなら、周囲のせいにしたり当たり散らしたりするのは日常茶飯事だった。

また、気が弱くて逆らえない人間に対しては、これでもかというほど高圧的に振る舞い、自分は喧嘩が強いと慢心しきっていた。


そんな彼が、大好きなドッジボールの時間や、楽しい遊び時間を確保し、かつ面倒な努力から逃げるために編み出したのが「宿題の押し付け」だった。

クラスにいた、何をされても言い返さず、やり返さない大人しい気弱な少年。

正人を含む数人の男子たちは、その少年を格好の標的にした。


「おい、これちゃんとやっとけや。1文字でも間違えたら分かってるやろうな?」

少年の机に自分のノートを叩きつけ、正人は遊びへと繰り出す。


何時しか宿題を全くしなくなった正人の悪行は、日を追うごとにエスカレートしていった。

先生から頼まれた雑用を押し付けるのは序の口。

少年の私物を壊し、教科書に卑猥な落書きを施し、ありとあらゆる苦痛をその小さな肩に背負わせた。


中学に進学しても、正人の本質が変わることはなかった。

かつての被害者とクラスが離れれば、また別の「獲物」を見つけ出すだけのこと。

他人の善意や弱さを利用して楽をすることを、正人は「賢い生き方」としてその身に刻み込んでいった。


そのまま大人になった正人は、持ち前のずる賢さで社会という荒波を器用に泳いでいた。

表面的には上手く立ち回り、面倒な仕事は体裁よく他人に振る。

自分だけは特別であり、誰かが自分の代わりに泥を被るのが当然だという歪んだ特権意識を抱いたまま、彼は自らの成功を疑わなかった。


しかし。

巧妙に隠してきた不誠実の歪みは、彼の知らないところで確実に広がり始めていた。

これまで滑らかに回転していたはずの人生の歯車が、異音を立てて狂い出していることに、今の彼はまだ微塵も気づいていない。


---


中学卒業と同時に、正人は親の転勤に伴って九州へと居を移した。

ずる賢い立ち回りだけは一人前だったが、その実、学力も教養も底辺に等しかった。

義務教育の9年間、自分自身の課題から逃げ続け、他人に宿題を押し付け、地道な努力を一切排除してきた報いだ。


何とか最低レベルの偏差値の高校には滑り込んだものの、大学進学など夢のまた夢。

正人は高校を卒業後、九州にある工場へと流れ着くように就職した。


数年後、再び親の仕事の都合で古巣である京都へと戻り、肉体労働系の工場に再就職する。

しかし、ここでも彼の「悪癖」が首をもたげた。

自分より若く、気の弱そうな同僚を見つけては、自分の仕事を巧妙に押し付けようと画策したのだ。


だが、学校という温室を離れた大人の社会は、彼が思うほど甘くはなかった。


標的にされた同僚は、正人の不誠実な言動を冷徹に記録し、確かな証拠と共に上司へ報告した。

小中学生時代であれば「チクりやがって」と逆ギレして力で抑え込むこともできただろうが、会社組織においてそんな理屈は通用しない。

正人は一切の弁明を許されぬまま、あっさりと解雇の言い渡しを受けた。


そこからの転落は早かった。


日雇いの現場を転々とし、ようやく見つけたアルバイトで食いつなぐ、その日暮らしの生活。

私生活においても、持ち前の狡猾さで女性と付き合う機会こそ何度かあったが、化けの皮が剥がれるのは一瞬だった。

身勝手で不誠実な本性が露呈するたび、愛想を尽かされて別れを繰り返す。


気づけば年齢は40を超え、頼みの綱であった両親も相次いで他界した。

貯金も人脈もない正人には、満足な葬式を出すことすら叶わなかった。

安普請のアパートで1人、かつての「ワルガキ」は、深い孤独の淵に取り残されていた。


そうして現在。

40代も半ばを過ぎ、いよいよ肉体労働に限界を感じ始めていた頃。

正人は必死に求人サイトを漁り、ようやく1つのIT企業に事務職として滑り込むことに成功した。


「やっと、まともな生活に戻れる……。」


冷房の効いたオフィス、キーボードを叩く音。

これまでの泥にまみれた生活から抜け出し、ようやく人生に一筋の光が差し込んだ。

正人は新しい職場のデスクに座り、自分の選んだ「ショートカット」がようやく成功へと繋がったのだと、深い安堵の吐息を漏らした。


---


IT企業の事務職として働き始めて数週間。


職場では、業務効率化のためにAIを導入するプロジェクトが動き出していた。

指導にあたる外部コンサルタントや、システムを構築するエンジニアなど、社外の人間が頻繁に出入りするようになり、オフィスはにわかに活気づいている。

中には特定の組織に属さないフリーランスの技術者も混じっており、正人は彼らが持ち込む最新技術の空気に圧倒されていた。


「AIが導入されたら、俺の仕事無くなって、クビになったりせんやろな……?」


正人は内心ヒヤヒヤしながら推移を見守っていたが、幸いにも彼に任されている入力業務がすぐさま奪われるような事態にはならなかった。

胸をなでおろし、ようやくこの場所に居場所を見つけられたと安堵していた、ある日の午後のことだ。


「小川さん、ちょっとええかな。会議室まで来てくれる?」


上司に呼び出され、正人は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

無機質な会議室の重い扉が閉まると、正人は堪らず自分から口を開いた。


「あの、何ですか?まさか、今やってるAI導入で、俺は入ったばかりやのにクビとかじゃありませんよね?」


「それは無いから安心してや。ただなあ……。」


上司は困ったように眉根を寄せ、一旦言葉を切った。

その視線が、値踏みするように正人の顔を這う。


「小川さん、今は君が一番新人やから、誰かに仕事押し付けたりは出来る立場やないのはわかってはいるけどな?」


「はあ、そりゃもちろんそうですけど……。」


「小川さんは、誰かに仕事を押し付けたり、不正したり、ズルしたりはしてへんやろな?」


唐突な問いに、正人の心臓がドクンと大きく跳ねた。


「え!?ま、まさか!そんなんしてたら、とっくの昔に問題になってますやん!」

慌てて否定する正人の声を、上司は静かに制した。


「まあ、そりゃそうやけど……。なんや、今はAI導入で外部から色んな人が来てはるやん?そんでな、その中のフリーランスの人がな、どうも小川さんの昔の事を知ってるらしい人でな。」

上司は机の上で指を組み、少し声を潜めた。


「その人と世間話してたら、小川さんと出身の学校がおんなじやって分かってんやけど、そこで小川さんってどんな人やったって、その人に尋ねたら『彼は自分の課題を人に押し付ける卑怯な事を平気でする奴です。過去の勤め先に確認したら、ほこりが出てくるかもしれませんよ』……って、教えてもろてな。」


「な……っ!?」


正人は言葉を失った。

冷や汗が首筋を伝い、シャツの襟元が嫌な湿り気を帯び始める。


「過去の勤め先まで調べて聞き込みしようとは思わんけどね、そんなん面倒やし。でも、やたら具体的な内容やったり、小川さんが一時は九州にいたりしてたんも言い当てはってな、その人。どうも小川さんの事をちゃんと知ってはる人っぽいんよ。そやから、完全に無視も出来ひんから、こうして聞いてみたんや。」


上司の淡々とした口調が、かえって正人を追い詰める。

正人の脳裏に、かつて宿題を押し付け、私物を壊し、高笑いしていたあの頃の光景がフラッシュバックした。

それらすべてが、得体の知れない誰かの手によって暴かれようとしている。


「まあ、ここでは何も悪さしてへんから、咎めるつもりはないけど。まあ、なんや、真面目に仕事してくれてたらええねん。」


上司はそれだけ言うと、「戻ってええよ」と話を切り上げた。

会議室を出た正人の足取りは、ひどくおぼつかないものだった。


「一体、誰やねん……俺の過去を知ってるとか……。確かに、やんちゃした事はあるかもしれんけど、そんなん大昔の話やんけ……。」


顔面蒼白になりながら、正人は執務室へと戻っていく。

フロアですれ違う外部スタッフの誰もが、自分を嘲笑う「過去の被害者」に見えて仕方がなかった。


---


翌日。

仕事が一段落した隙を見て、正人は上司のデスクへと足を運んだ。

一晩中、自分を「卑怯者」と呼んだ正体不明の影に怯え続け、正人の神経は限界までささくれ立っていた。


「あの、俺の事を知ってるって言う人に、あわせて貰えませんか?」


正人の切実な進言に、上司は書類から目を上げ、記憶を辿るように天井を仰いだ。

「ああ、あの人は昨日と今日だけ来てくれはる人で、名刺交換もせえへんかったし、連絡先は総務に行ったら教えてくれるかな。名前は、えっと……」


上司は再び首をかしげた。


「あれ?名前なんやったけ?聞いたと思うんやけど」


「……」


「まだ50代半ばやのに、忘れっぽくなったんやろか。まあ、顔見たらわかるし、会ったら声かけとくわ」


正人は釈然としない思いを抱えながら、デスクに戻って入力を続けた。

背後を誰かが通り過ぎるたびに肩が跳ね、心臓が嫌な音を立てる。


結局、何の手がかりも得られないまま終業時間を迎えた。

正人は退勤の打刻を済ませると、もう一度上司の元へ向かった。


「あの、例の人は……」


「ああ、あの人の件やんな。今日はまだ会うてへんなあ。もう帰ってるかもわからんな」

上司ののんびりとした回答に、正人は目に見えて肩を落とした。


「そうですか……」


「もし同級生やったら、積もる話もあったやろうけど、まあ、そんな気落さんと。今日は華金やさかい、飲みにでも行くか?」

上司は笑って正人の肩を叩いた。


「はあ……」

気のない返事をして、正人は上司と共にオフィスを後にしようとエレベーターに乗った。


1階の広々としたロビーに降り立った時だった。

やや小柄なコート姿の、自分と同じくらいの年齢に見える男性が、自動ドアに向かって通り過ぎようとしていた。


「あ!」


上司が声を上げた。

「あ、あの!ええっと、すんません、名前ド忘れして!ちょっと待ってください!」


上司が小走りに駆け寄ると、その男性は足を止め、ゆっくりと振り返った。

正人の心臓が激しく脈打つ。

男性は上司と、その後ろに立ち尽くす正人の顔を交互に見て、丁寧にお辞儀をした。


「丁度、あなたの話をしとったんですわ。こっちはうちの事務課の小川です」

上司に促され、正人は喉の渇きを覚えながら声を絞り出した。


「……小川です」


正人は男の顔を凝視した。

どこかで見たような、だが見覚えがないような、不思議な感覚が全身を包む。

しかし、男性の反応は極めて冷ややかなものだった。


「今晩は、御疲れ様です。ほな」


男性はそれだけ言うと、正人と目を合わせることもなく、翻ってさっさと出口へと歩き出した。

あまりにも素っ気ない、拒絶に近いその態度。


去りゆくコートの背中を見つめながら、正人の背中を冷たい汗が伝い落ちた。


---


「ちょっと待ってください!」


正人が思わず声を荒らげると、コート姿の男性はぴたりと足を止めた。

その背中には、一切の感情が読み取れない。


「あの、名前……。あんた、名前なんて言うんや」


問い詰められた男性は、正人の顔を見る代わりに、上司の鞄からひょっこりと顔をのぞかせている1冊の本に視線を落とした。

それに気づいた上司が、ああと声を上げる。


「ん?ああ、これですか?これね、うちの息子、大学生なんやけどね、こないだ誕生日にこの靴プレゼントしてくれましてな。ほんで、息子がこの漫画好きで読んでるの知ってたさかい、お礼にって昼休みに本屋で最新刊買って来たんですわ。なんや、呪術で闘う漫画らしいんですよ。」


上司が鞄から取り出したのは、呪術を使って魔王と闘う主人公を描いた、若者を中心に絶大な人気を誇る少年漫画だった。

それを見た男性は、口元に微かな笑みを浮かべる。


「ほな、僕の事は『呪術師』とでも呼んで下さい」


「呪術師って……」


正人が呆気に取られて呟くと、呪術師と呼ばれた男は「用がないなら、これで」と再び歩き出そうとした。


「ちょっと待ってや!あの、あんた俺の事知ってるんやろ?上司に色々吹き込んでくれたみたいやんけ」


正人が詰め寄ると、呪術師は「吹き込む?」と繰り返して立ち止まった。

その言葉の響きには、冷徹な響きが含まれている。


「そうや。俺の何を知っとるんか知らんけど、変な事言いふらさんといてくれや」


「ちょっと小川さん、そんな喧嘩腰にならんときいや。なんや、この人と仲悪かったんか?」


上司が慌てて間に入るが、正人の苛立ちは収まらない。

すると、呪術師は深く、重いため息をついた。

その溜息には、数十年分の澱みが混じっているようだった。


「……小川さん、一緒に食堂行きましょか」


唐突な提案に、正人だけでなく上司も驚いた顔をする。


「お、そりゃええわ。なんや、積もる話とか因縁ありそうやし、行っておいで。飲みはまた今度な。あ、そや」


上司は上機嫌で財布を取り出すと、中から5,000円札を抜き取って正人に手渡した。


「これで好きなもん食べておいで。ほな、また来週な」


上司はそう言い残すと、軽やかな足取りで会社を後にした。

呪術師は「有難う御座います、御馳走様です」と、その背中に向かって丁寧に頭を下げた。


「いえいえ。それでは」

上司は、いえいえ。それでは。、と言って会社を後にする。


ロビーに取り残されたのは、青ざめた顔の正人と、無表情な呪術師の2人だけだ。


「ほな、僕の行きつけ……と言っても、そこまで頻繁に通ってるわけやないけど、僕が絶品やと思う店に行きましょか」


呪術師はそう言うなり、返事も待たずにさっさと出口へと歩き出した。


「ちょ、ちょっと待ってくれや!」


正人は慌ててその後を追いかけ、夜の帳が下り始めた京都の街へと飛び出した。

目の前を歩く男の正体が、かつて自分が踏みにじった誰かなのか、それともただの幻影なのか。


正人の心臓は、逃げ出したくなるほどの早鐘を打ち続けていた。


---


「なあ、あんた本名はなんやねん! いつまでも呪術師なんて呼び方、おかしいやろ!」


歩みを止めない背中に向かって、正人は苛立ちをぶつけた。

しかし、呪術師は振り返ることさえせず、迷いのない足取りで夜の静寂へと進んでいく。


「食事処で話しましょう。そこなら、嫌でもすべてが分かりますから。もっとも、嫌がっても目を逸らすことは出来ひんとは思いますがな」


突き放すような言葉に舌打ちしながらも、正人はその後を追うしかなかった。

いつの間にか周囲の喧騒は遠のき、人気のない、街灯さえまばらな路地へと足を踏み入れていた。

前方から、誰かが近づいて来る気配がする。


目を凝らして見てみると、そこには奇妙な風貌の女の子が立っていた。

ベレー帽に、ズボンタイプの黒いセーラー服。

まん丸な瞳に、台形の形をした不思議な口の開き方。


女の子は2人の目の前までやって来ると、ピタッと足を止めた。


「えらいこっちゃ」


感情の読めない一言に、正人は思わず声を上げた。

「え? なんや、この子……」


「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や」

唐突な自己紹介を始めた女の子に対し、呪術師は慣れた様子で合掌し、丁寧にお辞儀をした。


「今晩は、えらいこっちゃん。今日は『摩訶不思議食堂』で夕飯を頂きます」


えらいこっちゃ嬢は、サッと手を上げて短く挨拶を返すと、今度は正人をジーっと凝視し始めた。

その視線は、まるで彼の皮膚を透かして、奥底に沈殿している何かを見定めようとしているかのようだ。


「溜めこんどる、えらいこっちゃ」


呪術師は、呆れたような、あるいは同情すら含んだような深いため息をついた。


「ええ、それはもう、えらいこっちゃなくらいに」


正人は目を白黒させ、自分のポケットや財布のあたりを無意識に押さえる。


「え? な、何を溜めこんどるって? 貯金は全然あらへんぞ? 俺かて、えらいこっちゃなくらい溜め込んでみたいわ!」


必死の抗弁を余所に、えらいこっちゃ嬢が唐突に天を仰いだ。


「えらいこっちゃーーー!!! 」


夜の空気を震わせる絶叫。

正人は「うわ!?」と叫び、両耳を力いっぱいふさいでうずくまった。


「な、なんやねん!? 耳潰れるかと思ったわ!」


えらいこっちゃ嬢の叫び声の児玉が夜闇に消えると同時に、遠くから燃え盛る「何か」が猛スピードで接近して来る。

アスファルトを削るような音と、焦げ付くような熱気。

それは一行の目の前で、火の粉を散らしながら急停車した。


「な、なんやねん、これ……」


正人はただただ目を見開いて立ち尽くす。

そこにあったのは、巨大な1つの車輪が燃え盛る牛車に、あろうことか近代的な運転席が取り付けられた、この世のものとは思えない奇妙な乗り物だった。


---


## 小川正人の宿題とほっこり飯


目の前で巨大な車輪が轟々と燃え盛る牛車を前に、正人は腰が抜けそうなほど唖然としていた。

すると、近代的な運転席の窓がスライドして開き、中からえらいこっちゃ嬢とお揃いのベレー帽を被った女性が顔を出した。

長い黒髪を後ろで束ねた、息を呑むような着物美人だ。


「方輪車ねえちゃん、御迎えありがとちゃん!常連さん御1名と、えらいこっちゃな溜め込みおっちゃん御1名!行先は『摩訶不思議食堂』!」


えらいこっちゃ嬢は元気よく声を上げると、呆然とする正人の手を取り、強引に客席へと引っ張り込んだ。


「え、ちょ、ちょっと!? 何やこれ、どこ連れて行くんや!」


正人は抗う間もなく、古めかしいが清潔な牛車の内装に押し込められる。

続いて呪術師が、日常の風景に溶け込むかのような落ち着いた足取りで乗り込んできた。


「方輪車さん、お世話になります」


「はいよー。ふふ、呪術師さんが乗らはるのは久々かもしれませんなあ。いっつも呪符ボードやさかい」


方輪車と呼ばれた美人が、ハンドルを握りながら艶やかに笑う。


「今日は人を連れて行きますさかい。ほな、宜しゅう頼みますね」


呪術師が静かに告げると、客席の壁から「お勘定」と書かれた札をぶら下げた、白くて長い腕がニューっと伸びてきた。


「うわ!? う、腕!? なんやこれ、お化け屋敷か!?」


正人は真っ青になり、座席の隅へ必死に身を寄せる。

しかし、呪術師は眉一つ動かさず、慣れた手つきで財布から1841円を取り出し、その不気味な手のひらに乗せた。

金を受け取ると、腕は再びニューっと闇の中へ消えていく。


「な、なんやこれ? タクシーか? それに、何でそんな中途半端な金額なんや? 端数くらい負けてもらえへんのか」


驚きと困惑でパニック寸前の正人に、えらいこっちゃ嬢が脚をぶらぶらさせながら、びしっと指をさした。

「全く気付かん鈍感さ、えらいこっちゃ」


呪術師が無表情のまま、冷淡に言葉を添える。

「小川さんを言い表した語呂合わせですわ」


「な、なんやねんそれ、語呂合わせって……1841……あ、『いやしい』とでも言いたいんけ?いや、俺はそんな卑しくないはず……わからん、何のことや!」

正人は目を白黒させて喚くが、誰もそれ以上は説明しなかった。


「毎度ありー。ほな、発車しますー」


方輪車の弾んだ声と共に、牛車が動き出す。

車輪の炎が夜の闇を青白く照らし、3人を乗せた奇妙な乗り物は、現世の理から外れた道へと走り出していった。


---

## 小川正人の宿題とほっこり飯


ハイスピードで夜の京都を駆け抜けていた方輪車が、やがて滑らかに減速を始めた。

車窓の外には、周囲の静寂に溶け込むような、趣のある美しい木造の建物が姿を現す。


建物の正面にぴたりと停車すると、客席のドアが独りでに開いた。

えらいこっちゃ嬢が「ぴょんっ」と軽やかな動作で飛び降りる。

続いて呪術師が「有難う御座います」とお礼を言って静かに降り、正人も慌ててその後に続いた。


「毎度ー。御乗車有難う御座いますー、ほな、またねー」


運転席から方輪車が眩いばかりの笑顔を向け、火の粉を散らしながら闇の向こうへ走り去っていく。

一人残された正人が顔を上げると、そこには「摩訶不思議食堂」と書かれた古風な看板が掲げられていた。


えらいこっちゃ嬢が慣れた手つきで店の扉を開け、威勢よく声を張り上げる。


「常連さん御1名!えらいこっちゃな溜め込みおっちゃん御1名!」


彼女はそれだけ言うと、風のように店の奥へと消えていった。


「カウンター席に行きましょか」


呪術師は正人の返事も待たず、迷いのない足取りで店内へと足を踏み入れた。

正人も置いていかれまいと必死に後を追い、促されるままカウンター席に並んで座る。

混乱する頭を抱えて顔を上げたその瞬間、カウンターの向こう側から「ぬっ」と何かが現れた。


それは、にこやかな笑みを浮かべた本物のお地蔵さんだった。

石造りのような質感でありながら、生きている人間のように滑らかに動き、合掌してお辞儀をする。


「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。呪術師さん、いらっしゃいまし、ようこそおいで下さいました」


「うわ!? ほ、本物のお地蔵さんが喋ってる!?」

正人が椅子から転げ落ちんばかりに驚くと、隣の呪術師は落ち着き払った様子で手を合わせた。


「地蔵店長、お世話になります」


「はい、精一杯、御もてなしさせて頂きます。御新規様とは初めましてですね、ようこそ摩訶不思議食堂へ。私はこの店の店長をさせて頂いております。皆さんは地蔵店長と呼んで下さいます。宜しくお願い申し上げます」


お地蔵さん笑顔を絶やさず、地蔵店長は再び丁寧にお辞儀をした。

その眼差しは慈愛に満ちているが、同時にすべてを見透かされているような不思議な圧迫感がある。


「は、はあ……えっと、小川正人です」


訳も分からぬまま、正人はとりあえず自分の名を名乗ってみた。

人生の歯車が狂い始めた男と、過去の因縁を抱えた男。

奇妙な夜の晩餐が、今まさに幕を開けようとしていた。


---


「何なんや、この店……」


正人は、現実離れした光景の連続に、もはや驚く気力すら削がれかけていた。

そこへ、ベレー帽はそのままに、黒い作務衣の上から白い割烹着を羽織ったえらいこっちゃ嬢がやって来た。

彼女は二人の前に、熱いお絞りを静かに置く。


呪術師は「有難う御座います」と短く礼を言い、丁寧に手を拭い始めた。

一方、えらいこっちゃ嬢は正人の鼻先にスッとメニュー表を差し出す。


「なんやこれ、メニューか?」

中を開くと、そこには筆文字で「具沢山カツカレー」とだけ記されていた。

「和食の店かと思ったら、和食以外も出してくれるんやな」


ふと見ると、サイズ表記も独特だ。

「小・中・大・えらいこっちゃ」の4段階。


「えらいこっちゃって、どれくらいあるんや? 流石に怖いから、中くらいにしとこかな」


「私は具沢山カレーライス小を、ヒレカツを1枚乗せて頂くのを1つ、お願い致します」

隣で呪術師が合掌してお辞儀をする。


「常連さんヒレカツ1枚小カレーライス一丁、えらいこっちゃなおっちゃんは具沢山カツカレー一丁! えらいこっちゃな絶品カレー!」

えらいこっちゃ嬢は威勢よく注文を復唱すると、そのまま厨房へと戻っていった。


凜華りんかさんが丹精込めて肉が柔らかくなるまでトロトロに煮込んで下さったカレーと、ラビさんの揚げたて熱々のカツは、絶妙な美味さです。楽しみですなあ」

呪術師は表情を変えずに語るが、その声には確かな期待がこもっていた。


「凜華さん? ラビさん? えっと、料理人の名前か?」

正人は首をかしげ、何気なく身を乗り出して厨房の様子を覗き込んだ。


そこには、緑色の肌に茶色の髪、そして大きく尖った耳を持つ、どう見てもゴブリンとしか思えない女性料理人がいた。

彼女は緑色の着物に割烹着、頭には三角巾という姿で、鼻歌交じりにお玉で大きな鍋をかき混ぜている。


その傍らでは、細い目を閉じ、猫のような口元で笑う1羽の兎が2本足で立っていた。

桃色の着物に割烹着という出で立ちで、手際よく豚カツを揚げている。


「な、なんやねん、この店……人間がおらんやんけ……」


正人は腰が抜け、どさっとカウンター席の椅子の背もたれに深く寄りかかった。

目の前の常識が次々と音を立てて崩れ去る。


正人はただ、パチパチと爆ぜるカツの揚がる音と、漂い始めたスパイシーな香りに包まれ、茫然と天井を見上げた。


---


「和食の店の本格カレー、確かに楽しみやけど……カレーか……。」

正人は、店内のあまりの異様さに毒気を抜かれたのか、どこか遠い目をして呟いた。


「給食のカレーを思い出したりしはりましたかな」

呪術師が、静かな声で問いかける。


「そういえば、小学校のカレーは楽しみやったなあ。俺は何杯もおかわしたで、懐かしいなあ。中学は野球部やったから、中学でもあのカレー出して欲しかったで。弁当だけじゃたらんかったから、恋しいって思ったくらいや。中学でも給食のカレー出してくれたら、何杯もおかわしたのに」


かつての思い出が蘇ったのか、正人は少しだけ顔を綻ばせて笑った。

しかし、すぐに我に返ると、ブスッとした表情で隣の男を睨みつけた。


「あ、そや! お前、俺の事知っとるんやんな。何者やねん? いい加減、名前教えろや」


「そやから、呪術師ですよ。そう名乗ったはずです」

呪術師は微動だにせず、無表情で応える。


「いや、本名や本名。そんなあだ名みたいな名前やのうてやな……」


「ほら、持って来てくれはりましたで」

正人の追求を遮るように、呪術師が合掌した。


厨房から、緑色の肌をした凜華が、熱々のヒレカツが乗った小さな器のカレーを呪術師の前に丁寧に置いた。

続いて、兎のラビが、正人が注文した具沢山カツカレーを静かに、そして丁寧に置く。

さらにえらいこっちゃ嬢が、キンキンに冷えた麦茶を2人の前に運んできた。


「有難う御座います」

呪術師が合掌してお辞儀をする。


「熱いからお気をつけて、ごゆっくりしとくれやす」

凜華とラビは、柔らかな笑顔でお辞儀を交わすと、軽やかな足取りで厨房へと戻っていった。


2人が見えなくなると、呪術師は再び合掌し、静かに目を閉じた。

そして、凜とした声で言葉を紡ぎ始める。


『われここに食をうく、つつしみて天地の恵と人々の労を謝し奉る』


呪術師が食前の言葉を朗々と称えた後、彼は「南無阿弥陀仏」を10回、静かに称える「十念」を執り行った。

最後には「御光の元にて感謝して頂きます」と深々とお辞儀をする。


そのあまりに美しく、神聖さすら感じさせる一連の所作に、正人は思わず魅入ってしまった。

毒気を抜かれたように立ち尽くしていたが、慌てて手を合わせる。


「い、頂きます……」


蚊の鳴くような声で合掌した正人に、えらいこっちゃ嬢がひょいと顔を近づけた。


「頂きます出来たのは、えらいやっちゃ」


彼女は満足そうに頷くと、パタパタと厨房へ戻っていった。

スパイシーな香りが鼻腔をくすぐり、正人は震える手でスプーンを握りしめた。


---


正人の目の前には、湯気を立てる至高の一皿が鎮座していた。

こんがりと黄金色に揚がった分厚いとんかつ。

その横には、ゴロゴロとした角切り肉、人参、玉ねぎ、そしてジャガイモが圧倒的な存在感を放つ漆黒のルーが、たっぷりと注がれている。


正人はごくりと唾を飲み込み、震える手でスプーンを握った。


まずは、食べやすく切り分けられた熱々のとんかつ。

カレーをたっぷりと絡めて一口頬張ると、正人の目が見開かれた。


「!! う、美味い! 何やこれ、外はサクサクで中はめっちゃ肉汁があって……カレーとめっちゃ合う!」

あまりの衝撃に、言葉が次々と溢れ出す。


続いて、ルーと御飯、そして大ぶりの肉を一緒に掬い上げ、口の中へ放り込んだ。

肉が舌の上で解ける感覚。

しかし、ただ柔らかいだけでなく、しっかりと「肉を喰らっている」という力強い歯応えが共存している。


「何やこれ、肉がめっちゃ柔らかいのに、しっかりと肉を噛んでる感触もあって……野菜もメッチャ美味い! こんな美味いカレー食べたん初めてや! 辛さも丁度ええし、こりゃ何杯でも、おかわりしてまうかも!」


正人は興奮を抑えきれず、一心不乱にスプーンを動かした。

一方、隣の呪術師は、一口ずつ慈しむように、上品で静かな所作でカレーを味わっている。

その対照的な光景が、店内の不思議な静寂と混ざり合っていた。


ふと喉が渇き、正人は冷たい麦茶を流し込んだ。


「うわ、麦茶も美味いぞ!? ここ、全部が美味い店や! 気に入ったで! こんな美味い店あったんやな。コンビニ飯で適当にすませてたけど、どこにどんな飯屋があるんかとか、ちゃんと知らなあかんかったなあ」


満足感に包まれ、正人は「ほっこり」とした満面の笑みを浮かべた。

やがて、正人が一皿を綺麗に平らげる頃、呪術師も最後の一口を飲み込み、静かにスプーンを置いた。


「われ食を終りて、心豊かに力身に満つ、おのがつとめにいそしみ、誓って、御恩にむくい奉らん」


呪術師は、食後の言葉を流れるように称え、再び「南無阿弥陀仏」を10回、心穏やかに唱える十念を執り行った。

「食を頂けたことに感謝いたします、御馳走様でした」


その澄み渡った声と深い合掌に、正人は再び毒気を抜かれた。

慌てて背筋を伸ばし、自分も不器用ながら手を合わせる。


「ご、御馳走様でした……」


食後の余韻の中で、正人の顔からは先程までの刺々しさが消えていた。

しかし、この平穏が嵐の前の静けさであることを、彼はまだ予感すらしていなかった。


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二人がちょうどカレーを綺麗に平らげた頃合いだった。


パタパタと小気味良い足音が近づいてきて、えらいこっちゃ嬢がお盆を手にやってきた 。

お盆の上には、透明な器に入った真っ白なヨーグルトと、キャラメルソースが艶やかに光るプリンが乗っている。


えらいこっちゃ嬢は、慣れた手つきでヨーグルトを呪術師の前に、そしてプリンを正人の前に置いた。

そのまま手際よく、空いたカレーの皿をトレイに乗せて厨房へと下がっていく。


呪術師は静かに手を合わせた。

「有難う御座います。」


丁寧にお辞儀をするその姿に、正人もつられるようにして頭を下げた。

「あ、有難う」


正人は、目の前のプリンをじっと見つめる。

スプーンを差し込むと、吸い付くような弾力がありながらも、驚くほどなめらかな感触が手に伝わってきた。

慎重に1口すくって、口の中へ運ぶ。


「!!……なんて、美味いプリンや……」


舌の上でとろけるような甘みと、少し苦味の効いたカラメルが絶妙なハーモニーを奏でている。

正人の強張っていた表情が、一気にほぐれていった。

どこか懐かしく、それでいてこれまで食べたことのないような上質な味わいに、心まで温かくなっていく。


呪術師も、銀色のスプーンでヨーグルトを掬った。

「こちらのヨーグルトも、絶品で宜しゅうおす。」

上品な所作で、1口ずつその味を噛み締めるように食べている。


「そこそこええ辛さやったからな、カレーの後に甘いデザートは最高やで。めっちゃいい店やんけ、ここ。」


正人はそう言って、夢中でスプーンを動かした。

濃厚な卵のコクと、すっきりとした甘さのプリンは、あっという間に正人の胃袋へと収まってしまった。


正人は空になった器を見つめながら、不意に遠い記憶を呼び起こした。

「プリン、めっちゃ美味かった。プリンと言えば、小学校やとプリンが余ったら、じゃんけんしたもんやな。」


その光景を思い出したのか、正人の口元に自然と笑みがこぼれる。


「あんたも、プリンのじゃんけんはよう参加したんやないんけ?俺はよう覚えてへんけど。」

正人は軽い調子で、隣に座る呪術師に問いかけた。


呪術師はスプーンを置き、静かに正人の目を見つめた。

「私は、一切参加しませんでした。争いたくなかったから。」


その声には、一切の迷いも、棘もなかった。

ただ、静かな事実として、その言葉は店内に響いた。


「ふーん。ま、そやから全く印象に無くて覚えてへんのやろな。」


正人は特に深く追求することもなく、鼻を鳴らした。

自分のような、欲しいものを力ずくで勝ち取ってきた人間とは、住む世界が違ったのだろうと勝手に納得する。

しかし、そんな正人の心境を映すように、今の彼の表情は穏やかだった。


「ほんま、満足やで、今日の晩飯は。」


正人は椅子に深く背を預け、ほっこりとした満面の笑みを浮かべた。

これまでの人生で感じていた焦燥感や苛立ちが、この食卓の上では、嘘のように消え去っていた。


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##漆黒の香りと金色の来訪者


えらいこっちゃ嬢がパタパタと軽快な足音を立ててやってくると、空いたデザートの皿を鮮やかな手つきでトレイに乗せていく。

代わりに、お盆から香ばしい香りを漂わせる2つのカップをテーブルに置いた。

「食後の珈琲、熱いからゆっくり飲まんと、えらいこっちゃ」


「有難う御座います。」

呪術師はいつものように丁寧に手を合わせ、深々と頭を下げる。


「あ、有難う。」

その律儀な姿を見て、正人も少し照れくさそうに会釈をした。


正人は立ち上る湯気を眺め、ふうと深く息を吐いた。

「ほんで、カレーとプリンに熱中してたから話出来てへんかったけど、珈琲飲みながら話そか。」


カップを手に取り、まずは1口その熱い液体を啜る。

「……! この珈琲もゴッツ美味いやんけ。会社の給湯室のインスタントとはわけが違うな。」


豆の深いコクと華やかな香りが鼻を抜け、胃の腑にじわりと染み渡っていく。

正人は思わずほっこりとした表情になり、慈しむようにもう1口飲み込んだ。


呪術師は傍らに添えられたミルクを手に取り、ゆっくりとカップへ注ぎ入れる。

漆黒の液体に白が混ざり合い、なめらかなカフェオレへと変わっていく。

呪術師はそれを1口含み、静かに喉を鳴らした。


正人はカフェオレを楽しむ呪術師をじっと見つめ、気になっていたことを切り出した。


「ほんで、あんたは誰や? 流石に名無しで通すのは無理があるやろ。」


その問いに呪術師が答えようとした、その時だった。


ガラガラ……ッ!

店の引き戸が小気味良い音を立てて勢いよく開いた。


「おつー♪ お、カレーのいい香りがするじゃん♪ 今日はカレーなんだねー♪」


透き通るように澄んでいて、それでいて弾けるような元気な声。

ギャル特有の軽快な口調が、静かだった店内の空気を一瞬で塗り替えていく。

正人が驚いて音のした方へ振り向くと、そこには1人の少女が立っていた。


黒地に金色の花の刺繍が鮮やかにあつらえられた、息を呑むほど美しい着物。

女子高生くらいの年頃だろうか、眩いばかりの金髪が印象的な超絶美少女だ。


その金色の瞳は宝石のように輝き、頭の両側からは黒く鋭い、鎌のような形をした日本の角が生えている。

長い髪はシュシュを使い、左側でサイドテールにまとめられていた。

手には何かが包まれた風呂敷包みを大事そうに持っている。


正人はその光景に、思考が完全に停止した。


相手に鬼の角が生えていること、この世の者ではない異形の存在であることさえ、彼の意識からは完全に消し飛んでいた。

ただただ、目の前に現れた規格外の美貌に目を奪われる。


(めっちゃ可愛いし美人や……)


正人は口を半開きにしたまま、その美少女に見惚れて固まってしまった。


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##人生の忘れ物と金色の瞳


カウンターの向こう側で、地蔵店長がいつもの穏やかな慈愛に満ちた表情を、さらに深めて目を細めた。


女鬼じょきさん、いらっしゃいまし。丁度良い頃合いの御到着で御座います。」


そう言って、お地蔵さんのような丸みを帯びた優しげな笑顔を浮かべ、胸の前でそっと合掌してお辞儀をする。

店内の空気が、地蔵店長の放つ柔らかな光のような安心感に包まれ、まるで時間がゆっくりと溶けていくような感覚に陥る。


そこへ、えらいこっちゃ嬢が弾けるような勢いで飛んできた。


「女鬼ねえちゃん、いらっしゃい!流石のグッドタイミング、えらいこっちゃなシゴデキさん!」


彼女は台形の形をした口を大きく開けて笑いながら、ちぎれんばかりに小さな両手をぶんぶんと振って、心からの歓迎を表現する。

「シゴデキ」という現代的な響きの言葉が、この不思議な空間では妙に心地よく響き、どこか温かい雰囲気を作り出していた。


金色の瞳をキラキラと細め、眩いばかりの笑顔を振り撒きながら、美しき鬼がカウンター席へと歩み寄ってくる。


「あはは、ありがと♪」


その一言だけで、店内の明度が一段上がったかのような錯覚を覚える。

彼女が纏う黒地の着物に施された金色の花が、店内の照明を反射して、歩みに合わせてゆらゆらと豪華に揺らめいた。


先に席についていた呪術師が、居住まいを正して深く頭を下げる。


「有難う御座います、女鬼さん。お手数おかけします。」


その落ち着いた、深い敬意の籠もった挨拶に対し、女鬼は軽やかに、そして親しみを込めて応えた。


「呪術師さん、おつー♪むしろ、今回は面倒な事を全部引き受けてくれるんだから、お手数かけちゃったのは、あーしの方だよ♪ありがとね♪」


彼女は悪戯っぽく、それでいてチャーミングに片目を閉じ、鮮やかなウインクを呪術師に贈る。

その洗練された一挙手一投足に、正人は完全に視線を奪われていた。


呆然としていた正人が、ようやく震える声で呪術師に尋ねる。

「……あんた、この美人の御嬢ちゃんと知り合いなんけ?」


その問いに、呪術師は真摯な、濁りのない眼差しで答えた。

「私にとって大切な恩人……恩鬼の一人です。この店の皆さんは、私にとってかけがえのない恩のある方々です。」


呪術師の声には、言葉以上の重みと、長い年月をかけて育まれたであろう深い感謝の念が静かに滲んでいた。


「そうか……紹介してくれるとか、ないか?」

鼻の下を伸ばし、淡い期待を抱いて身を乗り出した正人だったが、その目論見は刹那の間に打ち砕かれることとなった。


「ナンパするなら人間の女の子にしときなよ♪」


女鬼はあっさりと、それでいて拒絶を感じさせない軽快なトーンで言い放った。

そして、手にしていた風呂敷包みを、正人の目の前へと静かに置く。


――コツン。


重厚な、何か大切なものが詰まっているような音がカウンターに小さく響いた。


「これは……?」


正人は目を丸くし、自分の目の前に鎮座した包みを不思議そうに眺める。

風呂敷の中身は、見た目以上に確かな重量感があるようで、正人は怪訝そうに首をひねった。


「んー、一言で言うなら、溜め込みおっちゃんの忘れ物?」


女鬼は腕を組み、細い左の人差し指を顎に当てて、小首をかしげる思案のポーズを取る。

左右から黒く鋭く生えた鎌状の角が、その動作に合わせて優雅に揺れる。

彼女の指の動き、首の角度、そのすべてが洗練された芸術品のように美しく、正人は再び魂を吸い込まれそうになった。


しかし、我に返った正人の頭に、一歩遅れて論理的な疑問が浮かび上がる。

自分は今日、初めてこの店の暖簾を潜り、この不思議な空間に足を踏み入れたはずなのだ。


「俺はこの店に、今日初めて来たから、忘れもんなんてないはずやで?」

正人は不可解そうに眉を寄せ、目の前の包みと女鬼の顔を交互に見つめ直した。


女鬼は金色の瞳に慈しみと、どこか遠い過去を憐れむような哀愁を滲ませ、ゆっくりと目を細めた。


「そうだねえ、言うなれば『人生の忘れ物』って感じ?もっと正確に言えば、置き去りにしたもの、かな。」


彼女の声は、冬の風のように冷たくもあり、春の日差しのように温かくもある不思議な響きを帯びていた。


「現物はとっくの昔になくなっちゃってるから、現物をかたどった複製品だけどねー。」


その言葉を聞いた瞬間、正人の胸の奥で、何かが静かに、だが確実にざわつき始めた。


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##積み残した宿題と過去帳


女鬼が、白く細い指先を風呂敷の結び目へと滑らせた。

その所作は驚くほど上品で優雅でありながら、無駄な動きが一切ない。


――サラリ。


滑らかな絹が擦れる音が静かな店内に響き、手際よく結び目が解かれていく。

中から現れたのは、角が少し丸まった数冊のノートや、表紙に大きく「計算ドリル」と印字された、懐かしい質感の冊子だった。


正人は身を乗り出し、眉間に深く皺を寄せてその中身を覗き込んだ。


「なんやこれ? 小学6年生の計算ドリルに、漢字ノート……?」


首を傾げながら、彼は吸い寄せられるように一番上のノートを手に取る。

表紙の右下、長年放置されて少し色褪せた名前欄に目を落とした瞬間、正人の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。

そこには、紛れもなく自分自身の、あの頃の乱暴な筆跡で「6年3組:小川正人」と記されていたからだ。


「うわ……。なんやこれ、めちゃくちゃ懐かしいやんけ。これ、俺が小学校の時に使ってたやつやろ? まだこんなもん、この世に残ってたんか」

思わずこぼれた声には、幼少期への淡い郷愁が混じっていた。


しかし、次の瞬間、冷や汗のような違和感が背筋をゾワリと駆け抜ける。


「……いや、待てや。おかしいやろ! なんで俺の名前が書いてあるノートがここにあるねん。流石にもう残ってるわけないやろ! 引っ越しの時とか、全部ゴミに出して処分したはずや。絶対におかしいわ!」


正人は激しく首を振り、目の前の女鬼とノートを何度も交互に見つめた。

自分が捨て、忘れ去り、歴史の彼方に追いやったはずの「宿題」が、なぜこの異世界の食堂のカウンターに実体として存在しているのか。


女鬼は金色の瞳を悪戯っぽく、妖しく輝かせ、腕を組んだまま唇の端を吊り上げた。


「だから言ったじゃん、『複製品』だよって。あーしが適当に言ってるわけじゃないんだから。ほら、そこに『過去帳』あるっしょ? その記録を元に、当時の質感まで完璧に再現して複製したってわけ」


彼女が手のひらを向けて示した先、カウンターの隅に、ずっしりと重厚な装丁を施された一冊の本が置かれていた。

その表紙には、はっきりと「小川正人」という文字が、逃れようのない事実として金文字で刻まれている。


「過去帳……? 俺の過去が書いてある、やと……?」


正人が震える声で、確認するように尋ねると、女鬼は軽い調子で、しかし冷徹に頷いた。

「まあ、簡単に言えばそうだねー。おっちゃんが今までどんな風にズルして、誰に何を押し付けてきたか、全部そこにストックされてんの。便利でしょ?」


彼女はそのまま、風呂敷の隅に添えられていた、少し短くなった鉛筆と消しゴムを、細い指先でピンと指し示した。

「そんじゃ、準備は整ったね。はい、どうぞ」


「……え?」

正人の口から、間の抜けた、力の抜けた声が漏れる。


「え? じゃないって。ほら。その計算ドリル、最後までキッチリやらないと。あ、全問正解するまで帰さないからね♪」


女鬼の口調は、まるで「食後の珈琲をお代わりする?」とでも勧めるかのように軽やかで自然だった。

それゆえに、正人の困惑は限界を突破していく。


「え? いやいやいやいや! 何を言うてるんやあんた! なんで俺が、この歳になって、こんな見知らぬ店で小6のドリルを解かなあかんねん! ギャグやろ? 質の悪いドッキリか何かか?」


正人は堪らず乾いた声を上げて笑い飛ばそうとした。


だが、女鬼の表情に笑みはなく、ただ静かに、そして真っ直ぐに金色の瞳で正人を射抜く。


「だって、これ、おっちゃんのだから。ねえ? 呪術師さん」

彼女はさも当然のことを確認するかのように、隣で静かにカフェオレを飲む呪術師へと視線を送った。


呪術師は微動だにせず、深みのある、地獄の底から響くような声で短く答えた。

「いかにも。それが、貴方が今日ここへ導かれた理由の一つでもあります」


そのあまりに逃げ場のない真剣な空気感に、正人の笑い顔が引きつり、凍りついていく。

「はあ? 意味分からん……。いかにも、やないわ! そもそもドリルなんて、答え見て写せば終わりやろが!」


悪あがきのように叫ぶ正人の背後に、パタパタと小走りして、いつの間にか背後に回り込んでいたえらいこっちゃ嬢が、いつもの台形の口をへの字に曲げ、腰に手を当てて正人をジロリと睨みつけた。


「宿題溜めっぱなしのさぼり魔さん、えらいこっちゃ。」


彼女の丸い瞳には、いつもの愛らしさではなく、規律を守らぬ者への明確な叱咤の光が宿っていた。

その小さな、しかし圧倒的な威圧感を前に、正人は言葉を失い、冷や汗を流しながらノートを見つめるしかなかった。


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##拒絶と重圧の護符


正人は目の前に積まれた数冊の冊子を、汚い物でも見るかのように忌々しそうに見つめて鼻で笑った。


「いや、こんなんやってられるか! そりゃ、今更小6の問題集なんて、本気出せばすぐに終わるやろうけどな……。せやけど、なんでこの歳になって、わざわざこんなとこで座らされてドリル解かなあかんねん。アホらしいわ!」


彼が吐き捨てるように言葉を漏らし、周囲を小馬鹿にしたような態度を取った、その瞬間だった。


それまで陽気なギャルそのものだった女鬼の表情が、一変した。

「……じゃあさ、それ、いつやるん?」


冷徹な響きを帯びた声と共に、金色の瞳が凍てつくような鋭い眼光となって正人を真っ向から射抜く。

「おっちゃんが自分の都合でずっと無視して、逃げ回ってきた『宿題』じゃん。いつ、自分の手で終わらせるつもりなわけ?」


その背後に、巨大で禍々しい鬼の幻影が揺らめいたかのような錯覚を覚え、正人は背筋を突き抜けるような強烈な恐怖に、言葉を失って凍りついた。


隣では、呪術師が相変わらずの無表情で、カフェオレを静かに一口啜った。


「その計算ドリルと漢字ドリルを終わらせれば帰れるんやさかい、下手に足掻くのはやめて、観念して、最後までやらはったらどないです? その方がお互いのためやと思いますよ」


淡々と、事務的に告げられるその言葉は、優しさなど微塵もなく、むしろ逃げ場のなさを残酷に突きつけていた。


「なんでやねん! なんで大人になってまで、こんなガキの遊びみたいな真似せなあかんねん! 俺は客やぞ!」


正人はその静かな圧力に耐えかね、必死に自分を奮い立たせるように声を荒らげて怒鳴った。

しかし、女鬼は眉ひとつ動かさず、さらに鋭いナイフのような言葉を投げ返す。


「大人になっても今の今まで、楽な方に逃げてばっかで全く手を付けて来なかったから、こうなってるんじゃん。誰がやったって同じじゃない、おっちゃん自身の手で、ケジメとしてやるべきことなんだよ」


「あのなあ、美人の御嬢ちゃん……。あんた、さっきから偉そうに、俺の何を知ってそんな口叩いてんねん!」


正人は顔を真っ赤にしてすごんで見せたが、呪術師はもはや視線すら合わせようとせずに言い放った。


「少なくとも、自分を正当化してばかりの君自身よりも、彼女の方が君の事をずっとよくご存じやと思いますよ」


「なんやねんそれ、わけわからんわ! もうええ、気色悪い店やな、俺は帰る! 飯代は俺が付き合ってやったんやから、あんたの奢りやからな!」


正人は半ばパニックになりながら椅子を蹴るような勢いで立ち上がろうとした。

一刻も早く、この異常な静寂と視線が支配する空間から逃げ出したい一心だった。


しかし、呪術師が懐に手を入れる動きの方が早かった。


「……まあ、こうなるとは思うてましたよ。素直に言うことを聞くような御人やないって事は、あの頃からわかってましたからなあ」


呪術師の指先に挟まれた長方形の紙、すなわち『御札』が、流れるような動作で宙を舞った。


――シュッ!


鋭い音を立てて放たれたそれは、吸い込まれるように正人の肩へとスッと張り付く。


「……え?」


次の瞬間、正人の全身を未曾有の重圧が襲った。


――ズシンッ!!


まるで巨大な鉄塊を、あるいは自分自身の積み上げた罪の重さを背負わされたかのような凄まじい衝撃。


「が……っ!? ぐ、あああ……っ!」


正人は悲鳴を上げる間もなく、そのまま店の硬い木の床にうつ伏せになって叩きつけられた。


鼻をつく古い木の香りと、床から伝わる不気味なほどの冷気。

全身に数トンもの重しを乗せられたような感覚に、呼吸さえもままならない。


身体の自由は完全に奪われ、指一本、まつ毛一つ動かすことすらできず、正人は床に這いつくばったまま絶望に目を見開くしかなかった。


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##積み上がった過去


「な、なんやねんこれ!?なんか凄く重いもんで押しつぶされる!た、助けて!誰か助けてくれや!」


正人は床に頬を強く押し付けられたまま、肺の空気を絞り出すように叫んだ。

全身を襲う凄まじい質量に、呼吸をするたびに肋骨が軋むような感覚に襲われる。


呪術師は慌てる様子もなく、カフェオレを静かに啜った。


「そりゃ、重いでしょうなあ。こんだけ溜め込まはったら、こうもなりおすわ」


そう言って、呪術師は細い指で正人の真上をスッと指し示した。


正人は脂汗を流しながら、首の皮1枚を動かすような必死さで何とか上を見上げた。

そこには、到底この世の物とは思えないほど巨大な、1冊1冊が軽自動車ほどもある教科書やノートの類が、これでもかと言うくらいに積み上がっていた。

それらは物理法則を無視した角度で重なり合い、天井を突き破って遥か上空まで続いているように見えた。


「天井突き破ってますけど、実体がないから、ほれ、この通り」


呪術師が椅子から立ち上がり、頭上に浮遊する巨大な国語の教科書へと手を突っ込む。

彼の手は抵抗なく紙の束を通り抜け、そこには質量としての実体が存在しないことが証明された。


「見ての通り、呪術師さんには触れられないから、自分で何とかするっきゃないね。おわかり?」


女鬼が腕を組み、冷徹な美しさを湛えた瞳ではいつくばっている正人を見下ろす。

金色の瞳には、正人の浅ましさを冷たく見透かすような光が宿っていた。


「えらいこっちゃな溜め込み具合!まさにえらいこっちゃの極み!」


えらいこっちゃ嬢が山のような積載物を見上げて呆れたように声を上げると、パタパタと足音を立てて厨房へ入っていった。


「一体、なんなんや!?俺はどうすりゃ助かるんや!?早くこの重いのをどかしてくれ!」


正人は顔を歪め、地面を掻きむしるようにして叫ぶ。

もはや、プライドも虚勢も、この圧倒的な重圧の前では何の役にも立たなかった。


女鬼は少しだけ口角を上げ、なぞなぞでも出すかのような軽い口調で問うた。

「簡単じゃん。それじゃあ、問題。宿題出されたら、どうする?」


「え?そりゃ、宿題するやろ?当たり前やんけ!」

正人は苦悶の表情を浮かべながらも、反射的にそう答えた。


「そうだよねー、ちゃんと宿題やるよねー。最近だと、宿題はしなくていいとか、そういう類の事が書かれてる自己啓発書とか出ちゃったりしてるけど、基本は宿題出たらやるよねー」

女鬼は人差し指を顎に当て、どこか遠くを見るような目で、淡々と言葉を重ねた。


「そ、それとこれと何の関係があんねん!そんな話はどうでもええから助けろ言うてるんや!」


「それじゃあ、次の問題ってか質問。おっちゃんは、ちゃんと宿題してきた?」

女鬼の瞳が再び鋭くなり、正人の魂の奥底を執拗に問い詰めるように見つめた。


「え?そりゃ……してきたやろ?人並みにはやってきたわ!」

正人は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに開き直ったように嘘を重ねた。


「んー……こりゃ駄目だわ」


女鬼は心底呆れたように肩をすくめ、深い溜息をついた。

その表情からは先程までの遊び心が消え、救いようのない愚かさを見限るような冷ややかさが漂っていた。


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##水面に揺れる記憶の断片


パタパタと小気味良い足音が、緊迫した空気の流れる店内に響き渡る。

厨房から戻ってきたえらいこっちゃ嬢の手には、1枚のお盆が乗せられていた。

そこには透明な炭酸水のボトルと、白く艶やかな陶器の盃が用意されている。


えらいこっちゃ嬢は、床に這いつくばる正人のすぐ側まで歩み寄り、女鬼の前でピタリと足を止めた。

女鬼は、その白く細い指先を炭酸水のボトルへと優雅に滑らせる。


「ありがと♪」


金色の瞳を細めて、えらいこっちゃ嬢に優しくウインクを贈るその姿は、先程までの鋭い眼光が嘘のように慈愛に満ちていた。

えらいこっちゃ嬢が両手で恭しく差し出した真っ白な盃に、女鬼は淀みのない、それでいて極めて丁寧な所作で炭酸水を注ぎ込んだ。

トクトク、シュワシュワと澄んだ音が響き、透明な液体が盃の縁まで並々と満たされていく。


炭酸水で満たされた盃を、えらいこっちゃ嬢は身動きの取れない正人の顔のすぐ前へと静かに置いた。

木の床から伝わる冷気と共に、弾ける気泡の音が正人の鼓膜に微かに届く。


「そこからでも炭酸水の水面は見えるよね?目を逸らさずに、よーく観な」


女鬼が正人の耳元で囁くように低く告げると、間髪入れずに「パチン」と小気味良い音を立てて指を鳴らした。


その瞬間、静止していたはずの水面が、まるで命を吹き込まれたかのように激しく揺れ始める。

中心から広がる同心円状の波紋が、弾ける泡と混ざり合い、やがて万華鏡のように光を屈折させながら形を成し始めた。


「な、なんやこれ……映画みたいや……」


正人は凄まじい重圧に押し潰されそうになりながらも、目の前で起きている異常な光景に思わず呟きを漏らした。


波紋の合間に、霧が晴れるようにして鮮明な映像が映し出されていく。

揺らめく水面の奥に現れたのは、セピア色の記憶の底に沈んでいた光景だった。

そこには、どこか見覚えがあるような、それでいて意識から完全に排除していたためにすぐには思い出せない、ひどく気弱そうな少年の姿が映し出されていた。


映像はさらにピントを合わせ、放課後の夕日が差し込む学校の教室を映し出す。

埃の舞う空気の中に置かれた、1つの傷だらけの学習机。

その上には、数冊のノートらしきものが、少年の小さな肩にのしかかる重圧そのもののように積み上げられていた。


正人は息を呑み、水面を凝視する。

目を凝らしてよく見れば、一番上のノートには、紛れもなく当時の自分自身の乱暴な筆跡で「小川正人」という名前が書かれているのが分かった。

そしてその下には、正人の遊び仲間であり、共に悪行を重ねていたやんちゃ仲間たちの名前が記されたノートも、数人分重なるように無造作に置かれていた。


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##歪んだ過去の縮図


盃に満たされた炭酸水の水面が、鏡のように2つの景色を映し出し始めた。

それは1つの円の中に無理やり共存させられた、光と影のような対照的な光景だった。


「なんや、これは、俺のノート……?」

正人は水面を凝視し、困惑の声を漏らす。


すると、盃の中の映像は中央で鋭く分断され、別々の場所を映し出した。


一方には、朝の眩い光が降り注ぐ小学校の運動場があった。

1時間目の授業が始まる前の自由な時間、砂煙を上げながら楽しそうにドッジボールに興じる少年たちの姿。


「あ、あいつら……堀家に、長谷川に、谷口やんけ。懐かしいなあ」


正人は思わず、当時の遊び仲間たちの名前を口にした。

水面の中で笑い、ボールを追いかける自分たちの姿は、どこにでもいる無邪気な子供そのものに見えた。


しかし、もう一方の景色は、それとはあまりにかけ離れていた。


静まり返った教室の隅、気弱そうな少年の机の上に広げられた数冊のノート。

そこには正人の物だけでなく、今しがた名前を呼んだ堀家や長谷川、そして谷口のノートが重なり合っていた。

少年は淡々と鉛筆を握り、自分の遊び時間をすべて削って、4人分の課題を黙々と書き進めていた。


やがて場面は1つに混ざり合い、気弱な少年だけの姿を映し出す。


――キーンコーンカーンコーン。


授業開始を告げるチャイムが鳴り響く直前、少年は憑き物が落ちたような顔で、すべての作業を終えた。

彼は無表情で、山積みになっていたすべてのノートを閉じる。


そこへ、少し遅れて正人、堀家、長谷川、谷口の4人が、汗を拭いながらガヤガヤと教室に入ってきた。

彼らは当然の権利だと言わんばかりの足取りで少年の机へ歩み寄ると、無造作にノートをひったくっていく。


「間違ってへんやろな」

少年を見下ろし、正人が低くすごんだ声が水面から漏れ聞こえてきた。


対する少年は、表情を変えずに短く答える。

「さあ」


「間違ってたらわかってるやろな」

正人はそう吐き捨てるように脅し文句を残すと、何食わぬ顔で自分の席にどっかと腰を下ろした。


やがて、担任の教師が教室に入り、1時間目の算数の授業が始まった。


「それじゃあ、昨日の宿題の答え合わせを始めるぞ」

教師の声に合わせて、正人たちは先程まで少年の机にあったノートを、堂々と机上に広げる。


「はい!」

「わかりました!」


元気よく返事をして、指名されるとスラスラと解答を読み上げる4人。

その顔には罪悪感の欠片もなく、まるで自分が努力して解いたかのような涼しい顔をして、教室内で「優等生」の仮面を被り続けていた。


その様子を、床にはいつくばったまま見せつけられた正人は、奥歯を噛み締めて水面を見つめるしかなかった。


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##暴かれた本性と鬼の怒り


盃の中に映し出される、嘘偽りのない過去の光景。


正人は床に這いつくばったまま、その残酷なまでの真実を突きつけられ、言葉を失っていた。

かつての自分がどれほど浅ましく、他人の善意や弱さを踏みにじってきたか。その記録が、逃げ場のない水面に克明に刻まれている。


そんな彼を、女鬼は一切の温度を感じさせない無表情で見下ろした。


「……それじゃあ、先程の質問。おっちゃんは、宿題をちゃんとしたでしょうか?」


低く、静まり返った店内に響く声。


正人は喉の奥がカラカラに乾き、心臓が肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打つのを感じた。


「……あれは、あの時は……その、若気の至りというか……」


必死に言葉を濁し、視線を泳がせる正人に対し、女鬼の声が鋭いナイフのように突き刺さる。


「質問の答えになってないよ?」


ぴしゃりと言い放たれた言葉に、正人は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。


「……してません、でした……」


震える声で、ようやく絞り出した白状。

しかし、女鬼の追及は止まるどころか、さらに深く魂を抉りにかかる。


「なんで?」


「……遊び、たかったから」


認めたくない本心を言葉にするたび、正人の声は情けなく、惨めに震えていく。


「朝に遊びたかったら、前の日に家でやればよかったじゃん。なんでしなかったん?」


「……だって、その……家でも、遊びたかったし。やりたいゲームとか、いっぱいあったし……」


女鬼の問いは、正人が何十年もかけて塗り固めてきた言い訳を、1枚ずつ剥がしていく。


「つまり、自分の遊ぶ時間を1秒でも多く確保したいがために、本来やるべき『宿題』という時間を人生から完全に排除した。……ってことでオケ?」


「……はい。その通りです……」


女鬼は一度、冷たい吐息を漏らすようにして言葉を切った。


「遊びたいし、面倒な宿題もやりたくない。そこまではまあ、子供の心理としてはわからんでもないよ。子供なんて、そんなもんだし。……でもさあ」


彼女は一歩、床に這いつくばる正人の顔の間近まで、その美麗な顔を寄せた。


「なんで、おっちゃんに出された宿題を、あの少年に押し付けたわけ?」


その問いは、正人がこれまでの人生で最も目を逸らしてきた、自身の魂の汚濁を真っ向から指摘するものだった。


「やりたくないなら、ただやんなきゃいいじゃん。そんで先生に怒られて、立たされて、一人で恥をかけば済む話じゃんね? なのに、なんでそこで『あの少年にやらせればいい』って発想になるわけ? あーしにもわかるように、丁寧かつ論理的に説明してよ」


女鬼の眼光は、もはや獲物を逃さない飢えた捕食者のそれへと変わっていた。


「……怒られたく、無かったから。それに、恥も、かきたくなかったから……」


「へぇ。怒られたくないから、あたかも自分でやったように見せかけるために、他人の努力を奪って『正解』だけ手に入れたかったんだ。……で? なんであの気弱そうな少年にやらせたん? 他にもクラスメイトは、いくらでもいたのにさぁ」


逃げ場のない、魂の深淵まで覗き込むような問い。

正人は女鬼から放たれる圧倒的な威圧感に耐えきれず、涙を流しながら、ついに本性を曝け出した。


「……あいつは、気が弱くて……何言っても逆らわないし……先生にチクったりもしないから。一番、都合が良かったんや……っ!」


自分の口から出た言葉の卑劣さに、正人自身が一番、打ちのめされていた。


――パチ、パチ、パチ。

乾いた拍手の音が、静かな店内に虚しく響き渡る。


「はい、よくできました。ちっともよくないけど。むしろ、人間として最低最悪だし」


女鬼は皮肉たっぷりに言い放つと、ふっと表情を消した。


「……あーしの感想を、はっきり言うね?」


その瞬間、店内の空気が物理的に重くなったかのように激変した。


女鬼の白い額に、青筋がピキリと浮かび上がる。

端正だったその顔立ちは、凄まじい怒りによって、見るも恐ろしい形相へと変貌していく。

金色の瞳は爛々と輝き、まるで地獄の業火で正人を焼き尽くさんとするかのような、人知を超えた『鬼』そのものの眼光を放った。


「超絶ダサ過ぎ。クソガキなんて言葉じゃ生易し過ぎるし、もはや存在が公害レベルなんだけど」


地鳴りのような怒気を含んだ声が、床板を震わせ、正人の鼓膜に直接叩きつけられる。


「ひぇ!? ご、ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」


正人は涙目になりながら、本物の鬼が放つ絶対的な恐怖の前に、ただただ小さく丸まって、赤子のように震え続けることしかできなかった。


---


##暴かれた悪行の軌跡


女鬼は呆れ果てたというように、その端正な眉間に深い皺を刻んだ。


「……謝んのはさ、あーしにじゃなくて、もっと他にいるっしょ」


深く、そして長く吐き出されたため息は、正人の魂にまで凍てつくような冷たさを運んでくる。


正人は床に頬を擦り付けたまま、ガチガチと歯の根を鳴らして震え上がった。


「……はい、すみませんでした……っ。ほんまに、堪忍してください……」


その情けない姿を、厨房の暖簾から顔を出していたえらいこっちゃ嬢が、丸い目をさらに見開いて眺めている。


「また女鬼ねえちゃんに謝っとる! 宿題溜め込みおっちゃん、女鬼ねえちゃんにえらいこっちゃってビビり散らかしてよる。情けなさ限界突破、えらいこっちゃ!」


えらいこっちゃ嬢は腰に手を当てて呆れたように言い放つと、パタパタと足音を立てて厨房の奥へと引っ込んでいった。

女鬼はその様子を見て、ふっと憑き物が落ちたように表情を緩め、ケラケラと鈴が鳴るような声で笑う。


「ま、そりゃ大抵の人間は鬼を怖がるもんだからねー。ほら、鬼って恐怖の象徴みたいな諺とか言い伝えって、腐るほどいっぱいあるじゃん? おっちゃんの反応の方が、人間としてはノーマルなんだよ」


その時、これまで静かにカフェオレを口に運んでいた呪術師が、慈愛に満ちた眼差しで女鬼を見つめて口を開いた。


「僕は、貴女の事を怖いと思うた事は一度もありませんけどね。強く優しく美しく、その上この上なく素敵で美麗なる可愛らしい鬼のお嬢さんやと、出会った時からずっと、そう思うてます」

呪術師の迷いのない、凛とした言葉に、女鬼は金色の瞳を輝かせて顔を綻ばせる。


「ふふ、ありがと♪ 呪術師さんってば、相変わらず口が上手いんだから」

女鬼は茶目っ気たっぷりに、呪術師に向けてパチンと鮮やかなウインクを贈った。


その光景を、床に這いつくばる正人は地獄の底から天国を見上げるような絶望感で見つめていた。

「……お、俺とはえらい違いや……。あんたはそんなに尊敬されとるのに、俺は……」


正人は自分の歩んできた道の惨めさに打ちのめされ、力なく床にうなだれた。

「……それで、俺はどうすればええんや……。あいつに、あの時のあいつに、今更やけど謝りに行けばいいんやな?」


絞り出すような正人の問いに対し、女鬼の口調は再び、逃げ場を許さない冷徹なものへと切り替わった。


「謝っただけで許されるわけじゃないってことくらい、流石にその歳ならわかるよね? 謝っただけじゃ、その背中に積み上がった『宿題』の重みは、1ミリだって無くならないんだよ」


女鬼は冷たく言い放つと、再び「パチン」と、静寂を切り裂くような鋭い音を立てて指を鳴らした。


盃の中に満たされた炭酸水が、まるで爆発でもしたかのように激しく波打ち、新たな光景を映し出し始める。

そこには、正人が記憶の蓋を閉めて封印してきた、さらなる「人生の残骸」が蠢いていた。


中学に進学しても、相手を変えては宿題を押し付け、暴力的な威圧感で他人の平穏を奪い続けていた残忍な日々。

映像はさらに加速し、社会人になってからの正人の醜態までもが、白日の下に晒されていく。

部下に面倒な案件をすべて丸投げし、成功すれば自分の手柄、失敗すれば他人のせい。


ついには、会社全体を揺るがすような致命的なミスさえも同僚に押し付け、結果として自分が解雇されるに至った、あの忌まわしい瞬間の真実。

正人が自分の無能さを隠すために、どれだけの人間を泥沼に突き落としてきたか、その克明な記録が次々と再生される。


「……あ、あぁ……。もうやめてくれ、見たくない……!」


正人はあまりの恥辱と罪悪感に、思わず水面から目を背けようとした。

しかし、それを女鬼の雷鳴のような叱責が許さない。


「目を逸らすなって言ったよね!」


金色の瞳が激しい怒りに燃え、正人の魂を掴んで逃さない。


「ひぇ!? ご、ごめんなさい、見ます! 見続けますから……っ!」

正人は悲鳴を上げながら、溢れ出る涙で視界が霞むのを必死に堪え、己の悪行のパレードを凝視し続けた。


やがて、すべての映像が流れ終わり、水面は再び透明な炭酸水へと戻っていった。

シュワシュワと弾ける気泡の音だけが、不気味なほど静かになった店内に響く。


正人はもはや、声を出すことすらできなかった。

自分がどれほどの「負債」を抱えて生きてきたのか、そのあまりの巨大さに圧倒され、ただただ呆然と床の木目を見つめるしかなかった。


---


##可視化された重罪の終焉


全ての過去の行いをまざまざと見せつけられた後、正人の体は生き物とは思えないほど激しくガタガタと震え、完全に自由を奪われていた。

冷たい木の床に顔を強く押し付け、脂汗が目に入ることさえ防げないまま、彼は絶望の底で呻き声を上げた。


女鬼はそんな正人の無様な様子を、まるで道端の石ころでも見るような、感情の失せた冷徹な瞳で見下ろした。


「前に勤めてたとこで悪行がばれてクビになっちゃって、それに懲りてからは、溜め込む事はほとんどなくなってはいるみたいだねー。」


温度を一切感じさせない声が、静まり返った店内に響き渡る。


彼女はゆっくりと腕を組み、床を這う正人に容赦のない、刺すような視線を送った。

「そんでさ、ちゃんと理解した? おっちゃんの上に乗っかってるものが一体何なのか。なんでそんだけ溜め込んだのか、その理由をさぁ。」


正人は喉の奥でヒュッ、ヒュッ、と引き攣るような短い呼吸を繰り返し、震える声でやっとの思いで言葉を絞り出した。


「……はい。」


たった2文字。

それを口にするだけで全身の筋肉が断末魔のような悲鳴を上げ、視界が真っ赤に染まる。


「俺は、一生このままなんか……? このまま、誰にも気づかれずに、ここで死ぬんか……っ?」

死の恐怖が正人の精神を真っ黒に塗りつぶし、汚れた床には、止めどなく溢れ出す涙が小さな水溜まりを作っていた。


女鬼はわずかに首をかしげ、その真意を抉り出すようにじっと見据えた。

「おっちゃんは、ここで死にたいの?」


「まさか……! ちゃんと、ちゃんと謝って償うから! これを、この重いのを何とかしてくれ! 頼む、助けてくれ……っ!」

正人は必死に懇願し、床を爪で掻き毟るようにしてもがき続けたが、目に見えない鉄塊は容赦なく彼を押し潰し続けた。


「何とも出来ないよ、あーしらには。」

女鬼はあっさりと、そして残酷なまでに突き放すように言い放った。


「さっき、呪術師さんがやって見せてくれたじゃん。これ、物理的に触れることが出来ないんだし。」

彼女の言葉に合わせるように、呪術師が再び正人の背後にそびえ立つ、巨大で禍々しい教科書の山へと手を伸ばした。


――スッ。


呪術師の指先は、陽炎を撫でるかのように紙の束を音もなく通り抜け、そこには確固たる実体が存在しないことを改めて証明した。


「あーしは鬼の力で触れることは出来るけどさ。この宿題の山を力業でどかしてあげる気もないし、宿題手伝ってあげる気なんて、さらさらないし。」

女鬼は嘲笑うかのように金色の瞳を細め、視線を冷たく逸らした。


「自分で何とかするしか、ありませんわな。」

呪術師もまた、深く、底知れないほど重いため息を吐き出した。


「いや、何とかしたいけど、動けないやろ……。指一本、動かせへんねん……。」


正人は子供のような情けない声を上げ、自らの身勝手さが招いたこの圧倒的な重圧に対し、ただただ震え続けるしかなかった。


呪術師はしばらく、泥の中で足掻くような正人の惨状を無表情で見つめていたが、やがて静かに、諦念を含んだ声で口を開いた。

「……まあ、可視化するんが目的やったし、そろそろええですかな。」


呪術師が伸ばした指先が、正人の肩に張り付いたまがまがしい『御札』に触れる。


――シュッ!


鮮やかな手つきで剥がされた瞬間、正人の背中を覆っていた巨大な負債の塊は、まるで最初から存在しなかった幻のようにスッと消えて見えなくなった。

しかし、正人の体感はそれとは裏腹だった。


「あ……あがっ、がぁっ……!」


視覚的な物体は消えても、魂と肉体に深く刻み込まれたあの凄まじい重みの感覚だけは、呪いのように全身にこびり付いて離れない。

正人はガタガタと笑う膝を必死に叩き、カウンターの縁を掴んで、血反吐を吐くような思いで立ち上がった。


一歩踏み出すたびに、全身の骨がミシミシと軋むような錯覚に襲われる。

彼は数100キロの鉄を背負っているかのような凄まじく重い体を引きずり、一歩、また一歩と、カウンター席の椅子へと辿り着いた。


ガタンッ!


荒い呼吸を乱しながら、正人は椅子に崩れ落ちるようにしてようやく腰を下ろした。

彼はそのまま深く、背もたれに全体重を預け、虚空を見つめたまま、いつまでも止まらない震えに身を任せていた。


---


正人がようやく、荒い呼吸を整えた頃だった。

絶望的な重圧から解放されたはずのその体は、未だに自分の意思では制御できないほど、微かに震え続けている。


女鬼は、正人の目の前に広げられたままの風呂敷を指差した。


「そこにさ、宿題のプリントがあるっしょ? 試しにそれ1枚、やってみ?」


彼女が指し示したのは、計算ドリルなどの束と一緒に包まれていた、1枚のA4用紙だった。

それは、かつて正人がどこかに置き去りにしてきたはずの、無機質な算数のプリントだった。


正人は震える手で、傍らに置かれたペンを握りしめた。

小学6年生の算数。

今の大人になった彼からすれば、決して解けないはずのない、単純な計算問題の羅列だ。


正人は溢れそうになる涙を堪えながら、必死にペンを動かし始めた。


――サリ、サリ、サリ。


静まり返った店内に、紙とペンが擦れ合う規則的な音だけが、虚しくも力強く響き渡る。


何とか全ての空欄を埋め終え、最後の答えを書き込んだその瞬間。

正人の肩から、ほんの少しだけ、確かにA4用紙1枚分だけは軽くなったような、不思議な感覚が走った。


「……え?」


その確かな手応えに、正人の瞳に微かな光が宿る。

彼はその勢いのまま、隣に置かれた計算ドリルにも手を伸ばした。


1問、また1問と、当時の自分が他人に押し付けたはずの問題を、自らの手で解き進めていく。

1冊をやり終える頃には、先程まで彼を押し潰そうとしていたあの絶望的な重みが、明らかにどこか軽くなった気がした。


正人は震える唇を噛み締め、ポツリと独白を漏らした。


「……ほんまに、俺がため込んだ宿題の……人に押し付けて来た罪の重みやったんや……。」


自分の過去の業と、今この身に起こっている超常的な現象。

その相関関係を、彼は心の底から、完全に理解してしまった。


呪術師は正人の様子を冷徹なまでに見守り、静かに、そして無表情で語りかける。


「女鬼さんが言わはったことを、ようやく理解しはりましたね。結局、自分の人生のケジメは、自分で全部対応せんといかんという話です。」

その言葉は、正人の逃げ場を全て塞ぐように重く響いた。


「……でも……。」


正人はそこまで理解しながらも、未だ拭いきれない醜い執着を吐き出すように、悪あがきの言葉を漏らした。


「俺も悪かった。あいつには悪い事してしもた。でもな、堀家も長谷川も、谷口だって、俺と一緒になっておんなじ事してたんや! あいつらもおんなじ目に合わな、不公平やんけ……っ!」


その瞬間、店内の空気が凍りついた。


「今はおっちゃんの話してんだよね? 他の連中の名前出して、話を逸らしてんじゃないよ。」


女鬼の声には、先程までの茶目っ気など微塵もなかった。

顔面に青筋を立て、金色の瞳を爛々と輝かせたその形相は、まさに人を喰らう鬼そのものの凄みを湛えている。


「……っ!? す、すんません!」


正人はそのあまりの恐怖に、椅子から転げ落ちそうになりながら平謝りした。

すると、呪術師が懐から、先程正人の肩に張り付いていたあの不気味な呪符を取り出し、目の前に見せつけた。


「心配せんでも、彼らも同じ業を背負っとるから、必ず同じ報いを受けますよ。読んで字の如く『自業自得』です。彼らが自分の罪に押し潰される日は、そう遠くないはずですわ。」

呪術師の言葉は、氷のように冷ややかに店内の空気を切り裂く。


正人はその呪符を見ただけで、先程の絶望的な重みが蘇るような錯覚に陥り、震え上がった。

「……それ、もう貼らんといてや。堪忍してくれ……。」


震える声で懇願しながら、正人はある疑念を呪術師にぶつけた。

「……あいつらに同じ報いを受けさせるんは、あんたか? なあ、あんたはほんまに何もんなんや? 悪い奴らを裁く、仕置き人か何かか……?」


呪術師は相変わらずの無表情を崩さず、淡々と応える。

「僕は、そこらへんにいる平凡な呪術師ですよ。特別な事など何もしとりません。」


その謙遜とも取れる言葉に、女鬼が横からケラケラと快活に笑い声を上げた。

「『呪術師』である時点で、既に非凡なんだけどねー。それに呪術師さんってば、この界隈じゃ最高に優秀で有難い、超絶有能シゴデキな呪術師さんなんだから♪」


女鬼はそう言って、呪術師に向けて茶目っ気たっぷりにウインクを贈った。


---


正人は背もたれに深く体を預けたまま、その視線を呪術師の冷徹な横顔へと向けた。

ようやく呼吸は整ったものの、心の底から湧き上がる拭い去れない違和感が、彼の思考を激しく揺さぶっている。


「……なあ。あんた、さっきから俺の事……当たり前みたいに『小川君』って呼んでるよな?」

正人は震える指先で呪術師を指差した。


「やっぱ、俺の事を知っとる奴やろ。あんたは……。初対面のふりしとるけど、どっかで俺と繋がっとる人間や。」


呪術師は答えない。

ただ、無機質な器のような瞳で、静かに正面を見つめているだけだ。

正人はその沈黙を肯定と受け取り、記憶の底にある「あの少年」の影を、目の前の男に必死に重ね合わせようとした。


「なあ、まさかとは思うけど……あの気弱な子。さっき水面に映った、俺が宿題を押し付けとったあいつが……あんたなんか?」


確信に近い予感が正人の背筋をゾクッと駆け抜ける。


「確かに、どっか面影があるような気がするし……。でも、それやったら、なんであんたの名前を、俺は全く覚えてへんのや? 同級生の名前くらい、いくら薄情な俺でも、流石に名前くらいは覚えとるはずやろ……。」


正人は不可解そうに首をかしげ、自らの記憶の空白を埋めようと必死に足掻いた。

呪術師は、氷のように冷たく、それでいてどこか遠くを見つめるような声で答えた。


「覚えてないのも、無理もありません。」


その淡々とした返答に、正人は胸の奥を鋭く抉られたような痛みを感じた。


「……それは、俺が自分がやった事や、傷つけた相手の事をすぐに忘れてまう……そんな無責任な奴やからってことか?」

自虐的な言葉が口をついて出る。


しかし、呪術師はゆっくりと首を横に振った。


「それもありますし、僕の場合は、もっと根本的な理由があります。……僕特有の、ね。」

そう言うと、呪術師は再び懐へと手を伸ばした。


――スッ。


その所作と共に、彼は先程とは異なる、不気味な文様が記された別の呪符を取り出した。


「ひぇ!? お、御札はやめてくれよ! もうあんな重いのは勘弁や!」


正人は椅子の上で激しく身構え、顔を真っ青にして両手で顔を覆った。

先程の、魂まで押し潰されるような絶望的な重圧がフラッシュバックし、全身に鳥肌が立つ。


「心配せんでも、この呪符を貴方に貼り付けたりはしませんよ。……これは、僕の過去を語るための記号に過ぎませんから。」


呪術師は手元にある呪符を、まるで大切な宝物でも扱うかのように静かに見つめた。


「僕はね、呪術を習得する最初の段階で……自分の『名前』を捨てたんです。この世のあらゆる縁から切り離され、個としての存在を消す事……。それが、呪術師になるための、避けては通れない代償でしたから。」


彼の言葉は、感情を排した無機質な響きを伴い、静寂に包まれた店内の空気を重く沈ませていった。


---


呪術師は静かに右手を上げ、人差し指と中指を同時に立てて印を組むような所作を見せた。


「『呪う側も呪われる』、『呪いの穴は常に二つ、そこに入るは呪う者と呪われる者』、『逆凪さかなぎ』等々……。世の中には色々表現はありますがね。」


その声は低く、まるでお経のように店内の空気にじっとりと染み渡っていく。

呪術師は、感情を完全に削ぎ落としたような無機質な瞳で、正人をじっと見据えた。


「呪術を扱えるようになるには、自分も呪者としての業を背負う事になる……。つまり、自分も呪われるという事を知るのが、呪術師としての最初の一歩なんですわ。」


店内の照明が、彼の冷徹な言葉に呼応するかのように、一瞬だけ不気味にチカチカと明滅した。


「そやから、呪術師になるための最初の課題は、自分の中からどのような代償を差し出すか、です。僕の場合は、それが『名前』やった。ただそれだけの話ですわ。」


正人はその言葉の重みに、思わずゴクリと唾を呑み込んだ。

自分を自分たらしめる名前を、自ら差し出すという行為の異質さに、背筋に冷たい氷を押し当てられたような感覚が走る。


「最も、僕自身は名前に執着は全くなかったし、むしろ名前なんざ無い方が都合がよかった。ゆえに、喜んで自分の『呪業のじゅごうのあな』にその名前を埋め込みましたよ。そやから、僕は感覚としては代償無しで呪術師になれたわけですわ。」


呪術師は、自嘲気味にフッと軽く笑った。

その乾いた笑い声が、正人の耳にこびり付いて離れない。


「そのために、僕の名前……言うなれば『真名』を知ってるのは、僕の過去帳を自由に読める女鬼さんや閻魔大王をはじめとした、ごく一部の方だけです。完全にこの世の理から消し去ったんやから、現世の人らは一切、僕の名前を覚えてませんし、僕自身、もう自分の『真名』を思い出せません。そやから、君が覚えてなくても無理もないんですよ。」


正人は、もしも自分の名前がこの世から消えてしまったら……と想像し、そのあまりの空虚さに全身を激しく粟立たせた。

名前が無くなれば、自分は何者でもなくなってしまう。そんな事態は、死ぬことよりも恐ろしい事のように思えた。


「……そんな、あっさり捨てられるもんなんか? 名前なんて、親からもらった一番大事なもんやろ……。」


「他の人はわかりませんけど、僕はあっさり捨てられたし、捨てました。未練なんてこれっぽっちも無かった。むしろ、捨て去った後の方が、スムーズに人生流れてるくらいです。」


呪術師は迷いなく、断固とした口調で言い切る。その声には、過去を切り捨てた者特有の冷徹な響きがあった。

正人は浮き出た冷や汗を手の甲で拭い、震える声で問いかけた。


「……そこまでして、俺に復讐しようとしてたんか? 俺を地獄に落とすために、名前まで捨てて呪術師に……?」


「……君だけやないですよ。最初はね、確かに、ドロドロとした復讐心だけで生きていた時期もありましたわ。ただ、年を重ねるにつれて、そんなちっぽけな感情も霧のように消えていきました。やけど、偶然にもあの会社で君と再会して、君の背後にえらいこっちゃなくらい真っ黒な悪業が山積みに溜め込まれてるのが見えましてな。」


呪術師は一度言葉を区切り、窓の外に広がる深い闇をじっと見つめた。


「かつての僕のような目にあって苦しんでいる人が、今もこの世界のどこかにおるんやないかって……そう懸念したんです。そやから、君をここに、この食堂に連れて来た。」


呪術師は再び正人に冷ややかな視線を戻し、逃げ場を断つような鋭い言葉を投げかけた。


「君がこれまで積み上げてきた君自身の悪業を、その眼で、一分一厘の狂いもなくしっかりと『観せる』ために、ね。」


その言い放たれた言葉は、逃れようのない真実として、正人の魂に鉛のような重さでのしかかった。


---


正人は、震える両手を膝の上で固く握りしめた後、崩壊した糸が切れたかのように深く、深く頭を下げた。


――ゴンッ。


額がカウンターの木材に当たる鈍い音が、静まり返った店内に小さく響く。


「……あの時は、ほんまにすまんかった。本当に、すみませんでした。これからは、自分のやるべきことは、ちゃんと自分でやると約束します。嘘やありません、誓います。」


喉の奥から絞り出すような声には、これまでの虚勢は一切混じっていなかった。

正人は溢れそうになる涙を堪え、震える唇で言葉を継ぐ。


「これからは、ちゃんと真面目に生きるから……。どうか、どうか許してください。」


呪術師はその平伏する姿を、瞬きもせずに冷徹なまでに見守っていたが、やがて細い溜息と共に静かに口を開いた。


「……ようやく、始められるようにならはったみたいで、何よりです。」


「え……?」


正人が恐る恐る顔を上げると、そこには感情を削ぎ落とした、しかしどこか深淵を感じさせる呪術師の無表情な顔があった。


「謝罪は償いを終えた『終わり』ではなく、これから償う事を許して貰うための『始まり』であり、真っ当に生きるための1歩目です。頭を下げたからと言って、全てが帳消しになって終わったわけやありませんよ。」


呪術師の言葉は、冬の夜風のように正人の身を厳しく切り裂く。


「『業』はずっと残ります。そして、その業がどういう形で小川さんにあるのかは、先程その眼で観た通りですわ。消える事のない重みとして、貴方の背に残り続けるんです。」


正人はその容赦のない、しかし真っ当すぎる指摘に反論する言葉を持たず、再び力なく頭を下げた。


「……はい。」


その時、沈黙が流れる店内に、女鬼のどこか楽しげで、それでいて全てを見透かしたような凛とした声が響いた。


「それにさー。眼に見えない形の代償もあるんよねー。」


正人は弾かれたように顔を上げ、カウンター越しの美しき鬼を見つめた。


「だって、やるべきことを他人様に押し付けて楽な方に流れた結果、おっちゃんは今、何が出来るん?」

女鬼の問いは、正人の魂の最深部を無慈悲に抉り出した。


「結局さあ、他人様にやるべきことを押し付け続けた結果、能力向上やスキルの習得を自ら捨て去って、他人様の時間を奪う悪行によって悪業ばっかり溜め込んじゃったって事だよ。」

彼女は金色の瞳を細め、隣に座る呪術師へと視線を投げた。


「皮肉な話だよねー。名前を捨てた呪術師さんは、その壮絶な代償と引き換えに超絶優秀な呪術師になってさ。でも、見た目だけは『楽』に見えるやり方に味を占めて、その生き方をずっと捨てずに必死にしがみついたおっちゃんは、結局、何物にもなれず無能なおっちゃんになった、でしょ?」


ぴしゃりと言い放たれた言葉は、逃れようのない残酷な真実だった。

正人は、己が歩んできた平坦な道を振り返り、愕然とする。

勉強からも、自分を鍛える事からも逃げ続け、面倒なことは全て他人に押し付けてきたツケ。


その結果として、今の自分には誇れる学力も、誰かに必要とされる能力も、何一つ積み上がっていない。

自分が一番「賢い」と思っていた立ち回りが、実は自分自身を一番「空っぽ」にしていたのだと思い知り、正人は激しい後悔と自己嫌悪に襲われた。


絶望に打ちひしがれ、視線を落とす正人の前に、女鬼は春の日差しのような優しい微笑みを浮かべて身を乗り出した。


「ま、娑婆にはさ、『今この瞬間が一番若い』とか『何歳からでも挑戦』って、いい言葉があるじゃん。だから、これから力をつけていくといいんじゃね?」


彼女の金色の瞳が、暖かな光を宿して正人を真っ直ぐに見つめる。


「気づいたんならさ、今ここからやり直せるよ。あーしは、そういう必死な足掻きって、嫌いじゃないし。」


正人の目から、熱い一筋の涙が溢れ、床へと吸い込まれていった。


「……はい。」


彼は震える声で答え、女鬼に対しても、心からの敬意と新たな決意を込めて深く頭を下げた。


---


正人は、これまでの傲慢な仮面が完全に剥がれ落ち、まるで憑き物が落ちたかのように大粒の涙を流し始めた。

その涙は、長年溜め込んできた自身の卑怯さと、他人を傷つけてきた罪悪感、そしてようやく真実と向き合えた安堵が混ざり合ったものだった。

店内の空気が、張り詰めた緊張からどこか穏やかなものへと移ろいゆく。


ずっとカウンターの奥で静かに、そして深く慈愛に満ちた眼差しで一連のやり取りを見守っていた地蔵店長が、そっと両手を合わせた。

その仕草はあまりに自然で、まるでそこにあるだけで周囲を浄化するような清らかさを湛えている。


「……成すべきことを成さず、ただ怠ける事。それを仏教では、『懈怠けだい』という煩悩であると説きます。」


地蔵店長は、柔らかなお地蔵さんのような笑顔を浮かべ、穏やかに語り始めた。

その声は不思議なほど正人の心に沁み渡り、荒れていた精神を静かに宥めていく。


「また、己の欲のままに振る舞い、善行、つまり修行や徳を積むことを怠るだらしない心を、仏教では『放逸ほういつ』と言います。」


地蔵店長は優しく、しかしその言葉の裏には逃れようのない真理を込めて諭した。


「正人さんのこれまでのご自身の在り方や行いは、まさに『放逸』そのものではございませんでしたかねえ。」


正人は、地蔵店長の言葉を一つひとつ、己の過去に照らし合わせるように噛み締めた。

嘘を吐き、楽を求め、他人を犠牲にしてきた自分の日々。


地蔵店長は、そんな正人の心の揺らぎを包み込むように、再び仏法を解く。


「成すべき善行、己がなすべき責務を後回しにしたり放置したりせぬよう、注意深く怠らない心の在り方を、『不放逸ふほういつ』と申します。」


お地蔵さんそのものの、慈愛に満ちた笑顔が店内の暖かな照明に照らされていた。


「不放逸……。」


正人は、その耳慣れない言葉を、自分に言い聞かせるようにそっと復唱した。

暗闇の中に、ようやく進むべき小さな道筋が見えたような、不思議な響きだった。


地蔵店長は、満足げに一つ頷くと、最後に深く合掌した。


「……今後、ふとした折に怠け心であったり『懈怠』の煩悩が顔を出した時、それに気づいて『不放逸』になられるのが、肝要ではなかろうかと思いますよ。」

そう言って、地蔵店長は丁寧にお辞儀をした。


「……はい。」


正人は、絞り出すような、しかし力強い声で返事をした。

教えを授かった事への感謝と、自分自身を変えていくという誓いを込め、彼は自然と両手を合わせた。

そのまま深く、深く頭を下げたその姿は、入店した時のあの不遜な男とは、もはや別人のように静謐な空気を纏っていた。


---


正人は、溢れ出る涙を拭おうともせず、真っ直ぐに呪術師と女鬼、そして店長を交互に見据えた。

これまでの自分を縛っていた醜い虚栄心が、涙と共に全て流れ去っていくような清々しさを感じていた。


「俺、もうあんな卑怯なことをせずに、真っ当に生きます。……絶対に、もう二度とズルはしません。そう、決めました。」

その力強い宣言は、静かな店内に心地よく響き渡った。


「……まあ、具体的には何から始めればええんかわからんけど。とりあえず本屋行って参考書コーナー見て回ってなんかの勉強するための本買うとか、仕事では自分の仕事を誰にも押し付けんと自分でやって、それから……。」


正人は指を折りながら、これからの自分にできることを必死に考え込む。

その顔には、先程までの卑屈な影は微塵もなかった。


地蔵店長は、その様子を慈愛に満ちた眼差しで見守り、再び穏やかに合掌した。

「いきなり大事から始めると、すぐに息切れする可能性も高まりましょう。」


お地蔵さんそのものの柔和な笑顔が、正人の心を優しく包み込む。

「『積善成徳せきぜんせいとく』、『点滴穿石てんてきせんせき』。小さく始めて、小さな歩幅からで良いので、少しずつ少しずつ、着実に積み上げて行かれると宜しいかと思いますよ。」


女鬼も、先程までの恐ろしい鬼の形相を霧散させ、入店時の明るく柔らかな雰囲気に戻って微笑んだ。


「『塵も積もれば山となる』って言うからねー。ベイビーステップってやつで始めるといいじゃんよ。最初の一歩は、豆粒みたいに小さくてもオケ! 焦らずじっくり、ね♪」

彼女は金色の瞳をキラリと輝かせ、正人に向けて軽やかにウインクを贈る。


「……はい。少しずつから、着実に始めます。」

正人の口元に、ようやく自然な微笑みが浮かんだ。


地蔵店長は、ニコニコと上機嫌そうに頷くと、更なる道標を授けるように口を開いた。


「具体的に何をすればいいかは、私共から答えや正解を授ける事は出来ませんが、一つの指標をば。」


「指標……?」


「今まで正人さんがされていたこと、つまり、他者に苦を与えて自分だけが楽をしてきた事を戒める意味も込めて……他者の苦を抜き、楽を与える『抜苦与楽ばっくよらく』と言う指標を持たれると、良いかもしれませんねえ。」


お地蔵さん笑顔のまま、店長は静かに合掌してお辞儀をした。


「『抜苦与楽ばっくよらく』……有難う御座います。その方向で、今の俺に出来ることを探してみて、全力でやってみます。」

正人は清々しい表情で、店長に向けて深く頭を下げた。


するとそこへ、パタパタと小走りで近づいてきたえらいこっちゃ嬢が、勢いよく椅子に飛び乗った。


「ええ心がけになりよった、えらいやっちゃ!」

彼女は台形の口を大きく開けて笑うと、小さな両手で正人の頭をよしよしとなでなでする。


「あはは、有難うなあ……ほんまに、有難う。みんな、おおきに。」


正人は子供のように素直な、憑き物が落ちた満面の笑顔を見せた。

その心は、入店前には想像もできなかったほどの平穏と希望に満ち溢れていた。


---


正人は背筋を伸ばし、先程までの不遜な態度が嘘のように、改めて深く丁寧にお辞儀をした。

その所作からは迷いが消え、自らの罪を認め、再出発を誓った男の清々しさが漂っていた。


「……お勘定、お願いします。」


その声は穏やかで、店内の空気に心地よく溶け込んでいく。


地蔵店長は、柔和なお地蔵さん笑顔をさらに深め、胸の前でそっと両手を合わせた。


「当店では決まった代金ではなく、御布施形式にしております。正人さんのお心次第で宜しゅうございますよ。」

そう言って、合掌したまま静かにお辞儀を返す。


「ほな、これで……。」


正人は財布から、上司から頂いた5000円札と、自分の5000円札を取り出した。

今の自分にとって決して安くない金額だが、その手には迷いがない。

彼はそれを、近くで待機していたえらいこっちゃ嬢へと手渡した。


「これは、その……もう『呪術師』でええかな。名前無いって言うてたからな。呪術師と俺の2人分や。……これで足りるかな?」

正人は少しだけ照れくさそうに、しかし真摯な眼差しで問いかける。


えらいこっちゃ嬢は、5000円札2枚を小さな手でしっかりと受け取ると、台形の口をいっぱいに開けて笑った。


「毎度あり! 2人分のお勘定、えらいこっちゃな太っ腹!」


――パタパタパタ。

彼女は軽快な足音を立てて、奥のレジへと駆けていく。


「良かった、足りたみたいやな。」


正人が安堵の吐息を漏らすと、いつの間にか呪術師が椅子から立ち上がり、傍らに佇んでいた。

呪術師は静かに合掌し、無表情ながらもどこか温かみを感じさせる声で告げる。


「御馳走様です。」


「いや、当然の事や。大事なことに気づかせてくれて……これっぽっちじゃ全然足らんけど、その、お詫びの意味も兼ねてな。」

正人は再び呪術師に向き直り、今日一番の深い礼をした。


店内に流れる沈黙は、もはや重苦しいものではなく、互いを認め合う静謐な時間に変わっていた。

正人と呪術師は、最後に店内にいる全員へ向けて、もう一度深々とお辞儀をする。


「お世話になりました。……行ってきます。」


正人はそう言い残し、呪術師と共にゆっくりと店の扉へと歩み寄った。


――ガラガラッ。


古びた引き戸が開く乾いた音が響き、外の夜気がふわりと店内に流れ込む。


地蔵店長は、去りゆく2人の背中を見守りながら、慈愛に満ちた合掌を捧げた。


「御来店、誠に有難う御座います。……お気をつけて、良き歩みを。」


お地蔵さんのような笑顔で見送られた2人の影は、夜の帳の中へと静かに消えていった。


---


店を出ると、冷ややかな夜気が火照った頬を撫で、どこか清々しい心地よさを運んでくる。


目の前には、ぼんやりとした提灯の光に照らされた方輪車が、主人の帰りを待つように静かに停泊していた。

正人は大きく深呼吸をしてから、神妙な面持ちで運転席に向かって声をかける。


「またお世話になります。」


そう言って、牛車の客席へとゆっくり足を踏み入れた。


その様子を背後で見守っていた呪術師が、満足げに頷き、ひらひらと手を振る。

「もう大丈夫そうですな。ほな、方輪車さん、彼を宜しゅうお頼申します。」


呪術師の言葉に応えるように、運転席から方輪車が白い歯を見せてニカッと笑った。


「はいよー、任せといておくれやすー」

威勢のいい声が夜の静寂に響く。


「一緒に乗らへんのか?」

不思議に思った正人が、客席の窓から顔を出して問いかけた。


「僕は自分の『足』で直帰しますさかい。」

呪術師が淡々と答えると同時に、牛車の重厚な客席扉がゴトリと音を立てて閉まった。


「そっか……じゃあ、またな。本当に、有難う。」

正人が窓越しに手を振ると、呪術師は一言も発さず、ただ静かに、深くお辞儀を返した。


すると、行きと同じように、運転席の隙間から白い手がニューっと幽霊のように伸びてくる。

正人は一瞬だけビクリと肩を揺らしたが、すぐに納得したように頷いた。

彼は財布から1841円を丁寧に取り出し、その白い掌の上へとそっと手渡す。


「毎度ありー。ほな、出発しますで。しっかり掴まってな!」


方輪車の陽気な掛け声と共に、車輪がゴロゴロと音を立てて回転を始めた。

凄まじい加速力で、方輪車は夜の闇を切り裂くようにして走り去っていく。

呪術師はその様子を、無言のまま、点滅するテールランプが消えるまで見送っていた。


やがて、彼は懐から1枚の呪符を取り出し、指先でパッと宙に放り投げる。

手放された呪符は青白い光を放ちながら、空中で見る間に巨大化し、スノーボードのような形状をした『護符ボード』へと姿を変えた。

ボードは地面から数10センチの高さで、重力に抗うようにピタリと浮いて止まる。


呪術師は慣れた足取りでひょいとその上に乗ると、風を切り、そのまま深い闇夜の彼方へと吸い込まれるように消えていった。


---

闇夜を走り続ける方輪車の牛車の中で、正人は掌に残る小銭の感触を確かめながら、その数字を反芻していた。


「1841円か……。イ・ヤ・シ・イ、か。確かにそうやな。卑しい、その通りや……。」


暗い客席で独り、彼は自嘲気味に呟いた。


卑怯で、醜くて、他人の善意を食いつぶして楽をしようとしたこれまでの自分。

その生き方そのものが、この数字に凝縮されているように感じられた。

彼が支払ったのは単なる運賃ではなく、己の浅ましさを自覚するための授業料だったのかもしれない。


――ガタゴト。


やがて、人通りのない静かな場所で牛車が静かに停止した。


「青く灯る鬼火について行けば、帰り道につきますさかい。御乗車有難う御座いますー。」


方輪車が運転席からひょいと顔を出し、いつもの屈託のない笑顔で手を振る。

そのまま牛車は再び加速し、夜の帳の中へと溶けるように走り去っていった。


「有難う御座いました。」


正人は去り行く車の影に深く一礼してから、足元に揺らめき始めた青い鬼火を見つめた。

その光はどこか温かく、迷える背中を優しく押してくれるかのようだった。


鬼火を追って夜道を歩き、五条通に出たところで、その光は霧が晴れるように見えなくなった。

そこには、見慣れた現代の街灯が並んでいる。

正人は迷いのない確かな足取りで、自宅のアパートへと帰っていった。


---


翌日の昼休み。

正人は賑わう駅前の本屋に立ち寄り、棚に並ぶ数多の書籍の中から、AI関連の資格試験の教科書と数冊の参考書を選び取った。


「……まずは、ここからやな。」

レジで真新しい本を受け取り、彼はそれを大切に鞄にしまった。


その日から、正人の日常は一変した。

昼休みになるたびに、彼は賑やかな社員食堂の片隅で、一人黙々とテキストを開いた。

これまでは適当な世間話で時間を潰していたが、今は1分1秒を惜しむようにペンを動かしている。


そんな彼の姿を、通りかかった上司が足を止めて見守っていた。

「小川さん、AIの資格の勉強、毎日頑張ってるやん。感心やなあ。」


上司が柔らかな笑顔で声をかけると、正人は少し照れくさそうに、しかし真っ直ぐに顔を上げた。


「有難う御座います。俺、AIのことをちゃんと勉強して、現場で使えるようになりたいんです。そうすれば、みんなの仕事が少しでも楽になるかなと思いまして。そのために頑張るつもりですわ。」


抜苦与楽ばっくよらく』。

地蔵店長から授かったその言葉が、今の正人の確かな指針となっていた。


「そりゃええこっちゃ! 期待してるで、小川さん。」

上司は快活に笑い、正人の肩を軽く叩いて去っていった。


「はい、有難う御座います!」

笑顔で送り出した後、正人はふと、あの不思議な食堂での出来事を思い出していた。


「……ええこっちゃ、か。」


正人は独りごちた。

かつての自分は、他人を犠牲にして「えらいこっちゃ」と嘆かせるばかりの、身勝手な男だった。

けれど、今日のような「ええこっちゃ」を一つずつ、焦らずに着実に積み重ねていけば。


「ほんまのほんまに、『えらいやっちゃ』になっていかんとな。」


あの時、えらいこっちゃ嬢に優しくなでられた頭の感触が、今も微かに残っているような気がした。

正人は再びテキストに視線を落とし、力強く一歩を踏み出した。


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