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蒼月のレゾナンス ~最弱の調律士は運命を選び直す~  作者: なるかめ
第5章 運命を共に創る者

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第36話 英雄の選択

「英雄の選択」です。


強制共鳴を止め、新制度が動き始めたことで、蒼真は人々から“英雄”として見られるようになります。


ですが、英雄として求められることは、必ずしも称賛だけではありません。

迷う人々の代わりに決めること。

不安な世界をまとめること。

そして、誰かの選択を肩代わりすること。


それは救いにも見えます。

けれど、支配の始まりにもなり得る。


今回は、蒼真がもう一度「できるけれど、しない」を選ぶ回です。

 雨上がりの街に、鐘の音が響いていた。


 それは祝福の鐘ではなかった。


 壊れた鐘楼に残っていた鐘を、誰かが鳴らしているだけだった。

 音は少し割れていて、風に混じるたびに頼りなく揺れた。


 それでも、人は集まっていた。


 統律院中央広場。


 かつて能力測定の結果が掲示され、ランクによって人の立つ場所が分けられていた広場は、今は仮設の演壇と救護用の天幕で埋まっている。


 石畳にはまだ焦げ跡が残っていた。

 白銀の強制共鳴が走った痕も、ところどころに薄く光っている。


 だが、人々はそこに立っていた。


 負傷した者。

 家族を探す者。

 新制度に期待する者。

 まだ怒りを抑えきれない者。


 誰も完全には納得していない。


 それでも、街は動き始めていた。


 水月蒼真は、広場の端に立っていた。


 人混みの向こうで、議事棟の仮設幕が揺れている。

 そこには新しい制度の骨子が掲示されていた。


 共鳴登録制度。

 共鳴ユニット制度。

 同意共鳴法。

 同意撤回権。

 独立監査。


 文字だけ見れば、難しい。

 けれど、それは確かに始まりだった。


 蒼真は、自分の手を見た。


 この手で、強制共鳴をほどいた。

 この手で、誰かの恐怖を消しかけた。

 この手で、救ったものも、奪いかけたものもある。


 だからこそ、もう二度と一人で握ってはいけない。


 そう思っていた。


「蒼真」


 背後から声がした。


 火乃宮凛だった。


 赤茶の髪を後ろで束ね、剣を腰に差している。

 まだ肩には包帯が残っていたが、立ち方はいつも通り真っ直ぐだった。


「こんなところにいたの?」


 凛が言った。


「人が多いところは苦手で」


 蒼真が答えると、凛は鼻で笑った。


「今さら? 今日の主役が何言ってるの」


「主役じゃない」


 蒼真はすぐに言った。


 凛は、そこで少しだけ表情を変えた。


 冗談のつもりだったのだろう。

 だが、蒼真の返しが思ったより硬かった。


 凛は肩をすくめた。


「分かってる。……でも、みんなはそう見てない」


 その言葉に、蒼真は広場へ視線を戻した。


 確かに、視線を感じる。


 感謝。

 期待。

 不安。

 依存。


 そのどれもが、蒼真に向けられていた。


「あの人だ」


 近くにいた少年が、母親の袖を引いた。


「あの人が止めたんだよね?」


 母親は、蒼真に気づくと深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 蒼真は一瞬、返事に詰まった。


「……俺だけじゃありません」


 蒼真は言った。


 母親はもう一度頭を下げた。


「それでも、あなたがいてくれたから」


 その言葉に、周囲の人々が反応した。


「ああ、水月蒼真だ」


「強制共鳴を止めた人だ」


「あの人がいれば、もう大丈夫なんじゃないか」


 ざわめきが、少しずつ広がる。


 凛の表情が硬くなった。


 蒼真は息を飲む。


 それは感謝だった。


 だが、どこか違う。


 胸の奥が、冷たくなる。


 別の場所から声が上がった。


「あの人に任せればいい!」


 蒼真は顔を上げた。


 広場の中央付近で、男が叫んでいた。


「統律院は壊れた! 天城も退いた! 今さら議員だの局長だのに任せて何になる!」


 男は蒼真の方を指さした。


「あの人なら、間違えない!」


 周囲がざわつく。


「そうだ」

「強制共鳴を止めたんだろ」

「だったら、国をまとめられる」

「蒼真様に任せればいい」


 蒼真の足が、動かなくなった。


 様。


 その言葉が、喉に刺さる。


 凛が低く言った。


「……始まったわね」


 蒼真は答えられなかった。


 歓声が広がっていく。


 最初は小さかった。


 だが、不安な人間は、分かりやすい答えを求める。


 誰か一人を指させば、怖さが少し和らぐ。


 誰か一人に責任を預ければ、自分で考えずに済む。


 その波が、広場全体へ伝わっていく。


「水月蒼真を代表に!」


「英雄に任せろ!」


「新しい統治者を!」


 凛が蒼真の腕を掴んだ。


「行くわよ」


「どこへ」


「ここから離れる」


 だが、その時、別の声が割って入った。


「水月蒼真」


 人混みが割れた。


 レオナール・ヴァルケンハイトが歩いてくる。


 ダークグレーの短髪。

 深い紺の瞳。

 装飾の少ない長衣。


 周囲が騒いでいても、彼の歩幅は乱れない。


 彼が一歩進むたびに、周囲の空気が少し整っていく。


 凛が顔をしかめた。


「嫌な予感しかしないんだけど」


 レオナールは凛を一瞥した。


「その予感は正しい」


 蒼真は眉を寄せた。


「何ですか」


 レオナールは広場を見渡した。


「暫定評議会から正式な提案がある」


 蒼真の胸が、嫌な音を立てた。


「提案?」


「水月蒼真。お前に、暫定統治代表への就任を求める声が出ている」


 凛が即座に言った。


「却下」


 レオナールは凛を見る。


「お前に決定権はない」


「じゃあ本人が却下する」


 凛は蒼真を見た。


「そうでしょ」


 蒼真は、すぐに答えようとした。


 だが、言葉が出なかった。


 その沈黙に、凛の目がわずかに揺れる。


「蒼真?」


 レオナールは静かに言った。


「拒否するのは簡単だ。だが、聞け」


 彼は広場の向こうを指した。


 そこでは、新制度の掲示板の前で人々が揉めていた。


「同意撤回権など甘い」

「監査など遅すぎる」

「結局、誰が責任を取るんだ」

「決める人間が必要だ」


 声は乱れている。


 制度は始まったばかりだ。

 誰も使い方を知らない。

 誰も信用しきれていない。


 レオナールは続けた。


「お前がやらない場合、別の誰かがやる」


 蒼真は息を止めた。


「別の誰か?」


「名乗り出ている者はいる。旧統律院の残党。地方軍閥。共鳴貴族。自由共鳴を名乗る無政府派もだ」


 凛が舌打ちした。


「ろくでもないのばっかりじゃない」


「その通りだ」


 レオナールは即答した。


「だから、お前に求める声が出ている」


 蒼真は拳を握る。


 レオナールの言葉は脅しではない。


 現実だった。


 空いた場所には、誰かが座る。


 王座が空けば、王になりたい者が現れる。


 誰も座らない、という選択だけで済むほど、世界は単純ではない。


 そのとき、月乃が議事棟の方から歩いてきた。


 腕には資料を抱えている。

 表情はいつも通り冷静だったが、足取りにわずかな疲れが見えた。


「状況は把握しています」


 月乃は言った。


 凛が月乃を見た。


「まさか、月乃まで賛成とか言わないわよね」


 月乃は少しだけ沈黙した。


 凛の表情が変わる。


「月乃」


 月乃は蒼真を見た。


「合理的には、あなたが最適解です」


 その言葉は、鋭かった。


 蒼真の胸に深く刺さる。


 凛が声を荒げた。


「本気で言ってるの?」


 月乃は凛を見る。


「本気です。現在の混乱を収束させるには、象徴が必要です。水月蒼真は強制共鳴を停止させた存在であり、完全同意共鳴の中心でもあります。市民の認知度も高い。反発はありますが、支持も大きい」


 月乃は淡々と続ける。


「判断速度も上がります。新制度の導入も円滑になります。地方勢力への抑止にもなる。短期的には、最も効率が良い」


 凛は唇を噛んだ。


 反論できない。


 効率という意味では、月乃の言葉は正しい。


 蒼真が前に立てば、多くの混乱は収まるだろう。


 少なくとも一時的には。


 人々は安心する。


 新制度も進む。


 暴走も減る。


 救える人も増えるかもしれない。


 凛は低く言った。


「でも、それって……」


 月乃は頷いた。


「危険です」


 月乃は蒼真から目を逸らさなかった。


「合理的に最適であることと、選んでいいことは違います」


 蒼真は、ゆっくりと息を吐いた。


 その通りだった。


 合理的には、できる。


 おそらく、自分が代表になれば、混乱は減る。


 今も広場では歓声が上がっている。


「蒼真様!」


「英雄!」


「国を導いてください!」


 声が、波のように押し寄せる。


 それは敵意よりも重かった。


 憎しみなら、耐えられる。


 だが期待は、心に入り込んでくる。


 救ってくれ。

 決めてくれ。

 間違えないでくれ。


 その声に応えたいと思ってしまう。


 自分ならできるかもしれないと、一瞬だけ思ってしまう。


 蒼真は自分の手を見た。


 この手で、波を整えられる。


 人々の不安も、恐怖も、混乱も、ある程度は抑えられる。


 制度が揺れたら、支えればいい。

 争いが起きたら、止めればいい。

 誰かが迷ったら、道を示せばいい。


 できる。


 できてしまう。


 凛が、蒼真の横顔を見ていた。


「蒼真」


 その声は、少しだけ柔らかかった。


「迷ってる?」


 蒼真は正直に答えた。


「……迷ってる」


 凛は目を細める。


 月乃も、何も言わずに待っている。


 レオナールも沈黙している。


 蒼真は広場を見た。


 泣いている人。

 怒っている人。

 期待している人。

 不安そうに祈る人。


 この人たちを、少しでも早く安心させられるなら。


 自分が立つべきなのかもしれない。


 その時だった。


 広場の北側で、悲鳴が上がった。


「誰か来てくれ!」


「負傷者だ!」


 凛が反応する。


 蒼真も走り出した。


 人混みを抜けると、瓦礫の前に小さな人だかりができていた。


 そこには若い救護員が膝をついていた。

 目の前には、崩れた梁の下敷きになった老人がいる。


 老人はまだ息をしている。


 だが、瓦礫を動かすには人手と判断が必要だった。


 救護員が叫ぶ。


「先に梁を切るべきですか、それとも支えを入れるべきですか!」


 周囲の人々が蒼真を見る。


 あまりにも自然に。


「蒼真様、指示を!」


「あなたなら分かるでしょう!」


「早く!」


 蒼真の喉が乾く。


 月乃が現場を確認する。


「梁を急に切れば崩落します。支えを入れるべきです」


 凛が言う。


「私が支える」


 蒼真は頷きかけた。


 だが、その瞬間、別の救護班員が叫んだ。


「違います! 奥にも人がいます! 支えを入れると奥が潰れる!」


 判断が割れる。


 数秒が重い。


 周囲の視線が、蒼真に集まる。


 決めろ。


 お前が決めろ。


 その空気が、蒼真を押す。


 ここで代表なら、決めなければならない。


 誰かを助けるために、誰かを後回しにする。


 その責任を、一人で引き受ける。


 蒼真の中で、力が動きかけた。


 全員の恐怖を抑えれば、判断は整う。

 救護班の迷いを消せば、動きは速くなる。

 自分が最適解を出せば、少なくとも混乱は減る。


 そのとき、凛が蒼真の腕を掴んだ。


「蒼真」


 蒼真は凛を見る。


 凛は、まっすぐに言った。


「蒼真が決めるのは楽。でも、それって“あの人”と何が違うの?」


 天城。


 その名前を言わなくても、分かった。


 蒼真は息を呑んだ。


 同時に、レオナールが救護員たちへ鋭く言った。


「救護班の責任者は誰だ」


 一人の女性が手を上げた。


「私です!」


「では、お前が決めろ」


 女性は顔を青くした。


「私が……?」


「そうだ。現場はお前の責任だ。水月蒼真の顔を見るな」


 レオナールの声は冷たかった。


 だが、逃げ道を塞ぐためではない。


 責任を正しい場所へ戻す声だった。


 女性救護員は歯を食いしばり、周囲を見た。


「凛さん、梁を一時保持してください。月乃さん、奥の空洞を確認。蒼真さんは共鳴安定だけ。判断には入らないでください」


 蒼真は、はっとした。


 女性救護員は震えていた。


 だが、自分で決めた。


 蒼真は頷く。


「分かった」


 凛が梁を支える。


 月乃が空洞を確認する。


 蒼真は救護班員の呼吸だけを整えた。


 判断は触らない。


 恐怖は消さない。


 ただ、崩れないように支える。


 作業は進んだ。


 だが、途中で瓦礫が大きく崩れた。


 奥にいた負傷者の手が、蒼真の視界から消えた。


 誰かが叫んだ。


「奥の人が!」


 凛が梁を支える腕に力を込める。


 月乃が唇を噛む。


 女性救護員が顔を歪めた。


 それでも、彼女は叫んだ。


「今は手前を出す! 奥は二次崩落を止めてから!」


 数秒後、老人が引き出された。


 息はあった。


 だが、奥にいた負傷者は間に合わなかった。


 救護所に運ばれたあと、その人の死亡が確認された。


 広場の音が、遠のいたように感じた。


 蒼真は、濡れた石畳の上に立っていた。


 救えなかった。


 もし自分が全員を上書きして、最初から判断していれば。


 もっと早く動けたかもしれない。


 違う結果になったかもしれない。


 女性救護員は、蒼真の前に立った。


 顔は真っ青だった。


「私の判断です」


 彼女は震える声で言った。


「私が、決めました」


 蒼真は何も言えなかった。


 その言葉は、重かった。


 彼女は自分の判断で一人を救い、一人を救えなかった。


 その責任を、誰かに預けなかった。


 レオナールが静かに言った。


「これが、代表を置かないということだ」


 凛は下を向いている。


 月乃も、苦しそうに目を伏せた。


 レオナールは続けた。


「一人に決めさせれば、現場は楽になる。迷わなくて済む。責任も上へ流せる」


 一拍。


「だが、その先に何があるか、お前たちはもう見たはずだ」


 蒼真は、女性救護員を見た。


 彼女は泣いていた。


 それでも、立っていた。


 自分の判断から逃げていない。


 その姿が、蒼真の胸に深く残った。


 広場の演壇へ戻るころには、群衆の声はさらに大きくなっていた。


 先ほどの救助失敗は、すでに噂になっている。


「だから代表が必要なんだ!」


「蒼真様なら救えたかもしれない!」


「早く決めてくれ!」


 言葉が刺さる。


 その通りかもしれない。


 蒼真が決めていれば、救えたかもしれない。


 誰かが死なずに済んだかもしれない。


 それでも。


 演壇の前に立つと、群衆は一斉に静まった。


 蒼真に向けられる期待が、痛いほど重い。


 レオナールは蒼真の横に立つ。


「今ならまだ引き返せる」


 レオナールは言った。


「お前が受けると言えば、暫定評議会は承認するだろう。群衆も納得する。短期的には混乱も減る」


 蒼真はレオナールを見る。


「あなたは、俺に受けてほしいんですか」


 レオナールはすぐには答えなかった。


 そして、正直に言った。


「政治的には、受けてほしい」


 凛が目を細める。


 月乃もレオナールを見る。


 レオナールは続けた。


「だが、制度設計者としては、受けてほしくない」


 蒼真は、少しだけ笑った。


「面倒ですね」


「世界とはそういうものだ」


 その言葉に、凛が小さく息を吐いた。


 月乃が言った。


「蒼真。最終判断はあなたです」


 凛がすぐに言う。


「私は反対」


 月乃は凛を見る。


「私は、合理的には賛成。倫理的には反対」


 凛が顔をしかめる。


「ややこしい」


「正確に言っています」


 凛は蒼真を見た。


「私は、蒼真に背負わせたくない」


 蒼真は凛を見る。


 凛は少しだけ視線を逸らし、それでも言った。


「でも、あんたが本当に選ぶなら、止める権利はない」


 月乃が続けた。


「ただし、あなたが権力を持つ場合、私たちはあなたを監査対象にします」


 蒼真は苦笑した。


「厳しいな」


 月乃は真顔で言った。


「必要です」


 凛も言った。


「私は殴る」


「それは監査なのか」


「私なりの監査よ」


 ほんの一瞬、空気が緩んだ。


 だが、群衆の視線が戻ってくる。


 蒼真は演壇に上がった。


 風が吹く。


 雨上がりの空は曇っている。

 それでも、雲の切れ間から光が差していた。


 蒼真は、群衆を見た。


 自分を英雄と呼ぶ人たち。

 自分に怒りを向ける人たち。

 ただ不安そうに見つめる人たち。


 全員を安心させる言葉はない。


 全員を救う選択もない。


 蒼真は、ゆっくりと口を開いた。


「俺は、強制共鳴を止めました」


 広場が静まる。


「でも、俺一人で止めたわけじゃありません。凛がいた。月乃がいた。ジークがいた。多くの人が、それぞれ選んだから止められた」


 蒼真は続けた。


「それでも、俺を英雄だと言ってくれる人がいるのは分かっています。感謝してくれる人がいるのも、分かっています」


 一拍。


「そして、俺に決めてほしいと思う気持ちも、分かります」


 群衆の中で、何人かが頷いた。


 蒼真は拳を握った。


「俺が決める方が早いこともある。俺が前に立てば、安心する人もいる。たぶん、救える人もいる」


 凛が黙って聞いている。


 月乃も、レオナールも、何も言わない。


 蒼真は息を吸った。


「……できる」


 その言葉に、広場が揺れた。


「でも、やらない」


 次の瞬間、広場が静まり返った。


 蒼真は、首を横に振った。


 小さく。


 だが、はっきりと。


「俺は、あなたたちの王にはなりません」


 ざわめきが広がる。


「なぜだ!」

「責任から逃げるのか!」

「あなたならできるのに!」


 声が飛ぶ。


 蒼真はそれを受け止めた。


「逃げたい気持ちはあります」


 正直に言った。


 群衆が一瞬黙る。


「でも、逃げるために断るんじゃない」


 蒼真は言った。


「俺が決める世界は、きっと楽です。少なくとも最初は。迷わなくていい。責任を預けられる。誰か一人を信じればいい」


 蒼真は、天城の帽章を思い出した。


 置かれた権限印。

 退くと選んだ背中。


「でも、それはまた同じ場所へ戻る道です」


 蒼真は群衆を見た。


「俺は、あなたたちに選んでほしい」


 誰かが叫んだ。


「選べないから困ってるんだ!」


 蒼真は頷いた。


「分かっています」


 別の人が叫ぶ。


「選んで間違えたら、どうするんだ!」


「間違えます」


 蒼真は答えた。


 ざわめきが広がる。


「俺も間違えます。あなたたちも間違える。制度も間違える。だから、直す仕組みを作る。やめたいと言える仕組みを作る。誰か一人を信じきらなくていい仕組みを作る」


 月乃が静かに目を伏せる。


 レオナールは腕を組んだまま聞いている。


「俺は代表にはなりません」


 蒼真は言った。


「でも、何もしないわけじゃありません」


 凛が顔を上げる。


 蒼真は続けた。


「俺は、調律士として関わります。誰かが壊れそうなとき、支える。暴走しかけたとき、止める。でも、決めるのは俺じゃない」


 一拍。


「あなたたち自身です」


 広場は沈黙した。


 納得ではない。

 怒りが消えたわけでもない。

 失望した者もいる。


 それでも、蒼真は言い切った。


「英雄になれば、楽だったかもしれない。でも俺は、英雄のまま人の選択を預かるのが怖い」


 その言葉に、群衆の中の誰かが小さく息を呑んだ。


「だから断ります」


 蒼真は頭を下げなかった。


 謝罪ではない。


 ただ、まっすぐに立っていた。


「俺は王にならない」


 風が吹いた。


 しばらく、誰も声を上げなかった。


 やがて、群衆の中から一人が言った。


「……じゃあ、俺たちはどうすればいい」


 それは怒号ではなかった。


 迷いの声だった。


 蒼真は答えた。


「一緒に考える」


 誰かが言った。


「答えになってない」


 蒼真は頷いた。


「そうだと思う」


 凛が小さく笑った。


「不器用すぎ」


 月乃が言った。


「ですが、正確です」


 レオナールが前に出た。


「暫定評議会は、水月蒼真の統治代表就任を提案しない」


 広場がざわつく。


 レオナールは続けた。


「代わりに、共鳴制度設計局、暫定評議会、市民代表、各地域代表による分散統治体制を発足する。水月蒼真は、統治者ではなく、共鳴調律顧問として参加する」


 凛が蒼真に小声で言った。


「肩書、つけられてるわよ」


 蒼真は苦い顔をした。


「顧問って何をするんだ」


 月乃が答える。


「助言して、決定権は持たない立場です」


「それならいい」


 凛が笑った。


「いいんだ」


 レオナールは群衆へ言った。


「楽な道ではない。時間もかかる。失敗もする」


 一拍。


「だが、誰か一人を王にしない。それが、新しい制度の第一条件だ」


 群衆の反応は割れた。


 拍手する者。

 怒鳴る者。

 立ち去る者。

 黙って考え込む者。


 全員が同じ方向を向くことはなかった。


 それでよかった。


 完全に揃った声は、もういらない。


 演壇を降りた蒼真の足は、少し震えていた。


 凛が横に並ぶ。


「よく言った、って言いたいところだけど」


「けど?」


 凛は肩をすくめた。


「これから大変よ」


「分かってる」


 月乃が後ろから言った。


「分かっていないと思います。具体的には、あなたのもとに大量の相談と苦情が届きます」


 蒼真は顔をしかめた。


「それは嫌だな」


「王になるよりは軽いでしょう」


 月乃が淡々と言う。


 凛が笑った。


「月乃、容赦ないわね」


 レオナールが歩いてきた。


「水月蒼真」


「はい」


「逃げなかったことは評価する」


 蒼真は少し驚いた。


 レオナールが褒めるとは思っていなかった。


 だが、次の言葉はやはり厳しかった。


「ただし、これで責任が消えたわけではない」


「分かっています」


「ならいい」


 レオナールは広場を見た。


「人は、また誰かを英雄にしたがる。恐怖が強ければ強いほど、その誘惑は戻る」


 蒼真は頷いた。


 レオナールは続ける。


「お前自身もだ。救える状況になれば、また手を伸ばしたくなる」


 蒼真は自分の手を見る。


「はい」


 レオナールは静かに言った。


「そのたびに、首を振れ」


 蒼真は顔を上げる。


 レオナールは蒼真を見ていた。


「今日のように」


 蒼真は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


 広場の向こうでは、先ほどの女性救護員が別の救助班に指示を出していた。


 まだ表情は硬い。

 だが、逃げてはいない。


 誰か一人の英雄ではなく、それぞれが自分の場所で選ぶ。


 その世界は、遅い。


 危うい。


 ときに間に合わない。


 それでも、蒼真はそこに立つと決めた。


 王ではなく。


 英雄でもなく。


 誰かの選択を肩代わりしない、一人の調律士として。


 空の雲が少しだけ切れた。


 淡い光が、壊れた広場に差し込む。


 その光は弱かった。


 けれど、誰か一人を照らすためのものではなかった。


 蒼真は、その光の中で静かに息を吸った。


 できる。


 でも、やらない。


 それは逃げではなく、これから何度も選び直さなければならない責任だった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


今回は、蒼真が“英雄”になる道を断つ話でした。


人は不安になると、誰かに決めてほしくなる。

強い人、正しい人、間違えなさそうな人に、責任を預けたくなる。


でも、それはとても危ういことでもあります。


蒼真は統治者になることを拒みました。

それは責任から逃げたのではなく、誰か一人が決める世界に戻らないための選択です。


支配しないことは、何もしないことではない。

これから彼は、王でも英雄でもなく、一人の調律士として世界に関わっていきます。

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