第8話 夜明けの蒸しタオル
部屋の明かりが消え、静寂が戻る。
ルーカスは椅子を並べ、その上で仮眠を取っていた。
規則正しい寝息が聞こえる。
私はベッドの中で、毛布を頭まで被り、膝を抱えていた。
眠れなかった。
先ほどの彼の言葉が、何度も頭の中でリフレインしていた。
『お前はまだ、自分自身を捨てていない』
その言葉は、温かいスープのように心に染みたけれど、同時に、私が必死に固めてきた殻を内側から溶かしてしまったようだった。
じわり、と視界が滲む。
一度溢れ出した熱いものは、もう止まらなかった。
声を押し殺す。
彼を起こしてはいけない。
ただでさえ迷惑をかけているのに、夜中にめそめそと泣く女など、鬱陶しいだけだ。
私は枕に顔を押し付け、嗚咽を噛み殺した。
悔しいわけではなかった。
悲しいのとも少し違う。
ただ、ずっと張り詰めていた糸が切れて、抑え込んでいた感情が一気に噴き出してきたのだ。
怖かった。
誰も信じられなかった。
自分が生きている価値なんてないと思っていた。
けれど、あの無骨な手が、私の存在を肯定してくれた。
「……っ、う……」
漏れそうになる声を、自分の腕を噛んで耐える。
身体が痙攣するように震えた。
涙が枕を濡らし、冷たくなって頬に張り付く。
ガタリ。
椅子が軋む音がした。
心臓が止まりそうになる。
起こしてしまったか。
私は息を詰め、死んだふりをした。
足音が近づいてくる。
ベッドの脇で止まる。
怒られる、と思った。
うるさい、眠れないだろう、と。
しかし、罵声は飛んでこなかった。
代わりに、大きな手が、毛布の上から私の頭に置かれた。
ポン、ポン、と。
ぎこちないリズムで、子供をあやすように、あるいは怯える小動物を落ち着かせるように。
「……息が詰まるぞ」
低い、寝起きのかすれた声。
「我慢するな。ここでは誰も聞いていない」
その言葉が、最後の一押しだった。
私は毛布を握りしめ、声を上げて泣いた。
子供のように、しゃくり上げ、呼吸が苦しくなるほど泣いた。
彼は何も言わなかった。
ただ、私が泣き止むまでの長い間、その不器用な手を私の頭に乗せ続けてくれた。
闇の中で、私は初めて、自分の弱さを許された気がした。
◇
翌朝。
窓から差し込む光で目を覚ました。
雨は完全に上がり、突き抜けるような青空が広がっている。
身体を起こすと、頭が少し重かったが、昨日までの鉛のような倦怠感は消えていた。
代わりに、目の周りが熱く、腫れぼったい。
「起きたか」
ルーカスが部屋に入ってきた。
彼はすでに身支度を整え、革鎧を装着している。
私の顔を見ると、彼は無言で手にしたものを投げ渡してきた。
バサリ、と顔に何かが被さる。
温かい。湿った布だ。
湯気が出るほどの蒸しタオルだった。
「顔を拭け。目が潰れたカエルみたいになってるぞ」
「……カエル」
ひどい言い草だ。
けれど、昨夜の私の醜態を知っている彼に言われると、言い返す言葉もない。
私はタオルを顔に押し当てた。
熱が、腫れた瞼に心地よい。
タオルの奥で、私は小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「支度が済んだら出発だ。馬車は裏手に回してある」
彼はそれだけ言うと、荷物をまとめ始めた。
昨夜のことには触れない。
「泣いてスッキリしたか」とも、「迷惑だった」とも言わない。
まるで何事もなかったかのように振る舞ってくれることが、今の私には一番の救いだった。
私は顔を拭き、タオルを膝に置いた。
視界が少しだけクリアになった気がする。
椅子の上には、洗濯されて乾いた私のワンピースが畳んで置かれていた。
よれよれで、色あせた服。
けれど、今の私にはこれしかない。
私はそれを手に取り、袖を通した。
◇
砦の裏門には、数日前と同じ護送用の馬車が停まっていた。
けれど、御者の姿はない。
代わりに、ルーカスが御者台に足をかけていた。
「え……貴方が御者を?」
「あの二人組は王都へ帰した。ここから先は俺が送る」
彼は手綱を握りながら私を見下ろした。
「兵士が一緒だと気が休まらないだろう。それに、俺の馬の方が速い」
彼は短く言うと、顎で馬車の扉をしゃくった。
護送車であることに変わりはない。
鉄格子もついている。
けれど、もうあの時のような、地獄へ向かう棺桶には見えなかった。
私はステップに足をかける。
今度は、誰の手も借りずに自力で上がった。
扉を閉める前に、私は一度だけ空を見上げた。
高い空。
王都の空よりも青く、そして澄んでいる。
風は冷たいけれど、どこか甘い草の匂いがした。
「行こう」
私は小さく呟いた。
誰に向けた言葉でもない。
自分自身への号令だ。
馬車が動き出す。
車輪が回る音が、軽快に響いた。
御者台からは、彼が馬に声をかける低い声が聞こえてくる。
私はベンチシートに深く座り、窓枠に肘をついた。
流れる景色を目で追う。
荒涼とした大地が続いているが、その先にはうっすらと森の緑が見え始めていた。
これから行く場所で、何が待っているのかは分からない。
罪人としての扱いを受けるのか、それとも別の運命があるのか。
不安がないと言えば嘘になる。
けれど、絶望はもうしていなかった。
私は自分の手を握りしめる。
硝子細工だと言われた手。
でも、この手で、自分の涙を拭うことはできた。
それならきっと、まだやり直せる。
馬車は北へ。
私の新しい戦場となる、辺境の地へと速度を上げた。




