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すべてを失った令嬢が、それでも前を向いた理由  作者: 九葉(くずは)


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第7話 盾となる背中

部屋に戻ってからも、心臓の鼓動が治まらなかった。

 指先には、まだインクの汚れが微かに残っている。

 そして手首には、彼に掴まれた時の熱さが、火傷のように焼き付いていた。


 ルーカスは部屋の隅にある小さなストーブに火を入れていた。

 パチパチと薪が爆ぜる音がする。

 彼は手慣れた様子で鉄瓶を置き、棚から布袋を取り出した。

 香ばしい、深い匂いが漂ってくる。

 コーヒーだ。

 辺境では貴重品だと聞いたことがある。


 私は椅子に座ったまま、彼の背中を見つめていた。

 広い背中だ。

 先ほど、あの傲慢な文官と私の間に割って入った、頼もしい壁。

 けれど同時に、今の私にはその背中がひどく恐ろしかった。

 私のせいで、彼は傷を負ったかもしれないからだ。


「……あの」


 恐る恐る声をかける。

 彼は振り返らなかったが、豆を挽く手を止めた。


「後悔、なさいませんか」

「何をだ」

「王家直属の使者にあんな態度を取って……。貴方の立場が悪くなるかもしれません」


 私の声は震えていた。

 自分のことなら耐えられる。

 けれど、唯一情けをかけてくれた人が、私の巻き添えになって不利益を被るのは耐え難い。

 彼はただの護衛任務についただけなのに。

 貧乏くじを引いただけなのに。


 ガリガリと、豆を挽く音が再開した。

 彼は作業を続けながら、淡々と答える。


「俺は辺境の人間だ。王都の顔色なんて元々気にしていない」

「ですが……」

「それに、間違った書類を通せば、この砦の管理責任が問われる。俺自身を守るためでもある」


 もっともらしい理屈だった。

 けれど、あの時の彼の怒りは、そんな事務的な理由から来るものではなかったはずだ。

 あの殺気。

 あの熱量。

 それは明らかに、私という人間を守ろうとする意志だった。


 鉄瓶から湯気が上がり、シューという音が部屋に満ちる。

 彼は二つのマグカップに黒い液体を注ぎ、片方を私に差し出した。


「飲め。落ち着くぞ」


 受け取ったマグカップは熱かった。

 香りが鼻孔をくすぐり、強張っていた神経が少しだけ緩む。

 一口啜る。

 苦い。けれど、その苦みが現実感を取り戻させてくれた。


 私はカップを両手で包み込み、湯気越しに彼を見た。

 彼は自分のカップを持ったまま、窓辺に寄りかかっていた。

 窓の外は完全な闇だ。

 硝子に映った彼の顔は、酷く疲れているように見えた。


「……どうしてですか」


 私はもう一度、聞いた。

 今度は、もっと核心に触れる問いを。


「どうして、私なんかのために怒ってくれたのですか。私は、本当に……何も持っていないのに」

「何も持っていない、か」


 彼は独り言のように繰り返し、カップの中身を煽った。

 そして、ゆっくりと私の方を向く。

 その瞳が、薄暗い部屋の中で静かに光っていた。


「初めて会った時、雨の中でお前は立っていた」

「……はい」

「兵士たちは笑っていたし、俺もただの仕事だと思っていた。だが、お前は泣いていなかった」


 記憶が蘇る。

 あの灰色の雨の日。

 感情を殺し、ただ立ち尽くしていたあの日。


「馬車の中でも、熱にうなされている時も、お前は一度も『助けてくれ』とは言わなかった。誰も恨まず、誰のせいにもせず、ただ耐えていた」


 彼は一歩、私に近づいた。


「俺には、それが人間らしく見えた」


 人間らしく。

 その言葉に、息が止まりそうになった。

 ずっと「人形」だと言われてきた。

 「飾り物」だと言われてきた。

 事件の後は「汚物」のように扱われた。

 けれど、この人は。

 泥だらけで、無力で、震えているだけの私の中に、人間としての尊厳を見てくれていたのか。


「何も持っていないなんて言うな。お前はまだ、自分自身を捨てていない」


 彼の大きな手が、私の頭にポンと置かれた。

 撫でるわけでもなく、ただ重みを乗せるような、不器用な触れ方。

 その重みが、私の身体を椅子に繋ぎ止めてくれる錨のように感じられた。


「……っ」


 鼻の奥がツンと痛くなった。

 視界が急激に滲む。

 泣いてはいけない。

 泣けば、彼が認めてくれた「強さ」が嘘になってしまう気がした。

 私は唇を噛み締め、必死にマグカップを睨みつけた。

 黒い水面に、波紋が広がる。


 彼はすぐに手を離した。

 そして私の涙を見ないふりをするように、背を向けてストーブの薪をいじり始めた。


「……もう少し休め。明日は移動だ」


 その声は、いつも通りのぶっきらぼうな響きに戻っていた。

 けれど、そこに含まれる温度は、最初に出会った時の冷たい雨とは明らかに違っていた。


 私は涙を拭わずに、コーヒーを飲んだ。

 苦くて、熱くて、少しだけしょっぱい味がした。

 心の中にあった氷の塊が、音を立てて溶けていくのが分かった。


 私は一人じゃない。

 この、ぶっきらぼうで不器用な騎士が、盾となって前に立ってくれている。

 その事実だけで、私は明日も息ができる気がした。

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