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すべてを失った令嬢が、それでも前を向いた理由  作者: 九葉(くずは)


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第6話 名前という呪い

扉が開く音が、銃声のように響いた。

 私はビクリと肩を跳ねさせ、入り口を見る。

 ルーカスが戻ってきた。

 剣は帯剣したままだが、抜身ではない。

 けれど、彼が纏っている空気は、先ほどの夕食の時とは別人のように冷たく、尖っていた。


「……来い」


 彼は短く言った。

 目が合わない。彼は私の背後にある壁の染みでも見ているような虚ろな目をしている。


「王都からの使者が、お前に会いたいと言っている」

「私、に……?」

「ああ。確認事項があるそうだ」


 心臓が早鐘を打つ。

 確認事項。

 ろくなことであるはずがない。

 処刑の命令書だろうか。それとも、もっと酷い何かか。

 拒否権などないことは分かっている。

 私は震える膝を叩き、立ち上がった。

 借り物の大きなシャツの裾を握りしめ、彼の背中を追う。


 廊下は騒然としていた。

 砦の兵士たちが、遠巻きに私たちを見ている。

 その視線には好奇心と、微かな同情が混じっていた。

 それが余計に私を不安にさせる。

 同情されるような運命が、待っているということだから。


        ◇


 通されたのは、砦の中で唯一まともな家具が置かれた応接室だった。

 長机を挟んで、一人の男が座っている。

 上質なベルベットのコートに、白いスカーフ。

 泥と鉄の臭いがするこの砦の中で、彼だけが異質なほど清潔で、香水の甘い匂いを漂わせていた。


 男は私が入ってきても立ち上がらなかった。

 片眼鏡の位置を直しながら、じろりと私を値踏みする。


「……ふむ。思ったより消耗していないようですな」


 粘着質な声だった。

 私は彼を知っている。

 法務省の次官だ。

 父の審問会で、淡々と罪状を読み上げていた男。


「お久しぶりですかな、元公爵令嬢」

「……はい」

「単刀直入に申し上げましょう。貴女に書いていただきたいものがある」


 彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、机の上に広げた。

 びっしりと文字が書かれている。

 そして、その横にインク壺と羽根ペンを置いた。


「これは?」

「王立倉庫の管理不備に関する自白書です」


 意味が分からず、私は瞬きをした。

 倉庫の管理?

 それは私が関与していた慈善事業とは何の関係もないはずだ。


「……覚えが、ありません」

「覚えなどどうでもいいのです」


 男は鼻で笑った。

 まるで物分かりの悪い子供に言い聞かせるような口調になる。


「現在、王都では物資の不足が問題になっていましてね。誰かが責任を取らねばならんのです。しかし、有能な現職の官僚たちに傷をつけるわけにはいかない」

「それで、私に?」

「貴女はすでに泥がついている。一つや二つ、罪が増えたところで変わらんでしょう? 国民も『またあの悪女か』と納得する」


 血の気が引いていくのが分かった。

 冤罪だ。

 彼らの失態を隠すための、都合のいいゴミ箱として私が選ばれたのだ。


「……断ったら、どうなりますか」

「さて。貴女はよくても、貴女の元侍女や、別邸の父親がどうなるか……」


 男は言葉を濁し、ニヤリと笑った。

 明確な脅しだった。

 私にはもう守るべき地位も名誉もない。

 けれど、私に関わった人々の平穏だけは、これ以上壊したくない。


 私が署名すれば、それで終わる。

 私が泥を被れば、マルグリットや父は安全なままでいられる。

 それなら、迷うことなどないはずだ。

 私は「役に立たない」存在なのだから、せめて誰かの身代わりになるくらいしか価値がない。


「……分かりました」


 私は机に歩み寄る。

 羽根ペンを手に取った。

 指先が震えて、インクがぽたりと羊皮紙に落ちて黒い染みを作る。


 名前を書かなければ。

 『エレナ・アルヴェイン』と。

 もう捨てたはずの名前。

 忌まわしい罪人の名前。


 ペン先を紙に押し当てる。

 ガリ、と乾いた音がした。


 その時だった。


 ドン!

 机が大きく揺れ、インク壺が倒れた。


「え……?」


 黒いインクが羊皮紙の上に広がり、文字を塗り潰していく。

 私の手は、誰かに強く掴まれていた。

 革手袋の手。

 ルーカスだ。

 彼が私の手首を掴み、ペンを紙から引き剥がしていた。


「な、何をする! 無礼だぞ!」


 文官が立ち上がり、顔を真っ赤にして叫ぶ。

 ルーカスは彼を一瞥もしなかった。

 ただ、私の手首を掴んだまま、私を見下ろしている。

 その瞳は、凍りつくほど冷ややかで、けれど奥底に激しい炎のような怒りを宿していた。


「……書くな」

「でも、私が書かないと……」

「書くなと言っている」


 彼は私の手からペンをもぎ取り、床に投げ捨てた。

 カラン、と軽い音がしてペンが転がる。


「貴様! 王家直属の勅使に対する狼藉だぞ! ただで済むと……」

「俺の任務は、彼女を『生きて』辺境へ届けることだ」


 ルーカスが低い声で遮った。

 彼はゆっくりと文官の方へ顔を向ける。

 殺気。

 肌が粟立つほどの威圧感が、部屋の空気を支配した。


「心神喪失状態での自白強要は、王国法で禁じられているはずだ。見ての通り、彼女は高熱から回復したばかりで判断能力がない。そんな状態での署名など、法的には紙屑だ」

「なっ……屁理屈を!」

「屁理屈ではない。辺境警備隊長としての判断だ」


 ルーカスは机の上の、インクで汚れた羊皮紙を無造作に掴み上げた。


「この書類は預かる。必要なら、俺の上官を通して正式に手続きをしろ。ただし……」


 彼は一歩、文官に詰め寄る。


「その時は、俺が証人として立つ。お前がここで、脅迫紛いの取引を持ちかけたことも含めてな」


 文官が怯んで後ずさった。

 現場の武官が持つ暴力的なまでの迫力に、机上の空論しか知らない文官は圧倒されていた。

 男は悔しげに顔を歪め、捨て台詞を吐く。


「……後悔するぞ、野蛮人が。この件は上に報告させてもらう!」


 男は荒々しく荷物をまとめ、逃げるように部屋を出て行った。

 バタン、と扉が閉まる。


 部屋に静寂が戻った。

 私の手首には、まだ彼の手の感触が残っている。

 痛いほど強く握られていた場所が、熱を持っていた。


「……どうして」


 私は呆然と呟いた。


「どうして止めたのですか。私が書けば、丸く収まったのに」

「収まらない」


 彼は私の手を離し、ため息をついた。


「一度譲歩すれば、奴らは何度でも来る。お前が死ぬまで、あらゆる罪を擦り付けに来るぞ」

「それでも……私には、断る力なんて」

「俺がいる」


 彼は断言した。

 迷いのない、鋼のような響きだった。


「お前が俺の管理下にある限り、不当な干渉はさせない。お前はただの荷物じゃない。俺が守ると決めた人間だ」


 心臓が、跳ねた。

 守る。

 その言葉が、私の空っぽな胸の中に落ちて、波紋を広げていく。


 彼はインクで汚れた私の指先を見ると、懐からハンカチを取り出し、乱暴に、けれど丁寧に拭き取ってくれた。


「……名前は、安売りするな。お前の名前は、罪を認めるためだけにあるんじゃない」


 その言葉に、私は返す言葉が見つからなかった。

 ただ、視界が滲んでいくのを感じた。

 自分の名前。

 呪いだと思っていたその響きを、彼は今、確かに守ってくれたのだ。


 インクの匂いと、彼の革の匂いが混じり合う。

 私は拭かれるがまま、自分の手を見つめ続けていた。

 硝子細工の手は、まだ折れてはいなかった。

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