第5話 傷だらけの手と硝子の指
熱が引くと同時に、焦燥感が鎌首をもたげてきた。
私はベッドから抜け出し、ふらつく足で床に立つ。
身体の節々はまだ軋むように痛いが、寝てばかりはいられない。
三日も。
三日もただ寝て、水をもらい、食事を与えられた。
何の対価も払わずに。
その事実が、喉元にナイフを突きつけられているかのように私を追い詰める。
公爵家での最後の日々、父は私に言った。
『お前は何も生み出さない』と。
その通りだ。私は消費するだけの存在だ。
だから、証明しなければならない。
私がここにいてもいい理由を。
部屋を見渡す。
殺風景な騎士の個室。
床の隅には砂埃が溜まり、窓ガラスは雨の跡で汚れている。
私は部屋の隅にあった古びた雑巾を見つけると、水差しに残っていた水でそれを濡らした。
冷たさが指先を刺す。
けれど、その痛みが今の私には必要だった。
膝をつき、床を拭き始める。
慣れない作業だった。
侍女のマルグリットがやっているのを見たことはあるが、実際に手を動かすのは初めてだ。
木のささくれが指に引っかかる。
爪の間に黒い汚れが入る。
構わない。
もっと汚れて、もっと働いて、役に立たなければ。
ゴシゴシと、無心に手を動かす。
息が上がり、額に汗が滲む。
病み上がりの身体が悲鳴を上げているが、私はそれを無視して次の板へと移動した。
ガチャリ。
不意にドアノブが回る音がした。
私は弾かれたように顔を上げる。
扉が開き、ルーカスが入ってきた。
彼は両手に水桶と食料の袋を抱えていたが、床に這いつくばっている私を見て凍りついた。
「……何をしている」
低い声。
怒っているのだろうか。
勝手なことをしたから。
それとも、掃除の仕方が下手で、逆に汚してしまったからか。
私は慌てて立ち上がろうとして、足がもつれた。
ドサリと膝をつく。
「す、すみません。じっとしていられなくて……その、お部屋が少し埃っぽかったので」
「掃除をしていたのか」
「はい。食事や薬をいただいた分、何かお返しをしないと」
彼はため息をついたようだった。
荷物をテーブルに置くと、大股で私に歩み寄ってくる。
私は身をすくめた。
叱責される、と思った。
けれど、私の目の前に差し出されたのは、叱責の言葉ではなく、無骨な手だった。
「雑巾を貸せ」
「え?」
「病人に床磨きをさせる趣味はない。貸せ」
彼は有無を言わせぬ圧力で、私の手から汚れた雑巾を奪い取った。
そして私の手首を掴み、強引に立たせる。
ぐい、と引っ張られ、私はよろめきながら彼の胸元に倒れ込んだ。
近い。
革鎧の匂いと、汗の匂い。
心臓が早鐘を打つ。
「手を見せろ」
彼は私の両手を広げさせ、じっと見つめた。
私の手は、冷水と埃で赤くなり、ささくれで少し血が滲んでいた。
細く、白く、何も持ったことのない手。
生活能力のなさを象徴するような、頼りない指先。
対して、私の手首を掴んでいる彼の手は、まるで岩のようだった。
掌は分厚く、無数の切り傷と火傷の痕が走っている。
剣を握り続け、人を守り、あるいは人を殺めてきた手だ。
あまりにも違う。
同じ人間とは思えないほど、その形状も、刻んできた歴史も異なっていた。
「……硝子細工みたいだな」
彼はぽつりと呟いた。
侮蔑ではなかった。
けれど、称賛でもない。
ただ事実として、壊れやすいものを前にした困惑がそこにあった。
「こんな手で雑巾を絞れば、傷つくに決まっている」
「でも……私には、これくらいしか」
「これくらい、と言うな」
彼は少しだけ語気を強めた。
私は肩を震わせる。
「お前が動くと、俺の仕事が増える。倒れられたら看病するのは俺だ。分かるか?」
「……はい」
「なら、大人しく座っていろ。それが一番の『手伝い』だ」
彼は私を椅子に座らせると、奪った雑巾を無造作に桶に放り込んだ。
そして袋からパンと干し肉を取り出し、ナイフで切り分け始める。
私は膝の上で、自分の手を握りしめた。
じんじんと熱を持っている。
彼の言った「硝子細工」という言葉が、胸の中で反響していた。
綺麗だという意味ではない。
何もできない、ただ飾られているだけの、脆い存在だということだ。
彼のような強くて実用的な手を持つ人にとって、私はどれほど厄介な荷物なのだろう。
◇
夕食は静かだった。
彼は必要以上に話そうとはしなかったが、拒絶的な空気は薄らいでいた。
時折、私がパンを食べる手が止まると、無言で水差しを寄せてくれる。
そんな些細な気遣いが、今の私には痛いほど染みた。
窓の外では、数日ぶりに雨が上がっていた。
雲の切れ間から、蒼白い月明かりが差し込んでいる。
「明日は晴れる」
彼が窓を見ながら言った。
「天気が回復すれば、国境警備隊の定期便が来るはずだ。お前の身柄についての正式な書類も届く」
「……そうですか」
胃の腑が冷たくなる。
正式な書類。
それはつまり、私がここでどう扱われるかが決定するということだ。
労働力として使役されるのか、さらに北の鉱山へ送られるのか。
あるいは、ここで処刑されるのか。
彼との奇妙な共同生活も、きっとこれで終わりだ。
彼は任務を果たし、私は運命を受け入れる。
当然のことなのに、なぜか胸がざわついた。
その時だった。
カン、カン、カン!
鋭い鐘の音が、静寂を引き裂いた。
砦の警鐘だ。
ルーカスの目が鋭くなり、彼は瞬時に立ち上がって剣を掴んだ。
空気が一変する。
さっきまでの穏やかな食事の気配は消え失せ、張り詰めた戦場の空気が満ちた。
「ここにいろ。動くなよ」
彼は短く言い残し、部屋を飛び出していった。
私は一人、残される。
廊下を走る兵士たちの足音と、怒号が聞こえてくる。
「王都からの急使だ!」
「紋章を確認しろ! 王家直属だぞ!」
「なぜこんな夜更けに!」
王都。王家直属。
その単語が耳に入った瞬間、私の全身から血の気が引いた。
定期便ではない。
予定外の、緊急の使者。
窓の外を見る。
砦の門前に、松明を持った一団が到着しているのが見えた。
その先頭には、見覚えのある黄金の旗が翻っている。
かつて私を断罪した、あの法廷に飾られていたものと同じ紋章。
震えが止まらない。
逃げ場などないことは分かっていた。
けれど、こんなにも早く、過去が追いかけてくるとは思わなかった。
私は自分の、硝子のように脆い手をきつく握りしめた。
爪が皮膚に食い込み、確かな痛みだけが、私がまだ生きていることを教えていた。




