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すべてを失った令嬢が、それでも前を向いた理由  作者: 九葉(くずは)


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第4話 熱の檻と不器用なスプーン

目を開けると、知らない天井があった。

 古びているが、太い梁がしっかりと通った木の天井だ。

 石造りの壁には小さな明かり取りの窓があり、そこから弱い光が差し込んでいる。


 私はゆっくりと瞬きをした。

 身体が重い。

 けれど、あの馬車の中で感じていたような、骨が軋むような痛みはなかった。

 背中には柔らかいマットレスの感触がある。

 身体の上には、清潔なシーツと分厚い毛布が掛けられていた。


 夢だろうか。

 私は毛布から手を出して、自分の頬をつねってみようとした。

 腕が上がらない。

 鉛が入っているかのように重く、指先が微かに動いただけだった。


「……気づいたか」


 部屋の隅から声がした。

 心臓が跳ねる。

 首だけを動かして声の主を探すと、木製の椅子に座る男の姿があった。

 あの騎士だ。

 彼は腕を組み、壁にもたれかかるようにして目を閉じていたが、私が身じろぎした音に反応して目を開けたところだった。


 彼の顔色は悪い。

 目の下に濃い隈があり、顎には無精髭が目立っている。

 いつも整えられていた黒髪も、今は少し乱れていた。


「……ここは」

「砦の宿舎だ。お前は丸二日、熱でうなされていた」


 彼は椅子から立ち上がり、ベッドの脇にあるサイドテーブルに手を伸ばした。

 水差しからコップに水を注ぐ音がする。


 二日。

 そんなに眠っていたのか。

 記憶にあるのは、馬車の床の冷たさと、彼に抱き上げられた時の浮遊感だけだ。


「飲めるか」


 彼がコップを差し出してくる。

 私は頷こうとして、首を持ち上げようとしたが、力が入らなかった。

 それを見た彼は、無言で私の背中に手を回す。

 大きく、温かい手。

 彼が軽く力を入れると、私の上半身が持ち上がった。

 枕を背中に当てがい、楽な姿勢を作ってくれる。


 コップの縁が唇に触れた。

 水が少しずつ口の中に流れ込んでくる。

 乾ききった喉に、冷たい液体が染み渡る。

 私は貪るように飲んだ。

 水が溢れて顎を伝ったが、彼はすぐに親指でそれを拭い取った。

 その指先は荒れていて、固いタコがあったけれど、触れ方は驚くほど丁寧だった。


「……すみません」


 飲み終えて、ようやくまともな声が出た。

 私は自分の身体を見下ろす。

 着ていたはずの汚れたワンピースがない。

 代わりに、サイズの大きい男性用のシャツを着せられていた。

 ボタンは一番上まで几帳面に留められている。


 一瞬、血の気が引いた。

 誰が着替えさせたのか。

 部屋には彼しかいない。


 彼は私の視線に気づいたのか、水差しを置きながら淡々と言った。


「ばあさんに頼んだ。砦の賄いだ」


 嘘だと思った。

 この部屋には、女性が立ち入ったような甘い匂いや、生活の気配がしない。

 あるのは消毒用のアルコールと、彼が身にまとっている雨と鉄の匂いだけ。

 けれど、私はそれを追求しなかった。

 彼がそう言うのなら、そういうことにしておいた方がいい。

 それが、私の尊厳を守るための彼の嘘だと分かったから。


「……ご迷惑を、おかけしました」

「仕事だ」


 彼は短く切り捨てた。

 そして部屋の出口へと歩いていく。


「待ってろ。飯を持ってくる」


 扉が閉まり、静寂が戻ってくる。

 私は毛布を鼻まで引き上げた。

 迷惑をかけた。

 ただの荷物運びの任務なのに、こんなに手間を取らせてしまった。

 きっと彼はうんざりしているはずだ。

 早く回復して、これ以上邪魔にならないようにしなければ。


        ◇


 数分後、彼が戻ってきた。

 手に持っているのは湯気の立つ木椀だ。

 部屋に入ってくるなり、彼はまたベッドの脇の椅子に腰を下ろした。


「口を開けろ」

「……自分で、食べられます」

「手が震えてるぞ」


 指摘されて手を見ると、確かに小刻みに震えていた。

 スプーンを持つ握力さえ残っていないらしい。

 情けなさで涙が出そうになるのをこらえ、私は小さく口を開けた。


 彼はスプーンで粥をすくい、ふうふうと息を吹きかけて冷ました。

 その仕草が、強面の彼にはあまりにも似つかわしくなくて、私は少しだけ目を見開いた。

 戦場で剣を振るう手が、今は小さなスプーンを慎重に扱っている。


 差し出された粥を口に含む。

 薄味だが、出汁の効いた優しい味がした。

 温かさが胃に落ちていく。


「……おいしい、です」

「そうか」


 彼は表情を変えずに次の一口を運んでくる。

 機械的な作業のようだったが、ペースは私の嚥下に合わせられていた。

 私が飲み込むのを確認してから、次のスプーンを差し出す。

 急かさない。

 無理強いもしない。


 半分ほど食べたところで、私は首を横に振った。

 もう入らない。

 彼はすぐに椀を引いた。

 無理に食べさせようとはしない。


「薬がある。飲んだら寝ろ」


 彼は錠剤と水を渡してくると、空になった椀を持って立ち上がった。

 これで用事は済みだと言わんばかりの態度だ。

 けれど、彼は部屋を出て行かなかった。

 椅子に座り直し、また腕を組んで目を閉じる。


 ここに居るつもりなのだろうか。

 私を見張るために?

 逃げ出す体力などないのに。


「……あの」

「なんだ」

「貴方は、休まないのですか」


 目の下の隈が気になっていた。

 二日間、私につきっきりだったとしたら、彼はいつ眠ったのだろう。


 彼は片目だけを開けて、私を見た。


「俺はここでいい」

「でも、ベッドで横になった方が……」

「患者を一人にはできない。急変したらどうする」


 もっともらしい理由だった。

 けれど、その声には義務感以上の重みがあった気がした。

 ただの護衛対象に、そこまでする義理はないはずだ。

 死なせなければいいだけなのだから、部屋の外に見張りを立てれば済む話だ。


「……なぜ、ここまでしてくれるのですか」


 聞いてしまった。

 聞くべきではなかったかもしれない。

 どうせ「任務だから」と返されるのがオチだ。


 彼は沈黙した。

 雨音が窓を叩く音だけが響く。

 長い沈黙の後、彼はポツリと言った。


「……俺は、捨てられた犬を見ると放っておけない質なんだ」


 それは冗談なのか、本心なのか。

 彼の顔は真顔だった。

 私は少しだけ笑ってしまった。

 自分を犬に例えられたことへの怒りは湧かなかった。

 今の私は、まさに泥まみれで震える捨て犬そのものだったから。


「……ワン、とでも言えばいいですか?」

「元気になったらな」


 彼はフッと鼻で笑った。

 初めて見た、彼の感情の揺らぎだった。

 ほんの一瞬、口角が上がっただけ。

 それでも、その表情は今まで見たどの貴族の笑顔よりも、温かみを持っていた。


 私は薬を飲み込み、毛布に潜り込んだ。

 彼が近くにいる。

 その事実が、不思議と安心感をもたらしていた。

 まだ熱の残る頭で、私はぼんやりと思う。

 この人が看守でよかった、と。


 椅子が軋む音がした。

 彼が座り直した音だ。

 その音を子守唄代わりに、私は再び深い眠りへと落ちていった。

 今度の眠りは、泥のような闇ではなく、静かで穏やかな夜の海だった。

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