第3話 触れられない傷跡
馬車の揺れが、三半規管をかき回す。
王都を出てから一週間が過ぎていた。
窓の外の景色は、豊かな緑の平原から、岩肌の目立つ荒涼とした大地へと変わっている。
北へ向かっているのだ。
風は日に日に冷たくなり、夜になると息が白くなるほど気温が下がった。
私は座席の隅で、貸してもらった外套にくるまり続けている。
一度も返せと言われなかった。
それどころか、私が返そうとするたびに、彼は「邪魔だ」と短く言って受け取りを拒否した。
だから私は、この黒い布に縋り付くようにして、終わりのない旅を耐えている。
頭が重い。
額の奥で、鈍い鐘が鳴っているような痛みが続いていた。
喉が渇いているのに、水を飲むのが億劫で身体が動かない。
自分の呼気が熱を帯びているのが分かった。
けれど、誰かに訴えるつもりはなかった。
面倒な荷物が増えるだけだ。
ガタン、と車輪が大きな石を乗り越える。
その衝撃で胃の中身が逆流しそうになり、私は口元を強く押さえた。
吐くものなどない。
ここ数日、彼は定期的に食事を持ってきてくれたが、半分も喉を通らなかったからだ。
「休憩だ」
聞き慣れた低い声がして、馬車が停まる。
また、私の生存確認の時間だ。
◇
馬車を降りると、そこは灰色の空が広がる谷間だった。
風が唸りを上げて吹き抜け、乾燥した砂埃を巻き上げている。
私はよろめきながら、数歩離れた岩陰へと向かった。
足元がおぼつかない。
地面が波打って見える。
少し離れた場所で、護送の兵士たちが水筒を回し飲みしながら談笑していた。
風に乗って、彼らの声が切れ切れに聞こえてくる。
「……公爵家も終わりだな」
「贅沢三昧のツケだろ。ざまあみろってんだ」
「あの女も、どうせ辺境じゃ長続きしねえよ。賭けてもいい」
彼らは私に聞こえることを気にしていない。
むしろ、聞こえるように話しているのかもしれない。
私は唇を噛み、膝の上で拳を握った。
反論する気力も、権利もない。
彼らの言う通りだ。
私は何も知らず、ただ守られて生きてきた無能な令嬢で、その結果がこの没落なのだから。
ザッ、と砂利を踏む音がして、視界に黒い影が落ちた。
あの騎士だ。
彼は兵士たちの会話など聞こえていないかのように、私の前に立った。
その手には、革の水筒が握られている。
「飲め」
短い命令。
彼は栓を抜くと、無造作にそれを差し出した。
私は震える手で受け取る。
重い。
水筒の中身がちゃぷんと揺れる感触さえ、今の私には負荷だった。
「……ありがとうございます」
一口飲む。
冷たい水が、焼け付くような喉を滑り落ちていく。
生き返る心地がした。
私は息をつき、水筒を彼に返した。
彼は受け取ると、すぐに立ち去ろうとはしなかった。
ただ、じっと私を見下ろしている。
その瞳は観察するようであり、何かを探るようでもある。
私は居心地が悪くなり、視線を足元の石ころに向けた。
「何か、聞きたいことはありますか」
掠れた声で尋ねる。
兵士たちの話していたような、私の罪や、家の没落について。
あるいは、なぜこんなにも無様に生き恥を晒しているのかについて。
世間の人間なら、誰もが好奇の目で聞きたがるはずの話だ。
しかし、彼は首を横に振った。
「ない」
「……そうですか」
「過去の話を聞いて、馬車が軽くなるわけじゃない」
彼は水筒の栓を閉め、腰に吊るした。
その動作には一切の迷いがない。
「俺に必要なのは、お前が生きているか、死にかけているか、それだけだ」
そう言い捨てて、彼は背を向けた。
兵士たちの雑談の輪には加わらず、また一人離れた場所で風上に立つ。
その背中は、周囲の悪意からも、私の過去からも、意図的に距離を置いているように見えた。
関心がないのだ。
それが妙に腑に落ちた。
彼は私を人間として見ているわけではない。
配送すべき荷物として扱っている。
中身が宝石だろうがガラクタだろうが、配達人には関係ないことなのだ。
胸の奥で、小さな安堵のため息が漏れた。
軽蔑されるよりも、無視される方がずっと楽だ。
心の傷をえぐられないで済む。
私は彼が貸してくれた外套をさらにきつく抱きしめた。
彼の匂いがする。
それだけが、今の私を繋ぎ止める唯一の現実だった。
◇
再び馬車が動き出す。
目的地である辺境伯領の砦まで、あと半日ほどだと御者が話しているのが聞こえた。
もうすぐ終わる。
この揺れる箱からも、無言の騎士との時間からも解放される。
けれど、私の身体は限界を超えていたらしい。
車体の揺れに合わせて、視界が白く明滅し始めた。
寒気がするのに、汗が止まらない。
呼吸が浅く、速くなる。
ベンチシートに座っていられなくなり、私はずるずると床に身体を滑らせた。
汚い床板に頬をつける。
埃の臭いがしたが、気にならなかった。
ただ、横になりたかった。
意識が泥のように濁っていく。
(だめ、迷惑をかけてしまう……)
起き上がろうと腕に力を込めるが、筋肉が言うことを聞かない。
指先一つ動かせなかった。
私はそのまま、暗い闇の中へと沈んでいった。
◇
次に気づいたとき、世界は止まっていた。
馬車の揺れがない。
外が騒がしい。
誰かの怒鳴り声と、重い門が開く音が聞こえる。
着いたのだろうか。
「おい、降りろ!」
扉が開けられ、御者の乱暴な声が飛んでくる。
私は返事をしようとしたが、声が出なかった。
目を開けることさえ重労働だ。
薄目を開けると、入り口に御者の顔が見えた。
彼は床に倒れている私を見て、舌打ちをした。
「ちっ、寝てやがるのか? いい身分だな」
彼は手を伸ばし、私の腕を掴んで無理やり引きずり出そうとした。
乱暴な力が加わり、肩に痛みが走る。
私は呻き声を漏らすことしかできない。
その時だった。
御者の腕が、横から伸びてきた別の手に掴まれた。
黒い革手袋の手。
「やめろ」
地を這うような低い声。
騎士だった。
彼は御者の腕を捻り上げるようにして私から引き剥がすと、乱暴に後ろへ突き飛ばした。
御者がよろめいて尻餅をつく。
「な、なんだよ! こいつが起きねえから……」
「見れば分かるだろう」
騎士は私の方へ踏み込んできた。
大きな影が私を覆う。
彼は片膝をつき、私の額に自分の手の甲を当てた。
冷たい革の感触が気持ちいい。
「……熱いな」
独り言のように呟くと、彼は躊躇なく腕を伸ばした。
私の背中と膝裏に腕が差し込まれる。
次の瞬間、視界がふわりと持ち上がった。
軽々と抱き上げられる。
いわゆるお姫様抱っこだったが、甘い雰囲気など微塵もない。
負傷者を運ぶための、実用的な抱え方だ。
彼の胸元に顔が埋まる。
硬い革鎧の感触と、規則正しい心臓の音が聞こえた。
私は朦朧とする意識の中で、彼の首に手を回そうとして、力なく垂れ下げた。
「……すみ、ません」
「喋るな。舌を噛むぞ」
彼は私を抱えたまま、大股で歩き出した。
周囲の兵士たちが何か言いたげに見ている気配がしたが、彼は一瞥もくれない。
ただ前だけを見て、砦の中へと進んでいく。
雨が降り始めていた。
冷たい雫が頬に落ちるが、彼の腕の中は不思議と温かい。
私の意識はそこで限界を迎え、プツリと途切れた。
最後に感じたのは、私を抱える腕が、痛いくらいに強く、決して落とさないという意思を込めて固定されていたことだった。




