第2話 野営の火と無口な監視者
車輪が泥濘を跳ね上げる音が、終わることなく続いていた。
王都を出てから三日が過ぎたはずだ。
正確な時間を知る術はない。
鉄格子の嵌まった小さな窓から見える空の色と、腹の虫が訴える空腹の回数で、なんとなく日数を数えているだけだった。
ガタン、と車体が大きく跳ねる。
私は座席の端を掴み、身体が投げ出されるのを必死で耐えた。
硬い木のベンチシートにはクッションなどなく、お尻や背中はとっくに痛みを感じなくなっている。
代わりに、痺れのような鈍い感覚が下半身を支配していた。
向かいの席には誰もいない。
狭い箱の中に、私一人。
会話はなく、聞こえるのは御者の怒鳴り声と、馬の荒い息遣いだけ。
私は膝を抱えるようにして体を丸める。
薄いワンピース一枚では、北へ向かうにつれて下がる気温に耐えられそうになかった。
歯の根が合わず、カチカチと小さな音を立てる。
それが自分の音だと気づくのに、数秒かかった。
「……休憩だ」
不意に馬車が速度を緩め、外から低い声が聞こえた。
あの騎士の声だ。
三日間、彼は必要最低限のこと以外、私に話しかけてこなかった。
名前すら知らない。
ただ、黒髪の無口な護衛とだけ認識している。
馬車が完全に停止する。
扉の外で鍵を開ける重金属の音が響き、ぎぃ、と蝶番が鳴いた。
「降りていい。足を伸ばせ」
扉が開くと、冷たい夜気が一気に流れ込んできた。
騎士が入り口の脇に立っている。
やはり彼は私を見ようとせず、視線を夜の闇に向けていた。
私は強張った体を無理やり動かし、馬車の外へと這い出る。
◇
地面に降り立った瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。
足の裏が地面の冷たさを拾い、感覚が戻ってくるにつれて鋭い痛みが走る。
私は馬車の車輪にしがみつき、なんとか体勢を保った。
ここは街道沿いの荒れ地らしかった。
数本の枯れ木が亡霊のように立っているだけで、風を遮るものは何もない。
少し離れた場所で、御者と二人の兵士が焚き火の準備を始めていた。
彼らは火打ち石を打ち合わせながら、卑猥な冗談を言い合って笑っている。
その笑い声が、耳障りだった。
彼らの視界に入りたくない。
私は馬車の影に隠れるようにして、冷たい地面に直接座り込んだ。
自分の惨めさが、夜の寒さよりも深く骨身に染みる。
かつては、移動のたびに侍女たちが分厚い毛布を用意し、温かい紅茶を淹れてくれた。
今は泥の上で、汚れた罪人として震えている。
当然の報いだ。
そう自分に言い聞かせても、身体の震えは止まらない。
ザッ、ザッ、と草を踏む音が近づいてくる。
兵士たちの乱雑な足音ではない。
一定のリズムを刻む、重いが静かな足音。
私は膝に顔を埋めたまま、息を潜めた。
放っておいてほしかった。
罵倒されるならまだしも、憐れまれるのは耐え難い。
足音が私の目の前で止まる。
何かが置かれる気配がした。
「……食え」
頭上から声が降ってくる。
私は恐る恐る顔を上げた。
騎士が立っていた。
彼は右手に持っていた木の器を、私の足元に置いたところだった。
湯気が立っている。
具材のほとんど入っていない薄いスープと、握りこぶしほどの硬そうなパン。
匂いが鼻腔をくすぐり、胃がキュッと収縮した。
食べたい。
本能がそう叫ぶが、理性がそれを押し留める。
私は首を横に振った。
「……いりません」
「なぜだ」
「食欲が、ありませんから」
嘘だった。
本当は、これ以上誰かの世話になりたくなかった。
私のような人間に食事を与えるくらいなら、彼らが食べた方がいい。
どうせ辺境に着けば、野垂れ死ぬかもしれない命だ。
無駄な資源を使わせるわけにはいかない。
騎士は眉ひとつ動かさず、私を見下ろしている。
焚き火の明かりが逆光になり、彼の表情は影になっていてよく見えない。
ただ、その瞳だけが、暗闇の中で微かな光を宿していた。
彼は無造作に腰を下ろした。
私の目の前、腕が届く距離にあぐらをかく。
そして自分の分のパンをちぎり、口に放り込んだ。
「ここから先、補給地点はない」
咀嚼し、飲み込んでから、彼は淡々と言った。
「次の村まで二日はかかる。食わないと死ぬぞ」
「……それでも、構いません」
「俺が構う」
短い言葉が、鋭く刺さった。
彼はパンの欠片を指先で弄びながら、視線を私の足元にあるスープに向けた。
「お前を死なせずに届けるのが、俺の仕事だ。任務の邪魔をするな」
任務。
その言葉に、妙に納得した自分がいた。
そうだ、これは優しさではない。
仕事なのだ。
荷物を無事に届けるためのメンテナンス。
それなら、拒否するのは私の我儘になる。
私は震える手で器を持ち上げた。
温かさが掌から伝わり、強張っていた指先が少しだけ解ける。
一口、口をつける。
塩だけの味気ないスープだったが、喉を通る熱が涙が出るほどありがたかった。
パンをスープに浸し、柔らかくしてから口に運ぶ。
気がつけば、夢中で匙を動かしていた。
騎士はそれを見届けると、ふいと顔を背けた。
彼自身は食事をすぐに終え、腰の剣を手入れし始める。
布で刃を拭う音が、静寂の中に響いた。
◇
食べ終えると、急激な眠気が襲ってきた。
腹が満たされたことで、今まで緊張で誤魔化していた疲労が一気に噴き出してきたようだ。
けれど、ここで眠るわけにはいかない。
風はさらに強くなり、薄着の肌を容赦なく打ち据えている。
私は腕をさすりながら、再び馬車に戻ろうと腰を浮かせた。
バサリ、と重い何かが視界を覆う。
肩にずしりとした重みがかかった。
獣の匂いと、微かな鉄の匂い。
そして、誰かの体温が残る温かさ。
「……え?」
驚いて振り返ると、騎士が外套を脱いでいた。
革鎧姿になった彼は、寒風など気にする素振りも見せない。
私の肩にかかっているのは、彼が着ていた分厚い外套だった。
裏地には毛皮が貼られ、驚くほど温かい。
「あ、あの……これは」
「夜は冷える。風邪を引かれたら面倒だ」
彼は私と目を合わせず、焚き火の方へと歩き出した。
その背中は広く、闇に溶け込みそうなくらい黒い。
私は慌てて声をかける。
「返します! 貴方が寒いですし、それに……私なんかが使うわけには」
「俺は慣れている」
彼は足を止めずに答えた。
そっけない、突き放すような口調。
けれど、その声には嫌悪感は混じっていなかった。
「それに、汚れるとか気にするな。どうせ泥だらけだ」
そう言い残して、彼は兵士たちの輪から少し離れた場所に座り込んだ。
膝を立て、剣を抱くようにして目を閉じる。
仮眠を取るつもりなのだろう。
私は残された場所で、外套の襟元をギュッと握りしめた。
首元まで引き上げると、彼の匂いに包まれる。
タバコや香水の匂いではない。
雨と風、そして生きている人間の匂い。
なぜ、ここまでしてくれるのだろう。
任務だから。
死なれると面倒だから。
頭では分かっているのに、胸の奥がチクリと痛んだ。
同情されているのだとしたら、それは侮蔑されるよりも惨めだった。
私は彼に何も返せない。
感謝の言葉さえ、今の私には空虚な響きしか持たない気がした。
馬車の車輪にもたれかかり、外套にくるまる。
温もりが身体の芯まで染み込んでいく。
泥だらけの罪人を包むには、あまりにも上等すぎる温かさだった。
遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
けれど不思議と怖くはなかった。
数メートル先で、あの背中が見張ってくれている。
その事実だけで、三日ぶりに安らかな眠りが訪れようとしていた。
私は意識が途切れる寸前、闇に沈む彼の横顔をもう一度だけ目で追った。
やはり、名前を聞く勇気は出なかった。




