表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
すべてを失った令嬢が、それでも前を向いた理由  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/12

第2話 野営の火と無口な監視者

 車輪が泥濘を跳ね上げる音が、終わることなく続いていた。

 王都を出てから三日が過ぎたはずだ。

 正確な時間を知る術はない。

 鉄格子の嵌まった小さな窓から見える空の色と、腹の虫が訴える空腹の回数で、なんとなく日数を数えているだけだった。


 ガタン、と車体が大きく跳ねる。

 私は座席の端を掴み、身体が投げ出されるのを必死で耐えた。

 硬い木のベンチシートにはクッションなどなく、お尻や背中はとっくに痛みを感じなくなっている。

 代わりに、痺れのような鈍い感覚が下半身を支配していた。


 向かいの席には誰もいない。

 狭い箱の中に、私一人。

 会話はなく、聞こえるのは御者の怒鳴り声と、馬の荒い息遣いだけ。

 私は膝を抱えるようにして体を丸める。

 薄いワンピース一枚では、北へ向かうにつれて下がる気温に耐えられそうになかった。

 歯の根が合わず、カチカチと小さな音を立てる。

 それが自分の音だと気づくのに、数秒かかった。


「……休憩だ」


 不意に馬車が速度を緩め、外から低い声が聞こえた。

 あの騎士の声だ。

 三日間、彼は必要最低限のこと以外、私に話しかけてこなかった。

 名前すら知らない。

 ただ、黒髪の無口な護衛とだけ認識している。


 馬車が完全に停止する。

 扉の外で鍵を開ける重金属の音が響き、ぎぃ、と蝶番が鳴いた。


「降りていい。足を伸ばせ」


 扉が開くと、冷たい夜気が一気に流れ込んできた。

 騎士が入り口の脇に立っている。

 やはり彼は私を見ようとせず、視線を夜の闇に向けていた。

 私は強張った体を無理やり動かし、馬車の外へと這い出る。


        ◇


 地面に降り立った瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。

 足の裏が地面の冷たさを拾い、感覚が戻ってくるにつれて鋭い痛みが走る。

 私は馬車の車輪にしがみつき、なんとか体勢を保った。


 ここは街道沿いの荒れ地らしかった。

 数本の枯れ木が亡霊のように立っているだけで、風を遮るものは何もない。

 少し離れた場所で、御者と二人の兵士が焚き火の準備を始めていた。

 彼らは火打ち石を打ち合わせながら、卑猥な冗談を言い合って笑っている。

 その笑い声が、耳障りだった。

 彼らの視界に入りたくない。

 私は馬車の影に隠れるようにして、冷たい地面に直接座り込んだ。


 自分の惨めさが、夜の寒さよりも深く骨身に染みる。

 かつては、移動のたびに侍女たちが分厚い毛布を用意し、温かい紅茶を淹れてくれた。

 今は泥の上で、汚れた罪人として震えている。

 当然の報いだ。

 そう自分に言い聞かせても、身体の震えは止まらない。


 ザッ、ザッ、と草を踏む音が近づいてくる。

 兵士たちの乱雑な足音ではない。

 一定のリズムを刻む、重いが静かな足音。

 私は膝に顔を埋めたまま、息を潜めた。

 放っておいてほしかった。

 罵倒されるならまだしも、憐れまれるのは耐え難い。


 足音が私の目の前で止まる。

 何かが置かれる気配がした。


「……食え」


 頭上から声が降ってくる。

 私は恐る恐る顔を上げた。

 騎士が立っていた。

 彼は右手に持っていた木の器を、私の足元に置いたところだった。

 湯気が立っている。

 具材のほとんど入っていない薄いスープと、握りこぶしほどの硬そうなパン。


 匂いが鼻腔をくすぐり、胃がキュッと収縮した。

 食べたい。

 本能がそう叫ぶが、理性がそれを押し留める。

 私は首を横に振った。


「……いりません」

「なぜだ」

「食欲が、ありませんから」


 嘘だった。

 本当は、これ以上誰かの世話になりたくなかった。

 私のような人間に食事を与えるくらいなら、彼らが食べた方がいい。

 どうせ辺境に着けば、野垂れ死ぬかもしれない命だ。

 無駄な資源を使わせるわけにはいかない。


 騎士は眉ひとつ動かさず、私を見下ろしている。

 焚き火の明かりが逆光になり、彼の表情は影になっていてよく見えない。

 ただ、その瞳だけが、暗闇の中で微かな光を宿していた。


 彼は無造作に腰を下ろした。

 私の目の前、腕が届く距離にあぐらをかく。

 そして自分の分のパンをちぎり、口に放り込んだ。


「ここから先、補給地点はない」


 咀嚼し、飲み込んでから、彼は淡々と言った。


「次の村まで二日はかかる。食わないと死ぬぞ」

「……それでも、構いません」

「俺が構う」


 短い言葉が、鋭く刺さった。

 彼はパンの欠片を指先で弄びながら、視線を私の足元にあるスープに向けた。


「お前を死なせずに届けるのが、俺の仕事だ。任務の邪魔をするな」


 任務。

 その言葉に、妙に納得した自分がいた。

 そうだ、これは優しさではない。

 仕事なのだ。

 荷物を無事に届けるためのメンテナンス。

 それなら、拒否するのは私の我儘になる。


 私は震える手で器を持ち上げた。

 温かさが掌から伝わり、強張っていた指先が少しだけ解ける。

 一口、口をつける。

 塩だけの味気ないスープだったが、喉を通る熱が涙が出るほどありがたかった。

 パンをスープに浸し、柔らかくしてから口に運ぶ。

 気がつけば、夢中で匙を動かしていた。


 騎士はそれを見届けると、ふいと顔を背けた。

 彼自身は食事をすぐに終え、腰の剣を手入れし始める。

 布で刃を拭う音が、静寂の中に響いた。


        ◇


 食べ終えると、急激な眠気が襲ってきた。

 腹が満たされたことで、今まで緊張で誤魔化していた疲労が一気に噴き出してきたようだ。

 けれど、ここで眠るわけにはいかない。

 風はさらに強くなり、薄着の肌を容赦なく打ち据えている。

 私は腕をさすりながら、再び馬車に戻ろうと腰を浮かせた。


 バサリ、と重い何かが視界を覆う。

 肩にずしりとした重みがかかった。

 獣の匂いと、微かな鉄の匂い。

 そして、誰かの体温が残る温かさ。


「……え?」


 驚いて振り返ると、騎士が外套を脱いでいた。

 革鎧姿になった彼は、寒風など気にする素振りも見せない。

 私の肩にかかっているのは、彼が着ていた分厚い外套だった。

 裏地には毛皮が貼られ、驚くほど温かい。


「あ、あの……これは」

「夜は冷える。風邪を引かれたら面倒だ」


 彼は私と目を合わせず、焚き火の方へと歩き出した。

 その背中は広く、闇に溶け込みそうなくらい黒い。

 私は慌てて声をかける。


「返します! 貴方が寒いですし、それに……私なんかが使うわけには」

「俺は慣れている」


 彼は足を止めずに答えた。

 そっけない、突き放すような口調。

 けれど、その声には嫌悪感は混じっていなかった。


「それに、汚れるとか気にするな。どうせ泥だらけだ」


 そう言い残して、彼は兵士たちの輪から少し離れた場所に座り込んだ。

 膝を立て、剣を抱くようにして目を閉じる。

 仮眠を取るつもりなのだろう。


 私は残された場所で、外套の襟元をギュッと握りしめた。

 首元まで引き上げると、彼の匂いに包まれる。

 タバコや香水の匂いではない。

 雨と風、そして生きている人間の匂い。


 なぜ、ここまでしてくれるのだろう。

 任務だから。

 死なれると面倒だから。

 頭では分かっているのに、胸の奥がチクリと痛んだ。

 同情されているのだとしたら、それは侮蔑されるよりも惨めだった。

 私は彼に何も返せない。

 感謝の言葉さえ、今の私には空虚な響きしか持たない気がした。


 馬車の車輪にもたれかかり、外套にくるまる。

 温もりが身体の芯まで染み込んでいく。

 泥だらけの罪人を包むには、あまりにも上等すぎる温かさだった。


 遠くで狼の遠吠えが聞こえた。

 けれど不思議と怖くはなかった。

 数メートル先で、あの背中が見張ってくれている。

 その事実だけで、三日ぶりに安らかな眠りが訪れようとしていた。


 私は意識が途切れる寸前、闇に沈む彼の横顔をもう一度だけ目で追った。

 やはり、名前を聞く勇気は出なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ