第12話 はじまりの朝、選んだ場所
早朝の霧が晴れていく。
砦の門が開かれる重い音が、谷間に響き渡った。
私はバルコニーに出て、その光景を見下ろしていた。
街道の先からやってくるのは、長い隊列を組んだ馬車団だ。
先頭の馬車には、青い旗が掲げられている。
忘れな草の紋章。ミモザ商会だ。
「……来た」
手すりを握る手に力が入る。
彼らは食料を積んでいる。
麦、塩、乾燥野菜。
王都が私たちの脅しに屈し、正規ルートとして通過を許可した支援物資だ。
歓声が上がった。
砦の兵士たちや、集まってきた領民たちが、馬車を取り囲んで万歳をしている。
その輪の中心で、ルーカスが御者と握手を交わしているのが見えた。
勝ったのだ。
剣を抜くことも、血を流すこともなく。
ただ、紙とペンと、少しの知恵だけで。
胸の奥が熱くなった。
公爵家が没落してから初めて感じる、達成感だった。
私は役に立った。
消費するだけの存在ではなく、誰かの明日を繋ぐための歯車になれたのだ。
◇
執務室に戻ると、すぐにルーカスが入ってきた。
彼は上機嫌だった。
いつも仏頂面の彼が、微かに鼻歌を歌っているようにさえ見える。
「完勝だ、補佐官殿」
彼は手に持っていた細長い木箱を、私の机の上に置いた。
「王都の連中はぐうの音も出なかったらしい。『辺境の野蛮人が、こんな法的抜け穴を知っているはずがない』と騒いでいたそうだ」
「それは痛快ですね」
「ああ。久々に美味い酒が飲めそうだ」
彼は椅子に座り、ニヤリと笑った。
そして顎で木箱をしゃくる。
「開けろ。報酬だ」
「報酬……?」
私は木箱を手に取った。
滑らかなローズウッドの手触り。
蓋を開けると、中には一本の万年筆が収められていた。
黒檀の軸に、金の装飾が施された、古風だが上品な品だ。
「これは……」
「お前の武器だ」
ルーカスは腕を組み、真面目な顔で言った。
「貸していた羽根ペンは使いにくいだろう。インクの持ちも悪い。これからさらに忙しくなるんだ、ちゃんとした物を使え」
私は万年筆を取り出した。
手に吸い付くような重みがある。
私の華奢な手には少し太いが、それがかえって頼もしかった。
「……ありがとうございます。大切にします」
「壊れたらまた買えばいい。道具は使ってこそだ」
彼は照れ隠しのように視線を逸らし、窓の外を見た。
歓声はまだ続いている。
「エレナ」
不意に、彼が私の名前を呼んだ。
初めてだった。
ずっと「お前」とか「元公爵令嬢」と呼んでいた彼が、初めて個として私を呼んだ。
「これで、お前の『無能な罪人』という汚名は消えかかっている。王都の連中も、お前を一目置かざるを得ないだろう」
彼は私に向き直る。
その瞳は、出会った雨の日と同じように、静かで深かった。
「道は開けた。ここを出て、他国へ亡命することも可能だ。マルグリットとかいう元侍女と合流して、静かに暮らす選択肢もある」
試されているのだと思った。
彼は私に「自由」を提示している。
かつて私が持っていなかった、自分で生き方を選ぶ権利を。
私は万年筆を胸に抱いた。
逃げることはできる。
ここより安全で、豊かな場所へ。
けれど。
「行きません」
私は即答した。
迷いはなかった。
「私はここに残ります。この砦で、貴方の補佐官として」
「……過酷だぞ。冬は寒いし、娯楽もない。王都からの嫌がらせも続くだろう」
「構いません」
私は立ち上がり、窓辺に立つ彼の隣に並んだ。
同じ景色を見る。
荒涼とした大地。厳しい風。
けれど、そこには生きようとする人々の熱気があった。
「私は今まで、誰かに守られ、誰かが敷いたレールの上を歩くだけでした。幸せも、不幸も、全部他人から与えられたものでした」
綺麗なドレスも、突然の没落も。
全部、私の意志とは無関係に降ってきた雨のようなものだった。
「でも、今は違います。私は自分でここを選びました。このペンで戦うことを、私が決めたのです」
ルーカスの方を見る。
彼は満足そうに目を細めていた。
「そうか」
短い肯定。
それだけで十分だった。
「なら、頼むぞ。俺の背中は隙だらけだからな」
「はい。貴方の背中は、私が守ります」
書類と、計算と、交渉で。
剣を持てない私なりの戦い方で。
私は万年筆を握りしめた。
指先に、硬質な感触が伝わる。
それは、折れてしまいそうだった硝子細工の手が、初めて掴んだ確かな「芯」だった。
雨は上がった。
泥だらけの道はまだ続いている。
王都の黒幕が誰なのか、なぜ私が陥れられたのか、まだ何も分かっていない。
きっと、これからもっと辛い真実に向き合うことになるだろう。
それでも。
(次は、私が選ぶ)
心の中で呟く。
運命に流されるのではなく、自分の足で踏みしめていく。
この何もない辺境から、私の本当の人生が始まるのだ。
私は新しいペンを机に置き、真っ白な羊皮紙を広げた。
さあ、仕事を始めよう。
私たちの未来を描くために。
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