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すべてを失った令嬢が、それでも前を向いた理由  作者: 九葉(くずは)


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10/12

第10話 インクの匂いと黒い手紙

 翌朝、私は案内された執務室の扉を開け、そして絶句した。


「……これは」


 部屋中が、白い雪崩に埋もれていた。

 いや、雪ではない。紙だ。

 床、机、椅子、本棚の上に至るまで、羊皮紙や書類の束が乱雑に積み上げられている。

 インクの匂いと、古い紙の埃っぽい匂いが充満していた。


「ひどい……」


 思わず本音が漏れる。

 ルーカスは「書類仕事が大嫌い」だと言っていたが、これは嫌いというレベルを超えている。

 職務放棄に近い。

 この砦がこれまで機能していたのが奇跡に思えた。


 私は腕まくりをした。

 借り物のシャツの袖を捲り上げ、気合を入れる。

 公爵家で母に叩き込まれた領地経営学と、几帳面すぎるほどの私の性格が、この惨状を看過することを許さなかった。


「まずは分類からね」


 私は床に膝をつき、最初の一束を手に取った。

 請求書、報告書、嘆願書。

 日付も内容もバラバラだ。

 私は深呼吸をし、頭の中で棚を作る。

 緊急、重要、保管、破棄。

 四つのカテゴリに分け、無心で紙をさばき始めた。


 カサカサ、カサカサ。

 静かな部屋に、紙擦れの音だけが響く。

 不思議と心は落ち着いていた。

 数字は嘘をつかない。日付は裏切らない。

 混沌とした情報を整理し、あるべき場所へ収めていく作業は、乱れた私の心を整える儀式のようでもあった。


        ◇


「おい」


 数時間後、背後から声をかけられた。

 びくりとして振り返ると、ルーカスが入り口で立ち尽くしていた。

 彼は狐につままれたような顔で、部屋を見渡している。


 床を埋め尽くしていた紙の山は消えていた。

 机の上には、紐で縛られた四つの塔が整然と並んでいるだけだ。

 窓は開け放たれ、新鮮な空気が部屋を満たしていた。


「……全部燃やしたのか?」

「まさか。分類しただけです」


 私は立ち上がり、埃を払った。

 腰が少し痛いが、心地よい疲労感だ。


「右から、今日中に決済が必要なもの。今週中のもの。保管資料。そして一番左が、すでに期限切れか重複しているゴミです」

「ゴミが一番多いな」

「貴方が溜め込むからです」


 私が言い返すと、彼は少し驚いたように目を丸くし、それから喉の奥で低く笑った。


「口が減るようになったな」

「……生きていくためには、必要ですから」


 彼は机に歩み寄り、一番右の塔をパラパラと捲った。

 その目が真剣なものに変わる。

 私の仕事ぶりを確認しているのだ。


「完璧だ。年代順、優先度順、関連案件ごとに紐付けまでしてある」

「公爵家では、これくらい常識でしたので」

「なら、俺の補佐官たちは全員非常識ということになるな」


 彼は椅子にドカッと腰を下ろし、ペンを手に取った。

 躊躇なく書類にサインをしていく。

 その速度は早かった。

 私が整理したことで、彼の判断速度も上がっているのだ。

 役に立てた。

 その実感が、胸の奥を温かく満たした。


 その時だった。


 コンコン、と扉が叩かれる。

 返事を待たずに、若い兵士が顔色を変えて飛び込んできた。


「隊長! 王都からの早馬です!」

「早馬? 定期便は昨日……」

「いえ、緊急の書簡です。『黒い鳥』が中継点まで運んできたものを、急ぎこちらへ」


 兵士が差し出したのは、黒い封筒だった。

 漆黒の蝋で封がされている。

 それを見た瞬間、ルーカスの手からペンが止まった。

 部屋の空気が、一気に氷点下まで下がる。


 ルーカスは無言で封筒を受け取り、ペーパーナイフで切り開いた。

 中の手紙を取り出し、目を通す。

 彼の眉間に深い皺が刻まれていく。

 紙を持つ指に力が入り、端がくしゃりと潰れた。


「……クソが」


 彼が吐き捨てた言葉は、短く、しかし激しい怒りを孕んでいた。

 彼は手紙をクシャクシャに丸め、そのままポケットにねじ込んだ。


「下がっていい」

「はっ!」


 兵士が出ていくと、彼は再びペンを手に取った。

 けれど、その手は動かない。

 私は息を呑んで見ていたが、我慢できずに口を開いた。


「……私に関する、ことですね」

「関係ない」

「関係あります。貴方は今、私を見てから手紙を隠しました」


 彼は動きを止めた。

 ゆっくりと顔を上げ、私を見る。

 私を気遣うような、あるいは子供に悲惨な現実を見せまいとするような目。


「知る必要はない。俺が処理する」

「処理、とは? また誰かを敵に回すのですか?」


 私は机に歩み寄り、彼の手元を見つめた。


「隠さないでください。私はもう、守られるだけの子供ではありません。自分の運命くらい、自分で知る権利があります」


 彼は長い間、私を見つめていた。

 私が視線を逸らさないでいると、彼はため息をつき、ポケットから丸めた手紙を取り出した。

 机の上に放り投げる。


「……読め」


 私は震える手で、皺だらけの紙を広げた。

 そこには、簡潔かつ冷酷な筆致で、こう書かれていた。


『罪人エレナ・アルヴェインに、王家秘蔵の宝具「聖女の涙」横領の嫌疑あり。直ちに王都へ身柄を返還せよ。拒否する場合は、辺境伯領への食料支援を停止し、反逆罪として討伐軍を派遣する』


 文字が、意味を成さない記号のように見えた。

 宝具? 横領?

 見たことも聞いたこともない。


「嘘です……! 私は何も盗んでいません! 屋敷を出る時だって、着の身着のまま……」

「分かっている」


 ルーカスは静かに言った。


「奴らも本気で盗んだとは思っていないだろう。これは口実だ。お前を王都へ引き戻し、永遠に口を封じるためのな」


 全身の血が逆流するような感覚だった。

 彼らは私を追放しただけでは飽き足らず、殺そうとしている。

 それも、この辺境の人々を人質に取って。

 私が戻らなければ、食料が止まる。討伐軍が来る。

 ルーカスや、昨日笑いかけてくれた村の人々が、私のせいで危険に晒される。


「……私が、行けば」

「行くな」


 私の言葉を遮り、彼が吠えた。

 バン! と机を叩く音が響く。


「行けば殺されるだけだ。そんなもののために、俺はここまでお前を運んだわけじゃない」

「でも! このままでは貴方が……この領地が!」

「俺を舐めるな。王都の腰抜け共の脅しなんぞ、痛くも痒くもない」


 彼は立ち上がり、窓の外を睨みつけた。

 その背中は強がっているようには見えなかった。

 本気で戦うつもりだ。

 王家を相手に。


 私は唇を噛み締めた。

 怖い。

 王都に戻るのも、ここに留まるのも、どちらも死ぬほど怖い。

 けれど、ここで逃げたら、私は本当に「不幸を撒き散らす魔女」になってしまう。


 硝子細工の手。

 でも、その手は今、書類を整理し、領主の仕事を助けることができた。

 私には知識がある。

 王都の奴らが知らない、法律や帳簿の抜け穴を見つける知恵があるはずだ。


「……戦います」


 私は顔を上げた。

 声は震えていたが、言葉ははっきりとしていた。


「戻りません。身に覚えのない罪で裁かれるのは、もうたくさんです」


 ルーカスが振り返る。

 私は彼を真っ直ぐに見返した。


「私に、帳簿を見せてください。この領地の備蓄、交易ルート、王都との契約書、すべてです。彼らが食料を止めると言うなら、止められない方法を探します。討伐軍を送ると言うなら、送れない理由を作ります」


 私の言葉に、ルーカスは呆気にとられたように口を半開きにした。

 それから、フッと口角を上げ、凶悪な笑みを浮かべた。


「……言うようになったな、元公爵令嬢」

「現、執務補佐官です」

「いいだろう。とことん足掻いてみろ。俺の背中は貸してやる」


 彼は机の引き出しを開け、鍵の束を放り投げた。

 地下書庫の鍵だ。

 私はそれを空中でキャッチした。

 金属の冷たい感触が、掌に熱い決意を刻み込む。


 もう逃げない。

 私は私の人生を取り戻すために、ここを戦場にする。

 インクと紙、そしてこの硝子の手で。

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