第10話 インクの匂いと黒い手紙
翌朝、私は案内された執務室の扉を開け、そして絶句した。
「……これは」
部屋中が、白い雪崩に埋もれていた。
いや、雪ではない。紙だ。
床、机、椅子、本棚の上に至るまで、羊皮紙や書類の束が乱雑に積み上げられている。
インクの匂いと、古い紙の埃っぽい匂いが充満していた。
「ひどい……」
思わず本音が漏れる。
ルーカスは「書類仕事が大嫌い」だと言っていたが、これは嫌いというレベルを超えている。
職務放棄に近い。
この砦がこれまで機能していたのが奇跡に思えた。
私は腕まくりをした。
借り物のシャツの袖を捲り上げ、気合を入れる。
公爵家で母に叩き込まれた領地経営学と、几帳面すぎるほどの私の性格が、この惨状を看過することを許さなかった。
「まずは分類からね」
私は床に膝をつき、最初の一束を手に取った。
請求書、報告書、嘆願書。
日付も内容もバラバラだ。
私は深呼吸をし、頭の中で棚を作る。
緊急、重要、保管、破棄。
四つのカテゴリに分け、無心で紙をさばき始めた。
カサカサ、カサカサ。
静かな部屋に、紙擦れの音だけが響く。
不思議と心は落ち着いていた。
数字は嘘をつかない。日付は裏切らない。
混沌とした情報を整理し、あるべき場所へ収めていく作業は、乱れた私の心を整える儀式のようでもあった。
◇
「おい」
数時間後、背後から声をかけられた。
びくりとして振り返ると、ルーカスが入り口で立ち尽くしていた。
彼は狐につままれたような顔で、部屋を見渡している。
床を埋め尽くしていた紙の山は消えていた。
机の上には、紐で縛られた四つの塔が整然と並んでいるだけだ。
窓は開け放たれ、新鮮な空気が部屋を満たしていた。
「……全部燃やしたのか?」
「まさか。分類しただけです」
私は立ち上がり、埃を払った。
腰が少し痛いが、心地よい疲労感だ。
「右から、今日中に決済が必要なもの。今週中のもの。保管資料。そして一番左が、すでに期限切れか重複しているゴミです」
「ゴミが一番多いな」
「貴方が溜め込むからです」
私が言い返すと、彼は少し驚いたように目を丸くし、それから喉の奥で低く笑った。
「口が減るようになったな」
「……生きていくためには、必要ですから」
彼は机に歩み寄り、一番右の塔をパラパラと捲った。
その目が真剣なものに変わる。
私の仕事ぶりを確認しているのだ。
「完璧だ。年代順、優先度順、関連案件ごとに紐付けまでしてある」
「公爵家では、これくらい常識でしたので」
「なら、俺の補佐官たちは全員非常識ということになるな」
彼は椅子にドカッと腰を下ろし、ペンを手に取った。
躊躇なく書類にサインをしていく。
その速度は早かった。
私が整理したことで、彼の判断速度も上がっているのだ。
役に立てた。
その実感が、胸の奥を温かく満たした。
その時だった。
コンコン、と扉が叩かれる。
返事を待たずに、若い兵士が顔色を変えて飛び込んできた。
「隊長! 王都からの早馬です!」
「早馬? 定期便は昨日……」
「いえ、緊急の書簡です。『黒い鳥』が中継点まで運んできたものを、急ぎこちらへ」
兵士が差し出したのは、黒い封筒だった。
漆黒の蝋で封がされている。
それを見た瞬間、ルーカスの手からペンが止まった。
部屋の空気が、一気に氷点下まで下がる。
ルーカスは無言で封筒を受け取り、ペーパーナイフで切り開いた。
中の手紙を取り出し、目を通す。
彼の眉間に深い皺が刻まれていく。
紙を持つ指に力が入り、端がくしゃりと潰れた。
「……クソが」
彼が吐き捨てた言葉は、短く、しかし激しい怒りを孕んでいた。
彼は手紙をクシャクシャに丸め、そのままポケットにねじ込んだ。
「下がっていい」
「はっ!」
兵士が出ていくと、彼は再びペンを手に取った。
けれど、その手は動かない。
私は息を呑んで見ていたが、我慢できずに口を開いた。
「……私に関する、ことですね」
「関係ない」
「関係あります。貴方は今、私を見てから手紙を隠しました」
彼は動きを止めた。
ゆっくりと顔を上げ、私を見る。
私を気遣うような、あるいは子供に悲惨な現実を見せまいとするような目。
「知る必要はない。俺が処理する」
「処理、とは? また誰かを敵に回すのですか?」
私は机に歩み寄り、彼の手元を見つめた。
「隠さないでください。私はもう、守られるだけの子供ではありません。自分の運命くらい、自分で知る権利があります」
彼は長い間、私を見つめていた。
私が視線を逸らさないでいると、彼はため息をつき、ポケットから丸めた手紙を取り出した。
机の上に放り投げる。
「……読め」
私は震える手で、皺だらけの紙を広げた。
そこには、簡潔かつ冷酷な筆致で、こう書かれていた。
『罪人エレナ・アルヴェインに、王家秘蔵の宝具「聖女の涙」横領の嫌疑あり。直ちに王都へ身柄を返還せよ。拒否する場合は、辺境伯領への食料支援を停止し、反逆罪として討伐軍を派遣する』
文字が、意味を成さない記号のように見えた。
宝具? 横領?
見たことも聞いたこともない。
「嘘です……! 私は何も盗んでいません! 屋敷を出る時だって、着の身着のまま……」
「分かっている」
ルーカスは静かに言った。
「奴らも本気で盗んだとは思っていないだろう。これは口実だ。お前を王都へ引き戻し、永遠に口を封じるためのな」
全身の血が逆流するような感覚だった。
彼らは私を追放しただけでは飽き足らず、殺そうとしている。
それも、この辺境の人々を人質に取って。
私が戻らなければ、食料が止まる。討伐軍が来る。
ルーカスや、昨日笑いかけてくれた村の人々が、私のせいで危険に晒される。
「……私が、行けば」
「行くな」
私の言葉を遮り、彼が吠えた。
バン! と机を叩く音が響く。
「行けば殺されるだけだ。そんなもののために、俺はここまでお前を運んだわけじゃない」
「でも! このままでは貴方が……この領地が!」
「俺を舐めるな。王都の腰抜け共の脅しなんぞ、痛くも痒くもない」
彼は立ち上がり、窓の外を睨みつけた。
その背中は強がっているようには見えなかった。
本気で戦うつもりだ。
王家を相手に。
私は唇を噛み締めた。
怖い。
王都に戻るのも、ここに留まるのも、どちらも死ぬほど怖い。
けれど、ここで逃げたら、私は本当に「不幸を撒き散らす魔女」になってしまう。
硝子細工の手。
でも、その手は今、書類を整理し、領主の仕事を助けることができた。
私には知識がある。
王都の奴らが知らない、法律や帳簿の抜け穴を見つける知恵があるはずだ。
「……戦います」
私は顔を上げた。
声は震えていたが、言葉ははっきりとしていた。
「戻りません。身に覚えのない罪で裁かれるのは、もうたくさんです」
ルーカスが振り返る。
私は彼を真っ直ぐに見返した。
「私に、帳簿を見せてください。この領地の備蓄、交易ルート、王都との契約書、すべてです。彼らが食料を止めると言うなら、止められない方法を探します。討伐軍を送ると言うなら、送れない理由を作ります」
私の言葉に、ルーカスは呆気にとられたように口を半開きにした。
それから、フッと口角を上げ、凶悪な笑みを浮かべた。
「……言うようになったな、元公爵令嬢」
「現、執務補佐官です」
「いいだろう。とことん足掻いてみろ。俺の背中は貸してやる」
彼は机の引き出しを開け、鍵の束を放り投げた。
地下書庫の鍵だ。
私はそれを空中でキャッチした。
金属の冷たい感触が、掌に熱い決意を刻み込む。
もう逃げない。
私は私の人生を取り戻すために、ここを戦場にする。
インクと紙、そしてこの硝子の手で。




