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すべてを失った令嬢が、それでも前を向いた理由  作者: 九葉(くずは)


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第1話 灰色の雨と沈黙の騎士

 窓枠を叩く雨の音が、部屋の中に満ちていた。

 視線を上げても、そこにあるのは何もない空間だ。

 昨日まで壁を飾っていた絵画は外され、四角い日焼けの跡だけが白く浮いている。

 床に敷かれていた厚手の絨毯も、今はもうない。

 剥き出しになった木の床が、冷たい空気を吸って湿っている。


 私はドレッサーの前に座っていた。

 唯一残されたこの鏡も、あと数分もすれば運び出されるだろう。

 鏡の中に映る女と目が合う。

 艶を失った亜麻色の髪。

 血の気が引いて白紙のようになった唇。

 着ているのは、かつての侍女が着古したような地味なワンピースが一着だけ。


 公爵令嬢エレナ・アルヴェイン。

 それが私の名前だった。

 けれど鏡の向こうにいるのは、ただの抜け殻だ。

 何もかもを失い、家を潰し、多くの人の人生を狂わせた、愚かな罪人。


 コツ、コツ、と扉を叩く音が響く。

 乾いた、事務的な音だった。


「エレナ様。お時間です」


 返事をするために口を開こうとする。

 喉が張り付いていて、空気が漏れる音しか出ない。

 私は一度きつく唇を噛み、唾を飲み込んでから、小さな声を絞り出した。


「……はい」


 椅子から立ち上がる。

 膝が笑ったように微かに震えた。

 私は両手を組み、指先を強く握りしめてその震えを誤魔化す。

 部屋を見渡すことはしなかった。

 未練がましいと思われるのが怖かったし、何より、記憶の中にある美しい部屋と、今の惨状を重ね合わせることに耐えられそうになかったからだ。


 私は扉へと歩き出す。

 木の床が、軋んだ音を立てた。


        ◇


 廊下は静まり返っていた。

 使用人たちはすでに解雇されたか、あるいは新しい主人に媚びるために別の場所へ移ったのだろう。

 埃の臭いが鼻につく。

 昨日まで毎日磨かれていた手すりには、うっすらと白く塵が積もっていた。


 階段を降りる一歩一歩が、処刑台へのカウントダウンのように重い。

 一階のホールが見えてくる。

 そこには数人の男たちが立っていた。

 王家から派遣された管財人と、数名の兵士たち。

 彼らは私を見上げると、一瞬だけ眉をひそめ、すぐに興味なさそうに視線を逸らした。


 まるで、汚れた家具でも見るような目だった。


「お早いお着きで」


 管財人の男が、手元の書類から目を離さずに言った。

 皮肉めいた響きがある。

 私は階段の最後の一段を降り、彼らの前で足を止める。

 頭を下げようとして、背筋が強張った。

 今の私に、公爵令嬢としての矜持を示す資格などない。

 けれど、媚びへつらうことも許されない気がした。


「……お世話をおかけします」


 当たり障りのない言葉を選んで、深く頭を下げる。

 視界の端で、兵士の一人が鼻を鳴らすのが見えた。


「荷物は?」

「ありません」

「身一つということですか。潔いことだ」


 管財人がペンを走らせる音だけが響く。

 カリカリ、という音が、神経を直接引っ掻くようだった。

 潔いわけではない。

 持って行くことを許されなかっただけだ。

 母の形見のロケットも、幼い頃に父がくれた本も、すべて没収された。

 私に残されたのは、この身体と、消えない罪悪感だけ。


「では、馬車へ。辺境への道程は長いですからな」


 男が顎で玄関の方を指す。

 見送りはいない。

 父はすでに別邸へ移送され、母はとうの昔に亡くなっている。

 可愛がっていた侍女のマルグリットには、昨夜のうちに暇を出した。

 彼女は泣いて拒んだが、無理やりにでも追い出すしかなかった。

 私と一緒にいても、不幸になるだけだ。


 重厚な玄関扉が、重々しい音を立てて開かれる。

 湿った風が吹き込んできた。

 雨の匂い。

 土と草の混じった、どこか寂しい匂い。


 私は息を吸い込み、冷たい空気を肺に満たす。

 これが、王都の最後の空気だ。


        ◇


 外は灰色の世界だった。

 空は低く垂れ込め、細かい雨が絶え間なく降り注いでいる。

 石畳は黒く濡れ、屋敷の前庭にある植え込みは無残に踏み荒らされていた。


 屋根のある馬車寄せに、一台の馬車が停まっている。

 窓には鉄格子が嵌められ、塗装も剥げかけた黒塗りの箱。

 かつて私が乗っていた、金色の紋章が入った白馬車とは似ても似つかない。

 囚人を運ぶための護送車。

 それが今の私に与えられた輿だった。


 私は濡れないように庇の下を歩き、馬車の前まで進む。

 御者台に座る男は、外套のフードを深く被り、私を一瞥もしない。

 馬がいななき、蹄で石畳を打つ音が響く。


「乗れ」


 背後から兵士の声が飛んだ。

 ぞんざいな口調。

 私は小さく頷き、馬車の扉に手をかけようとする。


 その時だった。


 馬車の陰から、一人の男が姿を現した。


 背が高い。

 見上げなければ顔が見えないほどの上背がある。

 濡れた黒髪が額に張り付き、水滴が頬を伝って落ちていた。

 彼は傘もささず、雨具すら着けていない。

 身につけているのは、使い込まれた革鎧と、腰に吊るした剣だけだ。

 王都の煌びやかな騎士団の制服ではない。

 泥と鉄の匂いがする、実戦仕様の装備だった。


 私は無意識に手を引っ込め、一歩後ずさる。

 怖い、と思った。

 その男の目が、あまりにも静かだったからだ。


 周囲の兵士たちのような、嘲りの色がない。

 管財人のような、無関心な冷たさとも違う。

 ただ深く、暗い湖の底のような瞳で、私を真っ直ぐに見据えている。

 その視線には、私の値踏みをするような色は一切なかった。

 ただそこに在るものを、そのまま映し出す鏡のような瞳。


「……あなたが、護衛の方ですか」


 震える声で尋ねる。

 男は答えなかった。

 代わりに、私が触れようとしていた馬車の扉に手を伸ばす。

 大きな手だった。

 節くれ立ち、いくつもの小さな傷跡が白く残っている。

 ごつごつとした指が鉄の取っ手を掴み、何でもないことのように軽々と扉を開いた。


 軋んだ蝶番の音が、雨音に混じる。


 男は扉を開けたまま、動かない。

 視線だけが私に向けられている。

 乗れ、と促しているのだろうか。

 それとも、最後の情けとして扉を開けてやったということか。


 私は迷いながらも、足を前に出した。

 ステップに足をかけようとする。

 けれど、濡れたドレスの裾が足にまとわりつき、思うように動けない。

 バランスを崩しそうになり、咄嗟に扉の縁を掴もうとした。


 ふわり、と。

 視界が影に覆われる。


 固い感触を予想していた私の手は、温かい何かに支えられていた。

 男の手だ。

 彼が私の肘の下に手を添え、身体を支えてくれていた。

 革手袋越しの温もりが、冷え切った肌にじわりと伝わってくる。


 私は驚いて顔を上げた。

 至近距離で、彼の瞳と目が合う。

 雨に濡れた長い睫毛が、瞬きもせずにこちらを見ている。


「足元が」


 低い声だった。

 地響きのように腹の底に響く、けれど決して威圧的ではない声。

 彼は短くそう言うと、視線を私の足元へと向けた。

 馬車のステップは雨で濡れ、滑りやすくなっている。


「……あ、ありがとうございます」


 私は慌てて体勢を立て直す。

 彼の支えのおかげで、今度はスムーズにステップに足を乗せることができた。

 私が車内に身体を入れると、彼はすぐに手を離す。

 その引き際の速さが、なぜか心に残った。


 扉が閉められる直前、もう一度だけ彼を見た。

 彼は雨の中に立ち尽くしたまま、閉まりゆく扉の隙間から私を見ていた。

 その表情は読めない。

 けれど、あの冷ややかな兵士たちとは明らかに違う空気を纏っていた。


 バタン、と重い音がして、世界が閉ざされる。

 車内は薄暗く、カビ臭い空気が充満していた。

 硬い木のベンチシートに腰を下ろす。

 窓の外では、御者の怒鳴り声と、鞭の音が響いた。


 ガタリ、と車体が大きく揺れる。

 車輪が回転を始め、砂利を噛む音が聞こえてきた。


 私は膝の上で両手を握りしめる。

 先ほど彼に支えられた肘のあたりが、まだ微かに熱い。

 あの男は何者なのだろうか。

 辺境までの護衛。

 どうせ、罪人を監視するための見張り役に過ぎないはずだ。

 それなのに、あの手は乱暴ではなかった。

 むしろ、壊れ物を扱うような、慎重な手つきだった。


 馬車が速度を上げる。

 窓の外の景色が、雨に滲んで後ろへと流れていく。

 遠ざかる王都。

 二度と戻ることのない故郷。


 私は目を閉じた。

 瞼の裏に浮かんだのは、華やかな舞踏会の光景でも、父の厳しい顔でもなく。

 雨の中でただ一人、直立していたあの騎士の、静かな瞳だった。


「……名前、聞いてなかったな」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

 その声は、車輪の音にかき消されて消えた。

 私の新しい、そして終わりのない旅が、こうして始まった。

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