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第21話 柴犬の五郎

 遙かなる大地。大河はとうとうと流れ、緑の木々は生い茂る。空は晴れ渡り、遠くの白い雲と青い空が鮮やかなコントラストを描く。その雲の下には、キャッスルと呼ばれる建物が小さく点在していた。


 そんな壮大な風景を眺めている一匹の犬がいた。三角形の立ち耳と、くるりと巻いた尻尾。小型だが筋肉質で均整の取れた体つきと、簡素で引き締まった骨格。縄文時代から日本に生息する古来種、柴犬である。


「五郎、こんなところで黄昏れている場合じゃないでしょう? いい加減、ご主人様となるべきお方を探しなさい」


 この異世界にあっても珍しい装いの女が柴犬の五郎に語りかける。彼女は幾重にも重ねた白麻の衣に、日の光を集めたかのような鮮やかな緋の衣を羽織っていた。首元には研磨された翡翠と瑪瑙の勾玉が連なり、胸元で重々しく煌めく。黒髪は風に煽られ、その中に埋め込まれた金細工と漆黒の櫛が揺れる。一本の透かし彫りの金簪が、その髪の流れに沿って輝きを放っていた。


「探してっからよ、探してっから。しかしよぉ、『ご主人様で?』って聞いたってよ、こっちの連中には俺の声ゃワンワンにしか聞こえねぇだろ。そりゃどうやって見つけりゃいいってんだよ。巫女さんよ、そのご主人って奴がどこにいるか知ってんなら、ちょいと教えてくれよな」


「御託を並べてないで。折角、大姫様から『鼻』を頂いているのだから、ご自分で探しなさい。私は貴方に教えてはいけないと告げられているのよ」


「ちぇっ、けちくせぇこと言いやがって。どうせ大姫だって聞きゃしねぇだろ」


 巫女と呼ばれるその女性は、少し空を見上げた。髪飾りの玉が微かに揺れ、濡羽色の髪から覗いた左耳には、小さな欠けがあった。


「聞こえていると、大姫様は言っておられます」

「げっ……! 壁に耳あり障子に目ありってやつかよ」


 五郎は姿勢を低くし、両前足を耳の前辺りに当てて頭を抱えるようにした。


「サボってばかりいると、いつまでも人には戻さないとも仰っています。それから、他力本願なところを改めないとダメとも仰っておられます」


 巫女はしゃがんで五郎を諭す。五郎は上目遣いで口を開けて応える。


「……へいへい、分かったよ。探せばいいんだろ、探せばよ」


 巫女は五郎の頭を撫でて微笑む。


「おいおい、ちょっと頭なでんなよ。俺は子供じゃねぇんだよ」


 嫌がる五郎をなで続けると、巫女はふと空を仰ぎ、真剣な表情に変わった。その表情に微かな緊張が走る。


「急ぎの、緊急の用事ができました。良いですね、早く見つけるのですよ」


 そう言い置くと巫女は、まるで時間が巻き戻されたかのように素早く岩の影へ吸い込まれるように消えた。残された五郎は起き上がり、女が消えた岩に向かって悪態をついた。


「けっ、なんだよ。あてどなくさまよって主を探せってよ。せめて人に戻してくれりゃいいのによ。大姫さんも細けぇことにこだわりやがるぜ……心が狭ぇよ」


 すると岩陰が唸り声をあげ、得体の知れない穴が開いたように見えた。その奥には永遠の闇が広がっているかのように五郎には感じられた。


(キャンキャンキャン!)

「あっ、いっけねぇ、聞いてやがったぁ!」


 柴犬の五郎は尻尾を巻き込み、慌てて森へ逃げていった。


◇ ◇ ◇


 朝の調練。今日からしばらくはベルグランと共に行う。小次郎はいつものように己の鍛錬を済ませ、その間ベルグランを走らせる。そして終わった頃に呼び寄せ、あることを指示する。


「ベル、お前には、最も基礎的で決定的な欠点がある。体の柔軟さだ。柔らかい体は怪我を少なくし、戦術に幅を持たせる。まずはそれを克服するべきだ」

「う゛ぅぅ……わがったけど、キツいなぁ……」


 開脚前屈したベルグランの背に小次郎が座り、さらに押し込む。


「これから毎朝、毎晩、食事前に柔軟を行う事」

「ヴぁぁー……おら、死ぬぅ……でもやるだ」


 数十回の前屈のあと、素振りに移る。


(ヒュッ、ヒュッ)


「剣を振るというのは、ただ物を振るのではない。常に剣先を意識しろ」


「ハイだ!」


(ヒュッ、ヒュッ)


「振りっぱなしにせず、最後まで集中しろ。振り切ったときにブレるな、止めを効かせろ」


「ハイだ!」


(ヒュッ、ヒュッ)


 ベルグランは百回以上の素振りをこなした。


「ベル、剣術をどこかで教わったのか?」

「んだ、村に来た冒険者にちょびっと教わっただ。道場さ行っても、魔法が使えねぇからって相手してくれねぇ」

「そうか……」


 小次郎は、この世界で魔法を使えないことの不利を改めて感じた。戦国末期を知る小次郎にとって、これは数ある理不尽の一つに過ぎない。


“理不尽に抗うか、受け入れるか、呑まれるか。それは己で選ぶしかない”


 短剣を必死に振るベルグランを見ながら、小次郎はそう思った。


「ベル、朝飯を食ったら出発するぞ。」


 小次郎はベルを伴い、朝食の準備に入った。


◇ ◇ ◇


(キャンキャンキャン!)


「畜生っ、付いてくんなぁぁぁ!」


(ドドドドドドドド!)


 森の木々をなぎ倒し、巨大な猪が柴犬を追い回す。巫女と別れ、大陸を当て所なく西へ歩いていた五郎は、うっかりジャイアントボアの縄張りに入り込んでしまったのだ。


「わりぃってよ! 縄張り荒らすつもりじゃねぇんだよ! 落ち着けっつーの!」


“クソッ、鼻は効くのに、何でこのデカブツの縄張りを嗅ぎ分けられなかったんだ! まだ、この鼻は使いこなせねぇのか!”


 いくら訴えても、犬の鳴き声しか響かない。


「畜生め……」


 五郎は木の密集地に身を潜めてやり過ごそうとするが、この世界の猪にはそんな小細工は通用しない。


(キャいーーーん)

「あれぇぇぇ!」


 林ごと吹き飛ばされ、空中を舞う。


(ドボン!)


 幸いにも川に落ちた。しかしそこは急流。一難去ってまた一難だ。犬かきで必死に浮かぼうとするが、沈んでは浮きを繰り返す。


「ごぼっ……ああ、またかよ……くそったれ……」


 立待月の五郎。元は俊足の継飛脚。普段は飲む打つ買うのごろつきと変わらなかったが、一度文を託されれば、その足は野山を越え、あっという間に相手に届ける。「たちまちつく」の異名で呼ばれるほど速かった。だが関ヶ原の後、浪人が盗賊化し、飛脚は格好の標的となる。五郎もその犠牲となり、あっけなく命を落とした。そして五郎は黄泉の国である女に出会う。


「五郎、現世への未練はあるか?」


 何も見えない暗がりから女の声だけが響いた。


「そりゃ未練ぐれぇあるぜ。女ぁ抱きてぇし、酒ぁ浴びるほど飲みてぇ。それに博打でひと山当ててぇしよ。だがよ──やっぱ飛脚だ。俺ゃこの足で風切って走るのがたまんねぇんだ。まだまだ現役でいたかったんだよ」


 女は微かに笑い、答える。


「そう、五郎の足の速さを活かせる機会があるかも知れないわ」


 真っ暗闇で声の位置が近づく。ここまでは穏やかに話が進む。ところが五郎は生来鼻が効くため、ここに目を覚ました時から気になっていたことがあった。気になると口に出さないと気が済まない性分が、この後災いを呼ぶ。


「……なぁ、ここ、ちょいと臭くねぇか?」

「死者の国だから、それくらい臭うのも仕方ないことじゃ」

「へぇ、つまりあんたも死人ってことかい? どうりで鼻にツンとくるわけだ」


(ゴオオオオオ……)


 女の返答の代わりに、地の底から湧き立つような低い音が響いた。


「おおっ? 地震か雷か? 物騒だねぇ」

「……その様なこと、夫に言われて以来じゃ」


 冷静を装いつつ声は一段低い。


「へー、旦那もここに居るのか?」

「いや、居らぬ……一度ここへ来た。だが、妾を置いて現世に戻った」

「旦那がいたのかい。けどよ、よくある話だろ? 旦那が長ぇ旅から戻ってみりゃ、女房がすっかり変わっちまってよ──『こんなのオレの嫁じゃねぇ!』なんてな。へへっ、旦那の方が気の毒だったんじゃねぇの?」


(ガッシャン!)


 稲妻のない雷のような轟音が鳴る。五郎の最後の一言は余計が、不幸を招く。


「そんなに臭いが気になるなら妾の鼻をやろう。もっとよく嗅ぎ分けることができるでしょう。それにお前は、人としてものの言い方がなっておらぬ。ならば人である必要はない。言葉の通じぬ世界で犬として主人に尽くせ」


 口は災いの元とはこのことだ。五郎は訳も分からず鼻をむしり取られ、何かを押しつけられると、次に目を覚ました時には見知らぬ異世界で柴犬になっていた。


◇ ◇ ◇


(ザッブーン)


「旦那様、犬コロだぁ」


 溺れかけていた五郎を救ったのはベルグランであった。彼は「ほらよ!」と声を張り、巨大な熊のような手で水面から掴み上げ、岸に引き上げた。


「生きてるか?」


 小次郎が尋ねると、ベルグランは柴犬の首根っこを掴んで前に突き出した。


「生きてるみてぇだ。」


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