第19話 魔王軍 十三将 其の三
ドッティニの切り飛ばしたはずの腕から蹄が生え、顔がみるみる歪み、黒く鈍く光る皮膚が膨張して鎧と一体化したかのように変貌する。四つ足になると、山のような大きさの、火を吐く牛の姿が現れた。周囲の空気がひび割れるように震え、死の気配が濃密に渦巻く。
「……あいつ、火を吐く牛だったのか。これが魔族の理か……この世界は、理屈にならない」
小次郎の心臓を戦慄が叩いた。魔法で火柱が踊り、空気を裂く大蜥蜴の咆哮が辺りを覆う。目の前の者が悪夢の獣に変わる現実に、日本とは異なる異世界の異常さを思い知らされる。
牛は前左足で地を掻き、角を突き出して突進の構えを取った。一度後ろ足だけで立ち、その反動を利用して猛烈な速度で駆け出し、小次郎に迫る。小次郎は幻影を頼りにひらりとかわした。牛は森へ突っ込み、炎を巻き上げる。焦げた木の匂いが鼻を刺した。
「……凄まじい。刃の入れ方を誤れば、長光でも折れてしまう」
刃を浅く当てて試したが、無理はできない。幾度斬りを重ねても決定打が出ず、死の気配が指先から足先まで染み渡るように感じられた。
一度止まったドッティニは、覚醒した鎧よりも硬い皮膚に傷をつけた小次郎の刃を警戒した。間を置いて攻撃方法を変える。後ろ足で立ち上がり前足で地を踏み、反動で蹴り上げると、魔法紋と炎を纏った斬撃が四方へ飛び散り、残る木々も吹き飛んだ。
この時、不覚にも小次郎は左足に斬撃を受ける。
“赤い線も幻影もない……これはこれまでと違う攻撃か?”
幻影に頼りすぎていた己を戒め、五感を研ぎ澄ますと、牛の鎧の隙間を縫う光の粒子が血管のように脈打っているのが見えた。
“これが気の流れ、いやマナの流れか。弱点はあそこだ”
蹴り上げの反動で生まれる炎と魔力の渦を読み、斬撃を避けつつ、微かに透けた弱点を見定める。だが時間は限られていた。周囲の熱で羽織から煙が上がり始める。
「……先生の魔法が溶ける……!」
後ろ足を蹴り上げ回転する牛に縮地で接近。粒子が集まる最も明るく脈打つ鎧の隙間を狙い、刃を素早く差し込み一瞬で引き抜くと、牛は驚愕して固まり、力を失って豪快に倒れた。
「さあ、火炎牛、成敗する」
足の立たない牛の首に刃を入れようとした瞬間、別方向から赤い線が現れ、魔法紋が線に沿って移動する。小次郎と牛の間に土壁が立ち、両者を隔てた。
「「「ドッティニ様、どうか今のところはお気をお鎮めください。復活されてから、まだお体の調子が戻っておられぬのです。その異世界からの来訪者は捨て置いて、まずは大王様のお迎えの準備をいたしましょう」」」
声と共に大地が裂け、ドッティニは土の中に消え、微かな死の波動だけが残った。
◇ ◇ ◇
「ばっちゃん、ウェリスが大変だ」
プエラと、負傷したウェリスを抱えた冒険者たちが診療所へ駆け込んできた。そのプエラは布に包まれた何かを抱えている。
彼らがやって来ることを知っていたかのように、エスタは椅子に座り闇の中で静かに待っていた。部屋の影が揺れ、死の気配が波のように流れる。
「ああ、虫の知らせがあった。ウェリスを地下に運んでくれ。男は入れぬ。済まぬが、プエラ、ウェリスを運んでおくれ。その腕は儂が預かろう」
ポーションで湿らせた布に包まれた右腕を抱え、エスタは地下へ降りる。蝋燭の光だけが足下を照らす。プエラは意識朦朧のウェリスを抱え、ゆっくりと下りた。黒布で覆われた壁、祭壇も黒布に覆われ、暗黒が空間を支配する。微かな死臭がプエラの胸に重くのしかかった。
「プエラ、感謝する。儂は二日ほど隠り秘術を行う。それでウェリスは助かるじゃろう。部屋のことは他言無用にお願いする」
プエラは静かに頷き、ウェリスを祭壇前の低いテーブルに横たえて衣服を脱がせる。地下室を出ると内側から鍵がかけられた。背後に暗黒の気配が残る。
上の部屋に戻ると、小次郎が立っていた。
「ウェリスの容態は?」
「いまエスタが治療中。心配は無用」
“良かった”――だが護れなかった責任が胸を刺す。
“畜生……護衛を買って出たのに、この有様か”
夏姫のことが頭をよぎり、無意識に手紙の入ったお守りに触れる。悲痛な面持ちのまま地下へ行こうとするが、プエラに制された。
「おっと、地下は男子禁制だ」
「そうか」
「小次郎、責任感を感じてるな?」
「いや、容態が気になるだけだ」
「顔に書いてあるぞ。守れなかった責任があると」
小次郎は顔を背けた。
「いいか、小次郎。丘の上から全て見ていた。あの時の行動は最善だ。いや、小次郎でなきゃウェリスを守り切れなかった」
小次郎は下を向く。
「忘れろとは言わない。謝るのも必要だろう。でもウェリスは助かった。次に何をすべきか考えることこそ本当の責任の取り方だ」
プエラの言葉に小次郎は少し気が晴れた。反省を次の段階に生かす重要性を理解する。
「ああ、そうだな。確かにそうだ。俺はこの世界の治癒魔法を見くびっていた。それに百歳超えのエルフの言葉は重みがある」
「百歳って! こいつ」
プエラが小次郎の胸を軽く拳で押す。
「僕の師匠にも言われたぜ。『武人の責任は、過去の失敗ではなく未来の戦いにある』ってな。それで、あいつは?」
「邪魔が入り逃げた。もう一人いた。声しか聞いていないが、魔王を迎える準備と言っていた。分かるか?」
小次郎は、その者が自分を異世界からの来訪者と呼んだことを思い出す。
“俺を来訪者と知っている……? 誰だ”
心中に不安と死の気配が広がる。
「八百年前、この大陸の半分以上を覆った厄災。ドルティアの魔王か。ドッティニはその軍の将軍だ」
「復活するのか?」
“日ノ本では想像できぬが、この世界では可能性があるらしい”と小次郎は改めて認識する。
「そうだな。ドッティニが復活したなら可能性はあるかも。パスコ爺さんがいれば……」
「ああ、惜しい人を亡くした。もっと教わりたかった」
小次郎はテーブルの魔導書を手に取る。
「サリー・マクナエルに渡せと言っていた」
「鍵付きの魔導書……全然やばいな……」




