魔王は世界を平和に導く
「もう……これ、本当に魔素に慣れるために必要なんですか?」
私は呆れながら、目の前の男を睨みつけた。
魔界に来てから一週間――『魔素に慣れるため』という名目のもと、私はクロヴィス様の過剰すぎるスキンシップに翻弄され続けていた。
たとえば、魔素の循環がどうのこうのと言いながら、手を握られたまま一日中過ごすことを強要されたり。
魔素に慣れるまでは空気が冷たく感じるはずだと、毎晩のように抱きしめられたまま眠ったり。
果ては「魔素がお身体に馴染んだか確認します」と言いながら、全身を撫でられたり――
「どう考えても必要ないですよね!? クロヴィス様!!」
「いいえ、必要です」
即答。
涼しい顔で言い切るクロヴィス様に、私は思わず頭を抱えた。
「リリエル様が魔界の環境に適応できるよう、私が適切にサポートしているのです。私の魔力に触れることで、より効率的に馴染むことができますから」
「いや、それは……まあ、そうかも……いや、そうなの?」
それっぽいようで、なんか違う気がする。
「じゃあ、どうして毎晩のように抱きしめられなきゃいけないんですか!?魔素にはまだ馴染んでいないかもしれないけれど、別に寒くはないですよ!?」
「それは……私の精神安定のためです」
(お前のか!!)
思わず心の中で叫ぶと、クロヴィス様は微笑を深めた。
「おかげで、私もよく眠れました」
「私は全っ然、眠れなかったんですけど!!!」
――そんなふうに魔界での生活(という名のクロヴィス様との攻防)を続けていたある日。
「そろそろ魔素にも慣れたでしょうから、城の中をご案内します」
そう言われ、私はクロヴィス様に連れられて城の中を歩いていた。
廊下の両側には豪奢な装飾が施され、壁には年代物のタペストリーが飾られている。床は黒曜石のように滑らかで、踏みしめるたびにわずかに反射する光が揺れる。
どこを見ても壮麗で、まるで王宮のようだった。
「……っていうか、魔王の城なんだから、そもそも王宮みたいなものですか」
「ええ、そうですね」
「それにしても、想像以上に綺麗なところですね」
「リリエル様に気に入っていただけたなら幸いです」
優雅に微笑むクロヴィス様を横目に見ながら、私はふと疑問に思った。
「そういえば、私は今日からは部屋の外に出てもいいんですか?いつまでも働かずにいるのも申し訳ないです……」
かと言って、今まで聖女だった自分に何ができるだろうか。とりあえず、掃除係の末席にでも加えてもらえないかな。
「ちょうどよいタイミングです」
彼は私の言葉に足を止めた。
目の前には、ひときわ立派な扉がそびえていた。
「リリエル様にお手伝いいただきたいお仕事がありました。ここが、そのお部屋です」
「へぇ……どんなお仕事ですか?頑張りますね」
扉がゆっくりと開かれる。
次の瞬間、私の目に飛び込んできたのは――
「……って、どう見ても玉座の間じゃない!!!???」
私の職場が、まさかの玉座の間だった。
「どういうこと!? 私のって言いましたよね!? なんで玉座の間なの!?」
「ええ。リリエル様には、あちらの玉座に座っていただきますので」
「いや、ちょっと待って!? それってつまり――」
「おめでとうございます、リリエル様。本日から魔王にご就任いただきます」
「待って待って待って!! そんな話聞いてない!!!」
絶叫する私をよそに、クロヴィス様は優雅に微笑んだ。
気がつけば魔王になっていた私は、煌めく玉座に続く赤いカーペットをクロヴィス様にエスコートされながら歩いていた。
広々とした空間には、ひざまずく魔族たち。天井には妖しく揺らめく燭台の炎。荘厳で、どこか禍々しい空間――魔王の玉座の間。
「……ちょっと待って、どうしてこうなったの?」
自分の状況を整理しようと頭を抱える。しかし、どこをどう考えても、ここは紛れもなく魔王の玉座に繋がる道。私以外の全てが、私がそこに座るのが既定路線だと言わんばかりだ。
本来なら、私は神殿で祈りを捧げる聖女だったはずなのに。
「運命とは、時に皮肉なものですね」
すぐそばで聞こえた声に、私は顔を上げる。
クロヴィス様は、いつもの涼しげな笑みを浮かべ、まるでこの状況をすべて計算していたかのように穏やかに佇んでいる。その態度が、余計に私の混乱を加速させた。
「……運命って、クロヴィス様がここに連れてきたんじゃないですか!」
「いいえ、私はただ、あなたにの願いを叶えるのにふさわしい場所を用意したまでですよ」
言いながら、クロヴィス様は私の手を引く。混乱している間に、いつの間にか玉座の目の前まで来ていた。
重厚な金でできた玉座は、真紅のビロードで彩られている。どれだけの時間をかけたか想像もつかない見事な装飾細工と数々の宝石が埋め込まれたその姿に、近づくだけでも恐れ多い。
それなのに、クロヴィス様は私をふわりと抱き上げ、いとも呆気なく玉座に座らせる。その動作があまりにも自然で、抵抗する暇もなかった。
「私の……願いを叶える?」
問い返すと、クロヴィスはゆっくりと頷いた。
「ええ。リリエル様の願いは『王国を守ること』でしたね」
彼の言葉に、私は思わず息をのむ。
「考えてみてください」
クロヴィス様はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「リリエル様が魔王となれば、王国との和平が、一番早く実現できるのです」
「……!」
私は息を飲んだ。
「魔族が王国に侵攻したのは、リリエル様をお迎えするためです。しかし、図らずとも王国が想定以上に弱体化していることが露見してしまった」
確かに、勇者の血筋は戦えず、私などを側妃にして祭り上げようとするくらいにはダメダメだ。
「当初はリリエル様を奪うためだけの陽動の侵攻でした。しかし、実態を知った魔族の重臣たちからは、これを機に本格的に王国に侵攻すべきだという声が上がっています」
「そんな……!」
一気に血の気が引く。
眼下に跪く魔族たちーー彼らが、王国に攻め入る!?
「王国は今、魔族との戦争を避けるために和平を望んでいます。しかし、このままでは足元を見られてまともな外交もできないまま、魔族側の勝利は確定するでしょう。ですがーー」
彼の言葉を、私はじっと聞いていた。
「リリエル様が魔王となれば、未来は変えられます」
ーー私が魔王になれば、変えられる?
「……そんな、でも……」
「リリエル様は、王国の平和を望んでいましたね?」
クロヴィス様の目は真剣だ。
彼もまた、一時ではあるが、王国の騎士だった人物。双方の理を叶えてくれるのかもしれないと思わせる。
「魔族はあなたの血筋に従います。また、王国も安心するでしょう。なにしろ、かつて王国の聖女であったあなたが魔族を統べるのですから。魔王であり、かつて聖女であったあなたがトップに立つことは、人間との共存の第一歩となる」
その言葉が、胸に深く突き刺さる。
私は王国の平和を望んでいた。ずっと。
それなのに、その方法が目の前に差し出されているというのに、何をそんなに迷うことがあるのかーー。
「……私が魔王になれば、本当に……平和になるの?」
「必ず、私が叶えます」
クロヴィス様の言葉に、私は彼を見上げた。
彼の瞳は、まっすぐに私を映している。
もし、この手を取れば――私は、もう二度とクロヴィス様から逃げられなくなる。逃さないと、その瞳が告げている。
それがーー
こんなふうに、誰かに必要とされることが。
こんなふうに、たった一人の誰かと未来を築くことが。
――世界の平和よりも、嬉しいなんて。
「……仕方ない、ですね」
ため息混じりに言うと、クロヴィス様が少し驚いた顔をした。
「つまり、それは……」
「私は、魔王になります」
彼の手を、そっと握り返す。
その瞬間、クロヴィス様の瞳が柔らかく細められた。
「ふふ……ようやく、覚悟を決めてくださいましたね」
「なんだか、全部あなたの思い通りな気がするんですけど?」
「そんなことはありませんよ。私はただ、リリエル様の選択をお手伝いしただけです」
にっこりと微笑むクロヴィス様。
その顔がやけに得意げに見えるのは気のせいじゃない。
「……やっぱり、騙された気がする……」
「リリエル様が望まれた結果ですよ?」
「ぐぬぬ……」
そうやって悔しがる私を、クロヴィス様は楽しそうに見つめていた。
「では、リリエル様。改めて」
クロヴィス様は私の手を取り、ゆっくりと膝をついた。
その仕草はまるで忠誠を誓う騎士のよう……だけれど、彼の紅い瞳には、決して従順さなど宿っていない。
そこにあるのは、燃えるような独占欲。
強く、狂おしいほどに――私だけを見つめる視線。
「あなたは、魔族の頂点である魔王」
クロヴィスの声が、低く甘やかに響く。
「そしてーー」
彼は私の手を引き寄せ、その指先をそっと撫でた。
「あなたは、私のものでもある」
「……!」
言葉の意味を理解した瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「魔族の王でありながら、私だけのもの――」
彼の言葉は、じわりと心の奥へと染み込んでくる。
それは、一方的な宣言だった。
けれど、不思議と反発する気持ちはなかった。
だって――
私の中にある気持ちも、きっと彼と同じものだから。
「……はい、私は……クロヴィス様、あなたのものです」
震える唇でそう告げると、彼の瞳が愉悦に染まる。
「では――誓いの証を」
言い終えるが早いか、クロヴィス様は玉座に座る私を逃がさぬように覆い被さり、しっかりと抱き寄せた。
「……っ!」
紅い瞳が間近に迫る。
何かを言う間もなく、唇が重なった。
優しく、けれど逃げることを許さない深い口づけ。
ただ唇を合わせるだけのものではない。
確かめるように、すべてを刻み込むような、熱を帯びた口づけだった。
クロヴィス様の指が、そっと私の頬をなぞる。
その指先からも、彼の執着が伝わってくる。
「……っ、ん……」
息が詰まるほどに長く、深く。
まるで「お前はもう俺のものだ」と、言葉の代わりに刻み込むかのように――。
彼の熱に包まれながら、私は思った。
――ああ、私は本当に、彼のものになってしまったのだ。
それが怖いと思うどころか、心の奥が甘く痺れるのだから、どうしようもない。
彼の腕の中で幸福を噛み締める。
けれど、その余韻に浸る間もなく――
ふと違和感を覚え、ゆっくりと目を開けると……視界の隅に、無言で目を逸らす魔族たちの姿があった。
「…………」
臣下となった魔族たちは、何とも言えない表情で視線を外している。
誰もが心得たように、絶妙な角度で視線を逸らしている。
……あれ、これってもしかして、ものすごく見られてた!?
「~~~~っっっ!!」
一瞬で顔が真っ赤になる。
や、やばい!こんな見せつけるような形で……!!
思わずクロヴィス様を押しのけた。
「ちょ、ちょっと! なんでこんなところで!?」
「誓いの証ですから」
さらりと言ってのけるクロヴィス様。
彼は微塵も気にしていないどころか、堂々とした態度のまま臣下たちへと向き直る。
「皆も、心しておくように。この美しき新たな魔王様は、私のものだ」
(やめてぇぇぇぇぇ!!!)
私はその場から逃げ出したかったが、魔王としての威厳を保つために、必死に動揺を抑え込んだ。
そんな中、臣下のひとりが小声でぽつりと呟いたのが聞こえた。
「……いや、誰も手なんて出せませんって……あんな怖いのが後ろにいたら……」
その場にいた全員が、無言で深く頷いた。
――え、クロヴィス様、どれだけ怖がられてるの!?
私は思わず彼の顔を見たが、クロヴィス様本人はまるで気にした様子もなく、優雅に微笑んでいた。
――こうして私は、魔王として、そしてクロヴィス様のものとして、平和な未来を築くことになったのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回、最終話です。
次話『エピローグ 魔王は側近に溺愛される』