聖女は守護騎士に翻弄される
神殿の自室、ふかふかのクッションが並ぶソファに、私はぐったりと身を沈めた。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
第二王子からの求婚。魔族の侵攻。聖女の役割ーー
「……そんなに王子との結婚が嫌でしたか?」
不意に、低く甘い声が耳元で囁かれた。
「ひゃあっ!?」
驚いて飛び上がると、すぐ後ろからクロヴィス様が私の顔を覗き込んでいた。
「もう、近いですよ!」
「失礼、つい」
クロヴィス様は軽く肩をすくめると、優雅にソファに腰を下ろした。
「で、どうなさるのですか? 王子の求婚、お受けになるのですか?」
「う……」
言葉に詰まった。
もちろん、即答で「嫌です!」と言いたいところだったけれど、王国のことを考えれば簡単に否定できる話ではない。
「王国を守りたいという気持ちはあります。私が魔王の血筋だとしても、ここが私の育った場所ですから。でも……」
(そうしたら、もう、クロヴィス様とは……)
続きは言葉にはできなかった。
クロヴィス様は、そんな私の様子をじっと見つめ、ゆっくりと顔を近づけてきた。
「リリエル様……」
「は、はい?」
「私を捨てないでください……」
「え?」
「あなたの傍にいられるのは、私だけでいいでしょう?」
「え、ええっ!?」
クロヴィスはしおらしく俯き、伏せた睫毛を揺らしながら続ける。
「リリエル様の輝きに魅せられたこの身を……どうか、捨てないで……」
「え、いや、その……」
「どうか、私を見捨てないと……今ここで誓ってください……!」
――なんか、すごくあざとい!!
まるで芝居がかった台詞に、私は混乱しながらも、どこかドキドキしてしまう。
「そ、そんなことしなくても……クロヴィス様を捨てたりなんてしませんよ!」
「本当ですか?」
クロヴィス様がすっと顔を上げ、涙目でじっと見つめてくる。
「……ずっと私のそばにいてくれるのですね?」
「えっ、そ、それは……」
「ずっと、ですよね?」
「え、えっと……はい……?」
「ふふ……」
クロヴィス様の唇が、ゆっくりと微笑みの形を作る。
――なんだか、すごく嫌な予感がする。
そう思った瞬間、クロヴィス様がするりと距離を詰めてきた。
「ずっと……私のそばにいるのですね」
「ひゃっ……!?」
クロヴィス様の指が、私の頬をそっと撫でる。
そして――
「なら、証を」
彼の唇が、額に。
「ちょっ……!」
頬に。
「ひゃんっ!?」
髪に。
「ま、待って!? これ、思ってたのと違――」
「え? リリエル様が『ずっとそばにいる』とおっしゃったので……愛情の証を」
「なにそのシステム!?」
クロヴィス様は困ったように微笑みながら、さらにキスの雨を降らせてくる。
「あっ、ちょ、そこは……! ひゃんっ、やめ……!」
「可愛らしいですね、リリエル様」
どう見ても、泣いていたのはーー
「や、やっぱり演技ーーー!!」
思いきりソファのクッションを投げつけると、クロヴィス様は軽やかに避け、ふっと真剣な顔を見せた。
「演技ではありませんよ」
その声の響きが、いつもの軽やかさとは違った。
「私は生涯を通じて、リリエル様のお側におります」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねる。
(……生涯を通じて?)
聖杯が満たせない私でも?
聖女で魔王の血筋の私でも?
ずっと……?
「……クロヴィス様が、ずっと側にいてくれるなら……」
「なら?」
「わ、私……」
心臓がうるさい。
喉が渇く。声が震える。
「ふふ、続きを聞かせてください?」
クロヴィス様が、まるで獲物を待ち構えるように笑う。
その笑みが、少し揶揄いを含んでいるのに気がついた。
「やっぱり言いません!!」
「おや、それは残念です」
「……もう!」
私は顔を真っ赤にしながら、クロヴィス様を睨んだ。
けれどーーその瞳には、多分、どうしようもなく彼への想いが滲んでいたのだと思う。
◆
「まったく、クロヴィス様ってば……!」
私は頬をぷくっと膨らませながら、ソファのクッションをぎゅっと抱きしめた。
さっきまでのやり取りを思い出すだけで、顔が熱くなる。
(……生涯を通じて、私のそばにいる、かぁ……)
まるでプロポーズのような言葉。
ドキドキしながらクロヴィス様の横顔をちらりと盗み見ると、彼は何やら楽しそうな表情を浮かべていた。
「クロヴィス様、今なんか悪いこと考えてません?」
「そんなことありませんよ?」
「いや、めっちゃ悪い顔してます!」
「ふふ、では悪い顔ついでに……」
クロヴィス様が私の手を取って口付ける。
「リリエル様を、攫わせていただきます」
「…………はい?」
その瞬間、神殿をけたたましい鐘の音が駆け巡った。
これはーー緊急事態を告げる鐘の音だ!
「聖女様をお守りしろ!」
「魔族だ!!」
「な、なに!?」
窓の外で、怒号が響き渡る
私はクロヴィス様と顔を見合わせた。
「魔族ですって……?」
「ええ、そうですね。」
クロヴィス様は私の手を取ったまま微笑みながら立ち上がるとーー
「それでは、リリエル様……行きましょうか」
「え?」
次の瞬間、ひょいっと私を抱き上げた。
「ちょっ……!? えええええ!?」
「王国などに渡しませんよ」
そう囁いた瞬間、クロヴィス様の背中に大きな黒い翼が生え、艶やかな髪の中から二本の鋭い角が現れた。サラリと流れる銀の髪が襟足少し下まで伸び、妖艶さを増している。
「く、クロヴィス様!? それ……なに!?」
「ふふ、今更ですね」
彼はにこりと笑いながら、窓際に立つ。
「私は、魔族ですよ?」
「うそーーーー!?」
私の悲鳴に構うことなく、クロヴィス様は窓から大きく飛び上がった。
◆
「イヤああああーーーー!!」
生まれて初めて、空を飛ぶことになった者の気持ちを考えて欲しい。
まだ地面からそう遠く離れてはいないが、物見台くらいの高さに浮いており、足元には床がない。
すでに大地が恋しい。でも下を見るのが怖い。
「ご無事で!?」
「お勤めご苦労様です!!」
「さあ、魔界に帰りやしょう!!」
空中にぞろぞろと現れた魔族たちは、口々にクロヴィス様を歓迎していた。
そして――クロヴィス様は、私を抱えたまま、高らかに宣言する。
「こちらは亡き魔王様のご令孫、リリエル様だ。次代の魔王となるお方だ。丁重にお迎えするように」
ざわ……っと、魔族たちの間に衝撃が走る。
「え、えええええ!? ま、魔王様のゴレイソン……孫!?」
「次代の魔王……!?」
神殿の人間たちも、こちらを見上げながら青ざめている。
「聖女様が、魔王の孫……!?」
「なんで聖女に!? 誰だ!? あんな奴を引き入れたのは!?」
「クロヴィス様が魔族だなんて!」
「でも、あのお姿もワイルドで素敵……」
「いや、そこ!?」
最後に聞こえた、クロヴィス様に懸想していた聖女のセリフに思わずツッコむが、大事なのはそこではない。
魔王の孫であることがバラされ、クロヴィス様の魔族姿も大勢に見られた。
完全に外堀は埋められていた。
クロヴィス様は満足そうに微笑んだ後、ふと表情を引き締める。
「……もう一つ、覚えておけ」
「へっ……?」
魔族たちが一斉にクロヴィス様を見る。
「私以外の男がリリエル様に触れた場合は……」
一瞬にしてその場が凍りついた。比喩ではなく。
クロヴィス様が微笑みながら手を軽く振ると、地面がバリバリと凍り始める。地面だけではない。魔族の周囲の空気も凍り、ダイヤモンドダストが発生していた。
その冷気は瞬く間に広がり、周囲の魔族と人間たちは息を呑んだ。
「ど、どうなるんでしょうか……?」
魔族の一人が震えながら尋ねる。
クロヴィス様は優雅に微笑んだまま――
「どうなるか、わかっているな?」
冷たい氷のような視線を魔族たちに向けた。
「ひっ……!?」
「ぞ、存分にお気持ちは理解いたしました!!」
「絶対に触れません! 触れませんとも!!」
「むしろ見ません!! 目を伏せます!!」
「リリエル様はクロヴィス様以外、絶対に触れさせません!!」
魔族たちは一斉に私たちから距離を取り、全力で敬意を示した。
「ちょっ……ちょっと!? 大げさじゃない!?」
彼らの様子に慌てるが、クロヴィス様は満足そうに微笑んでいる。
「これで安心ですね」
「安心っていうか、完全に引かれてるんですけど!?」
「ふふ、さあ、行きましょうか」
私の額に軽くキスを落とすと、クロヴィス様は軽やかに宙を舞った。
「これ、もう王国には絶対に戻れない……!」
私の呟きは、クロヴィス様以外、誰にも届くことはなかった――。
◆
「ここが……?」
森に隠された転移陣を抜けて魔界に戻った魔族一行は、すぐさま魔王城へと帰還した。
クロヴィス様は私を抱えたまま、迷いのない足取りで、城の最奥の豪華な調度品で彩られた部屋に入る。
「こちらがリリエル様の私室です」
「えっ……すごく……好み……」
淡いブルーと白を基調として、アクセントに上品な金細工が施された装飾。ふわふわのベッドに、可愛らしい家具たち。
完全に私の好みど真ん中だ。思わずクロヴィス様の腕から降りて、部屋のあちこちを見て回ってしまった。
「あなたのために用意した部屋です。気に入っていただけたようで何より」
「はっ!そっ、そんなこと……!」
喜ぶべきか、勝手にここまでされたことを怒るべきか。逡巡したその時――クロヴィス様がぐっと私の手を引いた。
「私があなたをお守りします」
「……え?」
「たとえ、王国を……世界を敵に回しても」
囁くような声とともに、クロヴィス様の唇が私の指先に触れる。
「……っ!」
「王子に触れられた場所……全て上書きして差し上げます」
「あっ、ちょ……」
指先から手首、肘、肩……クロヴィス様の唇が滑るように触れていく。
「やっ……やめ……!」
「まだ終わりませんよ」
クロヴィス様の舌が、首筋をゆっくりと辿る。
「いや、そんなとこ触られてないですけどっ!?」
ニッコリといい笑顔になるクロヴィス様。
この顔、嫌な予感しかしない。
「王子と一緒にいた時の空気が触れた場所は、すべて上書きいたします」
「それ、触れてない場所なくない!?!?」
「魔王となるお方に、敵国の男と同じ空気が触れていたなんて、許し難い」
「いやだから、魔王になりたくないんですけど!!」
必死に訴える私に、クロヴィス様の笑顔がニヤリと悪いものに変わった。
「そんなこと、言っていられるのも今のうちですよ」
「え?」
彼の指が、そっと私の頬をなぞる。
「魔界に来たばかりで、まだこちらの魔素に身体が馴染んでいないでしょう?」
「えっ……?」
クロヴィス様が言った途端ーー視界がぐにゃりと歪んだ。
全身が、ひどく怠い。思わず目の前のソファに倒れ込む。
心臓がどくどくと波打ち、頭がぼんやりとしてくる。
「さあ、まずは魔界の魔素に身体を慣らしましょうね」
「……え?」
クロヴィス様が、ゆっくりと舌なめずりをする。
なんだか、とても嫌な予感がする。
「う、嘘っ!? ま、待って、ちょっと待って!!」
彼は優雅に私の上に覆い被さってきた。
「さあ、お覚悟を……」
「うそっ!? あっあ~~~~~~!!!」
こうして、私の魔界生活(とクロヴィス様の溺愛)は幕を開けたのだった――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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