番外編 仮面越しの愛を、あなたに
魔界最大の祝祭、それが『夜宴の舞踏会』だ。
年に一度、魔族たちが煌びやかな衣装と魔力を纏い、誰もが仮面の下に素顔を隠して踊り明かす祭。魔界中のあちこちでパーティーが開かれ、それは魔王城も例外ではない。
この舞踏会の最大の特徴は、仮面にかけられた特殊な魔法――それを身につけた者は、互いに相手を識別できなくなる。名も、素性も、立場も関係なく、ただその夜だけの『誰か』として出会い、舞い踊る、一夜限りの夢――。
だからこそ、ここでは普段決して交わらないような者同士が惹かれ合い、時には禁じられた恋が生まれることもあった。
(でも、私には関係ない……はずだったのに)
リリエルは、自らの胸の鼓動を宥めるようにそっと手を当てる。
開始早々に多くの魔族にダンスに誘われ、必死に断りながらようやく壁の花になれたと思ったのに。なぜか、今しがた目が合った『彼』から目が離せない。
会場の端でリリエルを見つめていた、黒い仮面の男。金の刺繍が施された黒の礼服に、長身の堂々たる立ち姿。
仮面のせいで、顔立ちははっきり見えない。魔力の仮面をつけてしまえば、たとえ親しい人でも見分けがつかなくなる――はずなのに。
その存在に、胸が高鳴る。
『彼』はきっとーー
そう思った瞬間、彼が静かに歩み寄ってきた。まるで、最初から自分を見つけるつもりだったかのように。
そして、目の前まで来ると、スッと手を差し出した。
「美しい方、一曲いかがですか?」
目の前の黒髪の青年は、もちろん仮面をつけているから、誰だかわからないし、髪の色も『彼』の光を溶け込ませたような銀髪とは違う。
けれど、纏う魔力に、ほんのわずかな既視感を覚えた。
(間違いない。彼は、クロヴィスだわ……)
リリエルは確信して安心した。誰が誰だかわからないこの雰囲気の中で、一人でいるのは心細すぎる。
(……でも、クロヴィスは、本当に私だと気付いている?)
差し出された手と硬い声に、普段よりも距離を感じて、少し不安になる。
彼は仮面越しに自分を見て、ただの『誰か』として接しているのか。
それとも――魔力の干渉すらも超えて、自分がリリエルだとわかっているのか。
(クロヴィスが私に気付いていないなんて、とても考えられないけれど……)
それにしては、彼の距離感は少し他人行儀ではなかっただろうか。
リリエルがクロヴィスに気付いているか試そうとしている?それか、まさか本当に気付いていなくて、自分以外の女性に声をかけようとしていたなんてことはーー。
そう考えたら、なんだか悔しくなった。
(それなら……)
くすっと笑い、リリエルはゆっくりと手を引いた。
「申し訳ありません。私が踊ると決めた相手は……別の方なの」
目の前の男の魔力が一瞬にして揺れた。
まるで、嫉妬に燃える獣のように。
「……そうですか。それは、残念ですね」
低く響いた声は、明らかに不機嫌だった。
だけど、それをあえて気付かないふりをして、リリエルは微笑を崩さなかった。
そして、くるりと踵を返し、目の前の男に背を向けた――その瞬間。
ぐいっ――。
強い力で手を引かれ、リリエルの身体は、一瞬で懐へと引き寄せられた。
「……おや、これは失礼」
耳元で囁かれる、低く甘い声。
「ですが、美しい方――あなたは、私と踊るべきではありませんか?」
そう言いながら、腰に添えられた手が、じわりと力を込める。
この魔力も、抱かれた時の温度も。
仮面越しでも、クロヴィスでしかありえない。
「……やっぱり、私だって気付いているんですよね?」
「リリエル様。私があなたに気付かないわけがないでしょう?」
仮面越しに射竦められられ、ぞくり、とした。
「この甘美な魔力……仮面如きで欺けると思いますか?」
吐息が触れる距離で囁かれ、胸の奥が熱くなる。
「私を惑わすつもりなら、覚悟してください。リリエル様」
「……え?」
「わざと他の男と踊るようなことを言って私を煽るなんて……いけないお方だ」
ぐっと腕を引かれ、リリエルは完全に彼の腕の中に閉じ込められた。
「ここまで私を翻弄しておいて、何もなしでは済みませんよ?」
「ほ、翻弄なんて、してないです……!」
「いいえ。こんなにも愛おしく、甘い素振りで私の心を掻き乱したのですから――」
クロヴィスの唇が仮面越しに頬を撫で、リリエルの呼吸が止まる。
「あなたの覚悟も、見せてもらいましょう?」
耳元で囁かれる甘やかな声音に、足元がふわりと浮くような感覚に襲われた。まるで、クロヴィスの腕の中で、溶けてしまいそうだ。
クロヴィスはリリエルを舞踏の輪の中へと引き込んだ。
ダンスが始まる。優雅な旋律に合わせ、リリエルの腰に添えられた手が滑るように導く。
けれど、その動きとは裏腹に、クロヴィスの指先は熱を帯び、強く食い込んでいた。
「……リリエル様、私は怒っていますよ」
「えっ?」
「よりにもよって、他の男と踊るだなんて、酷い断り方を」
「そ、それは……!」
責めるような声音に、リリエルは思わず唇を噛む。確かに、クロヴィスを試すような行動をしたことは、自分の落ち度だ。
クロヴィスは一切手を緩めず、むしろ腰を引き寄せるように密着させて、彼女にその熱さを伝える。
「仮面越しでも……私があなたを見つけられないはずがないでしょう?」
その言葉に、胸が跳ねる。
仮面の魔力など、彼の執着には通用しなかった。それが嬉しくて、リリエルはクロヴィスを見つめて素直に告げた。
「クロヴィス、ごめんなさい……あなたが私をみつけてくれて、嬉しい」
ふわりと笑みを浮かべた途端、クロヴィスの動きが、突如乱れた。
リリエルの手を強く握ると、そのまま舞踏会の輪から抜け出し――。
「クロヴィス!? どこへ……!」
「……もう、耐えられません」
鋭く囁かれた次の瞬間、彼はリリエルの腰を抱き寄せ、闇へと消え去るように跳躍した。
◆
舞踏会の喧騒から遠く離れた、魔王城の一角。大理石の床に、仄暗い灯火が揺れる。
「……もう、限界でした」
背後の壁にそっと押しつけられ、クロヴィスの腕に閉じ込められる。
「ただでさえ、あなたが私以外の男に誘われているのが許せなくて……正直、嫉妬で頭がおかしくなりそうでした」
「え……そんな、わたし、普通に断っただけで……」
「いいえ。あなたを見る男どもの視線、それに対応するあなたの姿に、どれほど私の心が掻き乱されたか……」
クロヴィスの指先が、リリエルの手を包み込む。
優しく撫でられるだけで、鼓動が跳ねる。
「私は、あなたを他の誰にも渡したくない。あなたの姿も、声も、視線も、魔力も……全て私だけのものにしたい」
クロヴィスの声が、かすかに震えていた。
仮面の奥で、彼がどんな顔をしているのかはわからない。
けれど、熱を帯びた吐息が近づくたびに、リリエルの身体は甘く震えた。
「リリエル様……この仮面を外して……あなたの瞳を、私だけのものにしたい」
「……クロヴィス……」
甘く、絡みつくような声。
(私も……もう、抵抗できない……)
そっとリリエルは自らの手で仮面を外した。そして、クロヴィスもまた、仮面を取り去る。
ーー視線が、絡み合う。
仮面の魔力が解けた今、ただただ、彼の愛おしさが胸を満たしていく。
「……リリエル様」
「……なに?」
「今夜は……いえ、いついかなる時も、あなたを誰にも渡しません」
静かに誓うような囁きに、リリエルはただ瞳を閉じた。
この夜からは、きっともう、逃げられない――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次で完結です。
次話『番外編 魔界旅行の甘い罠(クロヴィス視点)』