番外編 夢か現(うつつ)か
クロヴィスは、奇妙な感覚とともに意識を取り戻した。
どこかで感じたことのある空気。まるで、柔らかな魔力の波に包まれているような心地よさ。それでいて、甘く危うい誘惑の気配が微かに漂う。
(ここは……?)
目を開けると、そこは見慣れた魔王城ではなく、ぼんやりと霞がかった幻想的な空間だった。
月の光のような柔らかな輝きが広がる中、たったひとつ、鮮やかに存在を主張するものがある。
「……リリエル様?」
艶やかな夜を思わせる黒髪が揺れる。蜂蜜と血の甘さを閉じ込めたような瞳が、静かに彼を見つめていた。その表情は普段の可憐な彼女とは違い、どこか妖しく、彼を誘うようだった。
リリエルはゆっくりと近づき、甘く微笑んだ。
「クロヴィス……」
呼ばれるだけで、心が震えた。
「あなたも、ここに来たのね……?」
囁くような声が、耳に絡みつく。
クロヴィスは言葉を失った。こんなリリエルは、見たことがない。
彼女は更に近づき、クロヴィスの胸にそっと手を置いた。
その仕草すら、普段の彼女とは違う。甘やかであり、そして魔王の威厳を兼ね備えたその姿。慎ましやかで、少し照れ屋で、甘やかされることに未だ慣れていないリリエルが、まるで自ら彼を誘うように触れてくるなんて――戸惑いとともに、確かな熱が込み上げる。
「……ここは?」
「私の夢、みたい……」
リリエルがクロヴィスの胸に置いたその手は熱を持ち、指先が彼の服の上からそっと撫でるように動く。
「ねえ、夢なら……私の好きに、していいわよね?」
甘やかな囁きに、クロヴィスの喉が、ごくりと鳴った。
普段なら、彼がリリエルを追い詰め、翻弄する側だ。だが、今は逆だった。リリエルの指先ひとつ、視線ひとつで、自分が絡め取られていくのを感じる。
「リリエル様……」
「クロヴィス……」
甘やかな声で名を呼ばれるだけで、心臓が痛いほど高鳴った。彼の名を呼ぶ声が、まるで悦楽の呪縛のように響く。
クロヴィスはたまらずリリエルの手を掴み、その細い指を唇に触れさせた。
「……こういうことを、私以外に許してはいけませんよ?」
「ふふ……あなた以外に、こんなことをしたいと思うわけないでしょう?」
そう言って、リリエルは彼の胸にそっと頬を寄せる。柔らかな髪が肌をくすぐり、甘い香りが鼻腔を満たす。
「クロヴィス、これは私の夢よ。だからーーこの夢のあなたは、私のものよね?」
それは、まるで己の全てをリリエルに支配されたかのようで――
「……っ」
眩暈がするほど、甘い。
ぞくり、と背筋を駆け抜ける熱に、クロヴィスは抗えなかった。
魔王の器としての圧倒的な魔力と、彼女が秘める可憐な魅力。
(ああ……堪らない)
普段のリリエルも愛おしい。守るべき存在として、誰にも渡したくないと思う。
だが今、クロヴィスの腕の中にいるリリエルは――まるで、自分だけの女王のようだった。
彼の心を完全に掌握し、甘やかに支配する存在。
(……どうしようもなく、愛しい)
クロヴィスはそっと彼女の髪を撫で、静かに唇を寄せた。
彼女の魔力に酔い、甘美な囚われの中で、クロヴィスはゆっくりと瞳を閉じた。
◆
夜中に目を覚ましたクロヴィスは、しばらく夢の余韻に囚われていた。
「……あんなリリエル様、堪りません」
ため息と共に呟いた声は、夜の静寂に溶ける。
普段の彼女は可愛らしく、時に頑なで、素直になりきれない。そのリリエルが、夢の中では魔王らしく、彼を翻弄し、支配しようとした。
――ぞくり、と甘い戦慄が走る。
クロヴィスはゆっくりと手を握りしめた。
(ですが……やはり、リリエル様は私の手で翻弄されるほうが似合っていますよ)
少し悔しさを滲ませながらも、隣で眠るリリエルを見て、ふっと愛しさが込み上げる。
(夢ではしてやられましたが、今度は……)
そんな思いを巡らせていた時、寝ぼけた声が耳に届いた。
「ん……クロヴィス?」
リリエルが、眠たげな瞳で彼を見つめていた。その姿が愛しくて、クロヴィスはそっと微笑んだ。
「まだ、暗いわよ……もう少し、寝ましょう……」
不意に、その油断した可愛い顔に、夢のリリエルの妖艶な面影が重なった。
彼は優しくリリエルを抱き寄せ、そしてーー
「おはようございます、リリエル様」
「……ちょっと、近い……」
「近くありません。足りないくらいです」
「えっ――」
甘く微笑みながら、クロヴィスはそっとリリエルの髪に唇を落とした。
「今度は夢じゃありませんから、覚悟してくださいね」
夢の続きを誘うように、クロヴィスはそっとリリエルを腕の中に閉じ込めた。
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次話『番外編 仮面越しの愛を、あなたに』