番外編 魔王城の温泉で
温泉といえば、もちろんイチャイチャです。
前話『クロヴィスの弱点』も少し絡んでいます。
よろしければ前話もお読みください。
今日の執務は、いつも以上に過酷だった。ここ数日、主にクロヴィスのせいで睡眠不足なのに加え、当のクロヴィスが今日は王国との会合で不在なため、リリエルに仕事が集中していたのだ。
リリエルはようやく山積みの書類に目処をつけ、椅子の背もたれに深く身を預けて息をついた。
「……疲れた」
独り言のように漏れたその言葉に、侍女も兼ねる部下の一人が遠慮がちに声をかけた。
「リリエル様、たまには温泉などいかがでしょう? 魔王城の中にも広い温泉がございますし、今の時間なら貸切にできます。お肌にもとても良いのですよ」
「温泉……」
その言葉に、リリエルは思わず考え込んだ。魔界には、王国には無かった温泉文化がある。魔王になってすぐの頃は、温泉の気持ちよさにハマってしばらく通い詰めていた。
温泉に浸かって、のんびりと湯の温もりを堪能する――そんな贅沢、しばらく味わっていない気がする。
「……そうね、たまにはいいかも」
重い身体を引きずるようにして立ち上がり、リリエルは温泉へ向かった。
◆
温泉は、魔族の居城の中とは思えぬほどに広々としていた。薄暗い灯りがともり、湯気が立ち込める中、リリエルはゆっくりと湯に浸かった。
「はぁ……気持ちいい……」
肩までお湯に沈め、心からのため息を漏らす。湯の熱がじんわりと身体を包み込み、凝り固まった筋肉がほぐれていくのを感じる。
「こういう時間も、たまには必要よね……」
そう呟いた瞬間――カラン、と脱衣所の方で小さな音がした。
(……誰か来た?)
貸切のはずでは? と疑問に思いながらそちらを見やると――
「リリエル様、失礼いたします」
悠然と足を踏み入れる長身の影があった。
「……クロヴィス!? なんでここにいるんですか!? 貸切になっているはずなのに!?」
驚愕の声を上げるリリエルに、クロヴィスは微笑みながら応じる。
「リリエル様と私の貸切です」
「いや、聞いてないですよ!!?」
思わず湯の中に沈み込みながら、リリエルは必死に洗い場から距離を取る。
しかしクロヴィスは意に介さず、身体を清めると迷わず湯に浸かり、リリエルのすぐ隣に腰を下ろした。湯に濡れた銀の髪と、上気した肌の色が色っぽい。
「湯の温度はちょうどいいですね」
「ちょ、ちょっと! 近い!近いです!!」
「湯が広いといっても、やはりリリエル様の隣が落ち着くので」
「そんなとこで落ち着かないで!!」
完全にいつものペースに持ち込まれている。それがわかっていても、逃げ道がないのが悔しい。
彼が身体を洗っている間に出てしまえばよかった。いや、そうしたら一緒に身体を洗われてしまった気もする。
ぐるぐると考えながらも、何とか態勢を立て直そうと、クロヴィスを見やったとき、ふと彼の黒い翼が目に入った。普段は邪魔なのか隠されていることも多いが、寝入った後や風呂場などでは本来の姿になるらしい。
(……濡れると、いつもと違う感じがする)
興味をそそられ、リリエルは無意識に指を伸ばした。そして、そっと翼の付け根を撫でる。
「……んっ」
微かに漏れた声に、リリエルは目を見開いた。
(今……クロヴィス、ちょっと震えた?)
試しにもう一度、そっと指を這わせる。
「……リリエル様」
静かな声が響いた。クロヴィスの表情は変わらないが、その瞳の奥が微かに揺らいでいる。
「ひょっとして、ここがクロヴィスの弱点ですか?」
意地悪な笑みを浮かべながら、さらに指を動かすリリエル。
しかし――
「……これは困りました」
クロヴィスが、ふっと微笑んだ。
「リリエル様が、こんなところで私を誘惑してくるとは……」
「ちがっ――!?」
気づいた時には、すでに遅かった。
クロヴィスの腕がするりと絡まり、リリエルは身動きできなくなる。
「温泉の中では、何もかも隠しきれませんね……」
至近距離で囁かれ、リリエルは顔を真っ赤にした。
「や、やめて……!」
「では、抵抗してください。できるのなら」
「~~っ!」
耳元で低く囁かれ、リリエルはぐっと言葉を詰まらせた。
クロヴィスの腕は強く、それでいて優しく――まるで彼の意志そのもののようだった。
悔しい。いつもこうだ。
クロヴィスはリリエルの抵抗をあざ笑うように、するりと身を寄せてくる。
力では到底敵わないし、言葉を尽くしても、結局は彼の巧みな口ぶりに丸め込まれてしまう。
気づけば、熱に浮かされたように頭がぼんやりとして、彼の思うままにされている自分がいる。
なんとか反論しようと唇を開いたが、囁かれる甘い言葉と唇に先回りされ、あえなく封じられた。
(……また、してやられた……っ!)
悔しさを滲ませるリリエルを見下ろしながら、クロヴィスは満足そうに微笑む。
彼の深い紅の瞳には、まるで獲物を仕留めた獣のような色が浮かんでいた。
◆
「……もうクロヴィスと一緒に温泉なんて絶対入らない!」
翌朝、すっかり真っ赤な顔で怒るリリエルに、クロヴィスは涼しい顔で微笑む。
「それは困りましたね。私はまたご一緒したいのですが……」
「しない!! 絶対しないですから!!!」
リリエルのその言葉がどこまで本気だったかは――クロヴィスのみが知ることだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次話『番外編 クロヴィスが風邪をひいた!?』