第三話
《Side-ハル》
スイとヨシノの出かけた後の家にはほんのり淋しい静けさが穏やかに広がり、ハルはふうっと力を抜いてテーブルに軟体動物の様にうつぶせながら、窓の外をぼんやりと眺めた。
そのハルのボサボサの髪の間から、4センチほどのメタリックな深緑色をしたカマキリに似た“昆虫”が腕を伝ってテーブルに降り、ハルの傍らで触角の手入れを始めた。
「…今日は外出たくないなぁ~」
今日一日のスケジュールを思い、ハルは深いため息をついた。
スイとタッグを組んでのハンティングは良い。ハルも自分の能力―――“再結合”で創った発明品をいろいろ試してみたかった。でも午後の納品―――マフィア“ブラック・スカッダー(黒飛散)”のボス“オロチ”に会いにいかなければいけないのは、正直気が滅入ってしょうがない。
元々人付き合いは苦手だし、スイやヨシノ以外の人と上手くコミュニケーションをとる自信も無い。きっと皆だってあたしなんかと喋りたいとも思って無いに違いない。皆が求めているものは、あくまでハルの能力で生み出したリユニオンの製品だけなんだから―――…。
そんな事をうだうだと考えていると、視界に緑の昆虫型の“パラテオラ”キリオくんが素早い動きで現われ、ハルの投げ出した左手の人差し指の前にやって来た。ハルの爪は伸び気味で、連日の徹夜作業のせいで爪の中は汚れている。
キリオくんはその爪の中に自らの鋭く曲がった針のような鎌を突っこみ、ハルに痛みも与えず素早く器用にその汚れをかき出し始めた。そして左手の全ての指を綺麗にし終わると、顔を上げてハルの方を向き“どう、良くやったでしょ?”とでも言いたげに、頭の触角をヒラヒラ動かしてハルを見つめた。ハルはそれを見て表情をゆるめると、綺麗にしてくれた人差し指でキリオくんを撫でてあげた。
「そうだよね…1人じゃないもんね。―――ありがとキリオくん」
ハルが生まれてから、一番初めに記憶として覚えているものは両親や人間のものではなく、温かくて柔らかな“金属”の手触りだった。
黒に近い灰茶色の、所々に細かな回線らしきものが見える何か、とてつもなく大きなものに包まれていた感覚―――ほとんどそれしか、ハルは覚えていない。
なのになぜか時々とてつもない寂しさを伴いながら、思い出せもしないその記憶にハルは強烈な郷愁を感じる。
そして記憶は飛んで、泣きじゃくった幼い自分に手を差し伸べる、同じく幼いスイの潤んだその碧の瞳の光に照らし出された美しさと、その背後―――巨大な炎を背にして立ち、静かな瞳でこちらを見つめる幼いヨシノの髪が炎になぶられるさまが、いつまでも鮮明な記憶として強く残っていた。
どうして自分は泣きじゃくっていたのか―――そしてどうしてスイやヨシノがいたのか―――その記憶を深く辿ろうとすると、自分の知らない場所が鋭い音を立てて急ブレーキをかけてしまう。その先にあるのは昏い――――どこまでも暗い口を開けた深い崖だった。
「ん~~!考えない考えない、もう終わりっ!」
ハルは自分の頬をパシパシと叩きながら、ヨシノに頼まれていたことをこなすために立ち上がった。
食器を洗って自動洗濯機に衣類を突っこむと、ハルはサンダルをつっかけて菜園の世話をしに外へ出た。
明るんできた夏の空を見上げると朝日の気配は徐々に強くなり、いくつかの薄い光の筋がビルの間から差し込んでいる。
「今日も暑くなるのかなぁ、キリオくん」
キリオくんは先程から草むらの中を飛び回り、パトロールにでもいそしんでいるらしい。気温が上がる前に、植物や作物に水やりをしないと。
ハルは井戸から引いた水道にホースを差し込み、畑兼花壇の方へ引きずっていった。植物達は陽が昇るのを待たず、もう目覚めて活動を始めているような微かな命の気配を発している。
3人それぞれが、自分の好きな花や野菜を植えた菜園は不恰好で、上手く育っていないものもあった。だけど植物達が大して人間を気にもせず、てんで好き勝手に育つさまがハルは嫌いではなかった。何となく生き生きとして、虫に食われながらも必死に伸びようとする生命力にハルはいつも心癒された。
「フゥンフフフンフゥンフウ~~~ン♪」
即興の鼻歌を歌いながら、ハルはシャワー口から水を出しそれを辺りに撒きはじめた。ハルの歩調に合わせる様に、草陰に隠れていた虫達が飛び立っていく。
20平方メートルはある菜園は、その間にも昇りくる陽の光を待ちわびたように全身に浴び、葉の上にまとった水滴がまるで宝石のようにキラキラと輝きだした。頭上を半分倒れた廃ビルで遮られたこの地では、それは貴重な光だ。
「育って育てぇ、ニョッキニョッキ育てえ~~♪」
ハルは自作の歌を口ずさみながら、ホースを持って移動し続けた。
鳥のさえずりと遠く聞こえる街の喧騒、それに水が葉に当たる音しか聞こえない、そんな希望にあふれた爽やかな朝の気配にハルがしばし幸福感にひたっていた――――その時。
視線の先にあるビルの影に、ハルはふと違和感を感じた。
「―――ー…鳥の影…?」
倒れ込んだビルの影の上に、小さな棒のような影が出っ張っていた。
(…鳥の影にしては…――大きいっ!!)
今まであった幸福感はどこかに吹き飛び、鋭い警戒心がハルを支配した。ハルはバッと顔を上げてビルの上を見上げた。
倒れ込んだビルの上―――微かに、だが確実に逆光を浴びながら“人間”が立ってこちらを見下ろしている。
「…ッ!!―――“皆”っ!集まってっ!!」
ハルが叫ぶと同時に、人影はまるで自殺するかの如くビルの上から身を投げ出した。
「わわぁっ!?あ、危な…っ!」
その人間が生きて着地したかどうかは、家に阻まれハルには確認することが出来なかった。しかし生きているにしろそうでないにしろ、“侵入者”であるのは間違いない。
その時、ハルの周囲に生き物のざわめきが聞こえはじめた。ハルを中心にほぼ円状に、幾つもの小さな“物体”が草葉を揺らしながら集まり始めていた。
「―――おいで“風神”、“雷神”」
ハルの言葉を合図に、差し出したハルの両手に小さな“虫達”が集まって塊を作ると、その両手の中で徐々に輝き出した。
濃いピンク色の光は強くなり、光をまとった虫達の塊はそのままウネウネと形を変え、なおも変形し続け――――光を失った時、ハルの両手には2丁の“銃”が握られていた。
右手の銃は銀の金属製のシンプルな流線型で構成された、既製品ではありえないフォルムの銃だった。弾倉もスライドも無く、ただ微かな低いモーター音がハルの掌に響いている。左手の銃も色が違い鈍い金色なだけで、二丁は全く同じ型の銃だった。
ハルは素早く家の陰に移動し、壁からそっと前方を確認した。
「―――キリオくん、偵察よろしく」
いつの間にかハルの肩にとまっていたキリオくんが翅を広げ、侵入者が降りたったであろう地点に向かった。それと同時にハルは腕に装着していたW・PCを起動させ、ディスプレイのすぐ上に展開されたホログラムメニューをタップし、偵察画像のウィンドウを開いた。
キリオくんの目で見た画像には木々が映り、倒れ込んだビルの真下を目指していた。
(…おかしい、誰もいない―…)
「お前は“アノミア”か?」
その声は目を見開いたハルの真上―――家の屋根から突然投げかけられた。意識するより先にすぐさま銃口を屋根の上に向けたその先―――…
屋根の上に立ってこちらを見下ろす“男”は、長い髪を風に揺らしながら武器も持たずに丸腰のままハルの定めた照準の前に立っていた。
「どぁっ、だだ誰ですかっ!?こ、ここ私有地なんですけどぉおっ!?」
ひっくり返った声で情けなくも警告を発するハルに、男は向けられた銃が見えていないのかなぜかとても偉そうに、余裕綽々な態度で口を開いた。
「私有地…―――それを証明するものは持っているのか?」
問われたハルの喉から踏み潰されたカエルの様な情けない音が鳴り、我に返ったハルは慌てて虚勢を張り直した。
「そそ、そんなの、住んでしまえばこっちのもんですっ!今すぐここから立ち去ってください!でっ…でないと撃ちますよっ!?本当にっ!!」
そのかなりな覚悟を振り絞って発したハルの言葉を男は―――ニヤリと、寧猛な獣が牙をむく様にいかにも人の悪そうな笑みを浮かべることで一蹴した。
「――…ッ!!!」
その時ハルは一瞬にして理解したーーー“この人、絶対いじめっ子だ”と。
今までの17年間いじめられ続けてきた、ハルの生粋のいじめられっ子本能が叫んでいるーーー“今すぐ逃げろ”と。
男は不意に屋根から飛び降り、慌てて飛び退ったハルが最前までいた場所に降り立った。
同じ目線になって、初めて男の全貌がはっきりと見えた。
背が高く、足も長くモデルの様にスラリとした体形をしてしている。まるで光さえ飲み込むかのような漆黒のゆるやかに波打つ背中までの髪、自分に絶対的な自信を持つ者特有の傲岸さを全身から発し、鋭い金色の瞳は逸らすこと無くハルを見据えている。
その口元に笑みを浮かべながら、黒いシャツに黒いパンツ姿にこの暑いのに黒のロングコートという全身黒づくめの男は、目を眇めてハルに言葉を放った。
「丸腰の俺を撃つのか…?俺は哀れにも腹を減らした、ただの旅人なのになあ。やっと何か恵んでくれそうな家を見つけ一縷の希望にすがってやって来た客人の脳天を、お前はブチ抜くというわけだ」
(ぬあ゛…っ!?なんって身勝手な理屈ぅっ!?だ、だいたいあのビルの高さから飛び降りてピンピンしてるんだから、“ただの”客人じゃないよね絶対っ!!)
男に向けた銃口がカタカタと震え始め、完全に相手に気圧されながらもハルは最後の抗弁をなんとか試みた。
「な゛っ…、何言ってんですかっ!?ず、ずうずうしいにも程がありますよあなたっ!ひっ人の敷地に侵入してタダ飯食おうなんて、どどっ…どーゆー神経してんですか!?」
「俺の名は“ゼフェル”だ」
「ふぁあっ!?」
苦手だ、どうしようこの人なんか嫌だ!
立て板に水の会話に切羽詰ったハルは意識を集中し、自身の周囲に潜む昆虫型パラテオラ達に命令した。
「もうこの人追い出して!皆っ!!」
言葉と同時に、草陰に隠れていた十数匹のパラテオラが姿を現した。蜂に似たもの、甲虫に似たもの―――姿形はバラバラでも侵入者を排除しようという意思は同じだった。
パラテオラ達は一斉に、ゼフェルと名乗った男に攻撃を仕掛けた。男は一瞬真剣な瞳になり「…“マリオネット”、それとも“バディ”か…」と呟きながら、右手を広げ素早く前方に掲げた。
次の瞬間―――今まさに攻撃しようとしていたパラテオラ達が、急にピタリと空中で動きを止めてしまった。
「ぇえ゛っ!?な、な…っ」
「銃を下ろせ女…―――こいつらが切り裂かれ、細切れになってもいいのか?」
「――ッ!!?…だっ…駄目ぇええええ~~っっ!!!」
ハルはすぐさま銃を手放し、地面に落ちた銃も気にせず両手をバンザイしながらいとも簡単に白旗を掲げた。
パニックに陥ったハルの目には涙が浮かび、鼻水さえ流しながら切々と訴えた。
「バっ、バラバラになんかしないでぇえっ!!何でもっ、欲しい物はあげるからあ~っ――…あ!あたしのものならだけど、スイやヨシノのは駄目だけど、でもそれ以外なら~~~…っう、うぅぇ…っぇえ゛え゛え゛っ…っう゛ぇえ゛え゛え゛え゛え゛え゛~~~~~ん゛っっっ!!!」
呆気にとられるゼフェルの目の前で、ハルは大声を上げ幼児の様に泣きじゃくった。あ゛~~いあ゛いあぃと幼児の様に身も世も無く泣き続けるハルに、対するゼフェルは対応出来ずにしばらくの間フリーズしてしまった。
やがてハッと我に返ったゼフェルは慌てて言った。
「お、おいっ!なぜこんな事でそんなに泣くっ!?…~~っいいから泣き止め、うっとおしい!ほら、お前の大切な虫どもは自由だっ!!」
ゼフェルの言葉と同時に、止まっていた時が動き出したようにパラテオラ達は自由を取り戻し、主を守ろうと泣きじゃくるハルの周囲に集まった。涙と鼻水を大量に流したグシャグシャの顔で、ハルは戻ってきたパラテオラ達を見た。
「ぅう゛~~よがっだぁ~っよがっだよ゛ぉ゛お゛~~~っ!!」
手のひらに乗ったパラテオラ達を、ハルは大切そうに包み込んだ。
「ーーふん、人間にとってメテオラなど害虫以下の存在だろう。今やこの惑星の全生物数より多いと言われている。それをたかが十数匹…」
ハルはその発言が聞き捨てならず、カッとなって叫んだ。
「たかがじゃないよっ!あたしが生み出したんだもんっ、あたしの家族だもんっ!そこいらのメテオラとなんて一緒にしないでよっ!!」
「―――…“生み出した”…?どういう意味だ女…ーーお前の能力なのか、それが」
ハルはゼフェルの反応にハッと我に返り、スイに普段からきつく言い含められている事を思い出した。
“いい?この能力の事は、むやみに他人に話したら危険だから。絶対口外しないように”
ハルの顔が瞬時に蒼褪めると、ゼフェルから思い切り目を泳がせてあらぬ方向を見ながらうそぶいた。
「え、ぇえ~?ななっ、何のことかなぁ~。…あっ、ぉおお腹すいてるんですよね、余り物しかないですけどお~…た、食べますぅ?」
不自然さMAXで言いつのるハルを、不審の目で見ながらゼフェルはしばらく思案していた。しかしその目が何か企むように眇められると、口元にシニカルな笑みが浮かんだ。
「――…まあいいだろう。“アウター”に来た甲斐はあったようだな。案内しろ、女」
「ぅう゛う~~っ!」
(絶対パシリ決定だぁ~…どど、どうしようスイ達になんて説明すれば~。れ、連絡、すぐに連絡しなきゃ…)
「どうした、さっさと行くぞ。俺は腹が減ってるんだ」
「びぁっ!?あああのぉ!ここ、ここっあたしん家なんですけどおっ!?」
連絡を取る間も無くゼフェルに襟首を掴まれて引きずられながら、ハルは半泣き状態でわめいた。
「―――うむ。まあまあだったな、余り物にしては」
まるで生まれながらのこの家の主の様に足を組み、威風堂々と椅子に鎮座しながらゼフェルは満足気にうなずいた。
一方…――まるで生まれながらの小間使いの様に台所のすみに縮こまっていたハルは、小声で恨めし気に愚痴を吐いた。
「…ブツブツ…何であたしが…余り物だけど他の家よりずっと贅沢な朝食なのに…何でほめられなきゃ…ブツブツ…」
「おい女」
「ひぁっ、ひあいっ!?」
ビクリと身を竦ませながら、ハルはゼフェルの要求にすぐ応えられるよう反射的に身構えた。さすが17年間誰彼となくパシらされ続け、身に付いた癖だ。
ゼフェルは組んだ長い足に手を置き、当然の事のように上から目線で話し始めた。
「俺は遠くから来た身でな…――この辺りの地理にはまだ不案内だ。ここの主要施設や組織の事など情報を入手したい。お前はここで育ったのだろう―――俺を案内しろ」
ゼフェルの話を聞くうちに、ハルはみるみる顔色を失いながらブンブンと大きく首を横に振った。
「やっ…嫌ですっ!!」
ゼフェルのこめかみにピキッと青筋が立ち、温度の低い笑みとなった。
「ほぉ…そうか。まあそうだな、無報酬と言うのは確かに酷だ――…“メテオロイド”ではどうだ。種類は何でもいい、30キロではどうだ」
「さっ、さんじゅっっ!?」
メテオロイド―――メテオラの体を組成する未知の物質を総称して“メテオロイド”と呼んでいる。
硬度の高さや軽さ、錬成や加工する事による未知の物質の開発などここ数十年で研究が進み、今やレアメタル並みの高騰価格で取引されている新物質で、新たな産業革命を引き起こすとまで言われている。そんな物質を30キロも――!?それだけあれば、自身の発明もさらに進むに違いなく、ハルはその魅力的な取引に一瞬目が眩みかけ――…しかしゼフェルのしてやったりな顔が目に入り、慌てて我を取り戻した。
「やややっぱ嫌ですっ!丁重にお断りさせていただきます!といかもう出てってくださいっ…!!」
ゼフェルはわざとらしくため息をつき、イスに体をあずけて腕を組んだ。
「――ーそうか…なら仕方ないな」
「…ッ!?帰ってくれるんですかっ!」
表情を輝かせ期待に胸をふくらませたハルを、ゼフェルは冷めた目で一瞥して右手の人差し指をスッと立てた。
「…実はお前の虫を、まだ一匹解放してなかったんだ。――ー…この虫の命は、一体どうなるんだろうなあ」
最後はニヤリと笑いながら、ゼフェルはシャツのポケットから人差し指の上へと現れた一匹のパラテオラを、空中でクルクル回しながらハルに見せつけた。
口をあんぐりと開け、震える指をゼフェルに突き付けながらハルは叫んだ。
「あっ…あ、あんた…―――悪魔だぁああ~~っっ!!ひ、ひどい、人の弱みに付け込んでぇえっ!う…ぅう゛う゛~~っ…」
見る見るうちに目に涙をためて歯を食いしばるハルを、ゼフェルは表情も変えずに見返して言い放った。
「報酬は渡す、お前にとっても悪い話ではないだろう。だがこれから滞在先を見つけるのも億劫だ、一つ条件を付けたい。報酬とは別に金は払う、俺をここに…」
「むりむりむりむりぃいいいいいっっ!!!」
ゼフェルの言葉を皆まで待たず、ハルは必死に拒絶した。
「だ、だってここ、あ、あたし一人の家じゃないもんっ!スイやヨシノに許可も求めないでそんな事決められないよぉっ!ってゆーかそれだけは無理ぃっ!!絶対無理ぃい―――っっ!!!」
髪をぐしゃぐしゃとかき乱し、絶叫しながら身悶えるハルをゼフェルはしばらく見つめて言った。
「なら仕方ないな、こいつは渡さん」
「うぇえっっ!?」
「今の所はな。お前がガイドとして俺を案内した時点で、こいつと後日報酬を渡す。宿の方は仕方ないが、どこか良い所を紹介しろ」
「う゛ぅう゛う゛~~…」
ハルは打ちひしがれ、そのままがくりとひざまずいてしまった。
完全に相手に良い様に手の平の上で踊らされている。最早精も魂も尽き果て抗う気持にさえならなかった。とんだ悪魔に出会ってしまった…まさかこれから先一生この男に食い物にされはしないか、ハルは自身のこれからにとてつもなく大きな不安を覚えた。
そんな状態のハルを尻目に、一方のゼフェルはテーブルに頬杖を付きながら平然として告げた。
「さて…――ではどこから案内してくれる?」
「では、案内は正午までなのか」
ハルとゼフェルの二人は家を出て、石ころ市の近くまで歩いてきていた。
夏の太陽は完全に顔を出し、暑い一日の始まりを照らし出された地上に告げている。
人々は皆仕事へ行く途中か買い出しか分からないが、それぞれの目的地に向かい急ぎ足で通り過ぎていき、街のあちこちでは会社や店舗がぽつぽつと開店し始めていた。
ハルはその華奢な体には不釣り合いな、どデカい濃いピンク色のリュックを背中で担ぎ直しながら力無く告げた。
「お昼過ぎから大事な用があるんです…。…~~っそれを済ませないと、あたしは魚のエサにされちゃうんですぅうっっ!!」
アガ―――ッ!とテンパりながら叫ぶハルを無視し、あちこちに視線を移しながらゼフェルは無関心にうなずいた。
「そうか。では午後はどうだ」
「ごっ、午後も所用ですっ!」
慌てて言うハルを横目で流し見、ゼフェルは人の悪い笑みを浮かべた。
「ほぉ…――お前の大切な虫がどうなっても…」
「うぁあああっ!ちょ、ちょっと待ってください、い今スイと連絡を~~~っ!」
「さっさとしろ」
W・PCの電話機能を使い、すぐさまハルはスイに連絡を取った。数回のコールの後スイが出た。
[ハル、何かあったの]
スイの至極落ち着いた声が、耳に付けた左耳のイヤリング型のマイクから流れた。移動中なのか、バイクの音が響いている。
「あ、あ、スイ?あのね、わわ悪いんだけど午後の狩りあ、あたし、行けそうにないんだけど…」
[は?何、まさかまた何かトラブルにでも巻き込まれたの]
「いや…あの~…」
(どどどうしよう、何て説明すれば…っ)
チラリと横目でゼフェルをうかがうと、ゼフェルは監視するような油断ない目付きでこちらを見ている。
「…っ…あああのっ、何かあんまり体調が思わしくなくっ!の、納品は行けるけど狩りまではちょっと…!」
[体調って…―――病院行かなくて大丈夫?もし悪いなら…]
「やっ、そっ、そこまでじゃなくて。お腹の具合が何かこうキュルルルル~っていまいち」
[じゃあ納品の方も辛いんじゃない?1日位伸ばしてもらっても…]
「いやややっ!そ、それは大丈夫!な何とか頑張るから、何とか必死でっ!」
[本当に大丈夫なの?]
「う、うんうんうん!だから昼にはクジラ亭に行くから絶対っ!」
[―――…分かった。直接会ってみて、行けるかどうか決めよう。じゃあ待ってるから]
「う、うん。ハンティング気を付けてね、スイ」
[ありがと。じゃあね、お腹冷やさないようにね、ハル]
「うん」
何とか通話を完了し、はあぁ~っと安堵のため息をついたハルに、ゼフェルはニヤニヤと笑うとわざとらしく聞いた。
「腹がユルいのか、大丈夫か?」
ハルはキッとなって答えた。
「う、嘘に決まってんじゃん!そそれより、午後だっていつ空くかわわ、分かんないよっ!」
「いつでも良い。お互いの連絡先を交換すればいい事だ」
「でぇえっ!!?」
「――何だ」
「…うぅっ…何でもないです…」
自身のW・PCを操作してそれをゼフェルのW・PCに近づけると、ピロリンッ♪という軽快な音と共にお互いの連絡先が交換された。
(はぁ~…初めて交換した異性の連絡先が、どうしてこんな…)
トホホと落ち込むハルを尻目に、ゼフェルは遠く見えるアタランテの兵装防御壁“アイギス”を見て話した。
「おい、あれがアタランテの兵装防壁か」
「はぇ?あ、ああはい、そうです」
「もっと近くで見たい」
「ああ…あの、これから石ころ市に行って、搬入場に行くつもりなんですけど…」
「石ころ市?」
「メテオラの部品や、それを使った武具なんかを売り買いする市場で、結構ここらへんじゃあ有名だから…」
ゼフェルはあごに手を当てしばらく沈思した。
「――搬入場は、その部品をアタランテへ搬入する場所か?」
「ううん、石ころ市は闇市だから、それとは別のルートでの搬入ってことにはなるけど…でも結構アタランテにも流れてるみたいだから…まあ、そうとも言えますか…ねぇ?」
「裏ルートか」
「うん。…石ころ市を見て、搬入場で、その後あの壁を見ようと思ったんだけど…」
「―――分かった。行くぞ」
「あぁ!ま、待ってぇえ~~っ」
先にスタスタと行ってしまうゼフェルを、ハルは慌てて追い掛けた。