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ASTROFUSION  作者: 赤嶺 龍
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第二話


 《Side-ヨシノ》


 ヨシノは隠していた赤い愛機――ーマウンテンバイクを放棄された店舗から取り出し、通りまで押していった。

 メットを装着して自転車にまたがりライトを点け、人気の無い街並みを悪路を避けつつ走り抜けた。目の前のビルの一部だった、コンクリの小山に勢いをつけて乗り上げ、それを何回か繰り返し頂上へ上り、進行方向に続くガレキの山を下っていった。

 スイは自分の手足を使って進むほうが良いと言うけれど、慣れてしまえば自転車の方が余程小回りが利く。このスピード感、自分の手足のように感じる機体との一体感、スイやハルも自転車に乗ればいいのに、とヨシノはバイクを駆るたび残念に思う。

 ヨシノは道無き道を慣れた動作で走り抜け、巨大な壁――――アイギスを左手に臨みながら、生活感が溢れてきた街路を進んだ。

 車やバイクが増えてきて、最前までの様に飛ばす事が出来なくなってきた。ヨシノは左に曲がり、車の入って来られない細い道を選んでジグザグに進んだ。

 自転車で通勤するようになり、この辺りの蜘蛛の巣の様に入り組んだ路地も今は迷わず進めるようになった。

 石ころ市を横目に過ぎ何分か走ると、段々人が増えてきた。人々は皆籠やトラックや荷馬車に商品を積み、今朝の市場に売りに出す物を運んでいる。ヨシノは料理人の顔になり、籠の中の食材の新鮮さや種類につい目がいってしまう。

 ヨシノが料理人として働く“クジラ亭”は、市場通りの奥まった場所に店を構える昔ながらの洋食屋だった。“良い食材をより多くより安く”というオーナーシェフの元、味の良さと量の多さが評判の人気店だ。朝食時になると、一仕事終えた市場の人々でいつも大盛況となった。

 昨夜オーナーから提案された、今日のメニューの食材をオーナー自身が市場で吟味し買い付け、トラック一杯のそれを店に運び込まなければならなかった。

 ヨシノは行き交う人々の持つ旬の食材をリサーチしながら市場通りを横切り、入り組んだ裏道へ進んだ。

 小さな飲食店や居酒屋が並ぶ通りを過ぎ、勝手知ったる様子で道を進む。同じように開店前の準備を始めた同業者のキッチンから、何かを炒める音と共に、肉の焼ける香ばしい匂いが路地まで漂ってきた。


 ヨシノが顔を上げると、車が一台通れるほどの狭いアスファルトで舗装された道の先に自らの勤める店―――クジラ亭がその姿を現した。


 周囲にビルやアパートがいくらかある中、そのほとんど平屋の様なレンガ造りの2階建ての家屋は浮いて見えた。メインストリートから外れたこの場所はいまだに廃墟もあり、壊れていなくても相当古い建物が辺りを占めている。その中にあってクジラ亭は、新築の建物として異彩を放っていた。

 赤レンガを外壁に使用し、深い緑の屋根に飴色の木の枠の窓などレトロな雰囲気を醸し出す建物は、ボロ家同然の家屋で食堂を営んでいたオーナーの長年の夢だったらしい。道路沿いの店の壁際には、金属製のバケツやプランターに植えられた植物がいくつも並び、その間にはレトロな錆びた自転車や看板などのアンティークが置かれ、良いアクセントとなって飾り付けられていた。

 店内は明かりが灯り、オーナーの帰りを待つ仲間がすでに働いているようだ。ヨシノは自転車で、店舗脇にある従業員用の道に入り奥へと進んだ。

 そこには古いバンがこちらにフロントを見せた状態で止めてあり、大柄の男がちょうど荷物を持って運んで行こうとしているところだった。

 「ダイゴさん、おはようございます」

 声を掛けられた男―――オーナーシェフのハギモリ・ダイゴはヨシノに気付き、いかつい顔を緩ませた。

 「おう、今日は良い豚肉が入ったぞ。アローズ島産の新鮮な肉だ、これで昼にポークソテーでも出すか!」

 「アローズ島産ですか!?脂が甘いんですよねぇ。すぐ手伝いますね、オーナー」

 身の丈180センチ以上はある、むっちりとした筋肉質の体格は50代とは思えないほどたくましく、重そうな箱を3つも重ねて持ったオーナーは裏口から店内へ消えた。

 店舗の裏に当たる場所は、倉庫や従業員用のトイレがあり、ヨシノは自転車を裏庭の一番奥―――倉庫の脇へ止め、オーナーの許可を得て倉庫の壁に自作した頑丈な取っ手に、愛車を繋いでロックした。

 メットを外しながら、ヨシノは裏口から店の裏方へ入った。

 「おはようございます、イシヅさん、チカコさん」

 厨房に顔を出したヨシノに、30代後半の男と40代と思われる女性が振り返りそれぞれ笑顔で挨拶を返した。

 物静かな雰囲気の男―――イシズ・リンペイは、運ばれてきた豚肉の塊をさっそく処理し始め、オーナーの奥さんでもあるハギモリ・チカコは朝食用のパンを焼き始めていた。

 ヨシノは厨房を出て、2階の階段を上った。

 その先は右側に部屋が二部屋あり、ヨシノは手前の部屋を開け中で素早く服を着替えた。白いコックスーツを着ると髪を一つにまとめ、クジラ亭のロゴが入った黒い野球帽をかぶって一階へ降りた。

 外に出てバンをのぞくと、そこには卵や野菜などが所狭しと並んでいた。

 ヨシノはずっしりと重いその箱を持ち上げ、何度も往復しながらそれらの食材を倉庫や厨房へ運び入れた。

 「よし、じゃあヨシノは野菜の下ごしらえを始めてくれ。そのあとポトフの世話に、ホットサンドの具の用意を頼む」

 「わかりました」

 厨房は20畳ほどの大きさで、店内のカウンターと接している。

 ステンレス製のキッチン用品に囲まれながら、ヨシノはまず幾つかの鍋でゆで卵やその他の食材の為のお湯を沸かし、中央の大きな調理台で山盛りになっている野菜をさっそく切り始めた。

 ここクジラ亭で働き始めて3年ーーー。一通りの事が何とかこなせる程度になってきて、やっと少し余裕らしきものも生まれていた。

 それまではハンターとして働きながら、合間に飲食店で働くという二重生活だったので、本格的な料理の仕事に就く事が出来るとは自分でも正直思ってなかった。

 それまでに転々としてきた場所でも、ヨシノは必ず飲食店で働いてきた。

 昔から3人の間で料理担当は主にヨシノの役割で、ヨシノ自身も料理を作ることは苦ではなく、W・PCウェアラブル・ピーシーのクッキングサイトや古本などのレシピから、様々な料理を幼い頃から日常的に作っていた。

 だから自然と、料理人としていつかはやっていきたいと思い始めたのも無理は無かった。

 しかしどこへ行ってもやがてヨシノ達の“能力”のせいで面倒事がおこり、一つの場所に長く留まれない流浪の生活が長く続いた。なので同じ店に腰を据えながら、料理人として長期間学んでいくという事を望んでいても、周囲の状況がそれを許さなかった。

 だから今ーーーこんなに良い店のスタッフとして働ける幸運に、ヨシノは天に感謝してもしきれないほどの幸せを感じていた。

 ヨシノは沸いた湯に卵を入れてタイマーをセットし、切り終えた野菜を入れた巨大なザルを持ち、コンロで弱火にかけられているポトフの鍋へ切った野菜を継ぎ足した。鍋をかきまわしながら火力を調節し終え、ヨシノはホットサンドの具のポテトサラダ作りに移った。

 厨房ではパンの香ばしい匂いが漂い、チカコさんがオーブンを開けてこんがり焼き上がったパンを次々と取り出していた。

 ヨシノは切り終えていたポテトサラダの材料を茹で始め、その合間にみじん切りにした玉ねぎを軽く炒めた。てきぱきと手を動かしながら、やはりヨシノの心はどうしても―――今日会う予定の“ロギア”へと向かった。



 ロギアと初めて出会ったのは約5か月前、スイと二人でG・O・Cの部隊員とチームを組み、アタランテから十数キロ離れたインフェルノ地帯で、中型のメテオラ三体を狩っていた時だった。

 二体を仕留め終え最後の一体を追っていると、曇り空から雪がちらつき始めていた。

 チームの皆で残りの一体を囲み、スイの“ハッキング”の能力で足止めしている間に、ヨシノが自身の愛器であるワンドーーーハルによって生み出された“桜華オウカ”で攻撃しようとした、その時。


 『ヴォオオオオオオオ――――ッッッ!!!』


 地響きとともに突然、見上げるほど巨大な“大型のメテオラ”が出現した。大型はチームの人間めがけて突進し、中型もろともいきなり全員を蹴散らし始めた。

 スイが大型に対して能力を使用し足止めしようとした、が大型は邪魔な何かを振り払うな仕草で頭を振ってスイの能力を断ち切り、不意に攻撃目標をスイへと定めた。

 「ッ!!スイっ!!」

 大型の攻撃をかわすのが精一杯なスイはそれでも、他のチームの人間が巻き込まれないようにヨシノ達から距離を取り、どんどん一人で離れていく。

 ヨシノは他の人が制止するのも聞かず、スイを追った。

 近くにあった廃墟のビルの中に入って屋上に出て、屋上から辛うじて飛び移れる距離の隣のビルへと次々と跳躍しながら、戦い続けているスイの元へ急いだ。

 そしてスイと大型の姿が見える屋上で立ち止まると、桜華に対し音声認証の言葉を発した。

 「桜華モードチェンジ…―――“スナイパーモード”へ!!」

 するとワンドは赤紫の光を放ちながら形態を変化させ、狙撃用の“レーザーライフル”へと形を変えた。

 ヨシノはライフルを構え、スコープで大型の“眼”を狙った。ヨシノのW・PCと連動した桜華のデジタル表示の照準が自動的にセットされ、メテオラの眼を狙い続ける照準の準備が整った瞬間、スコープの中心点が緑から赤色に変化したと同時にヨシノは引き金を引いた。


 ――ーッヴィイン゛ン゛ン゛ッッッ!!!


 銃身から銃口へ光が走るとともに赤紫のレーザー弾が発射され、一条の閃光と化して正確に大型の“眼”にヒットした。

 『ゴォオア゛ア゛ア゛アッッッ!!!』

 大型は目をかばって悶え苦しみ、スイがその隙を突いて逃げ出した。ヨシノもすぐに屋上から屋内へ入り、スイからの連絡を待った。するとすぐにスイからの通話を示すW・PCのサインが点滅し、ヨシノはモニターをタップしスイに話し掛けた。

 「スイっ、大丈夫なの!?」

 荒い息遣いと共に、スイの声がイヤーマイクから聞こえた。

 [なんとか。ヨシノ、ありがとう助かった]

 「ええ、GPSでお互いの位置を確認しましょう。すぐに合流するから」

 [わかった。その後、迂回しながら元の場所に戻ろう。じゃ、また後でね]

 「うん。気を付けてね、スイ」

 通話を追えたヨシノはビルの入口で大型の気配を探り、W・PCにスイの位置情報を映した。大体の位置を掴んでヨシノはスイがいる方向へ走り出した。こまめにビルの陰に隠れつつ、大型やそれ以外のメテオラにも注意を払いながらヨシノは慎重に進んだ。スイのGPSのマークも、こちらに向かって段々近づいて来ている。

 雪は風を伴いながら強くなり始め、段々視界が利かなくなってきた。ヨシノはますます暗くなってきた曇天を見上げた。

 (――…あと2時間ほどで日が暮れるわ、そうなる前に集合場所に戻らないと…)

 ヨシノがビルの陰からスイの元へ走り出そうとした時、聞こえた音にヨシノは足を止めた。

 「―――…?、何…口笛…?」

 風に紛れて微かに聞こえるのは、まぎれもなく何かの曲を口ずさんでいるらしい人間の“口笛”だった。

それは風の中でも澄んだ音を響かせながら、途切れ途切れにヨシノの耳に届いていた。

 「―――…嘘…。こんな所に他の人間がいるなんて―ー…」

 (…警告しないと―――大型が近くにいるって…!!)

 ヨシノがそう思い、ビルの陰から路地を振り返ったその視線の先に―――場違いなほど鮮やかな“青”が見えた。

 鮮やかな青色の“傘”を持ち、まるで街路でも散歩しているようなごく自然な足取りで、一人の男が口笛を吹きつつ破壊された道路を時々軽いステップで避けながら、ヨシノが隠れているビルの方へと近づいて来ていた。男の顔は傘に隠れて見えず、何の危機感も抱いていない様子のまま実にのんびりと歩き続けている。

 男が数メートルの位置に近づいた時、ヨシノは思い切って男に声を掛けた。

 「…――あ、あの…っ」

 声を潜ませながら掛けたヨシノの声に、男が傘をさしたままピタリと足を止めた。そして傘を持ち上げた男は正確にヨシノへ顔を向け、二人の視線がぶつかり合った。


 「―――…っ…!!」


 男を見た瞬間に心臓がドクンッと大きく脈打ち、ヨシノは自分から掛けた言葉のその先をそのまま失ってしまった。

 一点のくすみも無い、白い陶器の様な肌―――まるで繊細さを一部も損なわずに完成された彫刻品の様に美しい目鼻立ち――――上質なシルクと見間違うほどのプラチナブロンド。

 そしてヨシノを見つめる、そのあまりにも澄み切った美しい青の瞳―――…。

 ヨシノは生まれてこの方、こんな美しい人間を見たことが無かった。あまりにも浮世離れした目の前の男のその美しさに、ヨシノは思わず自分の今置かれた状況さえも一瞬にして忘れてしまった。

 “まるで―――人間じゃないみたい”

 ヨシノがそう思った時、不意に男がヨシノを見つめながらふっ、と小さな笑みを浮かべた。

 「――…ッ!!」

 男に微笑みかけられただけでこんなに背筋がゾクリとするなんて、ヨシノは生まれて初めての経験にどうしていいか分からずに、軽くパニックに陥った。

 「こんにちは…――珍しいね、こんな所に人がいるなんて」

 そう言った男の声が、まるで静寂に包まれた湖の様に澄んだ声なことにヨシノはますます緊張した。

 「ぁ…あの…」

 ヨシノは今、自分の顔が恥ずかしい程真っ赤になっているのを自覚しながら、それがいたたまれず顔を俯けた。

 男は小首を傾げ、ヨシノの元へ歩き出した。

 (わわわっ!ど、どうしよう―――…っじゃなくって!)

 「あ、あのっ!!」

 顔を上げ、思い切って話し出そうとしたヨシノのすぐ目の前に男が立っていた。男はヨシノと目が合うと、涼しげな笑みを浮かべる。それだけでヨシノは再び真っ赤になってしまい、心臓が壊れるのではないかという程早鐘を打った。

 無意識に胸元を握りしめ、ヨシノはなんとか話し始めた。

 「あ、あの、ここにそのメテオラが―――大きい、じゃなくて大型のメテオラがいるんです。わ、私の友達も襲われてて…」

 男はきょとんとした顔をし、それから後ろを振り返りながら言った。

 「ああ…さっきの音はそれか。―――君の友達は大丈夫なの?」

 男のその問いかけにヨシノはハッとなり、自分が今の今までスイの事を完全に失念していたことに気付いた。ヨシノは急いでW・PCのホログラムを見、スイのGPS表示がすぐそばにあることを知った。

 「す、すいません、私もう行かないと―…」

 そう言い、男に別れを告げようとしたその時。

 

 ――ーッドゴォオオオオッッッ!!!


 前方のビルの廃墟が、土煙を巻き上げながら破壊され粉々になった。

 「――ッ!!」

 その土煙の中から、スイと戦闘していた大型のメテオラが姿を現した。体長30メートルほどの、恐竜に類人猿の体が合体したようなメテオラは、獲物を探すように辺りを見回すとヨシノと男の存在に気付いた。

 「…逃げてっ!!私が足止めを―…」

 傍らの男にそう言って駆け出したヨシノの腕がいきなり掴まれ、強い力で自分の腕を掴んだ男の元へ引き寄せられた。男の胸に抱きとめられる形になったヨシノの耳に、男の声が届いた。

 「大丈夫。傘持っててくれる?」

 「え…―?」

 呆気にとられるヨシノの手に傘を手渡しながら、男がメテオラに向かって歩みを進めた。

 『ゴォルルルルル…ッッ!!!』

 大型は低く唸り声を上げながら、歩み出た男を標的と見定めた。

 「ちょっ、あなた丸腰で…っ!!」

 (無茶よ…っ!)

 ヨシノが男の死を確信したその時、大型が腕を振り上げ男めがけて振り下ろした。


 ーーゴォオオオッッッ!!!


 「…ッ!!」

 ヨシノは考えるより先に、メテオラの攻撃を避けるために後方へジャンプして距離を取った。


 ッドゴォオオ゛ン゛ン゛ン゛ッッッ!!!


 衝撃波を伴った振動が地面を揺らした。

 「…っ…!!あの人は――…!?」

 辺りはもうもうと土煙が舞い上がって男の姿は見えず、ヨシノは男がメテオラの拳に潰されたのだと絶望した。

 「…ッ!?――…え…?どうして…?」

 ヨシノは目の前で起こった“異変”に目を見張った。


 大型のメテオラが拳を地面に打ち付けたまま、ピクリとも動かなくなっていた。


 まるで時を止めた様に、ある一点を見つめたまま動かないメテオラの周囲の土煙が段々と晴れていき、大きな拳の横に人影があることにヨシノは気付いた。

 「…う、そ―…」


 そこには武器を構えることも無いまま、素手で30メートル級のメテオラと相対する“男の姿”があった。


 男はにこやかに真っ直ぐその瞳をメテオラに向け、メテオラも何かに魅入られた様に男から目を逸らさない。そして不意に男は笑みを消し―――その瞳はまるで凍てついた冬の湖の様な非情さを帯びて、メテオラを射すくめた。

 『グォア゛ッ…!!』

 メテオラはビクリと一つ痙攣すると息を荒くし、その大きな体が意に添わず震え出した。男は最前までヨシノと対面していた時の爽やかな印象をかなぐり捨て、鋭いカミソリのような怜悧な笑みを浮かべ低く囁いた。

 「―――…ご苦労、“もう帰っていい”……下がれ」

 『ガ…ッ!ゴァッ―…』

 メテオラは男の気迫に押されるように後ずさると、グルリと背を向けて逃げるように走り去っていった。

 ヨシノは訳が分からないまま、ポカンと一部始終を見守っていた。

 「な…何なの―――あの人…」

 ヨシノが見つめていると男は振り返り、親しみを覚える笑顔でヨシノに向かい手を挙げた。ヨシノは引き寄せられるように、開いたままの青い傘を持って男に近づいていったーーーその時。


 「ヨシノっ!!」


 聞き慣れたその声にハッとなり、ヨシノは声のした方を振り返った。

 「―――…スイ…」

 スイはヨシノに駆け寄って、荒い息のまま安堵の表情を浮かべた。

 「良かった――ー…さっき、大型がそっちに向かったのが見えたから…」

 そしてすぐ怪訝な顔になって聞いた。

 「?…何その傘、どこかで拾ったの?」

 ヨシノは我に返って男の方を振り返り、スイもそれにつられて振り返った。

 「スイ――あの人が私を助け…」

 言いながらスイを振り返ったヨシノは、まるで全身の毛を逆立てた猫のような表情でスイが男を見ていることに気付いてギョッとした。スイは素早くヨシノの手を引き、自分の後ろにヨシノをかばい刀に手を掛けながら、緊張を孕んだ声で男に向かい口を開いた。

 「あんた…“ヒューマノイド”だろっ!!何でこんな所に―…っ!!」

 ヨシノはスイの言葉に呆気にとられながら、前方に佇む男を見た。

 「―――…ヒューマ…ノイド…?」

 (嘘…だって、どう見たって―――メテオラらしい所なんて、無いじゃない…)

 ヨシノは、スイが性質の悪い冗談を言っているとしか思えなかった。

 「スイ、何言ってるの、この人は―…」

 ヨシノが言い掛けると、それを遮りスイが鋭い声で答えた。

 「こいつは人間じゃないっ!!―――…人間なら、私の能力が反応する訳無いだろっ!!」

 ヨシノは信じられない思いで男を振り返った。男は不気味なくらい何の表情も見せないまま、静かにただヨシノのみを見つめていた。

 ヨシノはなぜこんなにも自分が混乱し落胆しているのか、その一方心の深い所で“ああ、やっぱり”と納得しているのか、千々に乱れる気持ちを整理出来なかった。

 ヨシノは幾分震える声で、いまだに無言のままの男に向かい声を掛けた。

 「―――…本当、なんですか…?あなたは…―――“メテオラ”なの…?」

 男が一瞬怖いぐらい真剣な瞳になると、次の瞬間表情を変えてにこりと爽やかに微笑んだ。

 「紹介が遅れたようだね、私は“ロギア”。――――確かに、君達が言う所の“人型ヒューマノイド”だよ」

 「――ー…ッ!!」

 ヨシノは胸に重い一撃を与えられた様なショックを受けた。スイは更に警戒感を強めながら、全身を強張らせた。

 「――ー…この子を助けてくれた事は礼を言う。…でも、私達はヒューマノイドと関わるつもりは一切ない!!――…仲間が待ってるんだ、行こう」

 スイは言いながらヨシノの手を握り、その手を引っ張って強引に歩き出した。有無を言わさぬ程強い力で引っ張られ、ヨシノは半ば引きずられる様に歩き出した。

 「ちょ、ちょっと待ってスイ!傘を―…!」

 ヨシノは顔だけをロギアと名乗った男に向けながら言い、スイに抵抗しようとした。しかしその前に、ロギアが笑みを含んだ声で答えた。

 「いいんだ。君に預けとくよ…―――また今度会った時、返してくれればいい」

 スイは一瞬立ち止まると、険しい顔でロギアを一睨みした。そして再び無言のままヨシノを強く引っ張りながら歩き出し、集合場所へ向けて足早に男から遠ざかった。

 ヨシノは後ろ髪をひかれる想いで最後にロギアを振り返った。ロギアは優しい眼差しでヨシノを見つめ、手をあげて軽く振りながら二人を見送った。

 

 無言のまま足早に歩き続けるスイに、ヨシノはたまらず声を掛けた。

 「スイ、もう彼は見えないわ。手を放して」

 言った途端、スイはヨシノの手を放すと勢い良く振り返り、強張った表情でヨシノと向かい合った。

 「―――…二度とあの男とは会わないで、ヨシノ」

 唐突に強い命令口調で言われ、ヨシノは反抗心が首をもたげ思わずカッとなって言い返した。

 「別に、あの人ともう一度会うなんて、私一言も言ってないでしょう!」

 「あいつは何か目的があって、今日ここに現れたんだ。きっと碌でもない事を企んでるに決まってる」

 「彼は―…っ…そんな人には見えなかった…。――ー私を助けてくれたわ!」

 スイは、苦りきった表情で首を振りながら言った。

 「それがあいつの“手”だろ。見た目が良いからって、簡単にほだされてどうするんだよ」

 ヨシノをまるで男に簡単にのぼせ上がるバカ女だとでもいう様にスイは言い、大きくため息を吐いた。顔を真っ赤にさせたヨシノは、痛い所を突かれて狼狽える胸を押さえ、スイを睨みながら怒りに震える声で言い放った。

 「―――最低…っ!!人の気持ちをそんな風に言うなんてっ!…スイには関係無いっ!!もうこれ以上、口出ししないで…っ!!」

 スイは一瞬気まずい表情を浮かべたが、それでも硬い声音で言葉を重ねた。

 「…私は冷静になれって言ってんだよ!あいつなんか、全然信用出来る奴じゃ無いって冷静に考えれば…」

 「もう聞きたくないって言ったでしょうっ!!そんな事は、私が自分で決める事じゃないっ!!スイにとやかく言われる筋合い無いっっ!!!」

 「“家族”だろっっ!!!」

 スイはヨシノの言葉に激昂して叫んだ。

 ヨシノはハッとし、沈黙した二人の間にお互いの荒くなった息遣いだけが響いた。スイは自分を鎮めるように一つ大きく息を吐くと、ヨシノを真っ直ぐ見つめ口を開いた。

 「頼むから…ヒューマノイドなんかと関わり合ったら、今までの平穏な暮らしが…――ってヨシノ!」

 ヨシノは、スイが話している途中で業と無視し、勝手に集合場所を目指して歩き出した。

 「ヨシノ…っ!!」

 スイが呼び掛けても、ヨシノは背中でそれを拒絶し振り返らなかった。



 《Side―ヨシノ》


 ヨシノは茹で上がったジャガイモを潰しながら、朝食の時にロギアの話題が持ち上がり、スイとぎくしゃくとした雰囲気になった事を思い出し小さくため息を吐いた。

 あれから表面的には普段通りにスイとは過ごしているが、ロギアとのことはまるで腫れ物に触れる様に、お互い慎重に話題にするのを避けている。

 スイがロギアを危険視し、毛嫌いしている事が間違ってはいないことは頭では理解出来た。ロギアがヨシノの能力を目当てで近づいてきたのではないかとーーーヨシノ自身もうっすらと疑っている。

 でもどんなに頭で分かっていても、それ以上にそれを認めたくない自分がいた。

 ロギアの優しい瞳、人間と何一つ変わらない知性。確かに時々冷たく感じてそれが不安になることはあるけれど、でも例え利用されているとしてもヨシノの方からロギアと離れる事なんて、考えるだけで気がおかしくなりそうな程に、ヨシノはロギアへの気持ちを押さえられなくなっていた。

 ちょうど触感が残る程度に潰したジャガイモを、その前に細かく切ったゆで卵や玉ねぎや野菜と一緒にし、調味料やはちみつを少々加え手早く混ぜ合わせた。全てを合わせるとかなりの分量の為、ヨシノの額にはうっすらと汗がにじみ出ていた。

 (ロギアにこんなとこ見られたら…どう思われるかな)

 ロギアとの付き合いは、ヨシノにとってどこか現実味を欠いていた。逢うのはいつもマンションの一室で、たまにどこかに出かけるぐらい。5か月も経っているのに、二人の間にはいつまでたっても“未来”が感じられなかった。

 (もしかすると…――ーロギアにとってはこんな事、遊びに過ぎないのかも知れない…)

 あまり人間的な温もりを感じさせないロギアの言動は、いつもヨシノを切なく不安な気持ちにさせた。それに5か月付き合っているのに、ヨシノはロギアの事をほとんど知らなかった。今までどんな人生を送って来たのか、何が好きで何が嫌いか、友人や家族のように親しい人はいるのかなど―――聞きたい思いは風船のように膨らんでいるのに、いざロギアを前にするとそれを聞いた時のロギアの反応が怖くて、なぜかヨシノはいつまでも聞くことが出来なかった。

 混ぜ合わせたポテトサラダを冷蔵庫の中に入れ、次の具材を作るために動き出しながら、ヨシノはロギアとの再会の記憶を思い出した。

 


 ロギアとの最初の出会いから日が経ち、ヨシノはそれから何度も自分の部屋に立てかけている青い傘を手に取り、ロギアとの印象深い出会いを思い返しては一人胸に甘い痛みを募らせていた。

 ヨシノは手にした傘を見つめた。

 (―――もう会えないのかな…というより、会わないほうが良いよね…)

 そう思ったヨシノの顔は切なく歪み、ヨシノはそっと傘の柄を自分の額に押し付けた。

 何となく安定しない心でヨシノが毎日を過ごしていたある日、クジラ亭へいつものように出勤すると、チカコが何とも言えないニヤついた表情で厨房の隅へとヨシノを手招きしていた。

 「お早うございます、チカコさん。――…何か良い事でもあったんですか?」

 ヨシノが聞くと、チカコさんはウフフと笑って答えた。

 「もう…実は旦那と二人で、結構心配してたのよぉ?ヨシノちゃんたらいい年して、男の気配がいつまでたっても全く無いんだもの~」

 「え?…あの…」

 「それがあんた…もうすっごい隠し玉持ってたのねえっ!」

 喜色満面のチカコはヨシノの腕をバシバシと叩いた。

 「ぁてっ――…て、何を言ってるんですチカコさん。私恋人なんて…」

 「あらやだっ!すっごい美形じゃないあの彼!昨日うちに来て、ヨシノちゃんにこの手紙を渡してくれませんかって、ほら」

 ヨシノはチカコの言葉を聞くうちに、どんどん胸の鼓動が早まっていった。

 チカコが差し出した手紙を見ると、薄青い便箋に綺麗な文字で“ヨシノへ”と、ただ一言書かれていた。

 ヨシノはあまりの嬉しさに口に手を当て、思わず涙が出そうになるのをこらえた。その様を見ていたチカコは、まるでひな鳥を見守る親鳥の様な生温い表情になりながら鷹揚に言った。

 「少し遅れてもいいから、二階でゆっくり読んできなさい」

 ヨシノは紅潮した顔でチカコを見返し「ありがとうございます、チカコさん!」と言うなり、急いで2階の更衣室へ上がった。

 中に入り便箋の裏を見て、右隅に“ロギア”と書かれてあるのを見つけるとヨシノの心音はさらに高まった。

 震える手で手紙を取り出し、一通だけのその手紙を開いた。


 “ヨシノへ

 あれからしばらくたったけど、また危険な目に遭ってないかい?私は、君が危険な目に遭ってはいないかといつも心配してる。

 実は、しばらく君の住むこの街に滞在する事が決まったんだ。だいたい一年くらい、この街に住みながら仕事をすることになった。

 どうかな…もう一度、私は君に逢いたいと願っている。それに傘も貸したままだから、そろそろ返してくれないと外出の時に困るしね。

 私はアスタードホテルに滞在してるから、いつでも訪ねて欲しい。フロントに、私の名前と君の名を出せば通してくれるはずだ。

 君を待っている    ロギア”


 「“君を…待っている”…―ー」

 心臓が、うるさいくらいに高鳴っていた。あまりの嬉しさに目頭が熱くなりながら、ヨシノは手紙の文字を指でなぞって微笑んだ。

 「―――…私も…あなたを待ってたのよ。ロギア…」

 ヨシノの心は、ロギアともう一度会う事を既に決心していた。

 「――…スイには…言わないほうが良いよね」

 まるでスイを裏切っている様で、ヨシノの心は後ろ暗い罪悪感でズキリと痛んだ。でもそれでも、もう二度とロギアと逢わないなんてーー…それだけはどんなことがあっても、たとえスイやハルであったとしても邪魔されたくはないという強い想いが、ヨシノの胸の内にすでに深く根を張っていた。

 

 手紙を受け取ってから数日、何をしていてもロギアと逢う事ばかりが頭をよぎる日々が過ぎ、やっと休日の日になった。

 ヨシノは緊張しながら、自分の部屋で身支度を整えていた。

 何しろロギアが指定したアスタードホテルは、アタランテから商談に来た要人や、セレブの観光客などが利用するこの街一番の高級ホテルだった。


 ヨシノが手紙を受け取って初めにしたことは、自身の部屋のクローゼットを開け、ホテルにふさわしい服を自分が持っているか点検する事で―――ー答えは“NO”だった。

 この数年間、自分はほとんどおしゃれなどしてこなかった。毎日狩りとクジラ亭の仕事で手一杯で、休日は泥のように眠るか家でまったりと過ごすのが常だった。

 「―――…まずいわ」

 自分が女であるという事さえ忘れかけた日々を送っていたことが痛感させられた。普段から化粧などしないし、きらびやかな服なんて一着も無い。

 まさか高級ホテルに、狩りで着るAR・M・SUITアームスーツなど着ていくわけにもいかないし…。

 「仕事帰りに、お店に買いに行くしかないわね…」

 (――…こういう時母さんがいてくれたら、きっと“サクラ”と三人で話しながら、楽しく洋服とか選んでたかも…)

 思い出に残る母は、子供の目から見ても美人でおしゃれだった。あの頃子供だったヨシノは、母さんの様な素敵な女性にいつか自分もなりたいと、無邪気に憧れていた。

 「―――…母さんならこんな時、どんな服を選んだのかな」

 ヨシノは自分を姿見に映しながら、ぽつりと呟いた。


 毎週水曜日は、ランチタイムが終わって3時を過ぎるとクジラ亭の仕事は終わる。

 ヨシノはもしかしたら自分の店を開くためや、将来の不安に備えるためにコツコツ貯めてきたお金を崩し、緊張しながら普段なら絶対入らないような高級ブティック店へ足を踏み入れた。

 結局、スイやハルには何も言わずにここまで来てしまった。何でも相談し合いながら今までやって来た自分達にとって、こんな事は多分一度も無かったはず。後ろ暗い思いを振り切るように、ヨシノは華やかな店内を奥へ進んだ。

 柔らかな照明に照らされた、淡いピンクベージュで統一された店内は落ち着いた飴色の木材がふんだんに使われ、クラシカルで上品な雰囲気を醸し出している。

 ヨシノは天井から吊るされたおしゃれなシャンデリアに気後れが増し、早く選んで帰りたいと気ばかりが焦った。

 「えっと、まずはワンピースかな…」

 マヌカン達の視線を感じながら、ヨシノは色とりどりのワンピースの吊るされたラックの前に行き、試しに手近なものを取り出してみた。

 白いシルクのような手触りの、シンプルなワンピースだった。だがいかんせん胸元が大きく開き過ぎ、これはほぼ初対面の人に会う時のものじゃない。他のワンピースも見てみた。黒や灰色は無し、フェミニンすぎるパステル色もどうかなぁ…などとヨシノはあれこれ手に取っては思い悩んだ。

 「何かお探しですか?」

 その時にこやかな笑顔で、30代ぐらいと思われる女性店員が声を掛けてきた。

 「あ…あの、その、初めて会うような人に、アスタードホテルに、会いに行くんですけど…」

 「まあ、アスタードホテルですか?―――…そうですね、それなら…」

 マヌカンはラックを探し、一着の紫のツイードワンピースを選び出すとヨシノにそれを差し出した。

 「わぁ…」

 それはレトロなデザインの、ひざ丈のワンピースだった。深い紫色の細かい織りのツイード素材で、袖は7分丈で、胸に銀に白い縁取りダブルのボタンが付いている。

 上品でレトロだが決して古臭くなく、ヨシノは一目見てそのワンピースが気に入った。

 「これにはベルトが付いているんですよ。ハイウェストに、このキャメル色のベルトを締めるんです。ベルトは細いので、ウェストを細く見せてくれますよ」

 マヌカンがワンピースにベルトを当てて見せてくれた。

 「いいですねぇ、ぐっと若々しくなりますね。…あの、これに合うコートや靴も見繕ってくれませんか?」

 感じの好い店員はにっこりと笑って肯き「では…コートはこちらに…―」と言いながら、ヨシノを案内した。


 家に帰って部屋に素早く入り、ヨシノは早速買ってきたワンピースを着た。姿見の前に立ったヨシノはクルリと一回りしてみた。

 鏡に映る自分の顔は照れくさげで、頬は上気している。

 「―――…素敵…。着心地もすごく良い、やっぱり高いだけあるなぁ…」

 ヨシノはスカートのすそを持ってヒラヒラさせながら、顔が満足気に緩むのを押さえられなかった。

 (ふふっ、何だかこうして見ると、私も良家のお嬢様じゃない?)

 そのワンピースは、まるで自分の為にしつらえた様にぴったりとヨシノに似合っていた。柔らかなシルバーのヒールに、ベルトと似た色合いのAラインのコートにバックも揃えてもらった。

 「…よし、これで大丈夫よね…。し、下着はちょっと今回間に合わなかったけど、でも、でもでもっ…―――って、何考えてるの私っ!?」

 一人で妄想を爆発させたヨシノは、熱くなった頬を両手で挟んだ。

 「…あまり期待なんてしては駄目。――…あんなに綺麗な人なんだもの、恋人の一人や二人…」

 そう考えるだけで、ヨシノの心は水に落ちた石のように重く沈んだ。

 「…でも“逢いたい”って…言ってくれた…」

 どうなるんだろう、ロギアとの出会いがあまりに非現実すぎて、これからの二人の未来が思い浮かばない。頭は知恵熱でも出したようにぼおっとして、何事もテキパキこなす自分にしては珍しいほど理性が働かなかった。

 「でも…―――私ももう一度、ロギアに会いたい…」


 そして現在水曜の午後ーーーヨシノは“完全武装”し、自分の部屋から出て玄関へと向かった


 ちょうどその時、片手にカップを持って鼻歌を歌いながらダイニングから出てきたハルがヨシノと鉢合わせた。

 「ヨっ…ヨヨヨシノぉおっ!?…っずぁあっっちゃぁああ~~~っっ!!!」

 目を丸くして叫ぶと同時に、カップの中身を手にこぼしたハルは絶叫した。

 「ハルっ!?ちょ…大丈夫っ!?」

 ハルはカップを急いで床に置き、急いで手に息をフーフーと吹きかけた。そしてヨシノを見上げて言った。

 「ヨヨヨシノ…ま、まさかその格好―――…“でーと”ってやつですかいっ!?」

 ヨシノはため息をつき、キッチンから水で濡らしたタオルを持ってきてハルに渡した。

 「あ、ありがと…」

 「――ーそう。多分、スイに聞いてるでしょう。例の、あの…」

 「あの…」

 「ほらあの…」

 「あの…?」

 ハルは頭を傾げた。

 「もうっ、ロギアよ!知らないふりなんてしないで!」

 「いやーー…知りませんけど」

 「ッ!―――…スイから聞いてないの?」

 「うん。誰“ロギア”って、G・O・Cやハンターの人じゃなくて?」

 「えっと…-―ーハンティングの時に、偶然会って…」

 ハルはそれを聞いた途端、衝撃が走った表情になった。

 「パンを食べながら走る女子が出会い頭に男子と衝突、みたいなっ!?」

 「もうっ…違うけど、まあ…――ー遠からずって感じ?」

 ハルは口をあんぐりと開け「あるんだ…そんな出会いってあるんだ…」と真剣な表情でで呟くと、改めてヨシノを見た。

 「でもヨシノ…――ーすっごく綺麗…。きっとその姿見たら、相手の人もさらに惚れちゃうね」

 ハルは、キラキラした目でヨシノを見て満面の笑みを浮かべた。

 「ハル…」

 ヨシノがその瞬間感じたのは、後ろ暗い罪悪感だった。

 (その相手が“ヒューマノイド”なんて知ったら…ーーきっとハルは…)

 「―――…うん。ありがとうハル。手は大丈夫?」

 「ん?うん、ちょっと赤くなってるけど。あっ!デートの時間でしょ!早く行ったほうが良いよ」

 「そうね。…じゃあ行ってくるね」

 「うん、楽しんできてね」


 アスタードホテルは、10年前に建てられた25階建てのホテルで、そのいかにも高級そうでクラシックな佇まいの高層ホテルを目の前にして、ヨシノは完全に自分が分不相応だと感じてしまい、緊張感にバックの取っ手をギュッと握り締めた。

 アスタードホテルが建つ場所は倉庫の広がる物流用ゲートとは別の、ほぼこの街の正面に備わったアタランテの正面ゲートから伸びるメインストリートの一角にあった。

 その通りには高級品を並べた店が軒を連ね、アタランテより手頃な価格で手に入る外国の品をなどを買いに来る“観光客”などでにぎわっていた。

 ホテルの前では、高級車でホテルに乗り付けた人々がボーイを従えてホテルの中に入っていく。

 (うわぁ…どうしよう。私完全に浮いちゃうわ…)

 ヨシノは手の中にある青い傘を見つめた。ロギアの笑顔が浮かんで、ヨシノは覚悟を決めてホテルの中へ進んだ。ドアマンに扉を開けられ入った先の光景に、ヨシノは感嘆のため息を吐いた。

 「―――ー…すごい…」

 吹き抜けになった天井を貫く様にして、巨大なシャンデリアが吊るされ、大理石の太い柱が幾つもそびえ、まるで自分は宮殿にでも来たのかと勘違いしてしまいそうな程きらびやかなその雰囲気に、ヨシノは圧倒された。

 (…同じ街にあるとは、とても思えないわね)

 豊かに生い茂る観葉植物の間を通り抜け、奥にあるカウンターへ向かった。カウンターの中で、ホテルフロントの男性がにこやかに笑ってお辞儀をしてヨシノを迎えた。

 「あの…―――ここに“ロギア”という男性が、宿泊していると思うんですが…」

 「ご宿泊のご確認でございますね。失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

 「私はヨシノです。そう伝えてもらえたら、私を部屋で待っていると…」

 「ヨシノ様でございますね。少々お待ちください」

 そう言うと男性はカウンター内のPCを操作し、やがて電話を取ると連絡し始めた。連絡が終わると、男性はヨシノに向き直り話した。

 「ロギア様とただいま連絡が取れました。ヨシノ様を、24階の2402号室にてお待ちしているとのことでございます」

 「24階の、2402号室ですね?」

 男性はうなずいた。

 「はい。よろしければコンシェルジュに案内させますか?」

 「あ、いいです。エレベーターはどこから…」

 「こちら、右手のエレベーターから24階をお選び下さい。24階に着きましたら、廊下を左へお進みいただきますと、2402号室となります」

 「わかしました、ありがとう」

 「はい。ご利用、ありがとうございました」

 ヨシノは高まる期待を胸に、エレベーターへと向かった。

 エレベーターはヨシノ一人を乗せて、軽やかに24階へと上昇し始めた。エレベーターが到着すると、そこはいかにも高級そうな内装に、つやつやの調度品がさりげなく置かれた静かな廊下が左右に広がっていた。ヨシノは左に向かい歩きだした。

 ヨシノの感覚ではかなり離れた間隔の扉の番号を確かめながら進むと、2402号室にたどり着いた。

 木目の美しい扉の前で“2402”と刻まれた金色のプレートを見つめながら、ヨシノは今更ながら躊躇し始めた。

 (どうしよう…すっごい緊張してきた…。会って…どうなるんだろう、こんな高級ホテルに泊まってるような…あんな綺麗な男性ひとと…)

 ヨシノはしばらく悩んだ後、決心し扉をノックしようとした―――その途端いきなり扉が勝手に開き、現れたロギアが爽やかにヨシノを見つめていた。

 「きゃああっ!!」

 ヨシノは思わず大声で叫んでしまい、すぐにばっと口を塞いで廊下の方をうかがった。ロギアはプッと吹き出し、大きく扉を開けて笑いながら詫びた。

 「足音がしたから待ち切れなくって。ごめん、びっくりさせて」

 ヨシノは顔を真っ赤にさせ、意味も無く傘を握りしめて硬直してしまった。

 「―――…?どうかした、ヨシノ?」

 ヨシノは何か言おうと口を開きかけた。けれど胸がいっぱいで、突然目の前で形を成した現実に頭が追いつかなかった。

 言葉が出ないまま代わりの様に出て来たのは、一筋の涙だった。

 「――――…嬉しくて…」

 そう呟いて涙を拭ったヨシノは、花もほころぶような笑みを浮かべて続けた。

 「あなたに、もう一度会えたから……声が出なかったの」

 ロギアはヨシノのその笑顔を見て、僅かに目を見張った。

 「――…そう。―――これからは毎日だって会えるよ。さあ中へどうぞ」

 そう言ってロギアは不意にヨシノの手を取り、部屋の中へと引き入れた。

 (あ…)

 ヨシノは握られたロギアの手が自分の熱い手と比べあまりに冷たい事に気が付き、ロギアが人間ではなく、ヒューマノイドだという事を一瞬気付かされた気がした。

 部屋は入ってすぐに左右に分かれ、ロギアは右側の廊下へヨシノを誘った。

 


 《Side-ヨシノ③》

 

 部屋に入ってすぐに廊下は左右に分かれ、ロギアは右側の廊下へヨシノを誘った。

 その先は広いリビングとなっていて、高級そうな調度品のさらに奥に大きな一枚窓が正面にあり、眼下に街並みを映していた。

 「す…凄いわね…。私、こんな豪華な所初めて来たから緊張しちゃって…」

 いまだに手をつないだまま、ロギアはヨシノを振り返った。

 「そう?そんなに気後れすることは無いよ。ヨシノはとても綺麗だ、どこも遜色はない」

 ロギアはそう言って、そのままヨシノを真っ直ぐ見つめた。ヨシノはそのあまりに美しい顔に見つめられ、思わず目を逸らしてしまった。

 今日のロギアは、深い青のざっくりとした織りのタートルネックセーターに、少しゆったりした灰青色のグレンチェックのパンツに濃茶のローファーというリラックスした雰囲気の服装で、ただそれだけなのに、まるで本人のために設えらようにその全てが完璧にロギアに合っていて、本人の少し冷たく見える美貌をさらに引き立たせていた。

 「あ、ありがとう。―――な、なんか熱くなっちゃった。コート脱いでもいい?」

 「もちろん、ハンガーに掛けとくよ」

 その言葉をきっかけに、二人の手が離れた。

 「あっ、その前に、これ…」

 ヨシノはロギアとの出会いの契機になった、青い傘を差し出した。

 「あの時は…―――助けてくれてありがとう、ロギア」

 微笑みながら言うヨシノに、ロギアは傘を受け取りながら不意にヨシノを見つめた。

 「君に…何事もなくて良かった」

 ヨシノはどぎまぎして何も返せず、自分の恋愛偏差値の低さを内心呪った。

 「…う、うん。―――あ!あの時…もう一人の子、スイって言うんだけど、あの子が失礼な態度をとってごめんなさい。あの子ったら、頑固者で…」

 「いいんだ、私は気にしてない。―――…大切な“家族”なんだね。何だかヨシノの口ぶりを聞くと、まるでヨシノがその子のお姉さんみたいだ」

 「ッ!ふふっ…そうね。私達――…小さな頃からいつも一緒にいたから」

 ヨシノがコートを脱ぐとロギアが受け取り、部屋の入り口の横にあるコート掛けにそのコートを掛けた。ヨシノは窓に近づいて外の景色を眺めた。胸はいまだにドキドキして頬も熱かった。

 (何だか信じられない…自分がこんな所にいて、しかも男の人と…)

 「ヨシノ、飲み物は紅茶でいい?」

 「ーーッ!え、ええ、ありがとう」

 ロギアはリビングの右奥に備わったキッチンの方に消え、ヨシノは拍子抜けした気分で、ロギアの消えた入口をしばらく見つめた。

 (…ヒューマノイドの人が、紅茶を…)

 ヨシノは窓を振り返った。

 そこにはまだ“大侵攻”の爪痕が遠くの街並みに残された、猥雑とした風景が映し出されていた。

 (彼が―――これを引き起こした存在と同じなんて…。メテオラが進化していく過程で、知性も進化したというなら…大侵攻が収まった事と何か関係があるのかしら…)

 ロギアの、人間離れした美しい顔立ちをふと思い起こした。

 (メテオラの進化が、人間に追い付いたというなら――…その先は…?―ー…人間以上の存在になるとでも…)

 物思いに沈んでいたその時、人の気配がして振り向くと、ロギアがテーブルにフルーツやお菓子を置いていた。ヨシノが見ているのに気付くとロギアは笑顔を向けた。

 「もうすぐ出来るから」

 「ええ」

 ロギアがキッチンに戻り、ヨシノはお茶請けが用意されたテーブルの前のソファに腰掛けた。そわそわしながらヨシノが待っていると、トレイに紅茶や砂糖やミルクの入れ物を乗せたロギアが、それをテーブルの上に置いた。

 ポットから紅茶を、薄い水色に白い花模様の入ったカップに注いだ。それをロギアは砂糖やミルクと一緒にヨシノの前に置き、自分の分のカップを持つとヨシノの右隣に足を組んで座って一口飲んだ。

 その所作の全てが自然で美しく、ヨシノは呆けた様にそれを見つめていた。

 「ヨシノ、飲まないの?冷めてしまうよ」

 ふいにロギアがヨシノを見て、小首を傾げながら言った。

 「あっ、うん、いただきます」

 ヨシノはロギアに見惚れていた自分を恥ずかしく感じながら、紅茶に一つ砂糖を入れてかき混ぜた。紅茶の爽やかな香りを味わって、幾分落ち着きを取り戻しながらヨシノは紅茶を味わった。

 「美味しい…外が寒かったから、体が温まるわ」

 「良かった、お茶請けも食べて。私はよく知らないんだけど、美味しいらしい」

 ロギアはカットしたフルーツを盛り合わせたものから、イチゴを取って口に含んだ。

 「さすが高級ホテル、高級な味がする気がする」

 ロギアの少しおどけた口調に、ヨシノはくすりと笑みを漏らした。

 「今は…――リンゴもおいしいわね。タルトにしたり、料理に使ったり」

 「ヨシノはハンターだけじゃなくて、料理人としても働いているんだね。…実はヨシノの事は、知り合いの伝手で調べてもらったんだ。勝手に調べるなんてことをして、悪いとは思ったんだけど…」

 「――…ううん、あの時は連絡も交わさなかったし…また会えるか、私も不安だったの。だから気にしないで」

 「ヨシノは将来、料理人になりたいの?」

 「う~ん、そうね…。そう出来ればなって思ってるけど…、先の事はまだ分からないから…」

 「でも店に勤めて、今は修行中なんだろう?続けていけば、きっと得るものも多いよ―――そうだ、クジラ亭のおかみさんには、ずいぶん突っ込んだ質問を受けたな」

 ヨシノはその光景が容易に目に浮かび、赤くなって弁解した。

 「ッ!!ご、ごめんなさい!あの、私を心配してくれてるの。チカコさんたら、良い人なんだけどおせっかいな所があって…」

 ロギアは微笑みながらうなずいた。

 「うん、分かってるよ、嫌な感じなんて全然しなかった。温かい人なんだってすぐ分かった」

 ヨシノは胸をなでおろし、お茶請けのクッキーをつまんだ。濃いバターの風味が口の中に広がった。

 「ヨシノは…――ハンターとしても、この街で働いているの?」

 「あ、ええ。一応フリーでね。―――…ロギアは?ヒューマノイドの人に“働いてるの?”なんて、おかしいかもしれないけど…」

 ロギアは朗らかに笑って答えた。

 「物を壊す事が仕事――って訳じゃない。そうだな…“実業家”と言っておこうか、会社もいくつか持っているし」

 「そう、なんだ…。本当に、人間の社会に溶け込んでるのね…」

 「―――ーヒューマノイドのくせに?」

 ヨシノは慌てて手を振った。

 「ごめんなさい!違うの。…私達は、メテオラを“文明を破壊した敵”や“資源物質の材料”としか見てこなかったから―――…こうして話をして、親しくするなんて現実味が無くて。あなたを貶めるつもりなんて無いの、それだけは信じて」

 ロギアはふっと笑みを漏らした。

 「……君は優しい人間だね。あのスイという子の反応の方が、まともなんだと私は思う。私と人間は外見は同じでも、中身はきっとまるで違う」

 「―――…どう…違うの?」

 ヨシノは冷静だが、どこか“自分とヨシノ達は違う”と線引きをした様なロギアの言葉に少し傷付いた。見つめるロギアの青い瞳は、人知の及ばない深さを秘めてヨシノを見返していた。

 「そうだな。―――…例えば、我々には“集合意識”が存在する、“アミターバ”と人間が呼んでいるものだ。それは人間にとってのインターネットの様なもので、互いに意識を通わせたり、そこに蓄積された情報を共有する事が可能だ。それに、私達は基本有性生殖では無い。細胞分裂―――クローンを生み出す事で増殖してきた種族だ」

 「じゃ、じゃああなたは――…誰から生まれたの?」

 「人間に近い種のメテオラ―――かな」

 「――――…」

 (そんな種まで存在するの…)

 「―――…本当に、違うのね」

 ヨシノは俯きながら、呟くように言った。

 「―――怖くなった?」

 ロギアのその言葉に、ヨシノはパッと顔を上げてロギアを見た。どこか淋しげに微笑みながら、ロギアはヨシノを見つめていた。

 「―――…いいえ。怖くない」

 ヨシノはロギアを真摯な目で見返しながら、きっぱりと言い切った。

 二人はしばしの間、見つめ合った。

 「――…今日は、君にまた再会出来て嬉しかった…」

 そう言いながらロギアは右手を差し伸べ、自分を見つめるヨシノの頬を撫でた。

 ヨシノはその感触に陶酔したように体が痺れ、ただ美しい、ロギアの青い瞳を潤んだ瞳で見つめ―――その右手に、自分の左手を添えてそっと頬ずりをした。ロギアの右手は相変わらず冷たく、ヨシノはその右手が自分の体温で少しでも温まればいいと願った。

 ロギアが体を寄せ、ヨシノの両頬を包み微笑んだ。

 「―――…君は…本当に美しい」

 あなたこそ、と言おうとしたヨシノの言葉は、ロギアのくちづけによって塞がれた。

 冷たい唇が、ヨシノの熱い唇の温度と溶け合っていく。ヨシノは微かに震えながら、ロギアが与える愛撫にぎこちなく応えた。

 初めはついばむようなキスが次第に大胆になりながら、ロギアの左手が首筋を優しく撫でるとヨシノの息が乱れた。ロギアの舌がヨシノの上唇をなぞっていき、優しくつまむように歯で噛まれ、下唇を濡らすようにロギアの舌と唇になぶられる。

 「は…」

 ヨシノが思わず喘ぎ声を漏らした時、柔らかなロギアの舌がヨシノの中に入ってきた。

 「ん…っ」

 動揺したヨシノが少し頭を離そうとしたが、ロギアはヨシノの後ろ髪に手を入れて首筋を愛撫しながら、それを許さなかった。ロギアの舌が誘う様にヨシノの舌の表面を撫でていく。ヨシノは抗えずにやがておずおずとそれに応えた。二人の舌が次第に絡み合い、微かに聞こえる濡れる音がヨシノの体温を更に熱くさせていく。ロギアが不意にヨシノの舌を強めに吸ったり、歯列をなぞったりしながら息を挟んで深いキスを繰り返した。

 やがてロギアが顔を放すと、濡れた唇で息を乱すヨシノと間近で見つめ合い、ロギアはヨシノの髪や首筋を愛撫しながら、まぶたや鼻先に軽く触れる様なキスをした。

 「――…あ…っ――…ロギア」

 「…ん?」

 愛撫をやめ、優しく自分を見つめるロギアにヨシノは愛おしい感情が溢れ出し、その体に抱きついて強く抱きしめた。ロギアもそれに応え、背中に手をまわして強くヨシノを抱き返した。

 抱きしめたロギアの体は、服越しでもわかるほど固く引き締まっていて、ヨシノは思わずその裸体を想像してしまった自分が自分で恥ずかしくなった。背中を撫でるロギアの手の感触や髪にキスする唇を感じ、ヨシノの胸は甘い幸福感で満たされた。



 そうして5か月後の今―――ヨシノは毎週水曜日の午後や、週一回の休日などにロギアと会う生活が続いていた。

 アスタードホテルからロギアは出て、そこから少し離れたマンションを借りて生活を始める事となった。

 仕事は順調なようで、お互いの合う日にちが合わないことも度々あったが、ロギアはほぼ毎日メールや電話をしてくれたのであまり寂しいとは感じなかった。

 そう…――ロギアは全てにそつなくヨシノに優しくしてくれた。自分をまるで宝物のように大切に扱ってくれて、横暴な態度やヨシノを傷つける言動は絶対にしない―――ー…なのに、どうしてこんなに自分は満たされないんだろう。

 ロギアとヨシノの間には、ある一定の距離を縮めると冷たく透明な壁が立ちはだかって、ヨシノはその壁の前でいつもただ立ち尽くすことしか出来ない自分を感じた。


 ロギアは――――私のことを本当に“愛して”いるの…?


 ヨシノが二人の間の壁を感じるたびそう訊ねたい気持ちが強く湧いてきて、それを抑えるのにヨシノはいつも苦労した。

 二人を外から見れば――――きっと誰もが“理想のカップル”だと思うだろう。

 二人の間には常に穏やかで優しい空気だけが満ちている。でも…恋愛って、もっと面倒臭くてもっとドロドロしたものじゃないの?二人で涙が出るほど笑い転げたり、反対に怒鳴り合うほど喧嘩したり―――ロギアといると、何だか……自分まで行儀の良い人形になった様な、そんな冷たい違和感を感じる事がヨシノは多くなって来ていた。

 出会い始めの頃は――――こんな風に悩む事になるなんて思いもしなかった。全てが完璧に思えて、ただ優しいだけのロギアにヨシノは心の底から満足していた。


 ホットサンドの具材を調理し終えたヨシノは、ダイゴ達のアシストに回った。

 パンやバンズを切り分けて、ハンバーガー用のパテを1つずつ成形し、ソースを温め直したりと、やる事は山ほどあった。調理に使った器具を洗う頃にはあらかた準備が整い、窓の外を見ると生まれたての夏日の光が地上を照らしていた。

 「おはようございまーす」

 元気な声と共に店内スタッフの男女二人が出勤してきた。ヨシノもあいさつを返し、開店間際の慌ただしさが本格的になり出した。

 スタッフが各席を回って準備を整え、チカコが今日のメニューを黒板に書き、ダイゴがカウンターからよく通る声で号令をかけた。

 「よっし、今日も一日よろしく頼む!お客さんに満足してもらえるよう、皆頑張ってくれ!じゃあチカコ、開店だ!」

 チカコが笑みを浮かべてドアを開け、トビラに掛った“CLOSE”の札を裏返した。

 「いらっしゃい、今日も暑くなりそうねぇ」

 店の外にすでに開店を待っていた人達が何人かいて、チカコと話しながら店内に入ってきた。ヨシノの心は緊張と共にわくわくしながら、戦闘開始オーダーの合図を待った。

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