エリオット3
「馬鹿な……そんな馬鹿な……」
冷えきった空間に小さな呟きが響いた。
「僕が辺境伯夫人の子? ……父上が夫人を凌辱してできた子だって?」
がたがた震えても、誰かが暖炉に火を灯してくれることはない。祖父に殴られた傷もそのままだ。最低限の家具しかない狭い部屋に、使用人は一人も控えていなかった。
分厚い鉄扉の向こうには騎士が立っているが、エリオットのために働いてくれないことはもうわかっている。彼の役目はエリオットの監視だ。
祖母ヘンリエッタに溺愛され、甘やかされてきたエリオットの生活は一日で激変した。たかが臣下の婚約者を奪っただけで。この東の塔に叩き込まれた時には、すぐに祖母が解放させてくれると信じていた。
己がどれほど浅はかだったのか、思い知らされたのは数時間前のことだ。
『お……、お祖父様!?』
数時間前、供も連れずに現れたのはクライド王だった。来るならヘンリエッタだとばかり思っていたので驚いたエリオットだが、驚愕はすぐ期待に変わる。
王が動いたのなら、自分はすぐにでも解放されるはずだ。いくら優遇されていてもしょせんジャスティンは臣下の子。直系王族の自分が、婚約者を奪ったくらいで処罰されるはずがない。塔に入れたのは賓客や辺境伯の手前に過ぎなかったのだろう。
さっさとこんな辛気くさいところから出て、傷の手当てをさせなければ。王族の顔に痕でも残ったら大変なことだ。ああ、その前に湯浴みと着替えか。衛兵に引きずられたせいで服が汚れてしまい、ずっと気持ち悪かったのだ。あいつは鞭打ちの上で解雇させなければ。あとはお抱えのシェフに好物を作らせて……。
『エリオット。……お前を王族譜から外す。これよりお前は王族でも、我が孫でもない。アンブロシアの姓を名乗ることも許さぬ。ただの平民のエリオットだ』
『……はっ?』
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
(じょ、……冗談だろう?)
王太子の忘れ形見である自分が、この世で最も尊い血を持つ自分が王族譜から外される? 平民になる? ……ありえない。
『お、……お祖父様、このような時に冗談など仰らないで下さい。僕は今とても疲れていて……』
『祖父ではない』
クライド王の目は冷たかった。こんな目で見られたことは一度もない。
『余は国王で、お前は平民だ。無礼な口をきけば処罰する』
『え……』
お祖父様、とエリオットが何度も呼びかけるたび、クライド王の眼差しは冷たくなっていく。全身にのしかかるような圧迫感に耐えきれず、『……陛下』と呼ぶと、ようやく空気は和らいだ。
『……何故、僕が王族譜から外されなくてはならないのですか。僕はそれほどの罪を犯した覚えはありません』
『ほう。ジャスティンの婚約者と密通し、あまつさえ孕ませたことは罪ではないと申すか』
『……っ、す、すまないことをしたとは思っております。しかしキャロライン以外にも年頃の令嬢はいるはず。その令嬢に王家から持参金と領地でもつけてやれば、辺境伯も嫌とは申しますまい』
罪悪感などかけらもなかったが、クライド王から発散される怒気に耐えられず嘘をついた。
ふん、とクライド王は鼻先で嗤う。
『持参金と領地、か。それは誰が出すのだ?』
『で、ですからそれは王家から……』
『何故王家がお前ごときの尻拭いをしてやらなければならんのだ。尻拭いならもうじゅうぶんにしてやったわ。お前が生まれる前にな』
クライド王の口から深い溜め息が漏れる。老いてもなお若々しいと評判の顔に刻まれたしわが、一気に増えたように見えた。
『お前は本当にアレクシスにそっくりだ。親子して同じことばかり言う』
『父上に……?』
『墓場まで持って行くつもりだったが、もはや秘密にはできん。……エリオット。お前の母親は亡き王太子妃ではない。辺境伯夫人ディアドラだ』
祖父から聞かされたエリオットが生まれるまでの経緯は、悪夢のようだった。何度もうやめてくれと懇願しただろう。だがクライド王は決してやめてくれず、エリオットは全てを知ってしまった。
父アレクシスが辺境伯夫人ディアドラ……ジャスティンの母親を凌辱した末、生まれてきたのがエリオットだったこと。ディアドラは悲嘆のあまり自ら命を絶ってしまったこと。怒り狂った辺境伯チェスターが赤子のエリオットを殺そうとしたこと。エリオットを生かすのと引き換えに、アレクシスと母親だと思っていた王太子妃が『事故死』させられたこと。
エリオットは望まれて生まれた子ではなかった。エリオットが生まれて純粋に喜んでくれた人はいない。エリオットを生んだせいで死んだ母親は、きっと自分を恨んでいる。
叔母アビゲイルがチェスターの後妻にさせられたのもエリオットのせいだ。辺境伯家で冷遇されるのも当然だろう。アビゲイルはアレクシスの妹であり、エリオットの叔母なのだから。
祖父がジャスティンや辺境伯家を優遇し、最高の花嫁まで用意したのもエリオットのためだった。孫に対する辺境伯一族の憎悪を少しでも和らげようとしてくれたのだ。
幼い頃、ジャスティンに与えられるはずだった子馬を思い出す。無理やり我が物にしたくせに、懐かないから可愛くないと、一度乗っただけで厩舎には行かなくなってしまった。あの子馬はどうなったのだろう。
全部、エリオットのためだったのに。エリオットが全部を台無しにしてしまった。
『お前は本当にアレクシスにそっくりだ。親子して同じことばかり言う』
今なら祖父の言葉の意味がわかる。エリオットは亡き父と全く同じ過ちを犯したのだ。父の思い出などなかったのに、そっくり同じ罪を、辺境伯チェスターの息子に対して。事情を知る者は、血は争えないと総毛立っただろう。
『私はエリオット殿下の存在を許したわけではない。もしも殿下がアレクシスのような愚物に育ち、私やジャスティンに災いをもたらすなら、その時こそ命であがなわせる』
かつてチェスターはそう断言したという。
一度は許してもらった。だからアレクシスと同じ罪を犯したエリオットに、罰を与えるのはチェスターの権利だと祖父は言った。
そう、王族譜から外され、平民に堕とされただけで終わりではないのだ。いずれチェスターはエリオットを断罪する。ここにはそれまでの間、閉じ込められているに過ぎない。
きっとチェスターは怒り狂っているだろう。自分が受けたのと同じ仕打ちを息子も受けさせられたのだ。しかも妻を奪った男の息子によって。
(……殺される……)
脳裏に血まみれの骸になった自分が浮かんだ。チェスターは武勇を鳴り響かせる武人だ。恨みを晴らすべくエリオットをさんざん痛めつけた上、殺すに違いない。平民に堕ちたエリオットを助けてくれる者は、もういない。
「……嫌だ、死にたくない!」
エリオットはがたがたと震える身体を抱きしめる。
自分がどんなに罪深い命であるのかは思い知らされた。チェスターの怒りは当然だ。ジャスティンにも……悪いことを、した。反省している。謝ってもいい。
それでもエリオットは、どうしても自分が殺されなければならないほどの罪を犯したとは思えないのだ。
だって、他人の婚約者と通じるなんて、よくある……とまでは言わずとも、たまにあることだ。さすがに妊娠させてしまうのは稀かもしれないが、そうした場合は多額の賠償金で寝取られた側に溜飲を下げてもらうと聞く。
そう、要は金で解決できる問題なのだ。なのにエリオットが殺されそうなのは出自のせいだ。エリオットとて望んでこんな境遇に生まれてきたわけではないのに。
つらつら考えをめぐらせるエリオットは、忘れている。自分がわがまま放題に暮らしてこられたのはアレクシスの子として生まれ、ヘンリエッタに不憫だかわいそうだと甘やかされたおかげだということを。貴族が同じ貴族相手に支払う賠償金は、たとえ格下相手であっても家が傾くほどの金額になることを。祖父母に見放されたエリオットがその金額を捻出するのは、どうあがいても無理だということを。
……ジャスティンに吠え面をかかせるために利用したキャロラインも、その腹に宿った命のことも。
押しつぶされそうなほどの静寂は、エリオットにとって都合のいい妄想を加速させていく。
「僕は悪くない」
誰も生まれる場所は選べないのだ。選べるのなら、エリオットはアレクシスの子になど生まれてこなかった。
「僕は悪くない」
エリオットがアレクシスをそそのかし、ディアドラを襲わせたわけではない。ディアドラもディアドラだ。身ごもった経緯がどうあれ、母親なら子どもに無償の愛情をそそぐべきだろう。ディアドラが無責任に死を選ばず、アレクシスの第二妃になっていれば、エリオットの立場は安泰だった。辺境伯家ともうまくやれていたはずだ。
「僕は悪くない」
そもそも祖父母が出自について教えておいてくれれば、エリオットとてジャスティンの婚約者を寝取ろうなんて思わなかった。
ジャスティンが気に食わないのは変わらないだろうが、異父兄だと知っていたら、うわべだけでも友好を保とうとしたはずだ。ジャスティンだって、慕ってくれる異父弟をぞんざいには扱うまい。ジャスティンのきょうだいはエリオットしかいないのだから。
「……僕は、悪くない……」
己の非を認めず、他人ばかりを責める。その気性は間違いなく祖母ヘンリエッタから父アレクシスを経て、エリオットに受け継がれたものだった。クライド王が見たら頭を抱え、チェスターの判断を待たず毒杯を与えたかもしれない。
「……そうだ、ジャスティンだ」
のろのろと上げられたエリオットの顔は、かすかな希望に色づいていた。
「ジャスティンは僕の、たった一人の兄ではないか。弟にすがられれば、助けてくれるに決まっている……」
思い返せばジャスティンは、どれほどエリオットに絡まれようと怒りをあらわにしたことはなかった。子馬を奪われた時もあっさり譲ったし、キャロラインを寝取ってやったと告げた時さえ、驚きはしても怒った様子はなかった。
ジャスティンとてエリオットと自分の関係はチェスターから聞かされているはずだ。にもかかわらずあのような態度だったのは……エリオットに弟としての情を抱いているからでは?
ジャスティンに懇願されれば、チェスターもエリオットを殺すことは諦めるだろう。命が助かったなら、その後はシェリンガム公爵家でも頼ればいい。
何せキャロラインの腹にいる子は公爵の孫なのだ。孫の父親であるエリオットを、公爵もむげにはしないはず。ほとぼりが冷めた頃公爵の手引きでどこかの貴族の養子になり、公爵家を継ぐのもいいかもしれない。王位を継ぐはずだった自分が公爵止まりなのは残念だが、背に腹はかえられないというものだ。
あまりに身勝手な妄想を、危険だと忠告する者はいない。
「僕は悪くない、僕は悪くない……」
ぶつぶつとつぶやきながら、エリオットは粗末な書き物机に向かい、手紙を書き始めた。