クライド
「余は、また間違ったのか……」
『また』。自然に口を突いた言葉に苦い思いがこみ上げた。あれだけ認めたくなかったのに、心の中ではすでに認めていたのだ。
自分は、またしても子育てに失敗したのだと。
王妃ヘンリエッタとの間にもうけた息子、アレクシスは妻譲りの容姿以外突出したところのない王子だったが、問題はないと考えていた。アンブロシアも周辺諸国も政情は安定しており、北の辺境伯領を除けば紛争の気配もない。有力貴族から妃を迎え、優秀な側近に補佐させればどうにか王も務まるだろう。
唯一不安だったのはアレクシスの女癖の悪さだ。王太子妃を娶っても様々な女性と浮き名を流している。だが手を出すのは王宮の侍女や既婚の夫人など問題のない相手ばかり、いずれ王太子妃が子を産めば落ち着くでしょうとヘンリエッタは言い、クライドも妻の言い分を信じていた。
(いや、ただ放置していたのだな)
アレクシスの手付きになった侍女の中には、結婚を控え、行儀見習いに上がっていた者も多かった。アレクシスに純潔を奪われたことで破談となり、修道院に入らざるを得なくなった者。思い詰めるあまり自ら命を絶った者。異性が恐ろしくなり、どこにも嫁げず実家で療養している者。そういう者たちをヘンリエッタは多額の金と王妃の威光で泣き寝入りさせてきた。その事実をクライドが知ったのは、アレクシスが辺境伯夫人ディアドラを凌辱するという取り返しのつかない事件を起こした後だった。
相手がディアドラでなければ、ヘンリエッタは今回もいつものように金と権威で黙らせたに違いない。それが通用しない相手だったから初めてクライドが呼ばれ、目の当たりにすることになったのだ。母親のスカートの陰に隠れ、おどおどする息子の姿を。
国の要衝を守る辺境伯。その歴史は現王家よりも古い。アンブロシアの初代国王は辞を低くして辺境伯家の忠誠を乞い、娘を人質同然に嫁に差し出した。当時の辺境伯が応じてくれたからこそアンブロシアは建国されたのだと、王族は幼い頃から教え込まれる。
特に当代の辺境伯チェスターは隣国ソーマと友好関係を築き、ソーマ王家はアンブロシア王家より辺境伯家を重視しているありさまだ。ソーマはアンブロシアを平和に堕落しきった無能の集団と見下している。唯一の例外が辺境伯家だ。キャロラインをジャスティンの婚約者にねじ込んだのは、ソーマ王家がジャスティンに王女をあてがうのを防ぐためでもあった。
王であってもおろそかに扱えない実力者の怒りを買ったというのに、アレクシスは怯えてはいても恐れてはいなかった。王太子たる自分はどんな過ちを犯そうとも守られる、そう信じて疑わなかったのだろう。
辺境伯がエリオットの身柄と引き換えにアレクシスの死を望んだ時、身代わりを立て、アレクシスは王家ゆかりの修道院にかくまうこともできた。ヘンリエッタはそれを熱望していた。
にもかかわらず本物のアレクシスを『事故死』させたのは、万が一辺境伯に露見したら反乱を招きかねないと恐れた……それだけではない。生かしておいてはならない、いや、生かしておきたくないと思ってしまったのだ。罪を罪とも思えぬ息子が、不気味な怪物のように見えた。……そんなふうに育てたのは自分だというのに。
アレクシスは自業自得だが、他にも王太子妃、ディアドラ。エリオットが生まれた時点で三人の命が犠牲にされている。不幸になった人間は辺境伯やジャスティン、アビゲイルをはじめ数えきれない。
数多の人々の命と不幸のもとに生かされたエリオットを、クライドは今度こそまっとうな人間に育てなければならなかった。アレクシスの時より積極的に関わったし、甘えは許さなかった。
だがクライドが厳しく接すれば接するほど、ヘンリエッタが甘やかした。溺愛はエリオットのためにならない、謙虚な人間に育てなければ、と何度言い聞かせても『でもあの子に罪はありませんのに』『あの子は生まれつき両親を奪われたかわいそうな子なのですよ』と反論される。
エリオットから両親を奪ったのはアレクシス自身、そして自分たちだ。ディアドラにいたっては、エリオットを産んでしまったことを心底後悔しながら死んでいっただろう。だがヘンリエッタの目に映るのはかわいそうなアレクシスとかわいそうなエリオットだけなのだ。
いっそヘンリエッタとは離縁し、エリオットの泣き言を許さない守役を付けるべきだったかもしれない。だが国王が何十年も連れ添った妃を離縁すれば必ず理由を探られるだろうし、エリオットの出生を明かせるほど信頼の置ける守役候補もいなかった。
唯一、幼なじみでもある宰相シェリンガム公爵には事情を打ち明けてあるが、宰相の座にある者を王子の守役にはできない。しかし王子の守役は公爵ほどではないにせよ、ある程度の身分がなければならず、なかなか見つからなかった。
そうこうするうちにジャスティンが領地に引っ込むと、エリオットの行状も比較的落ち着いてきた。クライドは安堵し、かねてから考えていた通り、シェリンガム公爵の娘キャロラインをジャスティンと婚約させることにした。
アレクシスの愚行のせいで母親を失ったジャスティンには、考えうる限り最高の花嫁を与える。王族であるエリオットより格上の花嫁を。それが未だ冷めやらぬ辺境伯の怒りを少しでも和らげることにつながるだろう。ひいてはエリオットの未来にも。
シェリンガム公爵はクライドの考えに同意してくれた。宰相としても、辺境伯の忠誠心をつなぎとめておきたいのだ。そのためなら娘を辺境に嫁がせても構わないと言ってくれた。
だが肝心のキャロラインがエリオットと通じ、未婚の身でありながら妊娠までするとは、さすがのクライドも予想できなかった。
あの夜会の後、シェリンガム公爵にはひざまずいて詫びられた。宰相の位と公爵位まで返上しようとしたが、処分は保留し、自邸で謹慎させている。
辺境伯の手前、厳しい処分を下さざるを得ないだろう。だがクライド個人としては怒りを感じてはいない。ただ空しさだけが胸を重くする。
(何もかも無駄になった)
いっそエリオットが生まれてすぐ殺していれば。いや、ディアドラが堕胎していれば。詮のないことばかり考えてしまい、クライドは溜め息をついた。これから自分がしようとしていることも、ある意味、エリオットに死をもたらすようなものだ。
「陛下、どちらへ?」
自室を出ると、待ちわびていた侍従が心配そうに声をかけてくる。一人で考えたいと部屋にとじこもってから、だいぶ時間が経っていたようだ。
「東の塔だ。……供はよい、一人で行く」
出生の真実をクライド自身の口から伝える。それがエリオットにかけてやれる最後の情だと思った。