アビゲイル
「……愚かなことを」
ヘンリエッタ王妃から内密に届けられた手紙を読み終えると、アビゲイルはため息をついた。嫁いでから十六年あまり。初めて義母がよこした手紙の内容は笑ってしまうくらい予想通りだった。
(わたくしからエリオットの助命嘆願をしてほしい、ですって? そんなことできるわけがないでしょう?)
しかもキャロラインの腹の子も助けてほしい、女ならわたくしの気持ちがわかるでしょう……ときた。わかるわけがない。子を産んだことはおろか、未だ夫に指一本触れられぬ身では。おおかた父クライド王から助命嘆願を禁じられたので、ならば自分に嘆願させようと思いついたのだろうが……。
(こんな時でもなければ、わたくしの存在など思い出しもしないということね)
異母兄の尻拭いのため嫁ぐことが決まった時は、さすがのヘンリエッタも気まずそうだった。普段の陰険な態度が嘘のような猫なで声で機嫌を取ってきたり、高価な嫁入り道具を誂えたりして、アビゲイルを困惑させたものだ。
だが輿入れ後、ヘンリエッタがアビゲイルに心遣いをすることはなかった。ジャスティンにもっと謙虚な態度を取らせろ、出すぎた真似をさせるな、といった文句は何度も言われたが。
五日前。
王宮の夜会で起きた事件を知った時、アビゲイルに驚きはなかった。いつかこうなるだろうと思っていたからだ。
辺境伯家から夜会に参加していたのは夫の辺境伯と義息子のジャスティンだけだった。本来ならアビゲイルも辺境伯夫人として夫にエスコートされるべきなのだが、当然のように置いて行かれた。いつものことだ。
帰宅した夫と義息子はアビゲイルに何も教えてくれなかった。だがいつになく緊張した表情から、何かがあったことは察せられた。
辺境伯夫人として認められていなくても、アビゲイルには王女時代につちかっておいた人脈がある。それを使えば、甥エリオットの起こした事件の詳細を調べるのは簡単だった。
王じきじきに世話した縁談をぶち壊す。それだけでも許されない暴挙なのに、エリオットはこともあろうにキャロラインを妊娠させた。……知らぬ間に亡き父と同じ罪を犯したのだ。今回ばかりは見逃してもらえないだろう。もはや『罪のない』赤子ではない。
エリオットは東の塔に軟禁され、キャロラインは公爵邸に身柄を移され、それぞれ裁きの時を待っている。裁くのはクライド王ではない。辺境伯とジャスティンだ。エリオットたちの命は二人の心にかかっている。
貴族たちにはエリオットの出生の真実が公表された。辺境伯たちがエリオットの死を望んだ場合、婚約者を奪ったという表向きの罪状だけでは死罪に釣り合わないからだ。悲劇の王太子として哀れまれていた亡き異母兄は一転、罪なき貴婦人を死に追いやった悪魔と蔑まれ、王家の権威も地に落ちた。
エリオットにも真実は伝えられただろう。ヘンリエッタに甘やかされ、わがまま放題に育ったあの甥はどんな反応をしたのか……。
「王女殿下。使者がお返事を頂きたいと申しておりますが」
控えていた執事が恭しく告げた。王女殿下。アビゲイルは嫁いでからずっとそう呼ばれている。奥方様と呼ばれるのは亡きディアドラだけだ。辺境伯領へおもむいたこともなく、ずっとこの王都のタウンハウスで暮らしている。
「わかりました。少し待ってください」
アビゲイルは便箋とペンを用意させ、返事をしたためた。ご期待には応えられません、と記すだけなのでさほど時間はかからない。
できあがった手紙を執事に託し、アビゲイルはソファにもたれる。手紙一枚書くだけなのにかなり疲れてしまった。
(……子どもに罪はない、ね。本当にそうだったのかしら)
誰も生まれてくる場所を選べない。そういう意味ではエリオットに罪はなかったのだろう。だがエリオットさえディアドラの腹に宿らなければ、と憎む辺境伯やジャスティンにも罪はない。エリオットが生まれてこなければ……あるいは生まれてすぐに処分されていれば、今の状況はなかった。アビゲイルが辺境伯家に嫁がされることも。
唯一の跡継ぎとして大切に育てられた異母兄は、他人は皆自分に従って当たり前、自分に好意を寄せられて喜ばない女はいないと思う傲慢な性格の主だったが、母ヘンリエッタの前ではいい子を演じていた。妃とうまくいかなかったのは性格の不一致だけが原因ではあるまい。嫁いびりをされても庇ってくれず、常に義母の味方ばかりする夫なんて、アビゲイルでもまっぴらだ。
あの事件を招いたのは間違いなく異母兄の腐りきった性格だった。何をしても母親が絶対に守ってくれると信じていたのだろう。
だから後悔したクライド王は可能な限りエリオットを厳しく育てようとしたが、ヘンリエッタが甘やかし、エリオットは増長した。周囲の犠牲も気遣いも台無しにした。会ったことすらないはずなのに、父親とそっくりだ。血は争えない。
(失敗なさいましたね、お父様。エリオットを本当に助けたかったのなら、王妃殿下とは引き離すべきでしたわ)
いくらクライド王が厳しく接しても、後でヘンリエッタがかわいそうにと甘やかすのでは何の意味もない。子どもにも絆されない厳格な教育役を付け、甘えなどいっさい許されない環境で育てるべきだった。その上で出生の秘密を明かせば、エリオットも一人の王族として、辺境伯に睨まれながらもそれなりの生をまっとうできたかもしれないのに。
(何も忠告しなかったわたくしには、お父様を責める資格などありませんが……)
忠告しなかったのは、しても無駄だと諦めていたからではなく、一種の復讐だったのかもしれない。あれだけのことをしでかしても庇われ、名誉だけは守られていた異母兄も、うわべでは慈悲深い王妃を演じながら母をいびり殺し、アビゲイルを虐待していたヘンリエッタも、妻と息子の本性に気づかず放置していたクライド王も、アビゲイルは自分が思うよりずっと嫌いだったのかも。
(だってわたくし、甥が死ぬかもしれないのに、何も悲しくないのだもの)
辺境伯家はアビゲイルを奥方として扱ってはくれないが、客人としての敬意は払ってくれるし、衣食住もじゅうぶんすぎるほど与えられている。好きなこともやらせてもらえる。ヘンリエッタの息のかかった貴族家に嫁がされるよりはずっといい生活だ。
「さようなら、王妃殿下。もう二度とお会いすることはないでしょう」
アビゲイルは微笑み、ヘンリエッタからの手紙を暖炉の火にくべた。