ヘンリエッタ2
赤子はエリオットと名付けられ、正式に王家の一員として迎えられた。王太子夫妻が『事故死』する前に生まれたが、身体が弱く育つかどうかわからないため、公表されずにいた……ということにした。
エリオットを迎えてすぐ、夫クライド王は娘のアビゲイルを辺境伯の後妻として嫁がせる決意を固めた。
『私はエリオット殿下の存在を許したわけではない。もしも殿下がアレクシスのような愚物に育ち、私やジャスティンに災いをもたらすなら、その時こそ命であがなわせる』
それがエリオットの出生の秘密を黙っておいてもらうため、エリオットの生存を許してもらうための、辺境伯の条件だったからだ。辺境伯はエリオットが罪の子だと断じた。万が一エリオットが辺境伯やジャスティンを害すれば、辺境伯は今度こそ王国に反旗を翻すだろう。
それには辺境伯に対しこれまで以上の気遣いをしなければならず、そのための口実としてアビゲイルは嫁ぐことになったのだ。王女の婚家なら、いくら優遇されても怪しまれない。
なさぬ仲のアビゲイルには良い感情のないヘンリエッタだが、この時ばかりは申し訳なく思った。彼女は息子の尻拭いのために好きでもない男に嫁がされるのだ。しかも辺境伯は当初、ディアドラ以外の妻は要らないと縁談を突っぱねた。そこでクライド王が辺境伯夫人として遇さなくても構わない、何があろうと咎めない、たとえ子ができても認知しなくて良いといくつも譲ったので、辺境伯も折れざるを得なかったのだ。
女として屈辱的な条件ばかりだが、アビゲイルは文句の一つも言わずに嫁いでいった。『わたくしの身が王国の危機を防げるのなら、喜んで参ります』と言い残して。異母兄の愚行を聞かされた彼女は『何と愚かなことを』と嘆いていたそうだ。あの娘が男だったらと、クライド王は悔しそうに漏らしていた。
多くの犠牲のもとに生まれたエリオットだが、やはりヘンリエッタにとっては可愛い孫だった。今度こそ厳しく育てなければと思っても、息子の幼い頃そっくりの顔で泣かれると、どんなわがままでも許してしまう。
(だってこの子に罪はないのだもの)
父親は祖父に殺され、母親は自分を産んだショックで自害した。エリオットほどかわいそうな子はいない。祖母の自分が愛情を注いでやらなければ。
そんなヘンリエッタをクライド王は『エリオットのためにならない』と責めたが、真剣に取り合いはしなかった。クライド王とてエリオットが可愛いはずなのだ。ただ王としての立場上、厳しくせざるを得ないだけ。夫の分まで自分がエリオットを可愛がってやらなければと、心の底からヘンリエッタは信じていた。
……同じように育てたアレクシスは、あんな結末をたどったのに。
クライド王はたびたびアビゲイルとジャスティンを王宮に招き、エリオットにも対面させた。ごく限られた者しか知らなくても、ジャスティンとエリオットは異父兄弟だ。幼いうちから仲良くさせておけば、やがてジャスティンが真実を知ってもエリオットを嫌わないでくれるのではないか。そう期待したのだと思う。
だが期待は裏切られた。大切な存在だから仲良くしなければなりませんよ、としつこいほど言い聞かせておいたのに、エリオットはジャスティン相手に癇癪を爆発させ、ジャスティンに贈られるはずだった子馬まで横取りしたのだ。
『お前が甘やかすからだ!』
夫には怒られたが、ヘンリエッタとしては夫も責めたかった。辺境伯は取りつく島もない。ならばジャスティンを懐柔しておこうという気持ちはわからないではないが、それにしてもエリオットとの差が酷すぎる。エリオットは自分たち夫妻の唯一の孫、かわいそうな子なのに。
甘やかすなと責められれば責められるほど、ヘンリエッタはエリオットが哀れになり、甘やかしてしまう。……意地になっていたのかもしれない。いや、いびつな優越感に浸っていたのか。夫も義娘もジャスティンもエリオットを可愛がってくれないなら、自分が愛してやるしかないと……アレクシスの忘れ形見を愛してやれるのは自分だけだと。
時が過ぎ、ジャスティンが辺境伯領からめったに戻らなくなると、ヘンリエッタは安堵した。これでエリオットとジャスティンを比較されずに済む。エリオットも心穏やかに過ごせるだろう。
ジャスティンとシェリンガム公爵令嬢キャロラインを婚約させると夫が決めた時は、さすがの辺境伯も感謝し、怒りを和らげてくれるだろうと思ったものだ。辺境伯家ではとうてい釣り合わない高嶺の花の令嬢を嫁がせてやるのだから。
これでエリオットの身は安泰だと思っていた。
……まさかエリオットがキャロラインと密通して孕ませるなど……父親と同じ罪を犯すなど、思いもしなかったのだ。
東の塔は重罪を犯した貴人が送られる監獄だ。一生幽閉されることもあれば、死を賜ることもある。一度そこに送られ、無罪放免となった者は存在しない。
「……貴方……」
ヘンリエッタが弱々しく呼びかけると、引きずられていくエリオットとキャロラインをじっと見つめていたクライド王は振り返りもせず首を振った。
「駄目だ。命乞いは許さぬ」
「そんな……」
エリオットは罪を犯した。よりにもよってジャスティンの婚約者を奪ったのだ。罰を受けるのは仕方がない。
だがエリオットはまだ若いのだ。悔い改め、やり直せる可能性はいくらでもあるだろう。ディアドラの時と違い、命が失われたわけでもないのに……好きな女と恋をはぐくんだだけで……。
「……まだ、わからぬのか。この結末を招いたのは、そなたでもあるということが」
「え……?」
「余は何度も言ったはずだ。エリオットを甘やかすな、わがままを許すな、謙虚に育てよと。それがエリオットを守ることにつながるのだと」
……そうだ。確かに言われた。
だがヘンリエッタは聞かなかった。聞き入れられなかった。エリオットがかわいそうだから。エリオットに罪はないと思っていたから。
(……私があの子の人生をねじ曲げてしまった?)
「だが、悪いのはそなただけではない。……多忙を言い訳にせず、余ももっとあの子の養育に関わるべきであった」
「貴方……」
「今となっては、何を言ったところで意味はないがな……」
泣き叫びながら連れて行かれるエリオットから、クライド王は目を離さない。ヘンリエッタも涙を拭い、じっと見つめた。愛しい孫をこの目で見られるのは、これが最後かもしれない。
(……ああ、でもキャロラインのお腹の赤子は……)
赤子がエリオットの子なら、ヘンリエッタの曾孫ということになる。罪のないあの子だけは助けられないかと、ヘンリエッタはめまぐるしく思考を巡らせ始めた。