ヘンリエッタ1
ああ、何ということ……。
引っ立てられていくエリオットたちを指の間から盗み見て、ヘンリエッタは崩れ落ちそうになった。
恐れていた日が来てしまった。こうならないよう、懸命にエリオットを育ててきたのに。
(……いっそ、辺境伯の申し入れを聞いていれば良かったの?)
暗い考えが浮かび、すぐさま否定する。……エリオットはこの世でたった一人の、息子の忘れ形見だ。見捨てられるはずがない。たとえ時が十六年前に戻っても、ヘンリエッタは王妃の矜持をかなぐり捨て、ベレスフォード辺境伯にすがるだろう。
子どもに罪はない。どうかこの子だけは助けて欲しいと。
亡き王太子アレクシスはヘンリエッタの自慢の息子だった。多少傲慢なところはあるが優しく、厳しい帝王教育にも耐え、ヘンリエッタ譲りの端整な容姿は若い娘たちを騒がせた。
それだけに十七年前の事件は寝耳に水だった。どうしても信じられなかったのだ。あの優しいアレクシスがベレスフォード辺境伯チェスターの愛妻、跡継ぎの息子を産んで社交界に復帰したばかりのディアドラを凌辱したなんて。
だが、悲しいことに事実だった。ヘンリエッタがアレクシスの部屋に駆けつけると、痛々しい姿のディアドラが寝台に横たわっていたのだから。夜会を抜け出したアレクシスがなかなか戻らないので、心配した側近が見に行くと、まさにディアドラが辱しめを受けている最中だったという。側近は慌ててアレクシスを引き離し、ヘンリエッタを呼びに走ったのだ。
その判断は正しかった。王太子たる者が臣下の妻、それも軍事的に最も重要視される辺境伯夫人を凌辱したと広まれば、アレクシスの名誉は地に落ちる。ヘンリエッタは夫にだけ事実を伝えさせ、事件が漏れぬよう箝口令をしいた。
だが、ベレスフォード辺境伯にだけは秘密にするわけにはいかなかった。これが身分の低い夫人なら多額の賠償金と王家の権威で口止めもできるが、誇り高く血気盛んな辺境伯は決して黙らないだろう。精鋭揃いの軍を有する辺境伯には、それだけの力もある。辺境伯が要請すれば、ソーマも援軍を出すかもしれない。
辺境伯を呼びに行かせる間、アレクシスから暴挙の理由を聞いた。
『……ずっとディアドラを愛していたのです。しかし彼女は辺境伯一筋で、私の思いは届かなかった。何度も諦めようとしましたが、今宵久しぶりに彼女の姿を見たら止められなくなり……彼女が夫と離れた隙を狙って連れ出し、気づけば組み敷いていました……』
身勝手な言い分だが、アレクシスが愛しくてならないヘンリエッタはわずかな希望を抱いてしまった。アレクシスは妃を娶って二年も経つのに、未だ子に恵まれていない。美しいが気位の高い妃が気に入らず、寝室も共にしていないと報告があった。
世継ぎは絶対に必要だから、いずれアレクシスは側室を持たなければならなかった。その側室に、ディアドラがなってくれたら? こんな真似をするほど愛しい女なら、すぐに孕ませるに違いない。
辺境伯には平身低頭して詫び、望む褒美を与えて離婚に同意してもらう。次期王太子と自分の息子が異父兄弟なら有事の際、王軍からの援軍も期待できる。もちろんディアドラに代わる嫁も世話しよう。辺境伯にとっては悪いことばかりではない、そう思ったのだが。
『愚弄するのもいい加減にして頂きましょうか。私には妻の尊厳を犠牲にしてまで欲しいものも、妻以外の女を娶る気もありませぬ』
現れた辺境伯はヘンリエッタの言い分を一笑に付したばかりか、母の背後で小さくなっていたアレクシスを殴り飛ばしたのだ。アレクシスが倒れると、胸ぐらを掴んで引きずり上げ、何度も執拗に殴った。そばにはヘンリエッタの警護騎士も付いていたが、辺境伯の鬼神のごとき迫力に呑まれ、誰も止められなかった。
ぼろくずのようになったアレクシスが解放されたのは、クライド王が到着した後だった。アレクシスの前歯は全て折れ、鼻の骨も粉砕され、ヘンリエッタ譲りの美貌は見るも無惨なありさまだ。かわいそうな我が子のためにヘンリエッタは泣き、罰を与えてやりたかったが、辺境伯が怖くて動けない。
『すまぬ、チェスター。我が息子が取り返しのつかない罪を犯してしまった……!』
代わりに鉄槌を下してくれると期待していた夫は、アレクシスを一瞥するや、辺境伯に頭を下げた。非公式の場とはいえ、王が臣下に頭を下げるなどあってはならないことだ。
クライド王がためらいなくそれをやったことで、ヘンリエッタも遅ればせながら危機感を抱き始める。蛮族を防ぐ盾である辺境伯は、王太子とは別の意味で王国にとって重要な存在だ。その忠誠心にひびを入れるような真似は絶対にしてはならなかったのに。
(もしも辺境伯が許してくれなかったら、アレクシスはどうなってしまうの……?)
『詫びなど要りませぬ。この罪をどう償わせるか、伺いたいのはそれだけです』
『……我が子ながらクズのような男だが、世継ぎもいないのに廃嫡はできぬ。向こう五十年、辺境伯領の一切の税を免除し、王太子のための予算を全額そなたに与える。むろん別途に夫人への賠償金も支払う。また、そなたの子ジャスティンには成人後、辺境伯位とは別に侯爵位と年金を授けよう。……どうか、これで手打ちにしてもらいたい』
ここに来るまでに算段をつけていたのか、クライド王の言葉はなめらかだった。破格の条件と言っていいだろう。
だが辺境伯は嘲笑し、きびすを返した。
『チェスター……? どこへ行くのだ』
『アビゲイル王女を凌辱して参ります。何、心配は要りませぬ。陛下の望まれるだけの賠償金をお支払いしますので』
人を食ったような言い分に、当然ながらクライド王は激昂した。
『……っふ、ふざけるな! 金などで許せるものか!』
『おや? おかしいですね。私はただ、陛下と同じことを申し上げただけですが』
クライド王は冷や水を浴びせられたように硬直した。……確かに辺境伯の言う通りだ。夫の出した条件は、どれも突き詰めれば金に結びつく。臣下の妻には金で黙れと強いているのに、我が子に同じことをされれば許せない。王が王であるがゆえの、傲慢な矛盾だ。
『……すまぬ、チェスター。余が愚かであった』
『いえ、私も少々言葉が過ぎました。……ひとまずのところ、今日は帰ります。息子が待っておりますので』
しゃべることもできないディアドラと共に、辺境伯は帰っていった。まずはディアドラの心身の養生が第一。和解の条件についてはのちほどじっくり詰めようということになり、アレクシスは自室に軟禁された。
だが、三月ほど後。事態は急転する。
ディアドラの妊娠が明らかになったのだ。時期的に考えて、夫の子でもアレクシスの子でもありえた。
辺境伯は堕胎を望んだらしい。もしも自分を凌辱した男の子を産んだら、ただでさえ弱っているディアドラの心身は耐えられないと。
だがディアドラ自身が堕胎を拒んだため、腹の子は始末されずに済んだ。夫の子である可能性に賭けたのだろう。
しかし月満ちて生まれた男の赤子は、王家直系の証たる金の瞳を持っていた。……正直なところ、ヘンリエッタは嬉しかった。可愛い息子の子、唯一の孫だ。抱きしめて頬ずりをしてやりたかった。
けれど赤子は、辺境伯家にとっても辺境伯にとっても歓迎されざる存在だった。最も忌避したのは母親のディアドラ自身だっただろう。彼女は出産から数日後、隠し持っていた毒を飲み、自ら命を絶った。医師も手の施しようがなかったそうだ。
辺境伯の怒りはいよいよ頂点を突破した。このままでは赤子は、ヘンリエッタの孫は殺されてしまうだろう。表向きは辺境伯家の子なのだから、王家は咎めるわけにはいかない。
『どうか、どうか、赤子を助けて。私に育てさせてください』
喪服で交渉の場に現れた辺境伯に、ヘンリエッタは額を床にすりつけながら懇願した。だが辺境伯はにべもなかった。
『あの赤子が生まれなければ、我が妻はいずれ立ち直ってくれたかもしれない。あの赤子は生まれながらの罪人です。まさしくアレクシス殿下の御子ですな。再び罪を犯す前に殺すべきです』
『そんな……! 確かにアレクシスは罪を犯しました。ですが赤子は、生まれてきた無垢な命には何の罪もないはずです。この私が責任を持って良い子に育てますから……』
『良い子? ……アレクシス殿下のような、ですか?』
嘲るように言われれば、アレクシスの母親としては黙るしかなかった。すがるように夫を見ると、クライド王は重い口を開く。
『……罪人を処刑すれば、赤子は助けてくれるか?』
『あ、貴方っ!?』
信じられなかった。夫はアレクシスを殺すと言っているのだ。唯一の世継ぎなのに……いいや、もう唯一ではない。赤子がいる。だったらアレクシスは……用済みだ。禍根にしかならないアレクシスを生かして辺境伯の忠誠を失うよりは、殺して辺境伯の怒りを少しでも削ぐ方を選ぶのは王として当然だった。
そして数日後、夫は本当にアレクシスを殺してしまった。仲の悪い妃もろとも薬で眠らされ、空の馬車に乗らされ、谷底に転落させられた。もちろん表向きは事故として片付けられた。
無惨な遺体と夫の覚悟を見届けた辺境伯は、赤子を引き渡してくれた。柔らかいその身体を抱いた瞬間、怒りや夫に対するわだかまりも溶けていった。この子は、この子だけは立派に育て上げなければならない。




