同日・再び大海人
それはともかくとして、なぜ大后の名がこの場であがるのだろう。今までも、讃良は新しい妻を娶るよう進言してくることはあった。妻問いすることで、味方になる一族との繋がりを持つべきだと。
それでも。今回ばかりは素直に頷くことは出来ない。よりによって、あの倭姫大后を娶れ、とは。倭姫のことを嫌っているわけではない。その逆だ。あの兄が、あのように見事な大后を得たというのは奇跡としか言いようがない。
とはいえ、大后が兄のことをどのように思っているのか、分からない。愛情を感じているのかそれとも憎んでいるのかは想像するしかないけれど。
疑問が顔に出たのだろう。夕日が差し込む窓辺で、讃良が眉を跳ね上げるのが見えた。近寄って、まじまじと妻の顔を覗く。
「父上がわざわざあなたを呼び出して大王の御位を譲ると仰せられたとき、何と言ってお断りしたのです? 大海人さま」
「それは、大后がいるのだから・・・・・・わたしではなく、倭姫大后に御位を譲るように。そして、大友を政務につかせればと、な」
思った通りだ、と頷く讃良。その瞳が生き生きと輝いていて、澄み渡った冬の夜の星空を見上げているかのようにまばゆく麗しい。瞬きも忘れていつまでも眺めていたくなるほどに。わたしの妃はこんなにも愛らしいのに、なぜ。
立ち上がり、外の景色を目に写す。風も無く、穏やかな日だ。空は茜に染まり、暮れ行こうとする今日の日が愛おしい。
「でも父上に、そのおつもりはなさそう」
「そうだ、なあ。無いだろう。あの方に、倭姫大后には、政は向かない」
向かないと言うよりも、大后はあえて距離を置いているのだ。倭姫大后の父、古人大兄は異母弟である兄に滅ぼされた。また兄は、讃良の母方の祖父である蘇我倉山田石川麻呂をもまた、滅ぼした。父親の非業の最期を知った讃良の母の嘆きは大変なもので、傷心のあまり病になり亡くなったという。讃良たち幼い姉弟を残して。
大王の後継者として望まれる大后が、政に関わろうとしないのはあまり良くないことなのだろうけれど。それでも、兄はそれを許している。逆らう者を容赦なく滅ぼすことで若い頃から知られたあの、兄が。あの、冷酷非情な大王が。
「倭姫さまが大后であることが大事なのです。父上にとっては」
考えをまとめようと、歩き回っていた足が止まった。そうか。倭姫を娶り、大后にすれば大王の地位は自然と転がり込むと言いたいのだ讃良は。
だが、自らをはじめとして数多の妻たちを持つ上、さらに倭姫をと?
「気になったのだがな・・・・・・讃良は、大后のことをどのように思っているのだ。普段から何かと目を掛けてもらっていたように、思ったが」
「ええ、立派な方です。わたしや姉上のことだけではなく、他の兄弟姉妹のことも、生母の身分に関わらず折にふれて気にかけてくださいましたもの。だからこそ、次の大王の御代も倭姫さまには大后であって欲しいのです。心から」
讃良は、我が子の草壁だけでなく他の妻たちが生んだ息子や娘にも気を配ってくれている。正妃として、これ以上はないくらいに。それは、倭姫大后の姿から学んだことなのだろう。
しかし、だからといってこの進言だけは受けることは出来ない。無理だ。
「いや、それは無理だな讃良」
「無理、とはなぜです。大海人さま。それが争いごとを避ける、一番の近道なのに」
少女のようにぷくりと膨らんだ讃良の頬に、思わず手が伸びる。
「なんですか、一体」
きょとんとした顔で、讃良はわたしの手を弾く。相変わらず讃良は、手の早いことだ。こうやっていつも虫をたたきつぶしている。
「無理と言ったら無理さ。わたしの大后になるのは、他の誰でもない讃良なのだから。それに、兄上とても許すまい。可愛い娘のことなのだからなあ」
これ以上の理由が、どこにあるだろう? 案の定、讃良は「可愛い娘」という表現に微妙な顔をしている。
兄の普段の態度からそう思うのは無理もない、とは思うが。
「兄上は、讃良のことも他の姫たちのことも可愛がっているのだ。だからこそ、四人もご自身の娘をくださったのさ。このわたしに、な」
優しい言葉など滅多にかけない、兄だけれども。娘の夫には、しっかりした男をと考えてのことだ。口に出して聞かされたことはないけれど。
疑うような顔つきであったが、賢明な讃良はそれ以上口を挟まず頷いた。
「そんなことよりも讃良。そんなことより、次の世代のことを考えないか?」
弾いて来た讃良の手を握って、じっと瞳を見つめると彼女は真面目な顔で頷いた。
「次の世代・・・・・・そうですわね。高市もそろそろ身を固めるに相応しい時期です。立派な若者に成長しましたし。今のままでは母御の尼子どのもさぞ、気がかりでしょう。この頃は、宮に仕える若い采女たちと戯れているようですけど。やはり、しっかりとした後ろ盾のある妻を持つ必要がありますわね」
うきうきと、自らの異母妹の誰が高市の相手に良いかなどと年頃の娘たちの名前を挙げだすので、がくっとなって腰を下ろした。
「あら、どうなさいましたの? 大海人さま。あなたは、父上の病平癒を願って出家なさったのでございましょう? 俗世のことは、この讃良にお任せあって。心静かに読経でもなさってくださいませ」
「そ、そうか。それは有り難い。だが、ちょっと寂しいので今夜は一緒に・・・・・・」
恐々と訴えるも、信じられない、あり得ないと讃良は鼻を鳴らす。駄目だ、次世代を生み出そうなどと軽口を叩くべきではなかったようだ。
「寝所は、別にしなくてはならないが。その、吉野には一緒に来てくれないだろうか」
ちらり、と横目で見ると讃良は当然のように頷いた。
「わたしも草壁も、修行の邪魔にならないようここ近江に留まるつもりでしたけど。そこまで仰るならば、お供しますわ。大海人さま」
「ああ。吉野は、水清く静かでとても良いところだ。心静かに、祈ろう・・・・・・」
吉野はここ大津に比べて少し、いやかなり寒いだろう。雪はもう、降っただろうか。俗世間から離れた聖なる地で、身も心も清くあれるだろう。
そして兄の病が少しでも軽くなることを、兄の死が少しでも先延ばしできるように、と祈るのだ。その心に一片の迷いも無い。
「大后さまは、父上の亡き後はどうなさるおつもりなのでしょうね」
「さあ、な。分からない。何も」
それは大友が考えるべきことだ、という言葉を呑み込む。これから戦が起きるとしても、倭姫大后の日々が平らかであることを願おう。
「明日は早くに出立する。出家の者の旅だ、供は少ない方が良いだろう・・・・・・明日は兄上に再度、吉野へ行き修行することを願い出る。許しを受けた後に、吉野に向かうわけだが。途中まで、大臣たちが見送りに来てくれると言っていた」
「そう、ですか。大臣たちが見送りに」
大臣たち、と微妙な声で相槌を打つと頷いて讃良は、控えていた媼を呼んだ。
旅支度をこまごまと言いつけ、草壁を今夜早く寝かせるように、と命じて媼を去らせる。
「もう、こんなに日が暮れて。誰か、灯りを」
「ああ、冬の日は短いな。吉野はもっと早いだろう。暮れるのが」