天智天皇十年十月十八日・大海人
妻はわたしのことを愛してくれている。妻問いから十年以上たった今でも、彼女から寄せられる信頼と親愛を疑ったことは一度もない。
たとえ少々、乱暴な言い方をされたとしても。
「ええっ。あっさりと出家してしまわれたのですか、大海人さま。あなたと言う方は、信じられない。あり得ませんわ。あなたが髪を切り法衣を纏っても、断じて僧ではない。ただの真似事にしかなりませんのに!」
正しい。我が妻、我が正妃の言うことは、何から何までも正しい。姿形だけ真似ても、僧ではないという言葉が胸に刺さる。
「父上がくださると言うのでしたら、さっさと貰っておけば良いのです。大王の位でも何でも」
大王の御位を、その辺の石塊のように言わなくても良いのにとは思うが。しかし、妃は領巾を食いちぎらんばかりに憤慨している。
「せっかくですから、父上に死後の憂いが残らないよう大后さまを頂戴すれば宜しかったのに」
厳かに鸕野讃良は言い放つ。この豪胆さは、流石あの兄の娘だと感心してしまうが。
いや、しかし流石にそれはない。いくらなんでもない、だろう。人の妻を、まだ辛うじて生きている兄の妻の再婚相手に名乗りを上げるだなんて。
たらり、と汗が背中を伝った。十月、今はもう冬だというのに。