25話「ある異能者の夢」
ジャキンッ!
音のする方を見れば地面からトラバサミが出ていた。
獏さんは地面に降りず、狛犬の上にふわりと立っている。まるで天狗さんのようだが、幻覚だろうか。立っている場所ではないところから心音が聞こえてくる。
俺は音を追って、神社の裏手へと回った。
「現代人の悪い癖だ。目を使い過ぎる。瞼を開ければ見えるから仕方がないのだけれどね」
狛犬の上に立っていたはずの獏さんは、團さんの背後に回っていた。
「團さん、後ろ!」
俺の声を聞いて、團さんが飛び退く。
棒で獏さんの足を払ったつもりが、すでに獏さんの足はない。連撃を繰り出し、何度も棒で突いてみたが、一向に当たる気配がなかった。棒をフェイクに使って肘鉄をくらわしてみたが、硬い腹筋に阻まれ、まるで効いていないようだ。
逆に振り下ろすような拳が俺の顎を捉える。意識が飛びそうになるが、踏みとどまった。首をひねって躱したつもりだったのに顎が割れそうだ。
團さんがナイフを先に括り付けた自作の槍で、横に薙いだ。地面には無数のトラバサミが仕掛けられている。
獏さんは、社殿の屋根まで飛んだ。人間業とは思えないが、やはり天狗さんくらい身体能力が高い。
「仙術を使いこなせないのか?」
「霊体を鍛えることはしません。天狗さんから帰ってこられなくなると言われていますから」
雨樋を掴んで反動をつけ、屋根に上った。
「残念。そこ屋根が抜けてる」
「え!?」
俺が立った場所には屋根がなかった。そのまま社の中にすとんと落ちる。
尻もちをついて見上げると、獏さんが俺を見て「準備ができたら出てきな」とだけ告げた。あっさり戦線から離脱させられた。まだ戦う覚悟がなかった俺に時間の猶予をくれたのだろう。
白檀のお香が焚かれているが、あとは祭壇にご神体の鏡があるだけ。シンプルなつくりだが、俺は地獄を思い出していた。
ひたすら自分を見つめ続け、自分の名を叫び続けたあの暗い、間隔も何もない無間地獄を。
何かがあるというだけでありがたい。俺はご神体を見つめて、自分の姿を確認した。頭が犬の異形の者ではあるが、特別な異能など持ち合わせてはいない。顔があるだけありがたい。匂いも感じられるし、音も聞こえる。美味い食べ物だって食べられる。風が吹けば皮膚が反応する。呼吸もできて苦しくない。
ここは地獄ではない。
屋根に開いた穴から日が差し込んできた。
陽だまりが俺の足下に広がる。鏡の中の俺は大きな口を開けて笑っていた。
世界があってよかった。周囲のすべてが愛おしく感じられるあの感覚が蘇ってきた。社のなかの空気が自分の意識で満ちていくような気がした。
戸を開けると、外では獏さんと團さんが戦っている。怒り、焦り、計略、罠、倒れてはいけないという思考、すべてが二人を小さくしていた。
狛犬は口を開けて笑い、木々はざわめき、手水舎のひしゃくはからからに乾いている。
樹上の鳥が静かに目を閉じた。山の洞窟には霧から避難している参加者たちもいる。すぐそばで猪が眠っていた。動物は正直だ。霧で何も見えないなら、寝てしまおう。それでいい。それがいい。動いた分だけ腹が減る。地中では春の訪れを待ちわびた虫たちが蠢いていた。
麓では陰陽寮と百鬼衆たちが大声を上げているらしい。鬼頭さんたちも間もなく合流するだろう。
どうして自分がそれらを感じ取れるのかはわからないが、山の全体に自分の意識が満ちていくような感覚があった。
「覚悟はできたか?」
獏さんがこちらを見た。
そうか。普通は目で見ないと認識できない。
相手は夢を喰らう異能者。想像力に飢えているのだろう。
俺が今、見ている景色は意識が作り出した夢の類だ。これを腹に詰め込んでやればいい。
技術や作為もなく、ただ近づいていって、肚に直接、見たままをぶち込んで満たしてあげればいい。人の数だけ夢はある。なくなることなどない。地獄でも夢を見る。
「存分に喰らってください」
気づけば俺の拳が獏さんのみぞおちに突き刺さり、膝をついて倒れていた。
「ケント、お前、異能を使わなかったのか?」
「異能? いや、獏さんが腹減ってるみたいだったから山の夢を食べさせようと思って……」
俺は自分の顔に触れると、いつの間にか人の顔になっていた。
「多いよ。しかも精度が高いし。ああ、しばらく胃もたれする」
獏さんはひっくり返って大の字になってしまった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないよ。一歩も動けないんだからな。團、すごい後輩を見つけたな」
「ええ。地獄帰りなんで、現実がよく見えるようです」
「そうらしいな。悪意も敵意もなく殴られると躱しようがない。参った」
團さんと俺は、獏さんに肩を貸して、元いた賽銭箱の横に座らせた。
「犬神祭りを壊している理由だったな?」
「あ、そうです」
戦っているうちに忘れてしまっていた。
「そもそも日本の異能業界はどうにもならなくなっていたんだ。テレビでも異能者たちはバカにされ続けていたし、結局隠れてひっそり暮らしていくしかないだろうと言われていたんだが、当然世界にもたくさん異能者はいるわけで、各国が保護したり、警備や軍事的に発展させようとしていた。軍事転用が主ではあるが、ちゃんとスパイ機関などで手厚く保護されている。私ははまぐり探偵社を辞めて日本の異能者として各国の異能者たちの教育をしてきた。異能の使い方、異能を持たない者たちとの付き合い方、政府役人への使いどころなんかをね」
團さんがペットボトルのお茶を上げたら、美味しそうに獏さんは飲んでいた。胃薬の丸薬も飲んでいたので、夢でも本当に胃もたれするのか。
「日本と違って皆発展させていってる。特に日本のゲームやアメリカの映画なんかの影響は色濃く受けている異能者たちが多い。團もそうだろ?」
「そうです。ダンジョンマスターなんて異能はそもそも存在すらしてませんでした」
「世界の異能者を見てきた私からすると、團でもちょっと劣って見える」
「やはりそうですか……」
團さんは噂に聞いていたという。
「世界観が違う。ブロック状というのかな。殴ったビルの壁を小さなキューブ状に変えて大きな穴を空けるような異能者もいる。見えない電波を掴んで重要な情報を可視化して、書き換えてしまうサーファーもいた。やろうと思えばいくらでも悪事に手を染められる」
「そんな……」
「彼らからすれば、日本で見つかっている異能者は、全員古いタイプの世代だろう。こんな山の中で運動会をしている異能者は、運がいいだけの集団さ。異能も時代によって大きく変わる。世界が見えている異界も変わってしまったんだ。どうにか異界のエルフも変わろうとして傭兵活動のようなこともしているだろ?」
「確かに……」
「AIも出てきて、これからさらに異能の質も変わり、加速していくだろう。分身を作れるとか炎を吐き出せるなんて大道芸みたいなことをしていても世の中でどうやって生きていく? この犬神祭りは本来、使える異能者を探すための新人異能者発掘祭りだろ?」
「異能系の偉い人たちにとってはそうでしょうね。それで俺も発掘された」
團さんは眉を寄せて、坊主頭を搔いていた。
「必要とされない異能者ばかりでは、文化の輸出など食えない夢に消える。日本と各国のパワーバランスが大きく転換している最中だ。世界にとって必要かどうか、世界の異能者と渡っていけるのかどうか判断できないと異能業界が衰退する。戦術も組み立てられないようだし、突発的な災害級の異能者が現れたら、まったく対応できないじゃないか? 結局はまぐり工務店が見つけたりしているんじゃないか」
「……そうかもしれませんね」
大きなことを言っているのに二人の大人は小さく見えた。
「必要のなかった商品、生活に必要のないエンターテイメント、必要のない動画配信に、必要のなかった声援。現代の世界で売れている者はすべてたった数年前に必要がなかった者ばかりです。無駄な時間を青春と呼び、無駄な質の向上を文化と呼ぶんじゃないんですか?」
「ケント……」
「世界の方が間違っているかもしれません。地獄では自分の心に従わないと、すぐに肉体を乗っ取られます。時代に合わせるより、己の心に合わせて時代を乗り切った方が、豊かさは手に入れられるかもしれません。経済的な豊かさばかりが目につきますが、俺にはこの世界があまりに美しく、豊かで、愛おしく見えます。異能の発展よりも、これを感じ取れる方が人生においては重要なんじゃないですかね」
俺の言葉に獏さんは笑って頷いていた。
「あまりに人間的で、世界で挑戦してきた私の夢を食べられてしまった気分だ。ケントが正しいよ。納得してしまった。今後は大口真神を名乗れ」
「いや、それは面倒です。そんな立派な異能よりも、レプラコーンみたいな寝ている間に修理するような異能が欲しいです」
「ケントらしいな……」
團さんも笑っていた。
日が傾き、山にかかっていた霧が晴れていく。
三人、横並びで神社に祈りを捧げ、犬神祭りが終わった。
獏さんは、山の麓まで行って、ケンジ伯父さんに連行されていった。
参加者もスタンプを守っていた異能者の先輩たちも、麓の駐車場に集まっている。別に俺が優勝したわけではないので、特にいうこともない。ただ、獏さんがどうして犬神祭りを壊したのかを報告した。
「せっかく準備したのに、もったいないのでまたやりませんか。まだ、同期の皆さんとは無駄とも思える時間も過ごしていませんし、意味のない修行もしたいんですけど……」
「何を言っているのよ! 地獄帰りの言うことなんて信じていないで帰って修行するよ!」
ヨウコ叔母さんは怒って陰陽寮の参加者と共に帰ってしまった。コンちゃんとブンちゃんは俺にアプリのアドレスをメモ書きで教えてきたが、俺はアプリそのものを入れていなかった。
「修行したいならいつでもジムか訓練場においで」
百鬼衆の爺さん、おじさんたちは皆そう言って、帰っていった。
「鬼頭さん」
「リンって呼んでって言ったでしょ!」
「ああ、リン。帰るの?」
「ええ。一つだけ教えて。どうやって獏さんを倒したの?」
「山の夢を食べさせただけ」
「……はぁ? 團さん、どういうこと?」
「ケンジが気の使い方を覚えたってことだ。リンちゃんは海外に行くといいかもな」
向上心がある異能者は、海外の異能者と交流を持った方がいいかもしれない。
駐車場に青いミニバンが入ってきた。
「よっし! 終わった?」
ウィンドウが開いて井戸さんが笑っていた。
「終わりました」
「じゃあ、帰ろう。團も乗ってく?」
「ああ、なんだか疲れちまったよ」
雲の隙間から夕日が差し込む中を、ミニバンが山道を走っていく。
はまぐり社長は獏さんの身元引受人として、警察に行ったらしい。
俺たちは湖畔のはまぐり工務店へと帰った。




