16話『山岳修行は限界から?』
秋雨が降る山は霧に覆われていて「修行をするにはもってこいだ」と團さんは言っていた。
「どっちにしろ体力勝負だ。走ればわかる……。いや、ケントの場合、ちょっと違うか」
天狗さんの後ろ走っていると、團さんが遅れ始めていた。無駄な装備を持ちすぎている。遭難したらどうするか。火を熾すには何が必要か。ナイフはどこのメーカーがいいとか。ダンジョンマスターだからか、動画サイトばかり見ているせいかギアが詰まったリュックを背負い、俺以上に修行をしている。
「ケント、ちょっと来い」
天狗さんに山の川原に連れていかれた。
「お前は、團と真逆だな。自分の怪我に無頓着すぎるんだ。地獄帰りだからだと思うが、その傷は放っておくと他の異能者に狙われる」
腕まくりをしていたから、小さな枝で切っていた。山を駆け上がったり下りたりしているので、転ぶことだってある。地獄で痛みに慣れているせいか、傷ができていたことすら知らなかった。
「現世では痛がること重要だぞ」
「そうですよね。地獄ではずっと痛かったから麻痺してました。血の海で浮かんでいれば、そのうち治りましたし」
「そうなのか? 別府温泉みたいなものじゃないんだ」
現世にも地獄はあるのか。
「別府に入ったことがないのでわからないですけど、痛覚がないと痛くないんで治るのは速いんですよね」
「へぇ。面白いな。苦痛そのものが日常だったのか」
「そうですね。慣れるんで、苦痛の種類が変わっていくんですけどね」
「なるほどなぁ。この軟膏はたっぷり使っていいから、傷口を洗って塗っておけ。疲れはないのか?」
「疲れてはいますけど、足に豆ができて潰れて指がくっつき始めて、歩けなくなってからが本番じゃないですか?」
軟膏を傷口に塗ると、皮膚が治っていくような痒みがあった。イメージした方が治りが早いが、この軟膏にはそういう効果があるのか。
「ああ、そうなるよな。ケントは修行が成り立たん。團! お前、ちょっと川原で飯でも作ってろ。獣が来たら狩るように!」
遅れて川原に降りてきた團さんは、汗だくで頷くだけだった。声が出ないほど走っていたのか。身体が大きいから、動かすのが難しいのだろう。
「ダンジョンマスターは指示を出すのが仕事だ。言うことを聞いた方がいい結果は出るが、付き合う必要はないさ」
天狗さんはドライに言ったが團さんの人柄をよく理解している。團さんも「罠張る時は言ってください」と川原に拠点を作り始めた。
「よし、行くぞ」
天狗さんに連れられ、再び森深い山に入っていく。
「結局、何かを覚える目的の方がケントには合っている。できることを増やそう」
「わかりま……」
返事をする間もなく、天狗さんが石のようなものを上に放り投げた。
コンッ。
何かが当たった音がする。気配もなく人の胴体ほどもある丸太が、頭上から降ってきた。
咄嗟に飛び退いたが、音に反応しただけだ。
「悪くない。不意打ちはしていくから、なるべく避けろ。他の異能者たちの邪魔はこんな程度じゃないからな。そら!」
天狗さんは枝を振り回して、俺の胸を打った。
ダンッ。
痛みはあるが来るとわかっていれば耐えられる。
「やっぱり。死なないと思える攻撃じゃないと避けない。ケントはプロレスラーじゃないから、まず攻撃されたら躱すんだ。毒で攻撃されたことはないのか?」
「ありますよ。でも、痛めつけたい相手なのか、頭を吹き飛ばしたいと思っている相手なのかは流石にわかりますから」
「いや、そういうことじゃなくて……。調子が狂うなぁ。毒殺されるかもしれないぞ」
「耐性ができるまでじっとしていればいいんじゃないですか」
「そんなこと人間にできるのか」
「できないんですか。いや、そもそも人を殺せる毒を犬神祭りで使うことってあるんですか?」
「いや、即失格だ。とにかく受けるな。躱す鍛錬をしよう」
「わかりました」
天狗さんは山を駆け上りながら、ひたすら俺の死角から攻撃してきた。とにかく俺が走りながら着地しようとした岩を崩したり、地面を確認して天狗さんの姿が見えなくなったところで石をぶつけてきたりする。背中に目があるというのはこのことか。
集中して五感を研ぎ澄まさないと一瞬で置いていかれる。日常のレベルでは追いつけない。
天狗さんは枝から枝に飛び移る時も風と一緒に移動するので、僅かな音も消そうとしている。辛うじて臭いだけで追いかけている時もあるが、いつの間にか異形の狸を追いかけさせられていた。
「これくらいは誰でもやる。ケントもできるようになった方がいい」
「確かに……。でも、覚えられますかね?」
「大丈夫だ。身体は若いんだから」
親にはシルバーウィークの間はずっと修行だと言ってある。天狗さんに修行を付けてもらうと言ったら、父は驚いていた。母は「危険じゃないところならいい」と言っていたが、地獄より危険なところへは今生で行けないつもりでいる。
頂上まで行ったら、寒さに耐えられる呼吸法を教えてもらい、半裸になってそのまま瞑想。本当に自分の身体の外側に薄い膜が張ったように感じるから不思議だ。
震えるほど寒いはずなのに、俺も天狗さんも半裸で、寒さをしのぐために身体を動かすこともない。知らない技術はそれだけで面白い。しかも、どんどん頭が冴えてくる。
後で聞いたら、天狗さんもオランダ人がやっていたのを真似たらできるようになったという。日本だけじゃなく変人は世界各国にいるものだ。
「山全体を飲み込むつもりで息を吸うんだ。今日から毎朝、日の出とともに太陽を飲み込め。じんわり身体が温かくなるぞ」
霧が晴れた山頂で陽の光を吸い込むと、単純に気分がよかった。
山の峰がはっきりとして、何も考えずにただ景色を見ていると、なんだかつまらないことに悩んでいたことに気づいてしまう。自分が動いたところで大して変わらないだろう。
異能だとか異能でないとか、そんなことは些末なことだ。
青い空がなにもかも吹き飛ばしていくようだった。
「犬神祭りって楽しいんですか?」
「同世代もいるし楽しいんじゃないか。なんだ、どうでもよくなってきたか?」
「そうっすね。俯瞰しすぎてしまいました」
「そのまま余計な力を入れずに、攻撃を受けていってみろ」
天狗さんが棒を渡してきた。天狗さんは刃渡りの大きな鉈を取り出して構えた。
「棒を切られないように、上手く受けるんだ」
天狗さんが鉈を振るモーションに入った時点で、肩に棒を当て距離を取る。
「そうなるよな。でも、こうすると……」
鉈を放り投げて、掌底でみぞおちを狙ってくる。棒で腕を払おうとしたが、天狗さんの太い腕に負けてしまった。
直後、頭上から鉈が降ってきて天狗さんが掴んで切りかかってきた。
どうにか避けるも、足場がない。大人一人分ほどの崖を落ちた。
坂を転がりながら立ち上がる。天狗さんは、すでに崖から飛び降りていて、容赦なく俺がいた場所に鉈を振り下ろしていった。殺気がない分、避けにくい。
「ほら。犬神祭りじゃ気配なんて出す奴の方が少ないぞ」
地の利も悪い。このまま続けていても勝てる見込みはない。せめて一矢報いることはできるのか。
そう思いながら山を駆け下りていたら、妙な臭いがした。
「天狗さん、何か能力出しました?」
鉈の刃の腹を棒で払って軌道を変えながら聞いた。
「いや。なにか臭うな」
俺は自分の頭を犬に変えて、臭いを辿る。
「追っていいぞ。鍛錬はいったん中止だ」
隣の山から風に乗ってやってきているようだ。全速力で駆けだしたが、天狗さんは重力がなくなったように素早く、巨木の枝に飛び乗って周囲を見回している。
異能者が遊んでいるだけならいいが、異界からまたなにかわけのわからないものがやってきたら面倒だ。
臭いの元に辿り着くと、大きな巨木の洞があった。巨木にはしめ縄が張られている。古い小さな社があったが、半分ほど地面に埋まっている。
洞からは大きなものが引きずられたような痕跡が残っていた。
「異界の蟒蛇が出たな」
天狗さんはあっさり断定した。




