004 彩命術の世界へ、ようこそ!
「なんだったんですか?今の…」
「フフフ。なんだったしょう?」
「アレですか。キツネ憑きとか悪霊が取り憑いていたとか、そういう感じですか?にしては、大物感あったんですけど…」
というか、悪霊と呼んでは失礼な気がする。まだ足が震えている。俺の中から吐き出されたモノだから、なんらかの「精神的な」存在なのだろうけど、「完全に人間でない何か」が、それもヒグマよりも巨大なモノが、目の前に現れて、宙に浮いていて、それが意識を持ち、こちらを認識し、言葉を発していたのだ。
「あなたが何者かに取り憑かれていた、というのは正しいですね。そして、あなたが感じ取った通り、そこらの悪霊とは違う。八百万の神様のうちの一柱、黄泉津大神様」
「へ!?」
「……の、無数に分裂してしまった、分霊のうちの一つ」
「そんなことがあるんですか?正直、まるっきり現実味がないんですけど……」
「無理もありませんね。こっちの業界でも、あそこまで育っているのは、滅多にないケース。ああでも、取り憑かれちゃうだけなら、今の時代、特に最近、段々増えてまして」
「あるんですか?」
「最近、無差別大量殺人事件って、時々ありますよね。電車で刃物振り回したり、雑居ビルでガソリン撒いて火をつけたりという」
「ありますね……ここだけの話、自分もやりそうになってましたけど」
車もないのにガソリンスタンドでガソリンを買うのは難しいかもしれない。しかし、ホワイトガソリンだったら、アウトドア用品店に行けば普通に売られている。去年の11月ごろ、会社の1階でガソリン撒いて火をつけようとする夢を、本当に見た。逃げ道を塞ぐために避難階段にも撒きに行こうと思ったところで眼が覚めた。リアルな夢だった。
「古事記の物語には、続きがあるのです。黄泉平坂の大岩を挟んでイザナギと別れた、黄泉津大神の物語の続きが。……ですがそのお話は、また今度にしましょう」
「42歳童貞のデコッパゲのオジサン失業者に、女神様が取り憑くとか、あるんですか」
「私達と会話ができるくらいにまで大きく育ってしまったのは、童貞を拗らせたからかもしれませんね」
「えーマジ童貞?キモーイ!童貞が許されるのは小学生までだよねーキャハハハハ」
すずりちゃんがお約束の相槌を入れてくれて、幾分場の空気が軽くなる。
「あと50年くらいして、精神医学がもっと進歩すれば、「感染性同一性障害」とでも呼ばれるでしょう。あるいは、「集団ヒステリー」の一種として扱われるかしら」
「去年精神科行ったときは、ただの鬱病で終わっちゃったんですけど、もう一度改めて、精神科行った方がよかったですか?」
「黒海銀一郎さんご自身は、どう思います?」
「ん〜、自分では、統合失調症だと思ってました。母親がそうだったんで。統合失調症は遺伝するっていうし。誰かの声がずっと聞こえてましたし。でも正直、強い薬飲むの怖くて。それで治る保証ないし」
というか、精神科で治療中の患者がガソリン撒いたって事件も、あったしな。
「結局のところ、人の精神の問題に対しては、現代の医学も宗教も、互いに不十分なのです。私達こちら側の人間でも、心の病をすべて治療することはできません」
「そうなんですか?」
「技術がない、のではなく、リソースがありません。脚気の患者が大勢いるのに、ビタミンB1がまるで足りない。行き渡らない。そんな状況です」
「俺はこれからどうすればいいんでしょう?さっきのやり取りで、俺の中の「殺す殺す殺す」は、収まるんですか?」
「ものすごく大きいのに今還ってもらいましたので、しばらくは大丈夫。けれどなんの対策もないままでは、いずれ再発するでしょうね」
「対策ってあるんですか?」
「八百万の神々のような霊的な存在と、自分の精神についての、正しい認識、正しい理解、正しい知識を持つこと。現代社会に満ち満ちている、無数の悪意に対して、正確に自覚して、正しい対処法を身につけること。あまりお金は必要ないけど、1000万の壺を買うよりも、手間も時間もかかります。ずっと」
むむむむむ。
「でもよかったわ。さっきあの方も話していたけど、もう少し対処が遅れていたら、あなたは本当に100人殺す事件起こしていたかもしれない」
「ああでも、心の中が静かになった気がします。ありがとうございます」
「それでは、本題に入りましょうか」
「!?本題でなかったの?じゃぁ今のはなんだったんです?」
「想定外のアクシデントですよ。さぁ、こちらをご覧になってくださいな」
七瀬さんはそう言いながら、ポケットから小さなドリンクボトルを取り出す。中の液体を少量口に含むと、ブフッーと宙に向かって吐き出した。
今さっきまで黄泉津大神様?がいらした?頭上に、霧が広がる。霧は最初のうちはゆらゆらと、霧らしく宙を漂っていたが、次第に一枚の立体面を目指して収束し始め、最終的には教会のステンドグラスのような幾何学模様状のパネルになった。七色に鈍く光り、空中に佇んでいる。低い方には根があって。根が集まって一本の幹になる。そこから枝が8方向に別れている。強く発光している枝と、そうでない枝があって、光の強さはまちまちだ。模様の全体に光の筋が何本も走って、ゆっくりと点滅する。まるで血管のようだ。木の周囲に星を表現したような図形がこれも8つ。こちらも枝と同様、強く光るものとそうでないものがある。
「いわゆるプロジェクション・マッピング?ですか?」
「これはあなたの魂や精神、意識のコンディションを、視覚化したもの。決まった呼び方はないんですが、今日のところは、メンタルツリーとでもしておきましょうか」
「CTとかMRIみたいな感じですか?これを見ればどんな精神疾患が発症してるか分かったりとか?」
「肉体に例えて言うなら、足りてない栄養がなんなのか、血液が届いてないエリアはないか、そういうのを見る感じですね。この木の高い方は、自我あるいは自意識、高レベルの精神の働きが表されています。低い方は、自律神経や本能、そういった方面の働きを表しています。……低い方を見てもらえるかしら」
メンタルツリーの低部エリアは、樹齢百年のイチョウのように、太く丈夫そうな根が幾重にも枝分かれして深く遠くまで広がっている。根の一本一本に、血管のような赤い線がしっかりと、しつこいくらいに巻き付いている。
「一般的には、自殺してしまう人は、こちらの根っこの方が、ひどくやせ細っているのです。肉体と世界との繋がりが弱く、生存本能が著しく衰えている。そして、「意識」の重みに耐えられなくなって、倒れてしまう。首吊りや飛び込みで、あっけなく死んでしまう。ですが、あなたの本能はご覧の通り、図太くて、潤っているでしょう。こういう人は、そう簡単には、自殺できません」
「でも俺は、本気で自殺しようとしてましたよ?」
「さっきまであなたに取り憑いていた神様は、あなたの周囲の人間を殺そうとしていました。「許せない」って。「殺す殺す殺す」って、ずっと聞こえていましたね?止められなくなっていましたね?それでも殺人はだめだから、なんとか抑えなければと、あなたの中の理性が、他人を殺してしまう前に自分を殺そうとしていたのです。そして、結局は、自殺は出来なかったでしょう?…上部を見てください」
根っこの方から視点を上の方に移す。8つの枝の外側の、8つの星があるなかで、特に2つが、特に強く輝いている。右上1時の位置の赤い星と、左上10時の位置の、重い緑の星。
「このツリーの見方をすべて説明しようとすると膨大なので、本当に必要なところだけ掻い摘みますね。私達は人の魂の性質を、8つの要素に分解して理解します。人間の三大欲求ってありますね?食欲・睡眠欲・性欲。それは肉体の欲求。欲求を満たすことで生命活動を維持し、子孫を残し、種を繁栄させます。同様に、人の魂・精神にも欲求があるのです。魂の場合はそれが8つ。この8つの星は、魂の「8大欲求」を表しています。8大欲求を満たすことで、人類は、ルールを作り、国を作り、文化を育み、文明を発展させていくのです。8つの星には名前がついています。右上の赤い星から時計回りに、「アダム」「イブ」「リリス」「エミタメ」「ジョカ」「パンゲア」「タナトス」「スターヘルツ」。それぞれの欲求については」
「七瀬さーん」
七瀬さんはなにかのスイッチが入っちゃったみたいで、すずりちゃんの呼びかけが届かない。
「アダム」は「正しくあること。燃やすこと」
「イブ」は「静めること。写すこと」
「リリス」は「欺くこと。隠すこと」
「エミタメ」は「迎え入れること。育むこと」
「ジョカ」は「無限に広がること。貪欲であること」
「パンゲア」は「一つにすること。固まること」
「タナトス」は「死ぬこと。葬ること」
「スターヘルツ」は「響き合うこと。巡り合うこと」
「銀一郎さんの魂を、8つの星に分けて見てみますと、2つの星が過剰に強く光っています。「アダム」と「タナトス」。己の死を厭わず、正義を貫こうとしている。この2つの過剰な輝きを抑える必要があります」
「ナナコちゃーん!」
七瀬さんは止まらない。
「輝きを抑えるためにはどうすればよいか?陰陽道に、五行思想というものがあるのはご存知ですか?木火土金水。それぞれの相生と相剋。あれと同じ考え方を、こちらでも展開します。即ち相生の流れが、アダム→イブ→リリス→エミタメ→ジョカ→パンゲア→タナトス→スターヘルツ。相剋の流れが、アダム→エミタメ→タナトス→イブ→ジョカ→スターヘルツ→リリス→パンゲア。したがって、アダムとタナトスを抑えるためには、パンゲアとエミタメを活性化させればよいのです。具体的にどのような措置が必要になるかといいますと」
「こらぁーナナコ!いいかげんにしろー!」
すずりちゃんが大声を張り上げて、話を止める。
「なに、どうしたの?」
「分かるわけないでしょう、いっぺんにそんなマニアックな話!」
「え?そう?これでもかなり噛み砕いて端折ってるつもりなんだけど」
「無理して噛み砕くからかえって分かんなくなるの!それに別に今すぐ必要な知識でもないでしょう?」
「そ、そう?許容範囲かなとも思うんだけど」
この8大欲求とかいう話は、もちろんまるでついて行けてないけれど、まぁでも、仕事を覚えるって、大抵こんなもんだよな。どんな職場だって、先輩がマウントとるために、いっきにまくし立てるもんだった。清掃の仕事だって、公的資格の学科試験は教科書300ページあったしな。それ読まないと清掃の仕事できないのかというと、別にそうでもないのだが。
「彩命術の知識全般は、明日から少しずつ説明していけばいいと思う。今大切なことは、黒海さんが、決断すること。私達と来るか、それとも死ぬか。その選択が「正しかったんだ」って、確信をもてるようになること」
七瀬さんに代わり、すずりちゃんが俺に正対して問いかける。
「黒海さん、私と二人で話してた時、「真か偽か」って話、してましたよね。残りの人生は、正しく生きる人のために使いたいって。ここまででどうですか?私達は、黒海さんから見て、「正しく生きる人」でしょうか?」
この二人が関わっているオカルトは、「彩命術」というのか。初めて聞く言葉だ。目の前で起こっていることや七瀬さんからの説明は、まるで理解が追いつかない。さっきのが黄泉津大神だとかって話も、到底信じられない。もしかすると統合失調症がさらにひどくなって、いよいよ幻覚を見るようになっただけかもしれない。だけど、今ここで大切なのは、この二人が「正しく生きる人」なのかどうか。
この人達は、俺の心の問題に正面から向き合ってくれた。解決のために、すぐとなりに寄り添ってくれた。そして何より、この段階まで来ても、俺の意思を尊重してくれる。俺が選択するのを、待っていてくれている。心の壊れた躯ではなく、魂を持った人間だと、信じてくれている。
「うん。正しく生きる人です。そこは信じられます」
「それでは、あなたの残りの人生を、私達のために使っていただけますか?」
「うん、使うよ。使っていいよ。遠慮なく」
改めて、二人の前に正対する。
「どうか、お二人の会社で、私を使ってください」
「……承りました。ありがとうございます」
少し間をおいて、七瀬さんが丁寧に頭を下げてくれる。
「やったーよーろーしーくー」
すずりちゃんは両手を上げて喜んでくれる。こういうは何歳になっても恥ずかしい。
「ふう、よかった。それでは、最後の手続きに移りますね」
七瀬さんはそういいながら、俺のメンタルツリー?だかを改めてまじまじと眺める。
「ふむふむふむ。本当に、相当幅広くいろんな勉強されてきてますね……スターヘルツもちゃんと開いているわ……天文分野の趣味あったりします?」
「そんなことも分かるんですか?……つい最近、星空撮影はじめたところです。フルサイズのミラーレス一眼買って。三峰口とか日立だったら、日帰りで行けるから」
「ほうほうなるほど、とても素敵です……ん?う〜ん、黒海さん、10代の中頃、高校時代かしら。なにか忘れられない、「重たい出来事」ってありましたか?」
「なにかあったの?」とすずりちゃん
「ほらここ。霊相の流れが思い切り変わってるわ。この時期の前後で、ほぼ別人になってる。」
七瀬さんが宙に向けて、右手の親指と人差し指を摘んだり離したり、左の人差し指を縦横に動かしたりする。それに合わせてツリーの映像が拡大・移動する。
ツリーの幹のちょうど中間あたりか。確かに脈やら筋やら、流れのあるものがその場所でバッツリ途切れている。例えが悪いが、リストカットの跡みたいだ。
「重たい出来事、例えば殺人・自殺?…う〜んと、ちょっと待ってください。今思い出します…あ、あった!」
「痴漢ですか買春ですか強姦ですか」
「してないよ!童貞だって言ったでしょう!……じゃなくて、そう、高校2年の時、1996年です。同級生の女の子が一人、飛び降り自殺して亡くなりました」
「それは大変ね……仲良かった方ですか?」
「そんなことはなかったです。文化祭で、一緒に劇やらされましたけどね。主役と準主役で。あぁ。あの時も散々だった」
「黒海さんからみて、その子、どんな子だったんですか?なにか、訳ありな雰囲気出してました?」
「今思い返すと、出してたかなぁ。高校2年の4月に転校してきた子で、あまり詳しく知らないまま終いだったけど、なんか他の女子とかは全然違ってたな」
「どんな風に?」
「うん。ぱっと見、明るくて爽やかなんだよ。程よい長さの黒髪ストレートで、メガネしてなくて。背筋がすらっと伸びてて、すごい眼力あって」
「いつもエロい目で見てたと」
「見とらんわ!……そうじゃなくて、あれなの。自分からは誰にも話しかけないんだよ、まったく。誰かから話しかけられると、ハキハキして感じよく応対するんだけど、自分からは一切人と話そうとしない。女子連中は自分たちのグループに入れたくて、きっかけ作っては話しかけてたけど、高嶺の花?って感じで、男子はみんな近づけなかったな。静かなのに、暗くない。不思議な雰囲気だったな」
「その子とはずっと、接点なかったんですか?」
「なかったです。文化祭の出し物で一緒に劇やらされたときは、少しは話すようにはなりましたけど、でも文化祭が終わった後、飛び降りちゃったから」
「黒海さん、もしかして飛び降りのとき、傍にいたりしました?」
「はい、いました。俺とふたりきりでした。文化祭の後片付け終わって、みんなほぼほぼ帰る頃、1年生が使う4階の、みんな帰って誰もいない教室に連れて行かれて」
「そこではどんな話を?そして、その子のお名前、思い出せますか?」
「割と無難な話でしたよ。進路どうする〜?とか。残念ながら告白などでもなく。……ちなみに、名前は「影森暦」さん」
「さほど異常な状況ではなかったと。……そうですか。名前に特別な呪が乗っているわけでもなさそうね」
「そのくらいおかしいんですか?その頃の俺」
「その時期までは、ごくごく、いい意味で平凡なんです。無難に当たり障りなく、人並みの人生でいいかなという。けれどこの時期以降は、まるで変わってしまっています。がむしゃらに努力しだして。自分を虐めて虐めて、まるで自分が罪を犯して、その罪を償おうとするかのごとく」
「……でも、その頃の時代の空気が、そうでなかったですか?ネットとか携帯電話が一気に普及して、規制緩和規制緩和って。今までと同じことやってちゃダメだって」
「変化の大きい時代でしたね。ルーズソックスの全盛期ね。震災やサリン事件もありましたね。けれど、人々が望む幸せは変わらなかった。カセットテープがMDに変わっても、録音の中身は恋愛を唄うJ-POP。お経にも雅楽にもならなかった」
「う〜ん、確かに、うわっつらのガジェット変わっただけかぁって気もしますけど」
「……黒海さん。この事件が起きる前のあなたが、今現在の、42歳童貞で自殺寸前でオカルトにはまろうとしている、今のあなたを見たら、なんて思うかしら」
「オマエは一体何と戦っているんだ」
「でしょう?そういうことです。……そうです。あなたはずっと、戦ってきたんです」
「何と?」
「時代。あるいは、ハリボテの月」
「時代……」
口ぶりは淡々としていながらも、七瀬さんははっきりとそう断定した。一切のためらいなく。
「まるで、時代っていうのが、なにかの生き物みたいですね」
「黒海さんも、すぐに分かります。このままじゃまずい。誰かがなんとかしなければって。それこそ、明日にでも」
ここまで言って、七瀬さんは話を切り上げた。目をつむり、呼吸を整え、両腕を大きく広げた後、竪琴を奏でるようなポーズを取る。最後の手続きとやらを始めるようだ。左手を広げた先の空間が、衛星写真の台風のように渦巻いていく。右手を渦の中に突っ込む。渦の中が震えている。大気中のごく一部、何かは分からないが特定の成分だけが、渦に集まっていく。
「すずり、言挙げをおねがい。景気よくやってちょうだい」
「承知ー!」
すずりちゃんは、大きく息を吸い込んだ。
七瀬さんは、一つ、深く深呼吸をした後、右手を渦から引き出す。その右手は何かを握りしめている。
「ハァッ!」居合斬りをするかのような気迫で、七瀬さんが渦から何かを引き出す。同時にすずりちゃんが大声を張り上げる。
「かぁぁあいうぅぅぅん、れぇえいぃんぼぉおう、
ばぁぁあるぅぅるッ!(開運、レインボーバール)」
大相撲の行司のような叫び声だ。声に合わせて、周囲の空気が変わる。墓地にいたのがパチンコ屋に入ったかのようだ。脳内に直接響き渡る、軍艦マーチ。
七瀬さんの右手には、バールが、いや違うか。「バールのようなもの」が握られていた。けっこうデカい。色は七色。しかもテッカテカに動いている。いわゆるアレである。ゲーミングPCでよくあるという、動くライティングである。うっわー、ブツを見ただけでもう察してしまった。
「いやあの。分かりますよ。そのバールのようなもので、俺の頭をぶん殴るんでしょ?そういう流れでしょ?でもだからって、どうして武器名叫ぶんですか?どうしてバールなんですか?どうして、ゲーミングにしちゃうんですか?」
眩しい。下品にうるさくて眩しい。七瀬さんを直視できない。
「ごめんなさい、仕方ないの。だってやっぱり、恥ずかしいんです私達だって。いい年して神とか魂とかアダムとか、なに厨二病こじらせてんのって、心の声が聞こえてくるの!でも仕方ないんです。どうしようもないの。狂った時代に向き合っていくには、私達も狂ってないといけないの!ごめんなさい銀一郎様、羞恥心を棄てられない、シャイな私達を許して!」
「許して!」と叫びつつ、すごく楽しそうにニヤついている七瀬さん。ヒュンヒュンヒュンとチアリーダーのバトンのようにバールをブン回し、モリモリテンションを上げていく。いゃぁ久しぶりだわこうことのすんのやっぱ楽しいわぁって、聞こえてこないけど、そんなセリフが頭に流れ込んでくる。
あぁ殴られる。俺は殴られる。殴られて、頭にでかいタンコブ作るんだ。どこからともなく、白いバッテンがタンコブに張り付き、地面に倒れ込むんだ。
七瀬さんの姿がフッと視界から消える。もう探すまでもない、改めて俺の背後に回り込んだのだろう。バールを下段に構えて、腰を落として、力を貯めて。
観念して、歯を食いしばり、目を瞑る。
「しゅくじょょぉお、いっぱぁぁぁああッつ!
さぁぁいけでりぃぃっくぅほぉぉおおおむ
らぁぁぁぁぁぁぁああんッ!(淑女一発、サイケデリックホームラン)」
スッコーン!と、俺の後頭部をボールに見立てて、勢いよく振り抜いたのだろう。後頭部に生まれてはじめての衝撃が走る。頭蓋骨をすり抜けて、脳にだけ、なにがしかのエネルギー的なものが流れ込む。おそらくはきっと、とてもバカっぽい感じの。
「ふんぎゃぁぁああ!」
みっともない断末魔を上げて、顔から足元の芝生に倒れ込む。最後の意識を振り絞ってメガネだけはなんとか外し、地面との直撃は避けられた。
意識の途切れざまに、すずりちゃんと七瀬さん、二人の声が聞こえた。
「これまでお疲れさまでした。そして、彩命術の世界に、ようこそ!」
★ ★ ★ ★ ★
「じゃぁこれで、後片付けも終了だね。みんな大変お疲れさまでした〜」
後片付けまで終了し、ウチのクラスも解散になる。これでようやく開放される。
「黒海君、打ち上げ行かないの?」
「申し訳ありませぬ。精根尽き果てました故、拙者はこれにて。何卒お許し頂きたく」
クラス内カースト上位の女子の方々からのお誘いだったが、丁重にお断りさせて頂く。
この年の文化祭、ウチのクラスは劇をやることになった。人気だったテレビの刑事ドラマのパロディものを。主人公の警部補のおじさんに雰囲気が近いからと、主役を押し付けられれてしまった。断れる立ち位置にいなかった俺は、まぁ台本の通り喋るだけならと、流れに抗えず引き受けてしまった。ところが、その台本がいつまでたっても出来上がらない。脚本担当が何もしない、作れない。このままだと未完のまま文化祭本番。俺は学校中の晒し者。クラスのみんなは、誰もが見て見ぬ振り。追い詰められた俺は、なんとかせねばと、自分で脚本を書くことにした。それしかなかった。本屋で買ったミステリのネタ本を頼りに、脚本なんて初めてなのにそれはもう必死に。幼稚園入園から14年目、同級生たちのことを「信じられない」と思ったのは、このときが初めてだった。
文化祭本番、演劇としては大層不格好だったのだろうけど、俺の芝居と長台詞が割と主役の警部補に似ているということで、劇は想像以上にウケた。文化祭を大いに盛り上げることができた。クラスのみんなは大喜び大はしゃぎしていたのだが、オマエラ何もしなかったじゃん俺に押し付けただけじゃんってことで、俺一人だけ、心が賽の河原に飛んでいた。岩石の海が広がっていた。みんな死んでしまえ。
「黒海君、本当にお疲れ様。あの…大丈夫?」
準主役の犯人役を俺と同様に押し付けられた影森さんだけが、俺の心の闇に気づいてくれたようで、心配そうに、声を掛けてくれた。
「拙゛者゛死゛ぬ゛でござる」
「いや、あの、待って。冗談に聞こえないです。とりあえず、ここから離れて、少し落ち着こう、ね?」
カーストの上位グループからのカラオケへのお誘いを上手にお断りして、彼女らを校外に送り出した影森さんは、紙パックのコーヒーを買って、俺を人気のない4階の教室に連れてきてくれた。
18時すぎ。9月だからまだまだ空は明るい。遠くでカラスの鳴き声が聞こえる。平和な夕暮れだ。もらったコーヒーを飲んで、大きく息をついて。ようやく気持ちが少し落ち着いた。
「お互い、とんだ災難だったね。文化祭ってこういうものなんだね。素敵な思い出づくりのために、誰かを犠牲にするんだね」
「意外。影森さんも毒吐くんだ。そういうこと言わない人だと思ってた」
「他の子の前では言わないよ?女子はみんな、必死だから。たった一度の高校生活だから。今しかないからって」
「そんなもん?大学行ってからだって、学園祭とかあるじゃない」
「時間もお金も使ってベタベタにメイクして、飲みたくもないお酒飲んで、好きでもない男とエッチして、ありもしない「やりたいこと」を探すんです。自分に嘘をつかなくていいのは、高校時代が、最期」
二人で窓辺から外を眺める。運動部の練習も終わったようで、校庭にはもう誰もいない。
「学校生活は男子よりも女子のほうが毎日楽しそうだけど、案外無理矢理そう振る舞ってるだけだったり?確かに先々、就活なんかは女子のほうが大変そうだけど」
「……ねぇ黒海くん、どうして黒海くんは劇の主役引き受けたの?どうして頑張って脚本直したの?」
「だって怖いじゃん。「大事な文化祭なのに、なんで協力してくれないの?」って言われちゃうじゃん」
「言わせておけばいい、とは思わなかった?どうせ今嫌われたって、来年はもう受験勉強で、みんな関係なくなるよ?」
「そう言われると、そうだよね。う〜ん、どうしてだか、分かんないや」
影森さんにはそう答えつつも、ぼんやりと理由が浮かんでくる。俺が3歳のときに精神を病んだ母親は、他のママさんから虐められていたという(今思い返すと統合失調症特有の被害妄想だったように思う)。親父も出張が多くて家にいない。独りぼっちの母親の話し相手は、当時幼稚園児だった俺しかいなかった。毎日俺が幼稚園から帰ってくるや、ママさんたちへの恨み言をずっと話していた。ずっと、ずっ〜と。もしかするとその頃から俺は、頭で理解していなくても、身体で感づいていたかもしれない。女の恨みは買っちゃいけない。憎しみを引き出してはいけない。熱くて粘っこくて、とてもとても、本当に醜いからって。そんなことを考えながらぼ〜っと遠くを眺めていると、影森さんがとても嬉しそうに笑った。「やさしいよねー」って。
「黒海くんのおかげで、文化祭は盛り上がった。クラスのみんなには素敵な思い出ができた。黒海くんは、とても素敵なことをしたんだよ」
影森さんの言葉が、とても穏やかでやさしくて甘い。産まれる前、母の身体に降りる前、かみさまといっしょにすんでいた家で、あの娘といっしょに、シチューを食べた。そんなことがあったかのような、夢見心地の気分になる。
「左様でござるか。拙者もう要済みでござるな。明日からは勉学に専念するでござる。あいつらの届かない大学に行くでござる」
「私も、黒海くんみたいな人と会えて、今日こんな話ができて、本当によかった。せっかくこの時代に身体を用意して、何の収穫もないところだった。あなただったらきっと、この時代を跳ね返せる」
「?」
「もう行かなくちゃ。最期にあなたに伝えたいことがあります」
影森さんが窓をあけて、サッシに腰掛ける。日が落ちて、橙の空が紺に染まる。宵闇がこの人を迎えに来る。
「時代は、変わらなければならない。歴史は、進めなければならない。そのために必要なのは、静かに輝く、透き通った命」
「命は、繋がっている。私の命も、あなたの命も」
「身体がなくなっても、終わりじゃないから。どうかあなたの心は、あなたの命は、正しく生きる人たちのために」
「それじゃ、また」
「ちょっと待った!!」
夢から醒めてしまう。甘い夢が終わってしまう。その前に、どうしてもこれだけは。この人の口から聞かせてほしい。
「この27年、俺はどうだった!?ロクな結果出せなかったけど、人としてどうだった?少しは正しくいられた?正しく生きる人たちの力になれてた?」
一瞬驚いた顔をして、その後にっこりと微笑みを返してくれた。とても嬉しそうに。
「もちろんだよ。また会おうね。今度はもっと近いうちに」
ずっと聞きたかった甘い声だ。27年待った。これが夢でも、ようやく会えた。