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放課後君は夜と踊る。ハリボテの月を俺は撃つ。  作者: 空野子織
第1章:黒海銀一郎、彩命術と出会う。
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003 スミマセン少しだけ、オジサンに自分語りさせてください。


「今晩は」

 電話から15分ほどで、電話の相手と思しき女性が、俺たちのいる2階に、トレーを持って上がってきた。

「お初にお目にかかります。株式会社ユメツナギノオホミタマ代表取締役、凛堂七瀬(りんどうななせ)と申します。本日は弊社社員のためにお時間をとってくださったこと、謹んで感謝いたします。ありがとうございました。」

 トレーをカウンターに置いてから、とても丁寧に挨拶された。深々とした最敬礼を受ける。

 全身をベージュ系で統一した、すずりちゃんほどではないがやや小柄な女性だった。髪は相当明るいクリーム色の、前髪なしのポニーテール。和服の意匠を取り入れた、独特なデザインのワンピース。左手薬指に指輪はしてない。手の甲、足の甲、首筋に目をやると、あれ、年の頃が分かんないぞ。スキンケアや化粧で顔の若さは維持できても、女性の年齢は手足に出るものなんだけど、ふっくらつやつやで、まだ20代のそれだ。明治生まれの方ですかってくらい、物腰は落ち着いているのに。

「あ、いえ、こちらこそ急にすみませんでした。お忙しいでしょうに、急に呼び出す形になってしまって」

 不審極まりないキャッチセールス受けてるんだから、こちらが下出に出る必要はないはずだが、会社勤め続くとダメですよね。こちらもイスから立ち上がり、ペコペコと頭を下げる。


「おつかれーっす」

 とっくに空になったはずの3本目のシェイクを吸いながらすずりちゃんが挨拶する。先程までの俺に対する謙虚さはどこに行ったのか、急に小生意気な態度になる。

「この子の飲み物も、ありがとうございますね。よろしければこちらお召し上がりになって」

 トレーにはホットコーヒーとバニラシェイクだった。


 ホットコーヒーはありがたく頂く。バニラシェイクはすずりちゃんにかな。時計を見ると23時を回っていた。

「終電は気にされなくて大丈夫ですよ。車で来ましたから」

「ご自宅からいらしてくださったんですか?この辺りにお住まいで?」

「ちょうどクライアントとの打ち合わせが終わったところでした。食事に誘われていたところだったので、抜け出す口実ができて助かりました」

 この位の立場の人の言葉は、どこからホントでどこからウソか、本当に分からないな。気遣いと方便に埋もれて、本心がまったく読み取れない。

「すみません、いろんな話が急すぎて、頭の整理がおいついていなくて」

「夜は長いですから、ゆっくり参りましょう。最近は銀座の夜も、静かになりましたね」

「ナナコしゃちょー、めっちゃおしとやかじゃーん」

 すずりちゃんが毒を吐く。社長さんが持ってきたシェイクは何も言わずに手を付けていた。

「昨今の社会情勢により、弊社も慢性的に人材不足でございまして。このように社員教育が行き届いておりませんで、お恥ずかしい限りですわ」

 パコッと、すずりちゃんに脳天チョップ、俺に対しては、丁寧に話しかけてくれる。下手な親子より仲いいんだろうな、この二人。


「あーうー、もう、トイレ行ってくるー」と、すずりちゃんは席を外す。社長さんと二人だけになった。

「あの……だいたいの事情は彼女からそれなり?聞いたんで、一応大丈夫なんですが、その、本当に俺、いや、私でいいんですか?」

「あの子があんなに自分の気持ちを表に出すのは、初めて見ます。いつもはもっと、そう……湿気(しけ)た新聞紙みたいな雰囲気の子なんですよ」

「もっと他に、私以上の適任者がいるのでは?なにもこんなオッサンでなくても…基本的に人材は、若い方のほうがいいでしょう?」

 次の職場を探す気にならないのは、自分が40歳を過ぎてしまったことが大きい。もう若い人たちには敵わない。体力や能力が、ではない。自分の人生への執着、の面でだ。理不尽に仕事を振られても、それを拒絶する気力が出てこない。

「黒海さんの適正や職能、人間性に関して、一切の懸念がありません。どうか、自信をお持ちくださいね。いえ、自信を取り戻してくださいね、ですね」

「私、いや、俺は、なにがいけなかったんでしょう?どうして大学中退でも正社員にしてくれて、10年間面倒をみてくれた会社から、逃げ出してしまったんでしょうか?」

 あれ……?会社の連中が許せなくて許せなくてどうしようもなくなって、ガソリン撒いて火をつけてしまいそうになって、でもさすがにそれはやりすぎだと、平常心が残っているうちに、どうにかバックレたんじゃなかったっけ?殺す殺す殺すって、毎日毎晩、歯を食いしばっていたじゃないか。


「俺の人生は、失敗でした。大学受験がとか、就職が、とかではなくて、もっと根本のところで、「生きること」を正しく身につけることができなかった。この身体は、本当に頑張ってくれました。42年、大きなケガも病気もしなかった。月150時間残業しても潰れなかった。性欲に負けて痴漢したりもしなかった。でももうダメなんです。限界なんです。なにがダメなのか、何故ダメなのかも分からない。精神科も行きました。けど何も変わらなかったし、分からなかった。ただただダメなんです。人生を続けることができない。「死」以外の選択肢が出てこない。そのくせ結局、自殺だってできないし。昨夜、自殺ができなくて区役所から帰ってくる時思ったんですよ。自分で死ねないってことは、殺してもらうしかないのか?誰かが、何かが、俺を殺しに来てくれるまで、何も出来ないまま生き続けないといけないのか?統失ゾンビのお袋みたいに、ひたすら邪魔で迷惑な、生きる生ゴミをやらないといけないのか?もしかして俺はもう死んじゃってて、いまこの世界が地獄なのかって。でもこんな地獄は、いくらなんでもあんまりです。誰かの心を傷つけて、思い出を汚して、不幸にしないと生きていけない地獄なんて、あんまりです。もう訳がわかんないですよ」


 社長さん、凛堂七瀬(りんどうななせ)さんは何も言わず、じぃっと俺の話を聞いてくれていた。なにかの気持ちを瞳に宿して、俺をやさしく見つめてくれる。なんだろう…「憐れむように」ではないな、えっと、「慈しむように」だ。「慈しむ」。…俺はいつどこでこの言葉を覚えたのだろう、心当たりがない。


「あなたは、立派なことをしてきたんですよ。ずっと。一人で、何年も」

 眼前一面に、夜空が広がったような錯覚を覚える。カフェにいるはずなのに、店内BGMも聞こえてくるのに、満天の星空だ。天の川も見える。おかしいな。都内は光害(ひかりがい)がひどくて、天の川なんて肉眼では見えないはずなのだが。

「黒海さん……もしも、心の苦しみからもお金の心配からも開放されて、明日からもっと自由に生きていけるとしたら、どのように生きていきたいですか?」

「地に足をつけて、静かに丁寧に生きていければそれで」

「あなたを追い詰めた会社に報復したり、今までの苦労した分、豊かな生活をしたいとは、考えませんか?」

「そういうことは別に。なんだかんだ、やりたいことはやれてきたので」

「なるほど、承知いたしました」

 七瀬さんは、なにかを思案しだした。なんだろう。もしかすると、あれだろうか。ここから1000万の壺を売りつける流れだろうか。


 さほど長い時間ではなかったが、今この人と話ができたことは、よかったと思う。なんだか良くわからないが、ようやく、重い荷物を少し降ろせたような。

 仮に1000万の壺を売りつけられたとしても、30年ローン組んで買ってしまってもいいかな。続けられる仕事だけ、紹介してもらえれば。


「戻りましたー」

 すずりちゃんがトイレから戻ってきた。空気読んで席を外していたようだ。


「すずり。貴方はどうしたい?結婚する?それとも、壺買ってもらう?」

 壺か。やはり壺なのか。

「あれの続きをする。この人に手伝ってもらう」

 すずりちゃんの表情が、今日一日で一番、重たく固くなった。返事を聞いた七瀬さんも神妙な顔つきになる。

「そう……じゃぁもう、いっぺんに全部伝えちゃいましょうか。もうこのまま一緒に住んでもらうでしょ?部屋の掃除できてる?」

「一部屋は空っぽのまま空けてあるから」

 うん…?

「承知。では、移動しましょうか」

 七瀬さんが立ち上がる。すずりちゃんはトレーを片付ける。

「この時間から、どちらまで?」

 一人状況についていけない。これからどうなるのかまったく予想できず、心細くなる。

「この子の部屋に帰る前に、少し寄り道させてくださいね」



★ ★ ★ ★ ★



 店を出て少し歩いた場所のコインパーキングに着く。七瀬さんは精算機。すずりちゃんは別方向に歩いていく。どの車か分かっているようだ。

「黒海さん、こっち」

 すずりちゃんがおいでおいでをする。ドイツ車メーカーの中型ハッチバックだ。

「なるほど」

 輸入自動車の定番中の定番である。俺失業者氏、直近の仕事は清掃だったが、その前の前の前の前の仕事は、市場調査会社でのアンケート調査だった。輸入自動車を扱う販売店の顧客満足度を調べるもので、その関係で、自動車には少し詳しかったりする。どんな車に乗っているかで、持ち主の社会とのスタンス、人となりが分かるのだ。いくら日本経済が衰退の一途だからといって、一企業の経営者が客人との移動に電車ではカッコがつかない。見た目の問題ではない。赤の他人がすぐ近くにいる公共交通機関では、会話ができない。機密情報漏洩の危険があるからだ。その点では、タクシーでもだめ。自分たちの車を持っておけば、移動中に秘密の会話をすることができる。オフィスのミーティングルームやWeb会議ではできないような、ログが残ってはまずいような、「ここだけの内緒話」をするのに、やっぱり車はまだまだ有効なのだ。

「身内しか乗せない車ですけど、どうぞ」

 七瀬さん直々に運転するようだ。すずりちゃんと俺は後部座席。「身内しか乗せない車」という表現は、「客人を乗せる余所行きの車」が別にある、ということ暗に伝えている。

客人用のフォーマルな車が他にあるのに、あえて身内用の車で来ているということは、俺を身内として受け入れてくれる、ということの表現でもある。メールや電話では伝わらない、察することのできる人にしか届かない、さりげないメッセージ。

「失礼します」

 深々とおじぎをして最大限の恐縮を表現しながら、乗り込む。後部座席の真ん中には、伝統工芸っぽい作りのトレーとスプレーボトル。手指消毒用と思われる。後部座席には、シートの上から高性能なクッションを置いてくれているようで、それはそれは座り心地がいい。サイドガラスに、ホコリも雨だれ跡もまったくない。そこにガラスがないのではないかという位、綺麗に拭き上げられている。車内のどこかで、ほんの少しアロマオイルを垂らしてあるようだ、ユーカリ?かなにかの、森林系の香りがする。


 この車よりハイグレードな車はまだまだあるけど、それだと相手を萎縮させてしまう。

 この車よりお洒落でかわいい感じの車もまだまだあるけど、それだと狭い。相手に窮屈な思いをさせてしまう。ゲストには、リラックスして心地良く過ごしてもらいたい。そのための気配りが、車選びに表れている。


「侘び寂びだよなぁ」としみじみ。

 昭和の、20世紀の大人たちは、時計だ車だバッグだと、高級品を買い漁ってマウントを取り合っていたけど、そんななかでも、「心からのおもてなし」を実現しようとする文化が、東京にはあったのだ。そしてそれは急速に失われつつある。今度のコロナがそれに拍車をかけた。「直接会って、初めて伝わる気遣い」は「感染回避とリモートワークの効率性」に、居場所を奪われてしまった。「おもてなし」の価値を世界PRし、そして若い日本人に継承するチャンスだった東京オリンピックは、見事に空振ってしまった。これからの若い世代は、「おもてなし」と言われても、それが何なのか体験することないまま大人になって、社会を回していくのだろう。「そんなとこにこだわっているから、日本はIT化が進まんのだ」と言われれば、確かにそれはその通りなのだけど。


「残すべきか忘れるべきか」みんなでゆっくり考える時間は、あってもよかったと思う。


 なんにせよ、自身の経済力を誇示する事もなく、趣味趣向を押し付けるでもない、素朴で堅実な車選びだ。規模はまだ分からないが、東京で会社を経営していて、この車をこんな風に扱える人なら、いかがわしい金の稼ぎ方はしてないだろう。



 この二人の今までの印象を総合して、ひとまず安心する。この人達だったら、関わっても大丈夫だろう。




★ ★ ★ ★ ★




 車の中では3人ともあまり言葉を発しなかった。別に重苦しい空気だったわけではなく。

 俺だけじゃなくて、七瀬さんとすずりちゃんも、頭の中を整理したかったのかもしれない。

 車は銀座から首都高に乗り、芝浦から麻布を回って六本木を抜け、半蔵門、竹橋と進んで、西神田というインターで高速を降りた。九段下の辺りで路上パーキングに駐車する。

「ちょっとここから歩きますね」

 七瀬さんはそう言いながら、荷台に積んであった、わりと大きめの荷物を降ろす。

「ああ、自分運びます」

 荷物運びを買って出る。車椅子だった。

「何に使うんです?」

 車椅子は広げて、押しながら歩く。

「ここからすずりの部屋までまだ少しありますから」

 うん?まだ分からない。


 車を停めた道路は何年も地下鉄拡張の大掛かりな工事をしており、深夜でも騒々しい。九段下交差点を渡って、靖国通りの左側登り坂を市ヶ谷方面に向かって登っていく。北の丸公園に入るようだ。芸能人御用達の日本武道館のある公園である。3月4月は大学の卒業式入学式に、大企業の入社式と、式典続きでとにかく人が多い。深夜でもジョギングや犬の散歩に来る人が多く、静かではあるものの人の気配が途切れることがない。武道館前を通り過ぎて、池のある広場で立ち止まる。目的地に着いたと思われ。夜空が開け、遠目に丸の内のビル群が見える。おそらく新月の頃なのだろう、月は見えない。

 ここでも点々と、桜が植わっている。


「さて、それじゃぁはじめましょう」

 七瀬さんが全身を大きく伸ばして、肩をほぐす。

「リラックスしてくださいね」と、すずりちゃん。


 特に促されたわけではないのだが、身体をほぐして大きく深呼吸をする。この公園は皇居に近いということで、夜でも警察のパトロールがある。物騒なことはしないはずだ。かといって、面談の続きってわけでもないだろう。雰囲気を察して、緊張してくる。


「黒海さん。東の方を向いてもらって、レントゲン撮影を受けるようなイメージで、まっすぐ立ってくださいますか?腕は降ろしていてかまいません。そうそう。それで、軽く空を見上げていただけますか?」


「はい」

 丸の内のビル群が視界に入る。七瀬さんは、俺の背後に回る。すずりちゃんは何をするでもなく、少し離れた位置から様子を見ている。

「ではですね。ちょっと辛いこと思い出させてしまいますけど、ここ最近で、特に辛かったことを教えてください。そうですね。先程まで少し伺いましたけど、ここで改めて、あなたが突然退職することになった経緯(いきさつ)を、話してみてもらえるかしら?」


 ここまで来たら抵抗する理由もない。バックレてから1ヶ月経っていたから、会社に対しての感情は、幾分落ち着いて来ている。すーっと息を吸って。


「ちょっと前まで、コロナの前まではあまり問題なかったんです。渋谷で大きな商業施設の開業があって、そこの清掃の、現場責任者で。開業に向かって頑張って仕事して。インバウンドのお客さんも大勢いた時期で、自分の職場には、大勢の来館がありました。3日で100万人とか言ってたかな?すごい大変だったんですよ。現場で寝泊まりしたし、24時間勤務も3回やった。でもそれ相応の達成感もあって。お客さんが楽しんでくれてるの分かって、ああこの仕事しててよかったなって、そう思ってたんですよ。でもその後コロナが流行りだして、緊急事態宣言とかで街の様子が変わってから、何かが変わった。お客さん減ったから、仕事はむしろ楽になって、残業もなく定時で帰れて、月9日所定で休みとれて。でもなんか、精神的には逆につらくなっていくんです。給料減ったわけでもないのに、自分の時間も増えたのに。何かが苦しい。その頃から、他の社員と噛み合わなくなっていきました。大きなグループ企業の一子会社だったから、コネ入社のバカとかやっぱりいるんですよ。でもそんなの、今に始まった話じゃない。スルーしてりゃいい話。でも、そんな社員の無責任な言動が、許せなくなっていった。大きな問題起こされたわけでもない。自分の評価が下がったわけでもない。なのに、「許せない」って感情だけが大きくなる。毎晩毎晩、「殺してやる殺してやる殺してやる」って、本気で考えるようになって、睡眠時間も減りました。1日3時間しか眠れない。自分でもなんかおかしいなって思うようになったんですけど、去年の2月、あることがあって、いよいよおかしくなって「もう殺す」って、本当にやりそうになって、いやいやいや、ダメだろうそれは。なんとか止めないと。とにかくここにいちゃいけない。すぐこの職場から離れないと。死なないとダメだって。身辺整理して、「死ぬから辞めます」って連絡したら、上司がすんごい慌てて「落ち着け早まるな、いいからとにかく休め、休め、一度休め」って止めてきて。そこから3ヶ月休職しました。休職してる間に、精神科通い始めたんですけど、あんまり変わんないんですよね、いや、精神科の先生は、真面目に相手してしてくれましたよ。でも、予約入れても1時間待たされて、診察は5分でおしまい。睡眠取れてますか食事どうですか規則正しい生活できてますかって。そんだけ。もらった薬飲んでもあんまり変わらないし、病名も言ってくれない。診断書には「うつ状態」ってなってましたけど。だけど、「殺意がどんどん湧いてくる」って、うつ病の症状でありましたっけ?復職してからも精神科への通院は続けてたんですけど、「問題なし」ってことで、通院の頻度も週1回から、2週に一回、月に一回って減っていって、10月の終わりには「治療は終了にしましょう」って言われました」


 七瀬さんは俺の背後で、ブツブツと念仏だか呪文の詠唱っぽいことを始めたようだが、小声で内容は聞き取れない。代わりにすずりちゃんが俺の相手をする。

「3ヶ月の休職の直前、去年の2月に「あることがあった」んですよね? 思い出すのつらいとは思いますが、その「あること」についても、お話してもらえますか?」

 足元で、風を感じる。俺を中心に円を描いているような空気の流れ。すずりちゃんは事情の深掘りをしてくる。記憶の深部に踏み込んでくる。

 退職の経緯そのものが目的ではないのだろう。当時の記憶を想起させることで、俺の精神を揺さぶろうとしているようだ。

 話したくないことなんだけど。精神科でも話さなかったことなんだけど、しかたない。


「その職場に、俺のほぼ同期の奴がいたんです。向こうのほうが若干、俺よりも立場上なんですけど、ほぼ同期。そいつとは表向きは仲良くやってました。仕事はある程度は出来るんだけど、あんまり素行が良くなくて、高卒で、煙草吸って、風俗行って、パチンコ打ってって奴。でも、清掃会社なんて大抵そんなもんでね。おおむね円満にやってたんですよ。ほぼほぼ同期だったんで。だけどその日、あまり忙しくなくて事務所でダラダラ雑談してたんですけど、そいつがなんか急に、「あのよぉ天皇とかさ、マジむかつくんだけど」とか言い出した。「はぁ?」って。「本社で勤労奉仕とか行くじゃん?それ行ったときに会ったんだけどさぁ天皇、なんだよあいつ」とか、本当にいきなり言い出して。天皇じゃないだろ、陛下だろって。いえ、天皇制や皇室のあり方に対して、いろんな考え方あってもいいと思いますよ。言論の自由、思想の自由はあるわけなんで。ウチだってその辺は普通ですよ。祝日に日の丸掲揚しないし、一般参賀行かないし、皇室カレンダー飾ってないし。初詣に神社行くくらいで。だけど、この国には天皇制、皇室を敬っている人達が一定数いらっしゃるわけです。天皇陛下に崇敬の念をお持ちの方々がおられるわけです。大した根拠もなく皇室を貶める発言は、皇室への崇敬をお持ちの皆様の、良心の自由を侵害する行為です。……そんな風に、すぐにその場で言い返せればよかったのかもしれません。それは違うだろう、失礼だろうって。だけど、世間の末端にいる連中は、自分の言葉に責任を乗っけてないんですよね。その場の主導権をとりたいだけで。ハッタリ並べてマウントとることしか考えてない。ここで怒ったところで「なにマジになってんの?」で終わるの分かってて。当たり障りなく話終わらせて、いつも通りに一日が終わったんだけど、奴の言葉がどうしても頭から離れない。何日経っても忘れられない、許せない。許せない。許せない。許せない。……そう、許せぬ。わらわは許せぬ。あんな薄汚い蛭子(ヒルコ)が、魂の抜けた枯草が、わらわの慎むこの者にすり寄るのが許せぬ。魂のおこぼれを得ようとするのが許せぬ。あんな餓鬼をのさばらせるために、わらわはこの国を産んだのではない!腹を焼かれて死んだのではない!常夜(トコヨ)に打ち棄てられたのではない!いったいあの女は、ヒルメは、オオヒルメは何をしている!」


 途中から明らかに、俺ではない誰かの言葉になっている。俺の口から黒い怨恨(えんこん)を吐き出している。そうだ。この声だ。俺の中から「殺せ殺せ殺せ」と呻いていたのは。


「おおっ、これは、もしかして…!」

 すずりちゃんは、大きく目を見開いて俺に向き直る。

「あららまさかのって感じかしら」

 詠唱ぽいものを終えたのか、背後の七瀬さんがため息をこぼす。そして、大きく息を吸い込んで、

「真陽恵華…散!」

 強く短くそう唱えて、両手に貯めた何かを、俺の背中に打ち込んだ。


 バン!!


 背中に何かを打ち込まれた衝撃で胴体が反り上がり、俺は天を見上げる。両目からカッと強い強い光が、閃光が噴き出す。水道管が破裂したかのような勢いで。


 (はらわた)にどんより溜まっていたどす黒いなにかが、背中から首をつたい、両目を通って抜け出していく。


 光が収まると、俺の頭上には、明らかな異形が漂っていた。まず眼に入ったのは(ウロコ)。魚の鱗。(コイ)だか(フナ)だかの巨大でどす黒い魚だった。その魚が天に向かって大口を開け、そこから一人の女性が上半身だけ這い出ようとしている。肌はドブネズミ色で。唇は真っ黒。髪は焼け焦げていて。目は瞳も白目も真っ赤だった。パチパチと、異形の周囲で放電が起こっている。


 異形のご婦人がゆっくりと口を開く。


「わたくしをこの殿方から引き出して、宙に留めたのですか…見事なお手前にございますね」

「あらかじめのご挨拶もなく、行儀の悪い真似をいたしました」

 七瀬さんが深々と頭を下げる。

「かまいません。よく間に合ってくださいました。あとしばらく遅ければ、この殿方は怨獣と成り果て、千の人草を絞り殺していたことでしょう」

「貴方様の大元の御霊(ミタマ)にあらせられましては、すでに新たな宮にお鎮まりになり、新たな御名(おんな)におかれまして、新たなお役目についてあらせられます。どうか御心を安らかに」

「そうでしたか。霊の流れが大変乱れているようですが、わたくしの大元がそのようであれば、故あってのことか、じきに収まっていきますね。それにしてもあの、ひとつ覚えのあつくるしい女は、なにをしているのですか?おのれの役目を葦の船に入れて、流してしまったのですか?」

「あちらはあちらで考えて、動いているようです。周りは振り回されるばかりで、苦労してますけど」

「あいかわらず慎みも加減もないのですね。嘆かわしい」

「まぁまぁ。……こちらの殿方は、私共が責任を持ってお迎えし、御霊を整えていただきます。ご安心ください」

「どうかよろしくお願いします。わたくしは心を静めて、夜に還るといたしましょう。……銀一郎殿」


「!?あ、はい!」

「今までよく頑張りました。あなたの魂にはまだまだ潤いと勢いがあります。枯れたなどと思っては、いけませんよ」

「??あ、は、はい」

「それでは、あなた方とこの時代に、あたたかく安らかな宵闇を」


 そう祈りながら、異形の女性は、夜空に消えていった。




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