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放課後君は夜と踊る。ハリボテの月を俺は撃つ。  作者: 空野子織
第3章:「今の時代」と「昔の時代」。
32/61

029 東京ならではの大型書店。是非。



 翌朝。

「あ゛〜、昨日は一日長かったわ〜」

「いろいろお疲れさまでした。さっき会った感じだと、翠菜も満足したようです。……これから面倒だと思いますけど、引き続きよろしくお願いします」


 寝坊することなくなんとか4時前に起床して、すずりちゃんといつものデイリーに繰り出したところ。

 翠菜は部屋に残って、ぬか床のメンテや朝食の支度をしている。


 昨夜寝ついたのがほぼ0時だったので、実質3時間程度しか寝てない。


 今日は無理せず、ゆっくり過ごしたいところだが、そうもいかないんだよな。


「えっと、今日は朝食後に北の丸行って、そのまま翠菜と一緒に丸の内の本屋行くでしょ。ゴゴイチに七瀬さんと連絡取って、青杉医師との面談の段取り決めるでしょ。その後食材を買い揃えて、19時までに夕飯を作ると」


「昨夜あまり寝れてないですよね? すみません、連日ご無理させて」

「お気遣いありがとう。でもさ、美羽希姫繭(オニヨメーズ)の無茶振りを引き受けるのは、マストなんでしょ」

「はい。それはお願いします。優先順位ほぼ最上位です」

 キッパリ。

 なんだかなー、まったくもう。



「万が一、カラスさんの葬式や、モラハラ菌の発生があったら、連絡下さい。……今日だけ真光さんにお願いしたり、なんか調整しますから」

「うん。多分、大丈夫だと、思うけどねー」


 カラスたちは、夏場死ぬ気配はあんまりない。……人間の葬式が一年中あるのと対象的だ。なんでだろ。野生動物は生活習慣病とか、ないからかもな。


「そうそう、すずりちゃん。お母様の「女の修行」、拝見させていただきました。大変素晴らしい作品でした」

「ありがとうございます。そう言っていただけると、母も喜びます」


 すずりちゃんが、目を細めて、嬉しそうな表情をする。……すずりちゃんの心の中では、きっとお母様はまだ生きているのだ。


「お母様、その気になれば、水墨画もやれたんじゃないの?」

「う〜ん、母はあまりそのつもりはなかったかな? ラクガキはしょっちゅうやってましたけど。食事も蕎麦ばかりで、生き方の幅を広げようとしない性格だったので」

「まさに、一意専心って方だったんだね」

「はい。当時は、ハンドメイド・マーケットもありませんでしたしね。母が存命の頃に、グリーティングカードの仕事ができれば、と思うことはあります。……その辺りは、時代の巡りあわせで、どうしようもありませんけど」


「そういうのあるよね。俺もあと2、3年遅く生まれてたら、IT業界にちゃんと就職できてたって思うもん」

「そもそも銀さん、なんでIT行かなかったんですか?」


「一言で言うと、実力不足だね。ちゃんとしたIT企業に受かって、やっていくだけの勉強ができなかった。独学で俺なりにがんばったけど、エントリーシート書いたりする時点で分かるんだ。「この程度しかやってきてない俺は、この会社無理だ」って」


「銀さんが真面目に勉強して、それでも入れないほど、IT業界って厳しいんですか?」


「ピンキリなんだ。ひたすら。ピンの方は理系の国立大出て、さらに大学院まで行かないと、通用しない。当時の俺は、まるで刃が立たない。……キリの方は、未経験でも採用されるくらいだけど、完全な使い捨て。トラブルの責任取らされるだけの、デコイ要因。……なまじっか勉強してきて、いい会社とそうでない会社、分かっちゃってたからね。会社説明会行って、「ああここはダメだ〜」って思って、そもそもエントリーする気すら起きない。それでも4社は受けたんだけどさ。それ全部落ちたら、……諦めちゃった」


「より好みしなければ、入れる会社あったのに、あえて入らなかったと」


「だってさ、会社説明会すら、委託なんだもん。とあるIT企業の説明会行くじゃない? 会社紹介のプレゼンしてる人がさ、どっかで見た人なの。誰だろうって思ったら、先週行った、他の会社説明会でしゃべってた人なんだよ。プレゼンの中身もほとんど一緒。いくらなんでもそりゃないでしょう」


「就職活動はよく「お見合い」に例えられますよね。「お見合い」まで委託は、確かに笑い話ですね」


 それでも悪あがきして、大学2年休学してその間に働いて貯金して、大学院進学しようかと思って頑張ってみたけど、無理だった。フリーターレベルの稼ぎでは、まるで貯金なんてできなかった。

 ただでさえ就職超氷河期と言われていた時期。そのなかでの大学時代に、IT業界に行く勉強しかしてなかった。それでIT諦めたら、もはや他の業界に行くことなんてできず、結局フリーター。



 まぁ、今となっては、もうしゃーない。その頃からもう、いろんな神様方の声、聞こえるようになってたからな。どのみち人並みの人生は、無理だっただろう。

 七瀬さんも言っていたではないか。

「「不幸でないだけの小さな人生」よりも「不幸でも苦しくても、たった一つの大きな人生」」って。

 俺はもう、それで行こう。



「銀さんは、その頃から、「唯たる人生」の兆候が出てたんですね。「唯存律」が大きくなればなるほど、運命の流れが急になって、妥協や寄り道ができなくなるのです」

「そうだな〜。中学受験やらされてた頃から、一人でいるほうが好きだったからなぁ。その頃から、他の子とは少しズレてたな」

「ですがそのお陰で、翠菜の専攻探しも、たった一日で大きく前進したんです。銀さんのお陰で。だから、胸を張って下さい」

「うん、そうだね。プラスに解釈していくよ」


 少なくとも昨夜、翠菜は喜んでエラトステネスの筋トレ、やってくれてたからな。俺がIT勉強した意味も、確かにあったか。


「少し話を戻すけど、あの「女の修行」って、元ネタは当然「男の修行」でしょ? ってことは、お母様、あちらの神社にも近かったの?」

「そうなんです。私と翠菜でやっているデイリー、「霊想結界」は、母が始めたんですよ。当時は母一人で、神田から市ヶ谷まで、全部回ってました」


「なんと! それさすがにキツくない? その距離だと3時間かかるよ!?」


「実は、裏技がありまして」

「そうなの?」

「……チャリで回れば、いいんです」




「!!!」





「……すずりちゃん達も、チャリでやれば、いいじゃん」

「いや〜、まごころがこもらないですよ。「巫女がチャリンコでおつとめ」は、格好悪いですよ」

「まぁそうだけども」


 すずりちゃんのお母様もそうだったんだろうけど、すずりちゃんはすずりちゃんで、頑固なところあるよな。

 多分俺と同じで、生きることがあんまり上手じゃない。


 彩命術師は、やっぱり、仕方ないのかな。




★ ★ ★


 なんだかんだ、ダラダラ雑談しながらお散歩するのが、毎日の生活の、いいチューニングになっていることは確か。


 神田川を渡ったところから、いつものルートを外れ、「地味滋味ベーグル」の店舗前までやってきた。

 もっとも早朝なので、誰もいない。

 なにがしかの、ネガティブな気も、感じない。

「小さいですね。元々はタバコ屋さんだった感じですかね」

「3坪ってとこかなぁ。ここじゃぁ調理出来ないよね。包装まで別の場所でやってるんだろうね」


「希姫先輩と繭先輩が動いてくれてるので、大丈夫でしょう。あのお二人は、女性の闇に慣れているので」

「うん」


 デイリーのルートに戻る。




 妻恋坂交差点を左折して、蔵前橋通りに入る。


「銀さん、翠菜のプロデュースの合間でいいんですけど、ちょっと私のプロデュースも、お願いできませんか?」

「うん? すずりちゃんも何か勉強するの?」


「グリーティングカードの仕事の、見直しを考えてるって話、しましたよね。私もちょっと、デジタル使った方面をやってみたいと考えてまして」


「そうなんだ?」


「「流行ってるからお願いします」ってお客様まで、手書きのカード制作するのは、やっぱりやりたくなくて。「唯たる筆記」は、本当に必要な人にだけ、届けたくて。以前銀さんがアドバイスくれたように、タイポグラフィな感じのイラストハガキを、作ってみようかなと」


「あぁ、すずりちゃんと始めてランチした日に話したヤツだね。……今思うと、俺も適当な事言ってたよね」

「いえ、いいんです。あれをやります」

「でもさ、その年あったことをイラストにって、しんどいでしょ?」

「そこをですね。その年だけの「四字熟語」などで表現しようかなと。……例えば去年一昨年だったら、「疫病退散」とか」


「なるほど。「こんな願いを大切にしたいですよね」って気持ちを、熟語にするんだね」


「次、8月の残暑お見舞いだと……「謹請適雨」なんて、どうでしょう」

「今年の夏も、天候めちゃくちゃだもんな。……梅雨明けめちゃくちゃ早いと思えば、ドカ雨振るしさ」


「四字熟語の文字のなかに、綺麗に丁度いい雨がふるイメージのイラストを込めたいんですよね。なにか、オススメのソフトやアプリがあったら、教えてほしいです」


「うんうん、ありますよ……アプリだけじゃなくて、絵描きの基礎トレもレクチャーできるからね……」




 ドーム球場を右手に見ながら、最近使い始めた買い切りのベクターイラストアプリについて、説明していく。

 すずりちゃんと翠菜の二人の役に立ててることは、確かなんだよな。


 プログラムのスキルもイラストのスキルも、俺自身の人生の結果にはあまり寄与しなかったけど、この二人の役に立ててるなら、結果としては、意味があったかな。

 若い世代の力になれるなら、本望と言えるかな。



★ ★ ★ ★ ★


 時刻は10時30分。朝食も北の丸のカラスへの挨拶もすませて、丸の内にやってきた。

 今日はカラスの葬式も、気の毒な亡くなり方をしたホトケさんの発生も、なかった。よかった。


「お姉ちゃんが神保町原理主義者だから、他のエリアの本屋さん、来たことなかったの。だから楽しみ〜」

 日焼けするから一人で先に地下鉄で大手町行ってなさいって言ったのに、翠菜は北の丸から俺と同行している。

 もうすっかり打ち解けて、タメ口である。もちろん、全然構わないけどね。

 翠菜は今日も、白い袖なしシャツに青いスカート。腋巫女袖こそないけれど。……あんまりオシャレに気を使う娘では、ないようだ。

 肩には大きなトートバッグをかけている。ちょっと多めに本買っても、今日は大丈夫そうだな。



「すずりちゃんには申し訳ないけど、俺はもう、この本屋さん一択。洋書を除いて、3フロアでほぼ全ジャンル網羅するしね。あと書店の周辺が広々としてて、頭の中を整理するスペースが広い感じするんだよね」


「1階通路の吹き抜けが広いよね。その先は丸の内広場。さらにその先は皇居と日比谷公園。そうだね、人間の密度が低いよね。素敵素敵」


 池袋や渋谷にも確か、大規模書店はあったはずだが、どちらも街自体がごみごみしていて。本を探すためにわざわざ行こうという気にはならない。

 ネット書店に電子書籍がすっかり定着したこの時代にあって、なんのために書店に来るかといったら、やっぱり雰囲気なんだよな。

 広い館内に、大量の蔵書。日々の喧騒を忘れて、知識の海に飛び込む。


 なんと言うのだろう。「文明の集合無意識」に触れる感覚だろうか。


 情報を集めるだけなら、ネットだって良いはずなんだけど、キーワード検索だけでは、限界あるんだよな。大量の広告を掻き分けて進まないといけないのも、非常に煩わしい。


 そう、最近のネット、本当に広告多すぎ。

 俺がIT勉強してた20年前は、ブログどころかホームページの時代。個人が自分でHTMLを打ち込んでた時代。テキストと重たい静止画の、今と比べて見栄えの悪いページばっかりだったけど、情報収集の効率は、その頃の方が良かったな。


「誰かと繋がってる感」は今のほうがずっと強いから、賑やかで寂しくなくて、大半の人にはこれでいいのだろうけど。

 そう。

 昔のネットが神保町だとすると、今のネットは新宿だ。人間の「意識」で溢れかえってしまっている。


「秩序立てられた知識」に触れることのできる環境として、アナログ書店のありがたみは、むしろ高まっていると言えるのではなかろうか。


 中小の書店がもう立ち行かないのは、最早仕方ないけど。

 専門書を揃える大型書店は、これからも残っていってほしいな。



「どこから見るの? 3階?」

「どうするかね。後さ、先にランチどうするか、決めよう。13時に七瀬さんに電話しないといけないんだ。12時台はどこも混むから、11時台に昼飯にしたいんだけど」

「本屋さんの中にカフェがあるんだね。ここがいい。 このハヤシライスとワッフル、食べたい」

 エスカレーターの壁面に貼られたポスターを指さす翠菜。


「そうだね。じゃぁそこにしよう。11時30分頃に入ろうか」

「ホントはねー。お姉ちゃんといろいろ遊びに行きたいの。でもお姉ちゃん神保町ヒキコモリで、どこも行きたがらないの」


「翠菜は、友達とどこか遊びに行ったりはしないの?」

「誘われはするけど、あんまり。やっぱり彩命術やってるからかな。他の子みたいにはしゃいだりできないから、気を遣わせると思って、あまり一緒に遊びに行ったりは、しないです」

「そうだね。「楽しくないんですか?」とか心配されると、申し訳ないもんね」



 ひとまず、先に3階奥の、理系専門書コーナーに向かう。

「おお、本棚高いね。踏み台まであるんだね」

「うむ。雰囲気いいでしょ」


 IT系の専門書の奥には、自然科学、特に農業や昨日翠菜の部屋にもあった、土壌学の書籍も並んでいる。

 左にいけば医療関連。精神医療の本もある。……青杉医師に会う前に、一通り、眺めておきたいな。


「翠菜がやりたいのは、やっぱりテラリウムシュミレーターみたいな、ゲームってことで、いいのかい?」


「まだまだ漠然としてます。……なんだけど、そうねー。スマホを開くと、「自分だけのグリーンな庭」が広がっていく。そんなアプリを作りたいな〜って、その位」

「ごめん翠菜。先に言っておくと、基本、「先は長い」からね。……この夏休みのうちに、「何か一本」作るとかいうのは、無理だと思って」


「はい」


「スマホの中に植物を再現するっていうことは、プログラムそのものだけじゃなくて、グラフィックデータも用意できるようにならないといけないって事だ。だから、グラフィック関連の勉強も、しないといけない。その書籍も、ここにはいっぱいあるから」

「オープンワールド? になってなくていいの。葉っぱ達がね、風でそよそよ動いてるくらいでいいの」


「それだったら、2Dの画像を複数作成して、簡単なアニメーションにする感じだね。……パラパラマンガだと思えば、そこまで難しくないはずだ」


「お父さん、少し、私一人で周ってみていい? 立ち読みするのは、構わないんだよね」

「そうね。いろいろ見てみなさい。……その間、俺ちょっと2階の料理本コーナー行ってるから」


「何かあったら、スマホにメッセージ入れます。電話は掛けないから」

「承知」


 一旦解散。俺一人、エスカレーターを降りて2階へ。


 ……改めて考えると、これは「JKと丸の内デート」になるのか? ……ダメだ。「SO WHAT(ダカラナンダ)?」って気持ちしか、湧いてこない。


 そもそも、「デート」っていうのがなんなのか、いまいち分かんないんだよな。

 すずりちゃんと何度か、日帰りででかけたことはあるのだが。



 まあいいや。



 料理本コーナーに着くやいなや、平積みされた本に目が行く。スパイスカレーのレシピ本であった。

 おお!なるほど!その手があったか!


 神保町のカレー屋巡りは続けていて、いろんなカレーを食べ比べしてるから、カレーに(ゆかり)はあるんだよな。


 決定。2品目はカレー。

 あれだ。エビクリームライスがあるから、そうだな。挽肉多めのキーマカレーを野菜にディップする感じに作ってみようか。

 今日中に作らないといけないから、スパイスの調合にこだわるのは無理だろう。そこは出来合いのものを上手く利用して。

 夏の季節野菜というと、ナスにズッキーニか。オリーブオイルで軽くソテーして、そこにキーマカレーをディップ。


 よし、それでいこう。

 スパイスカレーの入門書は、買ってしまう。



 エビクリームライスと夏野菜のキーマカレー和え。女性相手だから、あともう一品あればいいか。

 ……眠くなってきた。だけど、がんばろう。


 もう一品。スープ系でなにか。


 お出汁の効いた、和風にするか。ガスパチョもいいよな。



 ……メインがエビクリームライスである。夏場にホワイトソースのメニューである。

 ドリアだと思えばイタリアンなんだから、同じ地中海のガスパチョは、それほど相性悪くないはずなんだけど。

 ……それともエビ繋がりで、「オマール海老のビスク」もいいな。


 ……うん、あれは、このビルの地下1階に入ってる、スープ専門店のものにしちゃおう。確か冷凍スープのテイクアウトがあったはず。この丸の内のショップにはなくても、北千住までいけば、確実にあるはず。冷製スープではなくなるけど。「全部手作りじゃなくてもいい」って、すずりちゃん言ってたしな。


 うん。スープは冷凍の、「オマール海老のビスク」にしてしまおう。



 よし決定。あとは食材などなど買い揃えればオーケーだ。

 料理本コーナーは、終了である。



 エスカレーターを上がって、3階に戻る。


 翠菜は、どうしてるかな……ちゃんと、理系専門書コーナーに居た。熱心に専門書を漁っている。

「どう?」

「あ、お父さん。おとうさ〜ん、お〜と〜う〜さ〜ん」

「何?」

「うん? 言ってみたかっただけ。はい。いっぱいありすぎて、どれから手を付けていいか、分かんないです!」


 分かんないと言いつつ、翠菜、ニッコニコ。……一通りは本棚周った感じだろう。

 一言にIT系の専門書って言ったって、実に多様な書籍があるのだ。


 理系大学生向けの情報工学のいかにもな教科書から、Webデザイン、スマホアプリの作り方、アルゴリズムとデータ構造、ネットワークの仕組み、システム設計やプロジェクト管理、HTMLに各プログラミング言語、3Dモデリング、統計……。


 IT業界がいかに広くて、そして深いか。それを実感するのは、こういう専門書の扱いのある、大規模書店に来るのが一番だよな。

 翠菜のようにまだ10代のうちから、このような場所に通うことができるのは、東京生活者の大きな強みだと思う。



「どうだい? いっぱいあるでしょう。……もちろん、いっぺんに何冊も消化できるものじゃないけど。だけど、「やれることが沢山ある」のは、それなり嬉しいよね?」

「はい!」


 分かりやすく今時のゲームで言うと、現時点の自分のスキルレベルでクリアできる、報酬の多いクエストがいっぱい並んでる、冒険者ギルドといったところだろうか。



「翠菜さ。来年の3月で卒業じゃない? それまでに友達に、何か作ってあげたいとか、考えてる?」

「できたらやってあげたいけど、もう半年しかないよね? 素人っぽいものは、出したくないかな。お姉ちゃんのグリーティングカードみたいに、クオリティ高いものを出したい。……私の友達は、みんな見る目が肥えているのです」


「そうか。実際、3月までになにかアウトプットを完成させるのは厳しいかな。長い目で見ていいなら、ここはしっかり、基礎固めをしよう。……そうだな、この夏休み。8月が終わるまでに消化できる本を、2冊程度、探してごらん。まだプログラミングそのものができなくていい。もっと基本に近くて、昨夜やった筋トレみたいに、今の自分の力量に、ぴったりのものを探すんだ」


「素数を求めるアルゴリズムの本は、さっき見つけた。一冊は、それにしようかな。もう一冊は、お父さんなら、何にする?」


「う〜ん、今言ったこといきなり覆すけど、練習程度でも実際にコード書いて、動かしてみたほうがいいかなぁ。……そうだな。昨夜、表計算ソフトで素数探したよね。あのソフトでやるのがいいかな。マクロ機能っていうのが、ほぼプログラミングなんだ」


「そうなんだ?」

「売り場こっち」


 隣の本棚の列、表計算コーナーに移動する。……こっちはこっちで、本多いのだ。

「最初からスマホアプリ作ろうとすると、挫折する。スマホアプリは、アプリストアの審査を通らないといけなくて、それは大変だから。プログラミングの独学を続けるコツの一つは、「小さなところ」から始めること。表計算のマクロだったら、新しくソフトインストールとか、一切しなくていいし」


「料理で言えば、卵だけで作れるオムレツから、はじめる感じ?」

「そうそう。あれこれ調理器具や食材買い揃えなくても、卵とボウルとフライパンで始められるよね? そんな感じ」


 王道を行くなら、Pythonのコードをテキストエディタで書いていくところなのだが、そうするとUIと保存データの作成が、地味になりすぎる。

 自分が普段使いするプログラムが、ターミナルから呼び出すコマンドラインのそれでは、やっぱりな。地味すぎてな。

 httpサーバ立ち上げて、中でCGI動かすなら、また少し違うけど。


 表計算マクロだったら、入力用UIも簡単に用意できるし、処理結果をワークシートに出力できるし。




 表計算マクロの解説書の、分厚いリファレンス用のものを一冊、それに「表計算マクロとは?」を優しく噛み砕いた、初心者向けの入門書を一冊。

 そこに翠菜が見つけてきた、「エラトステネスの篩」を扱っている、アルゴリズムの入門書。計3冊。


 うむ。高校3年生の夏休みの課題図書としては、十分だろう。



 その3冊に、俺が個人的にお勧めする書籍を、何冊か追加する。

 一冊は、Webサイトデザインの入門書。膨大な情報をユーザーに飽きられず、整理して見せるには?を考える本。ユーザー目線でシステムを考える視点を獲得できる。

 もう一冊は、要件定義からシステム設計ぐらいまでの、「上流工程」の入門書。かなり易しく噛み砕いたもの。同じくユーザー目線でシステムを考える視点を獲得できる。


「これは?」

「すぐに読み込んでもらわなくていいの。こういう視点がありますって、早いうちから知っておくといい。なんかヒマなときとか、集中力切れてる時に、パラパラめくってくれればいいから」


 知識そのものよりも、パースペクティブ(視点)を獲得することが大事だ。

 写真で言うなら広角レンズだ。広角、標準、望遠の画角があるということを早いうちから知っておくのとそうでないのとでは、先々の伸び方が違う。

 ……あくまでも、俺の個人的見解だけど。



「本当は、もっともっと、あるんだけどね。読んでほしい本。なんだけど、一度に買い込みすぎると、いくら勉強の本でも、すずりお姉ちゃんに怒られちゃうからね」



 しかしながら、翠菜はこれから、上流から下流、そしてグラフィックまで一人でこなす、マルチプログラマーになるのだ。それなりにガッツリ、勉強してもらうことにはなる。


「うんうん。一冊一冊、ちゃんと消化してから、次を探します。 せっかく歩いて来れるんだもん」


 翠菜はやる気まんまん。これなら大丈夫だろう。やる気とほどほどのお金があれば、いくらでも独学できる世界だ。どんどんいきましょう。



★ ★ ★



 程よい時間になったので、4階のカフェでランチにする。二人共、野菜たっぷりハヤシライスと、デザートに檸檬ワッフル。まだ早い時間だったので、窓際の席を案内してもらえた。


「はぁ〜、嬉しい〜。お父さん、今日はありがと〜」

「部屋の本棚にいっぱい本あったじゃない。 書店には結構行ってたんでしょ?」


「そりゃぁ、お姉ちゃんの妹です。本はいっぱい買ってもらえたけど、「自分のやりたい事を見つけるため」に本買ってたわけじゃないから。「私達の」業界でやっていくために、このくらいはおさえておけって、感じだったから。それに、神保町はほら、どっちかっていうと、文系寄りの雰囲気でしょ」


「そうね。IT系の本漁る雰囲気じゃないかな。まぁいずれにせよ、若いうちから大規模書店に来る習慣つけておくの、大切だと思う。せっかく東京に住んでるんだから」

「お父さんは若い頃、どうだったの?」


「結構買ってる方だったよ。高校のときは、このあいだ建て替え工事に入った、神保町の旗艦店行ってたよ。当時はまだここ、出来てなかったし。その頃は、各フロアにレジがあったんだ。エスカレーターの壁づたいに、作家さんのサイン会の写真展示してあるのは、当時と変わらない」


「最終日、すごくお客さん来てたね」

「ね」



 ネット書店も電子書籍も定着して、そっちの方が何かと便利だったりもするけれど、「自分の視野が広がる感覚」は、やっぱりリアル書店の方がいい。

 是非是非、若い方にも味わっていただきたいものである。



 それにしても翠菜、ためらいなく俺の事、「お父さん」って呼ぶのな。

 たしかに年の差25歳? くらい離れてるから、親子みたいなものなのだけど。


 小学生のときに、実家で起こった「男女の不祥事」で、コッチがわに引き取られてきたって言ってたよな。

 お父さんには、未練あったのかな。

 それともあるいは単純に、俺に対して「異性」として接するのが、面倒くさいだけなのかも。





「お父さん、料理の方は、大丈夫?」

「うん。メニューは決まった。エビクリームライスと、夏野菜のキーマカレー和え。それと、オマール海老のビスク。 ビスクは、冷凍のものにしちゃう。……後で、北千住戻って買ってくるから」

「おお! さすが! おいしそう! 私も手伝うからね。どんどん指示出してね!」

「翠菜のキッチン、小麦粉あったかな?」

「小麦粉は、ないです。使い切れないから。パンはあまり食べないんだよね。パンも発酵食品だから、手作りするのも、ホントはいいんだけど」

「それじゃぁ、ホワイトソースも缶詰ですませちゃうよ。それだったら、エビクリームライスも難しくないはずなんだ。一番ネックなのはキーマカレーだ」


「大丈夫? やれそう?」

「一応本買ってみた。スパイスカレーって、タマネギとトマトがメインの素材なんだね。今日始めて知ったよ」

「私はもちろん、「海軍カレー派」であります!」


「そうだったね。そのうち海軍カレーにも、挑戦しますよ」




★ ★ ★ ★ ★



 ランチを済ませて、時刻は12時少し前。翠菜の進路も今夜の料理の件も一旦忘れて、青杉医師の対応に焦点を合わせる。


 13時までまだ少しある。せっかく大規模書店に来ているので、予備知識を仕入れておこう。


「翠菜、どうする? お父さんモドキは仕事の件で、もう少し本を見て周りたいんだけど」

「凛堂先生と打ち合わせしたら、食材買いに行くんでしょ? 今日は晩ごはん作るまでいっしょにいるつもりです。……カフェとか空いてたら、一旦分かれて、さっき買った本、早速読んでいたいけど、ちょうどお昼だから、どこも混むよね。お父さんの後ろついていってもいい?」


「いいよ。面白くないとは、思うけど」

「ううん。いいの。OJTっていうの? お父さんの仕事ぶり、見ていたいの」

「仕事ぶりって言っても、立ち読みだけどね。そこは翠菜に、任せます」


 よし。



 まずは、下曽根について情報収集だ。 あの厨二病オッサンは、あれでも作家である。璃音君が調べてくれる事になっているけど、俺も把握しているに越したことない。

 まずは、奴の著作をチェックしてみよう。


 1階まで降りて、正面エントランスから入って右側。自己啓発本のコーナーだ。……が、ない。下曽根の書籍が一冊もない。

 電車内の広告で、彼の書籍が掲示されてたのは見たことあるし、ネットで検索すればタイトル出てるから、出版されてることは確かなのだが。


 1階の売り場を奥まで進んで、蔵書検索かけてみる。

 すると、どの著作も、在庫なし、再版未定。もしくは絶版。

 そうか。改めて見ると、一番新しい出版がもう、4年前になってる。この3年間は、新規出版のお声がかかってないってことだ。


 著作の数だけは多かったから、一定の支持はあるのかなと思ってたけど、実は売れてなかったのかな。

 著作のタイトルが、改めて、痛々しいものばかり。


 案外、親族のコネで出版させてもらってただけだったりしてな。


 うむ。



 と、ここで、丁度いいタイミングで、璃音君からメッセージが届く。


「お疲れさまです。下曽根に関する情報、整理しました。差し支えなければ、お電話下さい」


「翠菜、璃音君からメッセージ来た。ちと、彼と電話していい?」

「うん、どうぞ」



 一旦書店から出て、1階ホールに飾られている、世界的に有名な天才芸術家の大作レプリカの前で、璃音君に電話かける。


 このスペースも、以前はもっとベンチあって、よく使ってたのに。3密回避で撤去されっぱなしだ。




「もしもし、お疲れさまです。流女君の面倒、見てくれてるんだってね。ありがとうございます。引き続きよろしく」

「いえいえとんでもない。先々、璃音君にもお世話になるかもしれんですよ。こちらこそよろしくです」


「さて、下曽根の件。彼のこれまでの社会的活動の痕跡、それから青杉医師と関係をもつようになった経緯、一通り調べました」

「早いね、さすが」


「彼に関するすべてのテキスト調べたわけじゃないよ。ヤマをはって、関係ありそうな時期にしぼって、精査しただけ。それで、まず彼の経歴から。国立の一流大学を卒業後、大手予備校の講師をやってるね。世界史。その後、作家活動をスタートさせてる。一番最初の書籍は、大学受験の勉強法の書籍。……「最初は」地に足をつけた、実用的な著作だったんだけどね」

「「最初は」を強調するのな」


「うん。その勉強法の本はそこそこ売れたのかな? その後、政治家目指して挫折。都議会議員に2回、立候補して落選。以降、彼の著作は、論理の飛躍した根拠の薄い精神論ばかり並べた、というか、厨二病全開の、自己啓発本ばかりになっていく」


「身内に国会議員いたんだよね、確か。普通は国会議員目指すんじゃないの? まず秘書から始めてさ。身内からも相手にされてなくて見返したくて、空回り続けたって感じか」


「親族の国会議員のセンセイとも、血縁薄いんだよね。どのタイミングで「拗らせた」のか。僕が調べた限りでは、予備校講師をやってる頃にはもう、空回りが始まってるね」


「承認欲求と超人願望のカタマリみたいなオッサンだったからなぁ……。親父さんから叱られ続けた子供時代だったんだろうとは、想像できるけれども」

「最後の著書のタイトルがさ、「前世の自分を目覚めさせて脳力100倍に高める禁忌の瞑想法」だよ? そもそもよく出版したと思うよ」


「そういうの、出版する側も読む側も、「ネタ」と思って楽しむやつでしょ、それ。「話は聞かせてもらった! 人類は滅亡する!」だよ」

「な、なんだってー(棒)……僕も一応平成生まれなんで、そういう昭和のノリには、ちょっとついていけないかな。そして、手良沢さんも参加してた、例の経営塾に入るのと、動画投稿始めるのが、その最後の出版の後。……出版社から「これが売れなかったらもう無理」って、最後通告でもされたのでは」


「投稿動画は、社会評論っぽいのが多かったよな。そこまで厨二病全開のものじゃなかったような」

「厨二病自己啓発路線が行き詰まって、路線変更したんじゃない? ちなみに、投稿動画は申し訳ないけど、ほとんど見てない」

「3年前の動画が再生数3ケタだもんね。俺も見てない。投稿動画全部同じサムネだもんな。三白眼ドアップの」


「はい。そして、呟きSNSね。最後の書籍出版以降の約4年間での平均。一日の自分自身のツイート数:1件。一日のリツイート数:700件。今日現在のフォロー数:1030。フォロワー数:7」


「俺、呟きSNSやらんのだけど、フォロワー数:7って、すごくないか。むしろ可哀想」


「飲食店の連鎖自殺起こし始めてから、自分のツイート多くなってたけど、「ある時期」までは、本当にリツイートばっかりなんだ。著作の勢いと比べると、とても弱気なんだ」


「「ある時期」とは、いつごろ?」

「去年の12月。連鎖自殺がここ2ヶ月だから。僕としては、この時期に、青杉医師と接点ができたのかな、と思ってる」


「お金だけは持ってたのかな? 社会に参加しようとして、全然上手く行かないって感じだよな。大学なんかでは「キョロ充」っていう、アレ」


「その「ある時期」に投稿されたリツイート、詳しく見てみると、「自殺」にまつわるものが多いんだ。……この頃、有名な芸能人が飛び降りたり、してたよね?」


「あぁ、あったなぁ。「死ななくてよかったのに」って空気になったね。かなり強く。ファンだったのかもね」


「クローム氏。僕は「 鍵客(けんかく) 」としての矜持として、自然言語による冗長な情報を、脳に残さないようにしているというのは、以前から伝えてるよね?」


「うん」


 ちょっと翻訳する。「より良いプログラマーであるために、「知識」はなるべく仕入れないようにしている」ということ。

「 鍵客(けんかく) 」とは璃音君が考えた言葉で、「めちゃめちゃ優秀なプログラマー、悪いことをしないハッカー」ってニュアンス。


 自分の生き方、社会的立場を自覚する上で、「身分を示す言葉」は重要だ。

 キャラクターイラストを描く人たちが「絵師」っていう名乗り方をするようになったのと、同じだ。呟きSNSできてからかな、「絵師」って呼び方するようになったの。


 真光も、「貨物鉄道マニア」ではなく「鉄の道を嗜む男」って言ってる。あれも同じ。


 多重下請け構造の末端で、「コーダー」という立場に甘んじているだけでは、日本のIT業界は育たない。「実際に (キーボード) を叩く者が直接、社会的問題と向き合い、価値あるソフトウェアを作り上げなければならない」。そのような璃音君の心意気が詰まった呼び名だ。


 さすが。頑張れ。応援している。



 話戻します。


「思うに、下曽根氏は、「自殺願望」を強く持つようになった時期があったんじゃないかな? 強い「鬱」。去年の冬ごろ。……だけど、著書や経営塾での言動を見る限り、自分を強く出している時は「鬱の正反対」の状態でいることが多いように感じる。……精神の病気で、確かそういうの、あるんだよね?」


「うん。「双極性障害」。「躁」と「鬱」が交互にやってくる病気だ。俺も去年、自分はコレなんじゃないかって思って、詳しく調べたんだ。……結果は、違うのかな? クリニックの先生、はっきり病名言ってくれないんだよね。……本を読んだ限りでは、普通の鬱と双極性障害とを見分けるのは、時間もかかるし、難しいそうだよ」


「おそらく下曽根はそれだろう。その双極性障害の患者を扱う上での苦労や注意点を把握しておけば、青杉医師とのコミュニケーションが円滑に行くと思う」


「なるほど、大変参考になった。ありがとう」




 その他、翠菜がプログラミングの勉強を始めることになった経緯を一通り、弊社の鍵客殿に報告する。


「把握しました。よろしいかと思います。「エラトステネスの筋トレ」ね。……なるほど、面白いね。……現状、実務ソフトウェアで大量のデータを扱う時は、RDB一択なんだ。だから、データ構造は「テーブル」だけ分かってれば、ひとまず十分だよ。その調子で、お願いします」



 うむ。璃音君のお墨付きもいただいた。よかった。安心した。



 俺と璃音君と、お互いに丁寧に礼を言い合って、通話を終了する。



「お疲れさまでした。どうでした!?」

 ずっと横で通話を聞いていた翠菜が、ぐわって、寄ってくる。


「璃音君、翠菜については、「その調子で頑張れ」って言ってくれてた。……今の方向で大丈夫そうだ」

「おぉー、やったー! 私頑張るー!」



 璃音君から認めてもらえるか、翠菜も心配だったんだろう。上手く橋渡しができたようだ。


 立派な「鍵客」目指して、精進あるのみでござる。




★ ★ ★ ★ ★


 13時。こっちから掛けてよいか迷っていたところだったが、七瀬さんから電話かかってくる。


「お疲れさまです。翠菜を連れて、丸の内の書店に行ってくださってるんですってね。本当に助かります。引き続き、よろしくお願いしますね」

「翠菜は引き出しが多い子ですよね。飲み込み早いし、素直だし。いずれ一人で、自分の道を見つけられたと思いますよ?」

「千里の道も一歩から。その一歩が大切で、難しいのです。何卒、お願いしますね。……さて、青杉医師の件ですが、実は先程、私から連絡をとってしまいました」


 あら。青杉医師にコンタクトとるのに慎重だったのは、七瀬さんだったんだけどな。流れ変わったな。


「そうなんですね。 如何でした?」

「名刺に書かれていたのはメールアドレスでしたけど、こちらの電話番号伝えて、電話でお話させてもらいました。……繭がめずらしく、深刻に心配していたのね。例のバーガー店の、針山店長さんのこと」

「青杉医師とのコンタクトを急いだほうが良いと、七瀬さんも判断されたということですね」


「繭はね、青杉先生のお相手を直接したこと自体はないけれど、よくお店に来てくれる方だから、何度も顔合わせてるのよ。繭は「女の勘」が人一倍鋭いから、青杉先生と針山店長の関係が、一目見るだけで分かるの」


「あれですか、かなり懇意な関係ということですか?」

「深層では、というところですかね。私から針山店長さんの名前出したら、ものすごくびっくりなさってました。あの口ぶりだと、まだまだ片想いですね。お歳を召してからの恋心は、下心がないから純粋ですよね」

「そうなんですよね。前の清掃会社でもそうでしたよ。70歳すぎたおじいちゃんおばあちゃん同士でね、お互いを労りあってましたね」

「ごめんなさい。話が脱線しましたね。……そう。針山店長の状況が良くないことは、青杉先生も心配なさってて、早くに相談させてほしいと、先方からお願いされました」


「俺はまだ、針山店長と直接会ってないんですよね。バーガー店のWebサイトの写真でしか顔分からなくて……そんなに状態悪いんですか?」

「えぇ、悪いです。だって、既に人を殺めてしまってるんですよ? 高齢者ばかりとはいえ、この数ヶ月で何人も。……どこかの動物病院の先生みたいに、最初から破綻している人格でもない限り、罪の重さに耐えられなくなるのは、当然です」


「すみません。また話が脱線しますけど、俺あの動物病院の先生の「お母さん」、大好きなんすよ。なんだかんだ、マンガ家目指すようになった一番の理由、そこなんすよね」

「実の母親で苦労なさった、黒海さんらしいですね。けれど、ああいう壊れ方だったら、そうね。(みやび)があって、いいですね」

「いやぁ、ああいう「お母さん」から産まれてきたかったなぁって。……深刻な話をしているところ、脱線してしまって、申し訳ありません」

「いえいえ、いいんです。……すずりもあと20年くらいしたら、あの「お母さん」のような、気品と貫禄が出てくるかもしれませんよ? 長い目で見て、仲良くしてあげてください……それで、急で申し訳ないですけど、今夜、青杉先生のクリニックに伺うことになりました」


「なんと、すみません。話脱線させてるどころじゃなかったですね。何時ですか?」

「22時30分になりました。表向きは休診日ですけど、オフレコなお仕事が22時まであるんですって。他の精神科医の相談を受けていたり、するそうで」

「承知しました。22時ごろに現地集合にしますか?」

「私は今夜も車だから、22時に、マンションの前で待っていてください。それまでに、少し仮眠でもとっておいた方がいいかしら」


「ええ、分かりました。……錦織さん達は、今日、針山店長のベーグル店、行ってくれてるんですよね」

「あの二人なら、何か物証をつかんでくるかもしれないわ」

「俺は夜までに、何かしておいた方がいいこと、ありますか?」

「青杉先生は、繭から話を聞いた限りだと、大丈夫そうね。もちろん注意点はありますけど。針山店長をどうするか? が今夜の焦点になります。……そうね。黒海さんは十分休養をとって、「追いつめられた女」の相手をする心の準備を、しておいてくださいな」


「なるほど。……心当たりがありますよ。出来る限り、休んでおきます」

「ええ。それではまた、22時に」



 七瀬さんとの通話を終了する。



「大丈夫? お父さん」

 隣でずっと話を聞いていた翠菜が心配してくれる。……まだ仕事したことないもんな。イメージ湧かないよな。

「彩命術師は、人の心の闇に関わる仕事だからね。話が急に進むこともあるってことさ。夕飯までの予定は変わらないから、大丈夫だよ」


 時刻は13時を多少過ぎたところ。22時までほぼ9時間ある。食材の買い出しと調理の時間を差し引いても、そこそこ時間あるもんな。

 昨夜あまり寝てない分、どこかで仮眠をとらせてもらおう。



「よし、翠菜。本屋さんは今日のところはOKかな? それじゃぁ北千住行こう。食材の買い出しするよ」




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