002 自殺志望者の前に、不審な勧誘者、現る。
昨夜もこれまで同様、首に刃を入れることができなかった俺という残念なオジサンは翌日の昼下がり、一人東京丸の内の地下道を歩いていた。
東京駅の西側、丸の内広場と皇居との間には、地下鉄大手町駅から二重橋前、日比谷、有楽町、銀座、東銀座の各駅を繋ぐ、大きな地下通路がある。地下通路全体に特定の名称はついていないようだが、俺個人で勝手に「大丸有地下通り」と呼んでいた。各駅の改札外コンコースが繋がっているのだ。終電の少し前まで自由に通行することができる。北端から南端まで徒歩30分といったところ。厳しい日差しにも雨にもあたることなく、改札外トイレや自販機もあり、時間を潰すのに丁度いい。
就活に行き詰まった頃にこの場所を見つけて以来20年以上、一人になりたくなると、よくこの場所を訪れていた。
「なんでだめなんだろうな…」
今日は土曜日。平日はオフィスワーカーの通行が多い通りだが、土日になるとめっきり少なくなる。トボトボとあるいはダラダラと、昨日の失敗を振り返りながらただただ歩く。
「選びさえしなければ、仕事はまだ見つかる。けど結局はダメなんだよ」
大学も中退した。フリーターを10年やって、職場は点々とした。
最期に働いていた会社では正社員にしてもらえて10年続いたが、1年前にうつ病になって3ヶ月休職、復職後7ヶ月でまたおかしくなった。平常心が残っているうちに、手書きの退職願をPDFにしてメールで送って、スマホからSIMを抜いた。
履歴書の職歴欄はもう書きたくない。そもそも思い出せない。面接でどう話せばいい?それでも採用する会社はあるだろう。履歴書不要の仕事だってあるし。だがその手の会社は、社員を使い捨てにする会社だ。ボロ雑巾になるまで使い倒して、酔っぱらいのゲロを拭いてからポイ捨てする会社だ。
パートから11年続けた清掃会社がそうだった。同じ過ちを繰り返す余力はもうない。
南端の日比谷公園入り口に繋がるA14出口まで来て折り返し、また大手町方面に向かって歩く。
北端、大手町のオフィスビルの入り口に繋がるC1出口まで来たところでまた折り返し、日比谷方面に向かって歩く。以前は無骨で薄暗い地下道だったが、2度目の東京オリンピック前にだいぶ整理され、すっかり明るく綺麗になってしまった。
それでも地上出口付近の壁面タイルには、雨水が幾年も流れ続けて固着したセメント質のコブが、それなりの廃墟感をかもし出していて、自分の虚無感を受け止めてくれるような気がする。ほんのりと気が紛れる。
昨夜、自殺実行の寸前の寸前で頭に溢れた、根拠のない楽観は、この頃にはすっかり消えてなくなっていた。なんで死ななかったのかと、後悔と焦りにとって代わる。
「このまま、壁タイルの一部になったりしないかな…」
人間というサブジェクトではなく、背景のオブジェクトでいられたらいいのに、と思う。
全盛期から大分衰退したとはいえ、東京はまだまだ大都会だ。一個人の人生は、他の誰かの背景として認識され、忘れられていく。今の自分は、不特定多数・アノニマスの一欠片、東京という街の背景の1ドットでしかない。
だからこそ、生きてこれた。
「他の誰かの人生の背景」になりきることで、不遇を呪わず、考えることを止め、生き続けることができた。
誰からも話しかけられない。呼び止められない。いなくなっても、誰も気づかない。
はずだった。
★ ★ ★ ★ ★
19時をすぎて南端A14出口に到着してUターンをしたところで、後ろから黒い服の女性が歩いていた事に気づいた。
小柄でメガネをかけた、若い女の子だ。連れはおらず一人。日比谷公園周辺は、女性向けの商業施設が多く、また銀座にも繋がっている通りだから、特段気にすることはない。紫外線による肌荒れを避けられるから、女性が一人で地下道を歩くのも、なんらおかしなことでもない。頑張って短いスカートから生足を覗かせたりもせず、黒いロングパンツにスニーカー。あちらもまた、不特定多数の一欠片。誰かの人生の背景。特に目を合わせることもなく、大手町方面に歩き始める。
南端から北端まで、今日のペースだと35分程度か。
北端のC1出口についたところでまた折り返そうとすると、先程と同じ? 黒い服の女の子が視界に入ってきた。
「?」
いやちょっとまて。日比谷方面ならともかく、北端大手町エリアはまるきりオフィス街だ。女性がいてもオフィスワーカーばっかりで若い女の子が一人で来るような場所じゃない。なんのために?
この大丸有地下通りを歩き続けて20年。自分と同じようなことをするような変わり者には、会ったこともない。
いや、きっと間違いだろう、気にしない気にしない。
また折り返して、やや早足に、日比谷方面に歩き始める。途中後ろを振り返ることなく、やや早足で進む。都営地下鉄日比谷駅前まで来ると、左手に分かれ道が現れる。有楽町駅に繋がる通りだ。今度はこっちの道に行ってみる。ここを奥まで進むと、銀座駅までの近道になる。
奥まで進んで、D8出口前まで来たところで、一度振り返ってみる。さすがにいないでしょう。
「今晩は。首吊りにする?飛び込みにする?それとも、わ・た・し?」
さっきと同じ女の子が、すぐ真後ろで微笑んでいた。
「うぉぁあ!あ、いや、、、急に大声出してすみません。アレですよね。観光の方かな?東京は初めて?ここの階段を登った先の、レストラン街を抜けて、もう一つ商業施設を抜けると、もう丸ノ内線の銀座駅ですよ」
「フフフ、、、私は特に道に迷ってませんよ?道に迷っているのはむしろ、おじさまの方では?」
「え?」
「この1ヶ月、「向こう」に渡るための道を、ずっと探してるようですけど」
不気味な笑みを浮かべて、そう語りかける。
「えっと、それではこれで!」
ダメだ。この子なんか危ないな。肩からぶら下げていたバッグを抱えて、来た道を戻るように、俺は駆け出した。
脇目もふらずに走る。大声を上げると駅員が集まってくるかもしれない。急ぎながらもできる限り静かに、電車に乗り遅れまいとしているただの利用客に思われるように。
「待ってくださ〜い。どうして逃げるんですか〜?」
黒い女の子も追走してくる。大声を張り上げるでもなく、表情や声の調子は穏やかだ。ただそれはそれで怖い。初対面の中年男性相手に、さっきのようなセリフ並べるような子は、関わっちゃいけない系女子だ。薬物やってるかもしれない。都営線の日比谷駅前まで来たので、右に折れて、二重橋前を抜け、大手町に進む。まだ付いてくるか。
「なにか悪いことでもしたんですか〜?」
「まったく心当たりないけど!?自分、お嬢さんと何か関わりありました?私、ごくごく平凡な、東京にいくらでもいる失業者ですけど!?」
「心当たりないなら、逃げなくてもいいじゃないですか」
「だって怖いよ!お嬢さん!」
そろそろ疲れてきた。
「なんで怖いんですか〜私何もしてないじゃないですか〜」
ペースを上げて俺に並ぶ。
「怖いものは怖いの!」
だけど確かに、何が怖いんだろう。死ぬのが怖いわけではないはずなのに。
「どうして怖いのか、教えてあげましょう」
ずいっっと俺の前に出る。行く手を塞がれてしまい、立ち止まる。
「俺は何も悪いことしてないよ」
「そうですね。今は、悪いことしてないですよー、い・ま・は。けど、これからしようとしてる。自殺しようとしてます。あなたは、自殺が悪いことだって、罪のあることだって、内心気づいているから、後ろめたいんですよ」
「!」
二重橋前と大手町の間にある、行幸地下通路前まで来ていた。
「君何者?なんでそんなこと分かるの?俺そこまでヤバイオーラ出してた?」
毎日風呂に入ってるし、髭も剃ってるし、服もちゃんと洗濯してる。今にも自殺しそうなヤバい人には、まだ見られてないはずなのだが。
「はい。めっちゃ出てました。ああでも、一般の方には全く分からないものですよ。私はそれがわかっちゃうんですね!」
エヘンって胸を張ってドヤる。ブラいらなそうだねとか洗濯板だねとか、今はそれどころじゃない。
「出てる?俺から何が出てたの?どうして君にはそれが分かるの?」
「ちゃんと私の話を聞いてくれたら、丁寧にご説明しますよ」
「あのさ、もう40過ぎた陰キャのデコッパゲメガネに自分から話しかけてくる若い女性は、だいたい怪しい宗教の勧誘か、マルチ商法の勧誘って、相場が決まってるよね?相手したらダメなヤツだよ。お嬢さん、どっち?」
「どっちだと思います? ひとまずですね、私達は、宗教法人としては活動してないですし、ちゃんと所得税も法人税も納めてますし、労基法だって最低賃金だって守ってます。他所の宗教屋さんとは違いますよ」
「怪しい宗教方面ってことね」
「さーどうでしょうー」
「俺が自殺しようとしてるの気づいたのはすごいと思うよ?なにかあるんだよね?スピリチュアルなコスモとアニマがカオスを超えて運命的にアストラルを開放しようとしているのかもしれないよ?だけど俺、金ないよ?カードローンの借り入れがまだ120万残ってるけど、踏み倒して死のうとしてるからね?銀行系カードローンって連帯保証人いらないからさ、借り入れ残したまま死んでも銀行にしか迷惑いかないから別にいいやって、そんな奴だからね?俺から何かふんだくろうとしてももう何も出ませんよ?」
「お疲れさまですー(棒)」
社交辞令感満載で、お辞儀をされる。
「はぁ……。俺はもう、これ以上惨めになりたくない。さらに迷惑な奴になりたくない。結果としてこのザマでも、俺なりに一生懸命生きてきたんだよ。もうゴールしていいよねって奴だよ。楽に死にたい、とか贅沢言わないからさ、もう終わりにさせてほしいんだよ」
失踪して行方不明は、警察に迷惑がかかる。
線路飛び込みは、鉄道会社に迷惑がかかる。
屋上からの飛び降りは、ビル管理会社に迷惑がかかる。
自宅で首吊りは、不動産会社に迷惑がかかる。
硫化水素は、第一発見者に迷惑がかかる。
死亡届の受理を所定業務とする区役所であれば、遺体の処理も業務の範囲内だろう。迷惑には違いないが、住民税もずっと払ってきたのだ。どうにか許してくれるだろう。
……どうか許してください。
黒い服の女の子は、じぃっ…と俺の顔を見つめてくる。この子の瞳は、柔らかくツヤツヤしていて、駅とかでときどき見かけるあちら側へ渡ってしまった方々の「自分が信じるものを疑うものは、断固として排除」せんとする、固く強張った意思がない。追い詰められていない。
未来への期待とか好奇心?そんな前向きなものが宿っている感じだ。俺の瞳にはあんまり、宿ってこなかったものだ。その瞳が俺を見据えて離れない。額や瞳や表情ではなく、もっと奥のものを見通そうとしているかのような。
「お金はあまりお持ちでない?」
「うん」
「結構、困ってます?」
「余裕はない。なんとか今月いっぱいは生きていけるかなくらい」
「お仕事は?」
「ちょっと前に退職願送りつけてバックレた。籍だけ残ってるから今保険証がない」
あぁ離職票、頼んでないや。失業保険もらえないか。退職代行とか頼めばよかった。
「お住まいは?」
「足立区の片隅で、両親と同居。家賃は俺、光熱費は親。俺が毎月6万入れてたから、それなくなるのはきついかな」
「なるべく早い時期に「続けられる仕事」を見つけられれば、もう少し長生きできますです?」
「バイト・パートも含めて、もう会社勤めは無理かなぁ」
割と底辺寄り、のイメージを持たれている清掃の仕事で10年正社員やってきた身だ。プロレタリア方面の職種だったら、大抵の仕事は今でもこなせる。仕事は。
「人間関係がダメなんだよ。仕事そのものじゃなくて。最初は問題ないんだ。だけど時間がたつと、みんなの、俺の扱いがだんだんおかしくなってくるような感じなんだ」
会社での人付き合いは「当たり障りなく」を心がけてきた。飲み会やらメシやらは、誘われたら断らなかったが、こっちから誘うことは一切なかった。仕事そのものは、問題なくこなせてた。損失が出るようなトラブルは起こさなかった。会社の期待に応えるレベルのアウトプットは、一貫してできていたと思ってる。
「男女関係は?」
「なんもないよ。まわりの女性社員には、クリスマスとか誕生日とかに、義理でプレゼントあげたりしてたけど。こっちからメシ誘ったりは一度もしなかった」
ていうか、まわりには童貞を公言してたしな。
童貞である。
42歳童貞である。
最早魔法使いですらない。社内では大魔道を名乗り、親睦イベントでは、サクランボ柄のネクタイしていった。男性陣大ウケ。女性陣ドン引き。けど男性からも女性からも、深刻な嫌われ方は、してなかったと思う。魔法は使えないけれど。
「よかったら、私としますか?これから」
なんか直球きた。
「いや、それはちょっとよくないんじゃない?いや、君のことが嫌なんじゃなくて」
お誘いを受けるのは生まれて初めてのことなのに、喜ぶべきことのはずなのに、背筋がゾワゾワする。
「意気地なしー。てか、単に童貞こじらせてるだけでは?童貞捨てたら元気になるかもですよ?」
「そんな単純じゃないっての。てか君、歳いくつなん?若いうちからパパ活?今はそういう時代なん?」
「23です。私とお泊りしても、誰にも怒られないですよー」
ハハハハ、と乾いた笑い声が出る。見返りに、なにを要求されるのだろう。一度も実戦を経験してないイチモツがキュンキュンする。するとかヤるとか、そういう言葉を口から出しても、声のトーンにまったく変化がない。なんの遠慮も気負いもタメもない。雨が降ってきたから傘を差します、くらいに淡々と。
「あ、おじさまもしかして…!?」
「いや、ノンケだから」
「チッ」
腐ってはいらっしゃる。なるほど。
「話を戻して、、、あの、立ち話もなんですし、よかったら、もう少し私とお話しませんか?ひとまず、お金目当てではありませんから」
どうするか。確かに今月のうちは、まだプラプラしてられるけれども、ここまでの関わっちゃいけない系に会うのは、生まれて初めてだ。
「失うものはもうないはずですよね?これ以上状況が悪くなりようがなくないですか?もしかしたら……私があなたのこと、殺してあげられるかもしれませんよ?」
笑顔でそう語りかけてくる。
む……。この子は俺の知らない事を、世界のルールを、知っているとでもいうのか。
「そうだね……まぁ話するだけだったら」
誰かが助けてくれるかもしれませんよ? ではなく、 殺してあげられるかもしれませんよ? か。それを笑顔で言ってのけた。
女の子が夜一人で出歩ける東京は、治安がいい方だとよく言われるけれども、女の子の方がこれでは、治安以前の何かが、きっと狂っている。
★ ★ ★ ★ ★
21時。それなり遅い時間になった。この時間まで空いているカフェは今なかなか少ないが、24時間営業のバーガーチェーン店を銀座2丁目に見つけた。今日は25時間までの営業とのこと。終電まで大丈夫か。アフターコロナでも、そこはさすが銀座。
「お嬢さん、お住まいはどのあたり?詳しくなくていいから。ごくざっくりで」
2階の窓際、カウンター席に二人並んで座る。
「神保町で一人暮らししてます。家族はみんな死んじゃってまして」
「ここからそんなに遠くないね。明日朝早い予定あったりはしない?遅くなっても大丈夫?終電までには帰れるようにしないとね」
家族が死んじゃっての部分はスルーする。銀座線で三越前。そこから半蔵門線で神保町だな。銀座だったら終電逃してもタクシーあるか。
「お互いの自己紹介からいきますか。俺は黒海銀一郎。42歳。独身だが両親と同居。現在失業中。再就職のあてはなし。住まいの最寄りは足立区北千住」
「文代すずりっていいます。中卒の23歳。書道が得意なオカルト少女です。趣味は読書。「ドグラ・マグラ」は表紙買いして挫折しました。オカルティックな会社で契約社員してます」
「オカルティックな会社ってなんなん?いわゆる新興宗教団体とは違うわけ?」
「対象者とか目的とかいろいろ違いますかね。宗教団体っていうのは一般に、不特定多数の信徒さん相手に精神の救済を目指してる感じですよね?私達の会社は、お金を出してくれる特定のお客様に対して、霊的エネルギーを運用して、現実的なサービスを提供します」
「運用とかいうと、銀行とか保険屋さんっぽいね」
「金融機関に例えるのは分かりやすいかもです。霊的エネルギーをお貸しして、利子をつけて返してもらう。そういうことはやってますね」
「具体的にはどんな感じ?、、、あまり科学や医学が役に立たない分野だと、、、例えば、中学生くらいのいじめを解決できたりするのかな?」
「可能です。霊的エネルギーの豊富なドナーからエネルギーを分けてもらい、いじめを受けてる生徒さんに提供します。もちろんカウンセリングや教育機関への働きかけなど、いろいろやりますけど、エネルギーを分けてもらった生徒さんは、周囲からの悪意を跳ね返せるだけの強い意思を持てるようになり、集団生活に適応できるようになります」
「統合失調症とか直せる?ウチの母親、統合失調症歴40年のベテランなんだが」
「初期段階なら薬を使わず症状を抑えられると聞いてます。ですが病歴40年となると、向精神薬の服用も40年、ということですよね。全身の神経細胞組織が相当に消耗していると思われるので、根本的な寛解は、難しいと思います」
「実際のところは、どんな業務やってるの?」
「介護の分野で、従来よりも人的コストを抑えた特別養護老人ホームですとか、風俗の分野で、ソープランドよりも衛生的で精神的な満足度の高い性サービスですかね。中出しアリの本番よりも、気持ちいいですよ」
さわやかな笑顔。割と現実的というか、実利的なんだな。幸せな来世を、みたいな方向性ではないのか。
「俺は君のどんなことに役に立てるの?いや、君は何を必要としているの?俺でなければいけない理由はあるの?」
「要はスカウトです。私達の仕事を手伝っていただきたいんです。業態が業態なので、公に求人募集をかけることもできないので、街で見つけた素質のある人に直接コンタクトして、お仕事のお願いをしたいんですね」
「素質のある人とない人がいると。俺は素質のある側の人間だと。その素質のあるなしは、俺が自殺しようとしていることと関係があるの?」
どうして俺を見つけることができたのか、についてはちょっと置いておこう。
「あります。人の生き死にに深く関係する仕事です。私も過去、3人殺してます」
「警察方面は大丈夫だったの、それ?」
「刑事的な問題にはなってないです。まぁちょっとした練習でしたし」
練習で殺人か、闇深な話だ。ん、まてよ?
「ちなみにもし、俺がこの話を断ったら?口封じに消されたりするの?」
「え? あ、う〜んと、断られたときのこと、考えてませんでした。どうしようかな。記憶だけ飛ばすこともできるんですよ」
「いろいろできるんだ。すごいね」
「あぁやっぱりダメ。なし。今の取り消しです。もしお断りなさるのでしたら、ゴメンナサイです。消します。この後死んでいただきます。アイマスト・キルユー・コンプリートリー」
「え?」
「中途半端はよくないのです。人の生き死にに関わる「縁」については。……あなたは今、人生の重大な分岐点に向かって進んでいます。とてつもなく強い運命の流れ。その流れの中で、右に行くか左に行くか、選ばなければなりません。魂に関わる選択では、判断を先送りしたり、中間の選択肢を増やすのは、よくないです。私達の会社で働くか、今日このあと私に殺されるか。その2択です」
「やっぱり怖いじゃないか」
「でも、黒海さん、自殺したいのにできなくて、苦しいんですよね。私の提案、悪い話じゃないでしょう?仕事があれば、自殺しなくていい。仕事を断っても、殺してもらえる。どっちもマイナスにならないじゃないですか」
「うん、そのはずなんだけどね…」
そう。この子の見解は正しい。死にたい。もう終わりにしたい。でもなんだろう、なにかモヤモヤする。
「ごめん、ちょっと考えさせて」
う〜ん、と、腕を組んで眉間にシワを寄せる。
「いますぐでなくていいんです。そうですね…今日中。いえ、終電までに結論を出してもらえば。まだまだ時間はありますから。あと、聞きたいことがあったらどんなことでも、遠慮なく聞いてください」
一旦、この文代すずりちゃんという少女……23歳で少女はキツくね?……まぁいいや。……を視界から外して、カウンターに正対する。目の前にはナゲットとコーヒー。とりあえず食べる。
「いただきます」
すずりちゃんもバニラシェイクを手に取る。一人でMサイズを3本オーダーした。うち1本を、ズズ〜ッとストローで一息に吸いきる。
非常に胡散臭い流れだが、ひとまず自分を必要としてくれる人が現れたのだ。自殺を撤回する理由ができたのだ。このまま彼女についていって、問題ないのではないか?何が釈然としないのだろう?
年をとるにつれて、自分の気持ちに気づくまでに、時間がかかるようになってしまった。
「あぁぁ〜思い出した。大学時代、こんな感じで詐欺に遭ったんだったわ」
「キャッチセールスって奴ですか?」
「そうそう。いきなり部屋に電話かかってきてさ、「私達の仲間になりませんか」みたいなお誘いでさ。そうだよ。そのときも銀座だったよ。きれいなお姉さんと二人きりになって、3時間くらいお話してさ」
「どうなったんですか?」
「ゴミのような教材を100万で買わされた」
「あらら」
「当時は就職超氷河期でさ。俺あんまいい大学行けなかったから、就活ヤバイと思ってたんだよ。大学の授業とバイトだけじゃダメだ。プラスアルファの何かを持ってないとって。そこをつけこまれたんだった」
クーリングオフ期間が終了してから現物が届くっていうね。月々16,000円の5年ローンだったな。いや、あの時も生きた心地しなかった。
「お金方面のお話をしますと、もしウチの会社に来ていただけるなら、契約社員としての雇用になります。社保完備、交通費全額支給。月の手取りは……すみません、ギリギリ15万円いくかな、くらいですね」
ちょっと申し訳無さそうな顔になる。
「いや、妥当なところでしょう。時給1200円のパートでも、シフト入れなくて月10万いかないとか、そんなんばっかだもの。フルタイムで働かせてもらえるだけで十分」
3万をカードローンの返済にあてて、6万を家に入れて。1万はスマホ代。残りは5万か…。やっぱちときついな。
「ダブルワークできるの?」
「基本ダメです。何か事情があって、総務に相談すれば、融通効かせてくれると思いますけど、業種が業種なので、あまり会社の外とは関わらないでほしいです。その代わり、特別活動支援金というものがあります」
「どんなの?」
「いかにも宗教な感じになりますけど、決められた時間・エリア内で、おいのりとか祝詞をするんです。毎日。出勤日だけじゃなく、休日も。勤務にしてしまうと労基法違反になってしまいますから、あくまでも自主的な活動を支援するって名目で出る、お金ですね。1日30分程度の拘束を、毎日。なにがあっても、毎日。その支援金が、1ヶ月続けると15万」
「給与と合わせて月30万か。生活していくぶんには十分だね」
「その代わり、1日でも欠けると、ゼロになります。なので、泊まりの旅行とかは行けなくなってしまいます。私が今神保町に住んでるのも、そのためなんです。歩いて通える場所でないと、毎日続けられないので」
ふむふむ。まぁ俺だったら余裕である。前の会社でも帳簿上休みのまま、休日出勤してたしな。最高記録は133連勤だ。今はコンプラにうるさいから、それも無理だけど。
「大丈夫ですか?けっこうつらいですよ」
「高校2年の修学旅行を最期にその後27年、東京の外で寝泊まりしたことは一度もない」キリッ。
「大変頼もしいですけど、それ自慢しちゃダメなやつです」
フフフ……と、少し場が和んだ。
★ ★ ★ ★ ★
「他にまだ、気になること、ありますか?」
尋ねられて、あらためてすずりちゃんの方に向き直る。
まだだな。まだ引っかかる。ちょっと失礼して、すずりちゃんのことをじっと見つめる。
小柄。身長は150cmに届かないだろうか。基本黒髪ショートだが、かなりクセのある髪型だ。毛の量がとても多い。ボサボサというか、ツノとうねりだらけだ。後髪だけのばして、ざっくりと大きな三つ編みを一本、作っている。おさげは肩甲骨のあたりまで伸びていた。ぱっちりと開いた瞳の上から、大振りなメガネをかけている。いわゆるボストンウェリントン。主張しすぎない細くしなやかな曲線が、左右のレンズを支えている。一本数千円の汎用品ではないな。欧州のブランド物でもないな。鯖江のどこかの高級ラインかな。レンズ込みで一本7万とかするやつだ。
服は上下とも、黒が基調のスポーツウェアというか、いわゆるジャージである。でもなんか、ドレスに使うようなスルスルの質感だし、膝から下に深くスリットが入っていて、野暮ったさがない。スニーカーも少し違う。高級アパレルブランドの近未来感のあるデザインのものだ。それらの上から、ゴスロリ調の黒いコートを羽織っていた。手先、指先はというと、右手の人差し指と中指の二本だけ、黒のネイルが乗っている。他の指先は素のままだ。
うむ。黒づくめにメガネだから第一印象は地味な子だったが、改めて見ると相当のオシャレさんである。髪型、メガネ、服に靴。大学にも通ってないという女の子が、ここまで全部、一人で揃えるものだろうか。この子が自分で選んで買っているのではなく、周囲の大人が買い与えているのではないか。両親の代わりの保護者だろうか。この子の背後の関係性が、ちょっと気になってくる。
そうか、今分かった。さっきこの子から声をかけられた直後、咄嗟に逃げ出してしまったのは、この子が怖かったからでもない。自殺の後ろめたさからでもない。この子の背景が怖かったのだ。人生残り僅かだとしても、ヤクザ方面とは関わらずにいたい。
「う〜ん、もちろん他にも、知りたいことはいっぱいあるんだけどさぁ」
昔銀座でキャッチセールスに引っかかったときのことが思い出される。あれから20年以上経って、また同じ過ちを繰り返そうとしてないか。この子の容姿から察するに、金回りは大分良さそうだ。やっぱりサギまがい行為で善良な一般人から金をまきあげているんじゃないか。
しかし、これまで40年の苦労で学んだことがひとつあって。それは、人の内面というか生き様みたいな要素は、やっぱり顔に出る、ということ。それは確信している。
人を騙して金を稼いできた奴は、嘘に頼って生きてきた奴は、どれだけの高級品を身にまとっても、どれだけ清潔さを演出しても、顔つき・表情に他人への敵意がにじみ出てくる。「おれは利用されない。騙されない」と、無意識の警戒心・敵対心が顔に浮き上がってくる。
あるいは、風俗漬けになっている男も顔つきで分かる。無表情のときでも不必要に潤っているというか、イチゴジャムと生クリームを塗りたくったトーストを、角砂糖と練乳をたっぷり入れたコーヒーに浸して食べるような、そんな顔つきになる。ああいう顔の中年にはなりたくないなと、どれだけ誘われても風俗には一度も行かなかった。
それはさておき、こちらの文代すずりさんは、今見る限り、その手の人を陥れて金を儲けてきた人間の顔つきにはなってない。なんというか、いろんなものをすっぱり諦めてきた顔つき。そうだな、何十年も葬儀屋で働いてきたかのようだ。大勢の人たちをお見送りしてきた顔だ。生真面目で礼儀正しくて、静か。
うん。そうしよう。この子のことは信用しよう。あるいは、この子にだったら騙されてもいいや。だがしかし、この子の周囲の人間まで、信用してよいものだろうか。周りには悪い人間ばっかりで、この子だけが利用されたりしてないだろうか。
「君の周りにいるのはどんな人たちなの?会社でやってるってことは、上司とか、社長とかいるってことだよね。君の周囲の人達は、どんな人なんだろう」
「へ?」
きょとんとする。あまり想定してなかった質問だったらしい。
「どうしてですか?」
「君はさ、同年代の若い子たちよりもずっと、難易度の高い人生を送ってきたはずなんだ。顔つきとか仕草でそういうの出るんだ。他の子達よりも大きな責任を背負ってきたというかさ。君はあまり実感ないかもしれないけど。言い換えると、君の周りの大人たちは、まだ若い君に、人並み以上の責任を背負わせてきた、ということなんだ。その人達を信用してよいものか、確かめないといけない」
「それは、黒海さんのこれからに、どう関係するんでしょう?」
すずりちゃんのまばたきの回数が増える。潤んでる?いや、気のせいか。
「損か得か、の話じゃないんだ。そうだな…損か得か、ではなく、真か偽か、だ。今までの人生どっちかというと、損ばっかりだった。貧乏くじばかり引かされてきた。割に合わない人生だった。それでもよかった。利用されたってことは、誰かの役に立っていたってことだから。でももう疲れた。ズルい奴、卑しい奴らに利用されるのに、耐えられなくなった。残りわずかの人生は、正しい人のために使いたい。ズルい奴、卑しい奴らに利用されて終わりたくない。終わりよければすべてよしって言うよね。言い換えると、最後の最後の選択で、失敗しちゃダメってことだ。君のことは信用するよ。好きなように利用してくれればいい。だけど、どの選択が君にとって最善なのか、情報が足りない」
例えば最悪のケース。この子が何も知らずに悪者に利用されてるのだとしたら、彼女をどうにかして今の世界から連れ出してやるのが、彼女のためにできる、最善の協力だ。できるかどうか、は置いておいて。
「私、頑張ってますか?今まで普通の子と比べられたりとか、全然なかったから」
「頑張ってるよ。大丈夫だよ。胸張っていいよ」
「えへへ。ありがとうございます。あ〜でも、どうしよう。私の周り、あまり人間がいないんですよね」
髪を掻き上げて、スマホのアドレス帳を開く。
「いつもは、誰と仕事してるの?」
「一人仕事が多いんです。私の周囲にいるのは、日本画に縫い留められた霊鶏とかですかね。あと神様もいらっしゃいますよ」
「神様?」
「平将門さまです」
まさか…ど?
「私の周りで人間の言葉を話せるの、その方くらいで。でもなー、まーくんのとこはまだ早いよなー」
「まだ早い、という言い方はつまり、そのうち連れて行かれる、ということ…でしょうか」
ヤクザより怖い名前出た。想定外だ。まさかである。まさかどだけに。
「大丈夫ですよ。最近は言葉通りの意味で、すっかり丸くなっちゃって。まんじゅうですよ、まんじゅう。それに、黒海さんは気づいてないでしょうけど、ずっと前から何度もお会いしているんですよ」
やっぱり宗教方面の人って、独特な言い回しするよな……。
「その他となると、貸し借りにうるさい先輩ばかりで、気軽に連絡取れる人、いないなー」
「あ、いや、別に直接話をしたいとかじゃないんだけど…」
「ちょっと遅い時間だけど、いいや」
誰かに電話をかける。
「もしもし〜、すずりでーす。今日早速直接お会いして、今銀座に二人でいるんですぅ。え〜ラブホじゃないですよ〜多目的トイレでもないですよ〜路上はさすがにないですって。お茶してるだけなんですよ〜そう」
相手は女性か。
こんな風に女同士で下ネタ話してるからといって、油断してはいけない。男がこの手の会話に加わると、一発で刺される。なんの話かって?職場のセクハラトラブルの話。
「それでですね、私以外にどんな人がいるか知りたいって。はい。はい。えっと銀座の…2丁目の。そうです。は〜い。ありがとうございます。待ってまーす」
「今からここに来てくれるそうです」
「誰?」
「社長です」