001 オジサン、自殺しようとしたんです。
2022年4月上旬深夜、俺は、冴えないデコッパゲメガネの中年男性、黒海銀一郎は、一人区役所前までやってきていた。誰かに見られていないか、存在を気づかれていないかと、不安げに辺りを見渡す。
周辺に人の気配はまったくない、とはいかないか。区役所の建物は、上層階のところどころに、まだ明かりが灯っている。
月曜深夜とは言え、人が全く通らないということはないだろう。しかし15分、いや5分あればいけるはず。
ネットで調べた限りでは、頸動脈が切断されれば、人間は即死だという。切断直後に誰かに見つかり、救急隊を呼ばれたとしても蘇生は間に合わず、死んでいけるはずだ。失敗することがあるとすれば、動脈に刃が届かず、出血量が足らないとき。切断の痛みでもがき苦しんでいる間に人に見つかり救急隊を呼ばれ、強制的に応急措置がとられるケース。
気がついたらベッドの上だった、という状況は、とても無理。断固回避。いままで散々つらい思いをしてきた。神経も髪の毛も、すり減らしてきた。もう十分だ。この上さらに、医者消防警察から説教など、絶対に嫌だ。一思いに、歯を食いしばって思い切り、ばっさりいかないといけない。動脈の位置は、脈拍が一番はっきり分かる箇所。もう何度も確かめた。動脈の傍に首の筋肉があるようで、血管だけに刃を入れるのは難しそうだ。肉ごと断ち切るつもりでやる。
3月の初めに会社に退職願を送りつけてからもう一ヶ月、毎日練習してきた。一日20回。刃をしまったナイフを持って、素振りを繰り返した。
「今度こそ。今度こそだ」
区役所の南面は、広くはないが公園になっている。向かって左は児童公園で遊具が設置されている。「子供が遊ぶ場所で自殺」は、親御さん達が嫌がるだろうから避ける。右側の植木とベンチだけの区画にする。樹齢20年〜40年程度だろうか、そこそこの太さの木々が、間隔をあけて植えられている。完全に身を隠すのは無理そうだが、遠目からは気づかれないだろう。
「いっちょまえに、桜ですねぇ…」
4月初めということで、ちょうどソメイヨシノが咲いている。昨日が一日冷たい雨だったから、1割ほど散り始めている。
敷地内に植えられたソメイヨシノは10本程度か。それなりに見ごたえのある夜桜のピンク。東京23区の北東端、セレブリティとは真逆のイメージで有名な自治体の役所前にしては、上質な空間だと思う。
おそらくは、防犯カメラも設置されているだろう。なんとなく、カメラに映り込みそうな場所から離れる。敷地外の道路からも気づかれにくい場所を選んで、一本の桜の傍らに立つ。
「ここならまぁいいかな」
桜の幹が死角になり、マンション側からは視覚しにくい位置。この位置なら、誰にも見つからないだろう。
生きているうちは。
誰かに気付かれるときは、首から血が流れきって横たわっているときだ。固く冷たくなっているときだ。バッグと免許証とスマホと、70kgの生ゴミを残して、俺が世界からいなくなった後だ。
「今までありがとうございました。お世話になりました。最期の最期、よろしくお願いします!」
自分の身体に語りかける。ポケットからナイフを取り出す。
今まで5回、いや6回、自殺を試みて、結局何もできなかった。身体には1mmのキズすら、つけられなかった。
「どうか、どうか、これで終わりにさせてくれ…これで、終わりに!」
ナイフの刃をだして、首の右にあてがう。刃を食いしばって目を見開く。
「切るぞ…!切るぞ…!切ってくれ…!」
両腕に力を込める。今度こそいける…。これで、終わる…!
自分の精神を、気持ちを、右腕に集中させる。全身に力を込めたことで上がった体温が、下がっていく。身体の熱が抜けていく。
身体も精神も、全部溶けていく。みんな真っ白になる。
これで、終わりにする。自らの人生を閉じる。終わる。終わる。終わる!
ふいに、強い風が吹いた。ザザァっと、木の葉がかすれる音がする。普段なら気にもならないが、この時はすごく大きな音に聞こえた。その程度のことで、ひどく動揺してしまう。
「カァア!カァア!」
自分が立っている傍の桜の上から、カラスの鳴き声が大きく響く。
カラスは飛び立って行ってしまった。今のカラスに叱られたような気になる。
途端に、今までの気持ちが切れてしまう。ブツッと、心の中が真っ暗になる。自殺をやり遂げようとしていた意思が心が、気づいたらなくなっている。代わりに、根拠のない不安と過剰な罪悪感が、どこからともなく湧き上がってくる。
「ダメだダメだダメだ。いまはまだダメだ。こんな場所ではダメだ。こんな死に方ではダメだ」
「今日は日が良くない。タイミングが悪い。時間はまだある。明日もある。明後日もある」
「まだ金はある。しばらくはまだ、今までどおり暮らしていける。あと一ヶ月先でも大丈夫だ」
「そもそも死ななきゃいけない理由はなにもない。俺は何も悪くない」
「死ぬ気になろうとすればなんだってできる。代わりの仕事なんていくらでもある」
「だれも俺を嫌ってない。憎んでない。みんな許してくれる。きっと誰かが助けてくれる。居場所を用意してくれる」
いままでの意志がすべて最初からなかったかのような、真逆の言葉が頭の中に溢れかえる。
「また…?今度もダメなのか…?」
本当に直前まで、ナイフの刃を出すまでは、自殺の意志がはっきりあったはずなのだ。予行演習は十分にしてきた。何度もシュミレーションした。激痛はあっても一瞬。歯を食いしばれば乗り越えられるはずなのだ。今更「痛いのが怖い」わけではないはずなのだ。
なのに、できない。最期の一歩を踏み出せない。
「あきらめるな…!あと少しなんだ…!これで終わりにしようよ。何もかも静かになるんだ…!だから…」
眉間の奥から右腕に向かって語りかける。だけれども、右腕が、続いて左腕が、力を抜いていってしまう。
右手が、ナイフの刃をしまう。左手が、地面に置いていたバッグのファスナーを開ける。右手と左手が協力して、ナイフをバッグにしまってしまう。
「もう少しなんだよ。これで終わりにしようって、納得したじゃないか。みんなそれでいいよって言ってくれてたじゃないか」
脳の中の一番はじっこ、前頭葉の先端から、最後の抵抗を試みる。自分の身体に語りかける。
「ダメだよ。帰ろう。みんな疲れたでしょ」
またどこかから声が聞こえる。緊張で力を入れっぱなしだった背中からな気がする。
右膝が力を抜く。左足から桜を離れる。右足と左足が交互に前に出る。区役所前の公園から離れていく。
「帰ろう。家に帰ろう。コンビニであったかいコーヒーとケーキを買おう」
「甘いものをたらふく食べて、あったかい布団に入ろう。アラームもかけないで、ずっと寝てよう」
結局、今夜もダメだった。また死ねなかった。