009 「モラルウェア」について
「失礼しまーす」
今まで一度も立ち入ることのなかった仕事部屋に入室する。筆書きのグリーティングカードって言っていたから和室を想像していたけど、床はフローリングだった。軽く10畳は超えてそうな広い部屋に、ベッドもソファーも置かず、空間を贅沢に使っている。部屋の手前側に、椅子に腰掛けて作業する作業机、奥の壁際には床に正座して作業するのか、大きなローテーブルと座布団がある。
制作した作品を発送するためのクッション封筒、画材、官製ハガキのストック、書道の教本に漢字辞典、書き終えたハガキを乾燥させるための乾燥台など、制作に必要な資材の他は、時計もテレビもPCもオーディオもない。一方で、特大の空気清浄機が設置されている。外界の喧騒や不浄を遮断し、筆記に専念するための空間だ。
うむ……?奥のローテーブルには、相当な数の小冊子が平積みにされている。初めは制作のための資料なのかと思ったら、商業書籍では今時珍しいB5サイズ、頁数も少ないものばっかりだ。なーんか心当たりあるなーと思って、遠目からよくよく見てみると、やはりそれは同人誌の山であった。もちろん成人女性向け。どの表紙も半ズボンの男の子達が絡み合っている。書道やってるメガネっ娘だもの、さもありなん。せめて目隠しにシーツ掛けておくとかすればいいのに、わざわざ見えるように置いておかんでも。……それともアレか。後々になってからBL趣味バレるよりも、同居始めてすぐの今のうちにそれとなしに知らせて、こちらの反応を伺おうとしたのかな?俺は全然気にしないけど。
外界の喧騒や不浄を遮断し、筆記に専念するための空間だ。そういうことにしておこう。
ちょっと興味をそそられたのが、画材。墨とか水彩絵の具使っているのかと思っていたら、メインで使っているのは界隈でおなじみのアルコールマーカーだった。今でこそ、カラーイラストはデジタルが主流になってしまっているけど、ほんの少し前まではカラーイラストといえばこれだった。
「ある程度は枚数こなせないといけないので、乾燥の早さ。それと、ハガキを直接郵送されて雨がかかる可能性も考えて、これにしてます。いまのところイラストは入れてませんけど、色鮮やかにはしたいですし、背景に月を入れる程度なら、マーカーで直接色を入れちゃう時もあります」
「マーカーのニブがさ、筆っぽくなってるじゃない。あのペン先で、結構いけたりする?」
「字そのものは全然無理です。ちょっと影入れるくらいなら。基本は、カートリッジからパレットにインクを垂らして、面相筆ですね」
すずりちゃんは椅子に腰掛けて制作を進める。俺は奥から座布団を拝借して正座。
「作業が作業だからさ、口きかないほうがいいよね。ここで黙って見てるから、気にしないで進めてね」
「お気遣い恐れ入ります。今しばらくはそちらでお願いします。近くで見てほしくなったら、声かけますね」
今日の仕事は30歳前後の女性からの依頼で、親戚や高校大学時代の友人達に送る、結婚報告ハガキを製作するとのこと。枚数は予備も含めて15枚程度か。見出し文、時候の挨拶、結婚報告の本文、結びの挨拶、連絡先と、ハガキ一枚に収める文字数は決して少なくなく、全部手書きは大変そうだが、ためらうことなくスラスラと書き進めていく。ブロックごとに少しずつ色を変えていくようで、見出し文なら見出し文のみ15枚すべて書ききってから、筆を持ち替え、次の文を書き進める。「一筆入魂!」って感じで一枚一枚仕上げていくのかと思っていたけれど、割と効率重視でリズムよく、淡々と進めるのね。
ああでも、すごいなと思ったところは、連絡先のところ。見やすさを考えてこの部分だけ横書きになるのだが、メールアドレスのアルファベットや算用数字も手首を持ち上げた状態で、綺麗に筆書きをしている。相当細かいから、手首を置いて指先だけ動かして書くのかなと思っていたけど。チョン、チョン、スーっていう、静かな筆運び。極細の面相筆で繊細な線を引く仕草って、独特の色っぽさがあるよなぁ。無修正エロ動画の大股ガバァとは、違うんだよなぁ。女の子の髪の毛を綺麗に描きたくて俺も練習してたけど、手首を上げて線を引くには、二の腕は勿論、肩から胸、背中の筋肉もしっかりしてないといけないのだ。キツいというより、ちゃんと筋トレして、体幹から身体作っておかないといけない。いやぁ、いいもの見せていただいている。ありがたやありがたや。
「ひとまず、こんなところです」
すずりちゃんがフーっと息をつきながら、今ままで使った筆を洗っていく。
「拝見いたしました。お疲れさまでした。見事な筆運びでございました」
座布団の上で正座して、うやうやしくお辞儀をする。要するに土下座。
「エヘヘ、ありがとうございます。簡単そうに見えて、結構キツいんですよ」
「分かる分かる分かる。僧帽筋とか、大胸筋とかまで使わないといけないもんね。筋トレなんかもしてるでしょ」
「今は回数減らしてますけど、一時期は毎日ヨガやってました。銀一郎さんは?」
「俺はピラティスやってた。体幹鍛えておかないと、肩とか腰やっちゃうもんね」
「さ・す・が。いやー違いが分かる方に見ていただくのは、嬉しいですねぇ」
今のちょっとした言葉のやり取りだけで、お互いが積み重ねた努力の厚さが分かるというもので。いや、よかったよかった。
「さて、ここからが本番です」
「おう?どんな続きが?」
「今まではですね、一書道家としての仕事でした。ここからが、すこーし、彩命術師としての仕事になります」
あ、そうだった。「モラルウェア制作」としての、グリーティングカード作成だったっけ。どのあたりで彩命術使うのだろう。インクに血を混ぜたりするのかな?
「一通だけ、予備含めると3通ですが、一番仲が良かったというご親友さまへのおハガキは、文言も筆記も、その方だけの特別なものになります」
「一点だけスペシャルオーダーって事な。同じお客さんだよね?どう特別になりますの?」
「事前にご依頼主さまとメールでやり取りしてまして。単なる結婚報告以上に、相手を気遣ったものにして欲しいとのご要望です」
依頼主の30歳前後の女性と、一番仲の良い親友の女性。
以下、事情の詳細になる。
親友さんが、依頼主さんよりも3年ほど先に結婚した。盛大な結婚式が開かれ、依頼主さんも出席した。そこまではめでたしめでたしなのだが、この親友さんが、結婚後2年足らずで離婚してしまった。離婚の理由が、旦那の浮気。
「親友さんは面目丸つぶれだね。派手な結婚式に呼んでおいて、その後すぐ別れちゃいましたと。まぁでもありがちな話じゃない?この依頼主さんにとって、親友さんはそんな大切なの?今後は徐々に距離おいていけばいいんじゃない?」
結婚3年以内に浮気って、男としてもそうそうないと思うけども。よっぽどだらしない男なのか、それならそれで、だらしない男を選んだ親友さんが悪い訳だし。あるいは浮気は最終的なきっかけにすぎず、夫婦仲はとっくに終わってたとか、バレてないだけで、親友さんの方が先に浮気してたとか。あるいは、他の女に寝取られた?
いずれにせよ、その親友さんに一定の落ち度はあると思われる。依頼主さんは、この親友さんとの交流を終わらせてしまっても、いいと思うけれども。
「依頼主さんはこの親友さんとの関係を、今後どうしていきたいんだろう。これからも親友でいたいのか、それとも切りたいのか」
「依頼主さまも迷っている、というところでしょうか。「結婚早すぎたと思います」という見解を、依頼主さまも持ってらっしゃいます」
「じゃぁ徐々にフェードアウトしていけばいいじゃん。それか、親友さんは親友さんで、再婚相手頑張って探すとか。親友さんだって30前後でしょ?まだリカバリできると思うよ?」
「依頼主さまが特に心配している点がありまして。依頼主さまの新郎の男性が、依頼主さまと親友さまの、共通の知り合いなんですね」
「関係者全員、大学時代の同じサークルだかゼミだかの仲間だったとか?上手に縁切りしないと、依頼主さんは、旦那さん寝取られちゃうかもってこと?」
「さすがにそこまでは、ないと思いたいんですけど。……見てほしい写真があります」
一旦仕事部屋を出て、PC置いてあるリビングに移動。依頼主さんから送ってもらったという写真を見せてもらう。親友さんの結婚式のときの、参列者全員の集合写真か。
「この花嫁さんが親友さんだよね……。顔小さい。確かに美人さんだな。なんか参列者全員、品性があるね。そうとういい家同士の結婚でしょう、これ」
参列者の中に金髪リーゼントとか、真っ赤なネイルでウンコ座りとか、そういう人が居ない。ウチの地元は、そういう夫婦ばっかりなんだけど。
「ちなみに、依頼主さまは、この方です」
すずりちゃんが画像を拡大する。
「うむ。失礼だけど、地味子さんだな」
肥満とまではいかないが、ふっくらとした顔つき。たるみ気味のふくらはぎ。体型隠すドレスなんていくらでもあるだろうに、膝下がしっかり見えてるごく平凡なスーツ。大学での、依頼主さんと親友さんとの力関係が察せられる。……いわゆる女子力か。親友さんの方が圧倒的に上なのだ。
「もっとも、女子力高いイコール仕事ができるとか、そういう訳でもないんだよね。会社にとっては、依頼主さんみたいな女性の方が、重宝したりするからね」
会社にとって、「相手を立てる」ことが何より重要な局面はいくらでもある。
「依頼主さまと新郎さまとで、悩んじゃってるらしくて。結婚式どうする?この人(=親友さまです)呼ぶの?って」
「あれだろ、この親友さんから、依頼主さんの新しい旦那さんの方だけに直接、メール届いたりするんだろ。「おめでとう!結婚式は絶対呼んでね!」とか」
「そこまで露骨じゃなかったそうです。「是非お祝いさせてください。困ったことがあったら遠慮なく相談してね」くらい」
「余計タチ悪いじゃん。「相談してね」なんて、誘ってるのと同じじゃん」
「銀一郎さんとしてはどう思います?男性の視点ではどうですか?」
「この親友さん絶対地雷。関わっちゃダメ」
「そこまで断言しちゃうんですね。そうなんですね。私もまだまだ社会経験少なくて、新郎さまの気持ちまで、読み切れませんでした」
「それは仕方ないよ。結婚にまつわる女同士のドロドロと、そこから距離を置きたい男連中のしらけぶりとは、実際に見てみないと」
リビングから、仕事部屋に戻る。一旦会話が中断する。すずりちゃんが深く、自身の思考の海に潜っていく。
「……仮にそうだとしても……。この方とご親友さまの、今後の道筋……変わらないはず……」
深い思考。
「……ご依頼主さまは本心では、今後とも、ご親友さまとの関係を続けていくことをお望みなのです。ご親友さまと過ごした学生時代が、「本当に楽しかった」と。「あの頃の思い出があるから、今の私がある」とおっしゃってます。ですから今回の結婚で、その繋がりが断たれることのないようにしたいと」
「けれど、結婚式には呼べないよね。……関係を切ることなく、上手に参列をお断りしたいと」
俺との会話を続けながら、すずりちゃんは椅子に腰掛けてインクをパレットに垂らし、筆をとる。筆記を始めるようだ。
「突然ですけど銀一郎さん、女性が化粧をする一番の理由って、なんだと思います?」
「化粧をする「一番の」理由ね。それは、「自分を見失わないため」でしょう。ちとデリケートな話になるけど、女の人は生理があって、生理のたびにメンタルぐちゃぐちゃになるそうだね。いつもの自分が一旦、いなくなっちゃう。それはもう仕方ない。身体の仕組みがそうだから。大事なのはその後。生理が収まってから元の自分に、あるべき自分に戻ってこれるように、毎日毎日鏡とにらめっこして、「本来の自分はこう」って、意識に留めておく。忘れないでおく。そのための手続きが、お化粧」
「即答。さすがですね」
「ファッションの勉強もしてたから。かわいい女の子を何人も描き分けできないとヒット作になんないから」
「おっしゃる通りで、女性の自意識は浮雲です。ですが、それによって周囲との関係性を悪化させないよう、あの手この手で自意識を整える訳です。メイクも、ネイルアートも、服選びも、占いも、パワーストーンも、舞浜の某テーマパークへの卒業旅行も、そのための手段と言いますか、「生活の知恵」な訳です」
話をしながら、3枚のハガキにどんどん筆を入れていく。気持ちを込める必要のない事務的な筆記を、先に終わらせるようだ。
「男の目から見ると、「毎月毎月脱皮する生き物」って感じ。大変そうだけど、その分、人間関係の変化に柔軟な印象。人事異動とか上司の変更とかに上手に対応できるのは、女性の方なんだよね」
「男性からすると面倒っちい生き物かと思いますけど、女性は女性で、苦労してるんですよ。そして、ここからが今回の仕事で肝心なところなんですけど……「女性が女性でいる苦労を分かってあげられるのは、女性だけ」だということです」
話しながら、新しいパレットに今までのアルコールインクとは別の、真っ白な絵の具をあける。なんのラベルも貼ってないガラス瓶。一般に売られているものではなさそうだ。霊力の籠もった特製絵の具ってところだろうか。
「女性らしく生きていくには、女性同士の支え合いが必要だと?恋人や花婿より、女の友情が大切なときもあると?」
「今回のご依頼主さまにメールでお伺いしたんです。「ご親友の方との、一番の思い出は何ですか?」って。大学時代の卒業旅行とのことで。紅葉の季節に、関東の有名なパワースポットに泊まりで行かれたそうです。日の出と共に見た雲海が、本当に綺麗だったと。今後の人生に対する不安が、綺麗に洗い流された気持ちだったと」
ここまで話すと、すずりちゃんは姿勢を正し、呼吸を整え、目を閉じる。
トランス入った。
「念字を打ちます」
今までも十分端正な仕草だったけど、今までとは別次元の、厳かな筆さばき。白いハガキに白いインクだから、字は読めない。それでいいんだろう。意味を伝達するのではなく、想いを込めるための筆書き。なんて書いているのか読み取りたかったけど、明らかに常用漢字の楷書体と異なり、筆の動きだけではさっぱり分からない。1……2……3……4。
4文字だ。なんて書いたんだろう。真面目な文脈だから「淑女一発」とは、違うんだろうけど。
3枚とも書き終えた。大きく息をついて、筆を置く。
トランス終了か。
「ふー、よかった。失敗しませんでした。……絵の具乾くまでちょっと休憩です」
椅子から立ち上がって、大きく肩を回している。相当神経使ったようだ。
「お疲れさま。今の白い念字?の上から、メッセージを載せるんだね?……白い文字は、なんて書いたの?」
「一部は、独自に作字しています。一般の方には読めないように。一般の方に読まれたり、文字情報だけがネットに流れたりすると、込めた念が乾いてしまうんですよ。……外側だけ説明すると、彩命術がまだ「隠神道」と呼ばれていた頃よりも、ずっと昔から伝わる、秘密の祝詞です」