影とワルプルギス
日が傾き始め、夕陽が街を染めあげる頃、定時まであと少しという、この時間に二人の来客があった。
一人は、水色のTシャツを着た何の変哲もない20代の青年だったが、もう一人はワインレッドのフレアワンピースを着た少女で、所々に中世を思わせる意匠が施されていた。
その二人を最初に見つけたのは、この職場に勤めて3年目の白井陽菜であった。
1階のエントランスホールで、コーヒーを飲みながら、自分が関わる作品の資料を一人睨んでいた白井陽菜は、ふと視線をあげた時に、その二人に気づいた。
(うん?…制作関係の方かな?)
少女の服装に多少驚きはしたものの、職業的に考えると、理由があってそうしているのだろう。
白井陽菜は、しばらく少女に見とれていた。
陶磁器のような白い肌、落ち着いた赤茶色の髪、幼さと活発さを感じさせる大きな瞳。
そして何よりも、普通の人なら浮いてしまうような服装を、あまりにも自然に着こなしている少女に畏敬の念をすら感じていた。
自分が関わる作品の関係者ではないかもしれないが、少なからず、近しい場所で自分は働いていて、あの少女のような、ある種芸術的に優れた人々と作品を作っているのだと思うと、やはり、この仕事を選んで良かったと、白井陽菜は心からそう思い、微笑みを浮かべながら一人頷いた。
少女の傍らにいる青年は俯いたまま、何か一人ごとをブツブツと言っている。
遂には頭を抱え、意を決したように突然顔を上げ、ホールにいるスタッフを睨んだ。
その青年の目は、怒りと憎悪に満ちていた。
少女は無邪気な笑顔を浮かべたまま、左手を頭上に掲げ、空間にある「何か」を掴んだ。
その左手から熱風が発せられ、じりじりと身を焦がすような熱の波がエントランスを襲う。
書類を書いていた人も、商談をしていた営業マンも、休憩をしていたスタッフも、一斉に視線を熱風のするところに向けた。
少女の左手には、少女と同じ身の丈の杖が握られていた。杖の片方の端には花弁を模した金属質の意匠が施され、その上に大きな水晶玉が、炎を躍らせて鎮座していた。
少女は、杖を、人に、向け、無邪気か顔で
言い放った。
「燃えちゃえ!」
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燃え盛る炎が、部屋を、廊下を、機械を、人を焼き尽くす。
白井陽菜は辛うじて生きていた。
混濁する意識の中で見たのは、この世の地獄であった。
黒い山。
その山には、
無数の腕があった。
無数の足があった。
そして、恐怖と苦悶に歪んだ無数の見知った—。
肺が燃えるように痛い。いや、事実燃えているのだろう。
呼吸が苦しい。
叫び声すら上げられない。
沈みそうになる意識を、陽菜は必死でこらえ、視界の中に“生きている誰か”がいるのを捉えた。
炎の中で悠然と佇む、あの青年と少女。
少女が生きている人間(白井陽菜)を見つけると、傍らにいた青年に耳打ちした。
青年が駆け寄ってくる。
憤怒にまみれた形相で。
陽菜を見下ろして、呪文を呟いた。
「…お前たちが悪いんだ」
「俺は悪くない。いや、俺も悪い。でも、お前たちが駄目なんだ。お前たちが俺を馬鹿にしたから!」
「地獄に落ちろ…。フィオガ!!全て燃やせ!!」
フィオガと呼ばれた少女の周りを炎が包む。
やがて炎はフィオガの杖に集まり、巨大な炎の花束になった。
炎の花束が、灼熱の花弁をまき散らしながら、陽菜に襲い掛かる。
刹那。
陽菜の前まで迫っていた炎の花束が、真っ二つに別れ、霧散した。
安堵と共に、消えかかる意識の中で見たのは、綺麗な白銀の髪をなびかせた少女の後ろ姿だった。
その少女は、縁を金色に彩った銀の鎧と鏡のような鋭い剣を持ち、騎士のような出で立ちで、目の前にいるもう一人の、赤い少女を、ただ見つめていた。
「ヒュレー!……無事か!?」
眼鏡をかけた青年が息を切らしながら、ヒュレーと呼ばれた少女に声をかける。
「はい。問題ありません。引き続き対象者の保護をおこないます」
「よし。他に生き残っている人はいないか探そう」
「…マスター。強い敵意を確認しています。先に対象者の保護と我々の防衛を推奨します」
「敵だって!どこに。………ッ!?」
再び炎の花束が、眼鏡の青年とヒュレーを焼き尽くさんと襲い掛かる。
ヒュレーは青年と陽菜を庇うように立ちふさがり、迫りくる炎の花束を切り裂いた。
花弁が舞い散り、その美しい肌を焦がそうとなお襲い掛かる。
しかし、花弁はヒュレーを覆う光の膜によって霧散した。
青年は、右腰に付けていたホルダーからカードを取り出し、ヒュレーに投げた。
カードはヒュレーの華奢な身体に吸い込まれた。すると、ヒュレーを覆うように風が生まれ、両腕を開く動作と共に、風は周囲の炎を消し去った。
「ヒュレー!僕は彼女を安全なところに連れていく。それまで、なんとか耐えてくれ!」
ヒュレーは頷き、炎の迫って来たところ、暗がりの奥を見据えた。
暗がりから、怒気を孕んだ少女の声が聞こえる
「あんたも実体化していたなんてねぇ。アウレーリエ…!」
「人違いです。いえ、イデア違いです」
「あくまでも私を馬鹿にする気なのね。いいもん!どうせあんたも、ここで黒焦げになるんだから!」
フィオガは魔法陣を展開し、巨大な火球を作り出した。
「何度やっても無駄です。あなたの魔法程度では、私にダメージを与えることはできません」
「馬鹿にしないでッ!だったら、こうするだけよ!」
最初一つだった魔法陣が、フィオガを囲うように増幅し、球形となる。
「燃えちゃえ!燃えちゃえ!燃えちゃええええ!!!」
青年は上司を、上司と言っていいのか立場上難しいが、白井陽菜を外まで連れ出した。
外はまだ明るかったが、それは太陽だけのせいではなく、もっと罪深い業火の故だった。
建物から出てきた二人を、驚きと善意とを持って人々は保護した。
青年は陽菜を人々の手に預けると、人々の手を振り払いに、幾分かの後ろめたさを感じながら、今なお轟音が鳴り響く渦中へと姿を消した。
「アッハハハハハ!ざまあないね…アウレーリエ。最初の威勢はどこに行ったのかしら」
「…だから、人違いです。分からない人ですね」
ヒュレーは威勢を張ったが、その見て呉はボロボロだった。
銀色の鎧は所々欠け、白く美しい、造り物のような肌からも赤い血が流れ落ちていた。
「…別にいいわ。あんたの契約者も、あんたを置いて逃げたようだし。これでトドメよ!」
フィオガは杖を高く掲げ、灼熱の、手のひら程の小さな太陽を作り出した。
球体は、空中の炎のエーテルを吸い上げ、大きさと密度を増していく。
今までの巨大な爆風によって天井はすでに壊されており、煌めく偽物の太陽が二人の少女を照らしていた。
この一撃をまともに防ぎきれる体力は、ヒュレーには残されていなかった。
ヒュレーは痛みを堪え、剣を握り直し、そして、瞳に宿した闘気も消そうとはしなかった。
フィオガは嘲りを伴った口元を一層歪め、杖を、太陽を振り下ろした。
迫りくる地獄の業火が眼前に広がる。
しかしそれでも、ヒュレーは恐怖に目を閉じなかった。
地平線に沈みかけた本当の太陽を背にして、よく知った青年が走ってくるのを、その双眸に捉えたから。
昼夜が混在するこの混沌の中に、霧が、そこにいる者全てを包んだ。
「何?この霧は⁉」
そこにいたはずの白銀の少女を隠すように霧は濃くなり、フィオガの視界は白色に塗りつぶされていく。
どこからか子共達の声が聞こえる。歌が、聞こえる。
あちらへ行こうよ、人の子よ。
妖精と手をたずさえて
湖へ、荒れ果てた野へ
この世にはおまえの知らない嘆きが
いっぱい
・・・。
・・・・・・・。
昔々、ある所に、仲の良い姉妹がいました。
姉妹は貧しい村に生まれ育ち、両親を早くに亡くしていたため、食べ物の乏しい、苦しい生活を送っていましたが、知恵を振り絞り、互いに助け合って生きていました。
ある日、食べ物を探しに入った暗い森の中で、姉妹は迷子になってしまいました。
そこは、村の人でも近寄らない危険な森でしたが、姉妹が飢えをしのぐためには、もうそこに入って食べ物を探す他はありませんでした。
しかし、幸運なことに、姉妹は森に住んでいる魔法使いの老婆に助けられました。
その魔法使いの老婆は、迷子になった姉妹を自分の家に案内し、色とりどりの森の果物や、真っ白い綺麗なパンなどの御馳走を振る舞いました。そして、「私が許す限りここに住んでいいが、そのかわり条件がある。その条件とは、私の下で働き、魔法と学問を勉強して、世の役に立つ人間になるように努力すること」だと言いました。
姉妹は、数年の内に魔法をみるみるうちに習得し、呪文も無しで、火を起こすことさえ出来るようになりました。
そして、姉妹は、健康な身体と魔法を携えて、故郷の村へと帰って行きました。
村は以前として貧しく、人々の態度は生気のない、余裕のない冷たいものでしたが、姉妹は村の人々を、学んだ魔法を使って懸命に手助けしました。
中でも、姉妹が得意とした炎の魔法は、村の人々の生活に暖かさと優しさを与え、生気と活気、そして、生きる勇気が村を満たすようになりました。
その暖かさの中で、姉は村の青年と恋仲になり、妹は毎日、教会に通い、二人と人々の幸せを心の底から願いました。妹は教会に通う内、教会と秩序を守護する教会騎士の、同じ歳の少女と親しくなり、共に人々の平和を守るために生きようと約束をしました。
姉妹の魔法は多くの人々に勇気を与えましたが、それはやがて、不幸に抗う希望から理不尽に対する暴力、解放と正義へと姿を変えていきました。
ある夜のこと、逸る気持ちを抑えきれなかった村の若い男達は、ずっと支配してきた領主の城に火の矢を放ち、騒ぐ城の混乱に乗じて、領主の暗殺を目論見ましたが、遂に若い男達は捕えられ、暗殺は失敗に終わりました。
領主は、捕えた男達に拷問を加え、一味のある青年に、これは炎の魔女にそそのかされてやったことだと裁判で証言しろ、そうすれば、命だけは助けてやる、と持ち掛けました。
青年は恐怖に屈服し、果たして、その通りになりました。
村の中央では、火刑台が作られ、手足と口を布で縛られた二人の少女が磔にされていました。
火刑台に炎が燈り、姉は悲しみと憐みを含んだ瞳で、眼下の青年と村人を見つめ、妹は憎悪と侮蔑を込めて、青年と村人、何もしてくれない、立ちすくむだけの教会騎士の少女を睨み続けました。
肌が焼け、四肢が黒くなっても、ずっと…。
▼
「マスター。…全く遅すぎです」
「本当にごめん!」
青年の心からの謝罪に、ヒュレーは思わず笑みを浮かべる。
「でも、何とか間に合ったようだ」
霧が解け始め、青年は、哀れな少女、フィオガを見据える。
雲散霧消。
青年が放ったカードの魔法の霧と共に、最悪の太陽は消え失せ、フィオガは項垂れ、ただ虚空を見つめていた。
青年は右腰のホルダーからカードを2枚取り出し、1枚をヒュレーに投げた。
カードは光緑の粒子となってヒュレーを包み、傷だらけだった身体を癒していく。
「これで終わりにしよう。
ヒュレーは頷き、茫然自失となったフィオガに対峙する。
持っているもう1枚のカードをヒュレーに投じると、ヒュレーの相貌が一変する。
白金の鎧は黒いドレスへと変わり、長く黒い髪は月の光を妖しく反射する。
左手には納刀された日本刀が握られ、右手は持ち手を添えるように、居合の構えを取っている。
「……あれ?…わた…しは…何を………ッ!」
フィオガが悪夢から目を覚ました時、眼前には“誰だか知らない黒い少女”が迫り、
銀色の刃が、月夜に閃いた。
床に転がるフィオガが最後に見たのは、くずおれる自分の身体と、呆然と事の成り行きを見つめていただけの契約者(同犯者)の姿だった。
憐れみと同情、あるいは諦観の眼差しを持って、視界が黒く塗りつぶされるまで、ずっと青年を見つめ続けた。
分断された少女だったものは、光の流れとなって紋章を空中に描き、青年がブランクカードを紋章に向かって投げると、カードは紋章を吸収し、青年の手元に戻ってくる。
カードには、今しがた殺し合いをしていたフィオガの姿が描かれていた。
ヒュレーのマスターは、へたり込んでいる青年に声をかける。
「なぜ、こんなことを…」
「…」
「…」
「…憎かった。
自分より幸せな人間がいることが。社会に認められている人間がいることが。自分はこんなにも苦しいのに、誰も助けてくれない。あまつさえ、自分が不幸せなのは努力が足らないから、自己責任だからとか抜かしやがる」
「頑張らないことが、頑張れないことが悪なら、いっそ悪人になってやろうと思った。
悪人になって、自分達は関係ないと考えてる連中に、思い知らせてやりたかった」
「…俺も、あんたと似たような立場だから分からないわけでもない。でも、俺は、人殺しは絶対にしない。俺とあんたは違う」
「よく言うよ。そういう自分だけは違うって思ってる奴らに、俺はッ!…クソが!」
遠くからサイレンが聞こえる。
「マスター。行きましょう」
ヒュレーに手を引かれ、青年は惨劇の場を後にした。
お読みいただきありがとうございます。
本作品は、現在構想中の小説の試験運用として、即席で作ったものになります。
作中の詩は、W.B.イェイツから引用をしました。