プラザ合意
千葉科学技術博覧会が1985(昭和60)年9月16日に終わり、夏も終わろうとしていたころ、日本経済に激震が走る出来事が発生した。1985(昭和60)年9月22日にニューヨーク市のプラザホテルにて、ある合意が発表された。通称「プラザ合意」である。
先進5か国(G5)財務大臣・中央銀行総裁会議でアメリカの貿易赤字(主に対日貿易赤字)解消を目的として、ドル安(実質的には円高ドル安)に誘導することが合意された。
このとき日本代表として森上蔵相が出席するが、既に日本以外の国で合意されていたため、森上は一切の異議申し立てができずに合意させられることになった。本来であれば、為替レートの急激な変動を抑えて、ソフトランディングを目指すことになる。しかし、それが許されず、急激な円高が日本を襲うことになった。
合意後、わずか24時間で1ドル235円から約20円下落し、1年後には1ドル150円台にまで下落した。これを機に日本は円高不況に陥り、輸出製造業とその下請けが打撃を受け、かつての勢いを失うようになる。
これに対して砂岡は石山と顔を合したときに
「ベトナム戦争で兵隊出さずに呑気に万博音頭を踊っていれば、こんな目に遭わされるに決まっている。ベトナム戦争で1,000人くらい戦死者を出していれば、アメリカと話し合って調整が出来たのだ。だから、ワシは兵隊を出せと首相に言ったが、結局は叶わなかった」
と、激しい口調で言った。
これはアメリカの負け戦に付き合うことで、アメリカに対して日本の発言力を強くすることが目的であった。しかし、憲法解釈の問題や国民支持が得られそうにないなどの理由で、自衛隊の出兵が見送られた。
元々、アメリカが第二次オイルショックの対応に失敗して、アメリカ国内が高インフレに苛まれることになる。高インフレを抑えるため、金融引き締めが行われ金利が20%にもなり、経済が低迷した。
このとき日本はオイルショックを機に低燃費車を開発していた。これは日本国内で原油が取れないが故の進化であったが、アメリカのユーザーも歓迎されることであった。
高インフレで燃料費がうなぎ上りとなっていたにも関わらず、当時のアメリカの自動車メーカーのビッグ3は燃費の悪い車を生産し続けていた。そこに低燃費の日本車が販売されると、燃料費を抑えることができるということで日本車が飛ぶように売れた。
これにアメリカの自動車メーカーを時代に対応できずに軒並み業績不振に喘ぐようになる。そしてアメリカの自動車メーカーの工場は縮小または閉鎖されるようになった。結果、自動車メーカーが集中していたデトロイト市は失業者が溢れるようになり、街は急速に荒廃していった。アメリカを象徴する自動車産業の低迷は、アメリカの低迷を象徴する現象であった。
そこでアメリカ政府は政策失敗やアメリカ国内自動車産業の低迷の責任を外部に責任転嫁させようとした。その転嫁先として、当時対米貿易黒字であった日本と西ドイツとりわけ日本に責任転嫁させた。
尤も日本にも全く非がなかった訳でもなかった。
当時、防衛費がGDP比にして1.8%程度で西側先進国が2.0~6.5%と比べると低く抑えられていた。特に西側の盟主であるアメリカの6.5%と比べると著しく低く、在日米軍によって守られている日本に対して、「安保タダ乗り論」が展開される。
冷戦下にあったアメリカは西側先進国の盟主として、東側共産主義に対峙していた。そして軍拡競争によって、相手陣営の財政を破綻させようとしていた。そうした状況でGDP世界第二位の日本が防衛努力を怠っているとアメリカは見做していた。(実際に防衛努力を行っていた。)そういった不満もあって、アメリカは日本に問答無用の合意をさせた。
そして根本的な問題として、もはやドル円相場を200円台に維持することは出来なくなっていた。プラザ合意前の日本の大蔵省は200円台の円安を維持するため裏で為替介入していた。いわゆる「ダーティー・フロート」と呼ばれる行為である。
その結果、国内には為替介入した円が日本国内市中に溢れるようになり、日本国内でインフレが進行してしまう事態となった。
また先に挙げた自動車の低燃費化を始めとする省エネ技術が日本において目覚ましく進化し、更には天然ガス・石炭・原子力など石油以外のエネルギー源を確保するようになったため、原油輸入量が増加はしていたが経済成長に比べると抑えられたものであった。
そのため、輸出で取得したドルが溜まるようになり、大蔵省はなお一層のダーティー・フロートを行うようになる。その結果、国内消費者物価が更に押し上げ、更なるインフレとなった。
もはや200円台を維持することは外交的にも国内経済環境的にも、限界を迎えていたのである。実際にプラザ合意後は国内のインフレ率は1%を切るようになった。
インフレは収まったものの、円高の進行によって円高不況の足音が聞こえつつあった。そこで政府は景気を下支えするため、公定歩合を5%から翌年の1986(昭和61)年には3.8%となり、更に翌年の1987(昭和62)年には2.5%となった。
この処置によって、円高不況を乗り切ることができるようになった。しかし、今度は市中に資金が大量に供給されることで、株式や不動産に流れるバブル景気が発生することになった。




